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「都会の居場所 」 三宅哲雄

2011-03-05 12:34:09 | 三宅哲雄

Pict0194 (2001年子供の造形教室夏期合宿)


生活空間の選択 -どこで生きていきますか-       三宅哲雄

都会の居場所 


 カタッ、カタッと規則的な振動を刻む車中泊と東京での生活の不安から眠れぬ一夜を過ごし、車窓から射し込む朝陽の中でウッラウッラしていた…。17時間、1100kmの旅を終え列車は終着駅に近づき、すれ違う電車や傍らの道路をひっきりなしに走る車など初めて見る都会の喧騒が陽の光と共に車内に注がれ現実社会に生きていることに気づかされた。


親は私の勉学と進学への取り組みなどを祖母から聞いていたが、もはや我慢の限界を越え中学三年の一学期の終了を待って東京に呼び寄せたと後に聞かされた。住まいは東京湾に近く、教科書にも載っていた大森貝塚に近い家で、「海が近いので、泳ぎに行く」と言うと「あんな、泥海で泳げないよ!」と笑われ、近くには神社があり大きな楠や杉の木、そして周りの家々や自宅にも庭木はあるが自然林は無く、海はあるが死んだ海だ!私を暖かく包んでくれた自然との生活から、私の意思とはほとんど関係なく、わずか一晩の列車の旅で別れることになるとは…考えもしないことだった。


 幸か不幸か転校した中学は公立校ながら地域一番の進学校で朝7時から夕方7時まで補修も含めて毎日12時間授業、当然、九州とはレベルも違う、学校に行ってもチンプンカンプン。毎日実施される試験の結果は廊下に掲示され、順位は毎回後ろから数えるほうが早い。親はこの結果をある程度予想はしていたみたいだが、これほどとはと驚き、「このままでは進学できる高校は無い」との思いから家庭教師を雇い、私は午後7時半に帰宅すると食事と入浴をし、すぐ寝る。午前0時に家庭教師に起こされ、中学一年の基礎的な勉強を翌朝の登校時間迄する。という毎日を高校入学迄続けた。今思えば私の意思ではないが、この半年間は人生で最も真剣に勉強した期間で、学んだ基礎的学習は私が大人として現実の世界で生きていくことを可能にしてくれた大切な時であったと思われる。


 現在は小学校入学前から塾に通い目標の高校や大学への進学準備をすることは特別なことではないようであるが、当時の大学進学率は20%程度で優秀な子供と経済的に恵まれかつ教育熱心な家庭に育った子供に進学はほとんど限られていた。そのいずれかにも属さず、又何を学び、何を目指しているのかも不明な私には当然のことながら大学の席は用意されているわけでないことを薄々察しているものの進路の選択を先送りする道、すなわち高校や大学に進学することは勉学を志すのを第一の目的にするのでなく、人生の方向性を見つける機会と場になれば…という思いでした。


 中学の半年はアットいう間に過ぎ、同級生との交流は全くと言っていいほどなかった。自宅と自宅から学校迄1km程の道筋、学校の机と椅子そして親と家庭教師という限られた空間と人との関係で、ただただ受験第一で生きているだけであったが第一志望の公立高校は不合格になり、前年に開校したばかりの私立大学付属高校に入学することになった。東京に転居したが限られた地域内での中学生活から電車という移動具に乗り片道20km、一時間程の満員電車通学をすることになる。都内に限らず近隣県からの遠距離通学をする学友と共に学ぶ教室は4050人学級で空間の規模は小中学とほとんどかわらない、だが同級生との生活距離圏は中学、高校と進学するほど広くなり、生きて来た環境が全く異なる友と同一の制服を着て席を並べ学ぶ。個性的な非常勤講師は「この高校に来ると監獄で囚人に教えているようだ!」と語った言葉が忘れられない、同じ年齢ながら生まれ育った地域や環境が異なっても外見が同一ならば互いに仲間意識がはたらき安心するので秩序を保ち易く管理する方にとっても都合が良い。


 別府でなんの束縛もうけずに14年も生きてくると、東京での暮らしは全て不自由だった。嫌いな勉強、荷物を運ぶような満員電車での通学、丸坊主に制服・制帽、規則規則等々…。思春期で自我に目覚め無意識で自己主張しょうとする衝動は包みこまれる。一・二年はおとなしく静かに、そしていい子でいたが放し飼いで育った気質は簡単に修正できない。進路を考えるようになり、祖母が「絵描きにだけは、ならないでほしい」という言葉が浮かぶ中で、田舎では知るすべはなかったが芸術大学に建築があり、建築ならば絵描きでないという単純な思いで私は芸術系の建築を目指すことになる。だか完全付属高校なのでエスカレーターで大学に進学しなければいけないが希望する学科は無い、担任教師に相談すると「わかった、ならば高校に来ている暇はないよ、予備校に行きなさい」と指導された。幼少の頃から絵が大好きであったが自分が目指す方向が芸術系の建築であると、この時に自覚した。        

(つづく)


 




















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