1993年10月25日発行のTEXTILE FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。
前号でも紹介させていただきました『糸からの動き』クラスも7年になりました。
多くの人々が育ってまいりましたが、今号では2月と6月に開催した「糸からの動き」展に出品された19名の作家の作品と語りを紹介いたします。白黒写真で十分に作品を知ることは出来ないと思いますが、個々の作家が自らを発見する試みに挑戦している姿を感じていただければ幸いです。
尚、次年度から「糸からの動き」クラスの指導は加藤美子さんに変わりますが独自の作品を造りつづける先輩との交流などを求めている方のご参加をお待ちいたしております。
何処にむかって? 榛葉 苔子
あの海の生物やどかりは、生まれるとすぐにカラを捜さなければならないという。なにしろ裸のままではすぐに食べられてしまう。成長するに従い自分のからだにあった寸法のカラを捜しては、新しいカラに変えてゆくそうだ。ところが身の丈にあったカラがすぐにみつかるとは限らない。みつからなければからだのはみでたツルツルテンのカラで生きねばならない。まるみえのからだでは危険だし、どうにもバランスがよくない。それでじぶんの身の丈には大きすぎるカラでも、仕方なく変えるそうだ。しかしぶかぶかのカラではなにかと具合がわるいので、おなじ悩みのなかまと同居する。じぶんに不似合いなカラにいるわけだから落ち着かず、次第に攻撃的になっていき、じぶんの身の丈とぴったりのやどかりをみつけると、けんかをしてでも追い出しじぶんのカラにしてしまうという。こうしてやどかりは成長にあわせて古いカラを捨て、新しいカラを次々と捜しつづけていくということだ。やどかりの習性、といってしまえばそれまでだが、なにやら暗示的でもある。いまのじぶん(次元)から次のじぶん(次元)に難なくひょいと変われる自由を、あたりまえに生きているやどかりは、時間のしもべでないことはたしかなようだ。等々と、あれこれ、ぶっぶつ言葉が吐き出る後ろから、やどかりのため息まじりの鼻声がきこえてきそうだ。人間の習性ってものは、シンプルじゃないねえ……と。
ともかくも、新しい可能性の出発点に立った気分になるのは、良いことだ。
まずは洗いたてのシャツを着て、みあきた常識系のカラを出てみようじゃありませんか。
一回目の自主展覧会おめでとうございます。
1993・6 展覧会によせて
◆安蔵 敏江
◆久地浦哉子
◆ 山崎 輝子
◆土志田由紀
◆井野とし子
◆菅谷 好子
心の中はモヤでいっぱい はっきりとは何もみえない この心細い状況の中で “結び”との出会いがあった。
“結ぶ”という行為を重ねていくうちに その奥には 何か人切なものが たくさん隠されているように思えてきた。 それは一体何なのだろう。
それはゆっくり時間をかけて みつけて いきたい。
◆倉富 直子
◆美坂 知佐
◆早矢仕昌代
もと居た処 唐突ながら……
かって夢うつつのような状態の中で、人の体内の細胞というのはひとつひとつが各々ものを考え、得も言われぬような美しい歌声を発しているのではないかと思われることがありました。この作品を拵えている時、何か自分がそうした懐かしいとても小さなものになって、糸がつくるひとつひとつのポケットの中に潜り込んでいるような“肌ざわり”を覚えました。
ですからある意味でこの布は、自分にとっての“巣”であったのかも知れません。でも今は、それよりももっと自分の近くにある皮膚のようなものを(でき得るならさらにもっと“近く”)つくりたいと思っています。
◆李 京姫
◆出居 麻美
シャラ・シャラ
ずっとためこんでいたものを細かく切りさいて、形をなくしてしまい そのすき間から何か見えるかすき間とすき間の、そのまた間に何があるか。
それを見たくてひたすら切っていました。
いよいよ作品を吊るために床から持ち上げたとき細い絲たちのたてた、シャラ・シャラという音が耳からはなれません。
◆石橋みな美
◆藤井智佳子
◆谷本 和身
◆石和田久子
◆坂巻かをり
“何時もの所”
自分のなかへ 行ったり来たりしていると 大抵 自分が子供だったり もつとすすんで 赤ん坊だったりする。取り囲んでいるものは いろいろだが必ず存在していてくれるものがある。その“存在”は 様々な表情として 何時もそばに居る。その“存在”と私との間にある“空気”を思っていたい。
◆石山 敬子
THROUGH THE WIND
空気、光り、風……姿の見えぬ曖昧なもの、、、
その中を漂うもの、無音でありながら力強く、ゆっくりと動くもの、きらきらと光り、命を感じさせるもの、そんな何かを確かめ、表したくていつも、手を動かしている。
◆田武 理恵
SILENT PULSE(宇宙律)
呼吸、リズム、宇宙的波動、見えないメッセージ、ゆらめく光り、ただよう空気、風、土、水、
その中に居る自分、自分の存在…………
今回のつくることの意味は そこにあった
実感として、ごく自然な形で自分の“原風景”と対面していた
制作中そんな手応えを一貫して感じていたように思える それがある種の内からのエネルギーとなり、体を巡り 音と作品の間を行ったり来りしていた
それは まちに SILENT PULSE …………静かなる鼓動
◆児玉 圭子
つながっている時間
とらわれるという事と、こだわるという事はちがうんだ。と、思えたときから、何かが少しづつとけ出してきたのだと思う。そして、ある時ふっと感じた昔、樹だったのかもしれないという思い。その時から、また、何かが動き出した。
私の回りの点がどんどんつながっていった。
