1998年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 12号に掲載した記事を改めて下記します。
<いま生きているという経験>をつくる
「フェルトという音楽」 若井麗華
<いま生きているという経験>をつくる
「フェルトという音楽」 若井麗華
「人々はよく、われわれは生きることの意味を探っていると言いますが、人間が本当に探求しているのは、たぶん生命の意味ではありません。人間がほんとうに求めているのは<いま生きているという経験>だと思います。純粋に物理的な次元における生活体験が、自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。」―神話の力―より ジョーゼフキャンベル著
◆「BODY (black)」 1994年
W 500×H 600×D 250cm
素材:wool (ワイヤー)
撮影:JUN FURUTA
◆「FELT FLOWER」 1993年
W 350×H 650~750×D 300cm
素材:WOOL(ワイヤー、オーガンジー)
撮影:JUN FURUTA
◆「SEE THROUGH HEART」 1997年
素材:ウール
撮影:JUN FURUTA
何のために、何を求めて、ものづくりをするのか!? という自分への問いかけに、この本の著者は、私に明快な答えと力を与えてくれた。この<いま生きているという経験>を与えてくれるのが、<ものづくりと音楽>である。私は、ものづくりと音楽がたまらなく好きである。この「たまらない」という言葉を私的に解釈すると「体の底から湧きあがってくる熱い感情、感覚、開放感、快感」というとらえ方をして、「たまらなく好きだ」と言うことである。キャンベルが言うところの、「生きている無上の喜び」というところであろうか。音楽を聴いている時に起こるあの「たまらない感覚」は、ものづくりへのインスピレーションをかきたててくれる。そして、ものづくりの最中にもあの「たまらない感覚」はやってくる。ものづくりと音楽の関係は、布の染色を始めた頃にあったと振り返ってみると気がつく。あの時期、音の中に光を見た!! というより感じたような気がしたのだ。勝手な思い込みだったのかもしれないが音色を実感したのだった。すでに言葉としては知っていた「音色」というものを知覚が認識したのは、それが始めてだった。自ら実感して発見していく喜びを体験してしまうと、どの世界でもそうだと思うがこれが一種の快感となり、そういう体験をもっともっとしていたくなるものである。それ以来、音色より「色」というものが私の中で大きく意識されるようになり、曲の全体的なイメージから、音と音の重なり、音と音のつながり、そして曲と詩の混ざり合いのイメージにまで色を見てみたい気持が進んでいく。そして、その色達や色のまわりにある事柄をものをつくる事で現してみたくなるのである。私がここ数年、フェルト制作に取り組んでいる理由は、こういった音色からくる「色Jなのである。色を重ねて重ねてという作業とその結果出てくる色に「たまらない興味」を抱いているからである。布の上での染め付けは、色の重なりに限界があると思う。そこへいくとフェルトづくりは羊毛繊維一本一本の絡み合いによる結合なので、色を混ぜる、色を重ねるという行為がとても適しているのである。フェルトは布より造形・混色といった面で大きな動きをもつことができるのではないかと思う。もう一つの理由として、平面に止まらず立体へと形を増幅させることができるフェルトは、立体が好きな私にとって、制作の可能性を拡げてくれる嬉しい素材であるからだ。私の立体好きは、クラス・オールデンバーグという彫刻家の影響によるものである。15年程前にアメリカの現代美術館で巨大なハンバーガーやケーキなどのソフトスカルプチャーに出会った。ソフトスカルプチャーという言葉とそのものの存在に「たまらない感動」をしたのである。東京でも彼の作品が見られることができるようになった。それはお台場ビックサイト前にある巨大な「のこぎり」である。彼は、日常の見慣れたものを巨大化して現わすことで新たに意識させるという試みを行っている作家である。都市化が進むコンクリートジャングルで人間が生きていく限り、機械に頼らない人の脳と手を介したものづくりがとても必要不可欠であると、お台場のような人工的建造物が立ち並ぶ空間にオールデンバーグの作品を見てそう思う。オブジェは空間に何かもう一つ新たな意識の味付けをしてくれるものだと思う。自分が住んでいる家の空間、一歩外に出た街や商店のウィンドウなどに、ふと目を落とした時そこにあるオブジェや空間が、きれいだったり、楽しかったり、おもしろかったり、びっくりしたり、そうした時、心や体がふうーっと軽く大きくなりそれらのエッセンスによって喜びに満たされる。こういう事と言うのは、つくる側と見る側がポジティブな繋がり方をしているのだと思う。そういう繋がり方が、ものづくりを通じて、特に日常生活の場(美術館などではなく)に於いてできることが私の理想とするところである。またそれが<いま生きているという経験>に繋がることと思う。
音楽という素材をフェルトという素材に重ね合わせて行くように、また作品と街の関わり合いを重なり合わせて行くことで、<いま生きているという経験>を考えてみると、神話と共に歩んできたフェルトは、私にとって最高の音楽になるのである。