時間をとびこえてつながっているものたちの事を思った。そして、今、わたしは、その先を知りたい。
前号でも紹介させていただきました『糸からの動き』クラスも7年になりました。
多くの人々が育ってまいりましたが、今号では2月と6月に開催した「糸からの動き」展に出品された19名の作家の作品と語りを紹介いたします。白黒写真で十分に作品を知ることは出来ないと思いますが、個々の作家が自らを発見する試みに挑戦している姿を感じていただければ幸いです。
尚、次年度から「糸からの動き」クラスの指導は加藤美子さんに変わりますが独自の作品を造りつづける先輩との交流などを求めている方のご参加をお待ちいたしております。
何処にむかって? 榛葉 苔子
あの海の生物やどかりは、生まれるとすぐにカラを捜さなければならないという。なにしろ裸のままではすぐに食べられてしまう。成長するに従い自分のからだにあった寸法のカラを捜しては、新しいカラに変えてゆくそうだ。ところが身の丈にあったカラがすぐにみつかるとは限らない。みつからなければからだのはみでたツルツルテンのカラで生きねばならない。まるみえのからだでは危険だし、どうにもバランスがよくない。それでじぶんの身の丈には大きすぎるカラでも、仕方なく変えるそうだ。しかしぶかぶかのカラではなにかと具合がわるいので、おなじ悩みのなかまと同居する。じぶんに不似合いなカラにいるわけだから落ち着かず、次第に攻撃的になっていき、じぶんの身の丈とぴったりのやどかりをみつけると、けんかをしてでも追い出しじぶんのカラにしてしまうという。こうしてやどかりは成長にあわせて古いカラを捨て、新しいカラを次々と捜しつづけていくということだ。やどかりの習性、といってしまえばそれまでだが、なにやら暗示的でもある。いまのじぶん(次元)から次のじぶん(次元)に難なくひょいと変われる自由を、あたりまえに生きているやどかりは、時間のしもべでないことはたしかなようだ。等々と、あれこれ、ぶっぶつ言葉が吐き出る後ろから、やどかりのため息まじりの鼻声がきこえてきそうだ。人間の習性ってものは、シンプルじゃないねえ……と。
ともかくも、新しい可能性の出発点に立った気分になるのは、良いことだ。
まずは洗いたてのシャツを着て、みあきた常識系のカラを出てみようじゃありませんか。
一回目の自主展覧会おめでとうございます。
1993・6 展覧会によせて
◆安蔵 敏江
◆久地浦哉子
◆ 山崎 輝子
◆土志田由紀
◆井野とし子
◆菅谷 好子
心の中はモヤでいっぱい はっきりとは何もみえない この心細い状況の中で “結び”との出会いがあった。
“結ぶ”という行為を重ねていくうちに その奥には 何か人切なものが たくさん隠されているように思えてきた。 それは一体何なのだろう。
それはゆっくり時間をかけて みつけて いきたい。
◆倉富 直子
◆美坂 知佐
◆早矢仕昌代
もと居た処 唐突ながら……
かって夢うつつのような状態の中で、人の体内の細胞というのはひとつひとつが各々ものを考え、得も言われぬような美しい歌声を発しているのではないかと思われることがありました。この作品を拵えている時、何か自分がそうした懐かしいとても小さなものになって、糸がつくるひとつひとつのポケットの中に潜り込んでいるような“肌ざわり”を覚えました。
ですからある意味でこの布は、自分にとっての“巣”であったのかも知れません。でも今は、それよりももっと自分の近くにある皮膚のようなものを(でき得るならさらにもっと“近く”)つくりたいと思っています。
◆李 京姫
◆出居 麻美
シャラ・シャラ
ずっとためこんでいたものを細かく切りさいて、形をなくしてしまい そのすき間から何か見えるかすき間とすき間の、そのまた間に何があるか。
それを見たくてひたすら切っていました。
いよいよ作品を吊るために床から持ち上げたとき細い絲たちのたてた、シャラ・シャラという音が耳からはなれません。
◆石橋みな美
◆藤井智佳子
◆谷本 和身
◆石和田久子
◆坂巻かをり
“何時もの所”
自分のなかへ 行ったり来たりしていると 大抵 自分が子供だったり もつとすすんで 赤ん坊だったりする。取り囲んでいるものは いろいろだが必ず存在していてくれるものがある。その“存在”は 様々な表情として 何時もそばに居る。その“存在”と私との間にある“空気”を思っていたい。
◆石山 敬子
THROUGH THE WIND
空気、光り、風……姿の見えぬ曖昧なもの、、、
その中を漂うもの、無音でありながら力強く、ゆっくりと動くもの、きらきらと光り、命を感じさせるもの、そんな何かを確かめ、表したくていつも、手を動かしている。
◆田武 理恵
SILENT PULSE(宇宙律)
呼吸、リズム、宇宙的波動、見えないメッセージ、ゆらめく光り、ただよう空気、風、土、水、
その中に居る自分、自分の存在…………
今回のつくることの意味は そこにあった
実感として、ごく自然な形で自分の“原風景”と対面していた
制作中そんな手応えを一貫して感じていたように思える それがある種の内からのエネルギーとなり、体を巡り 音と作品の間を行ったり来りしていた
それは まちに SILENT PULSE …………静かなる鼓動
◆児玉 圭子
つながっている時間
とらわれるという事と、こだわるという事はちがうんだ。と、思えたときから、何かが少しづつとけ出してきたのだと思う。そして、ある時ふっと感じた昔、樹だったのかもしれないという思い。その時から、また、何かが動き出した。
私の回りの点がどんどんつながっていった。
時間をとびこえてつながっているものたちの事を思った。そして、今、わたしは、その先を知りたい。