◆桜井玲子個展-かすり99-
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。
無為の風 三宅哲雄
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。
無為の風 三宅哲雄
六月は何故か展覧会に足を運ぶ機会が多かった。練馬美術館で開催された「和紙のかたち」展は、いつもの強引な企画と作品群に失望したが千疋屋ギャラリーで開催された「榛葉莟子展-転写-」「桜井玲子個展-かすり99-」そして、きもの美術館での「SHIFU(紙布)桜井貞子展」、横浜美術館「世界を編む展」は21世紀を見据えた展覧会であった。こうした展覧会が開催されることは昨今の方向性を見失った美術界にとって意味ある月であったように思う。
◆「転写」 榛葉莟子
◆「転写(部分)」 榛葉莟子
榛葉莟子展-転写-
車を駐車場に止め喧騒の銀座通りから階段を上り画廊に一歩足を踏み入れると、そこは別世界であった。壁には版画や小品のオブジェがかかり、会場の中央には錘に巻かれた大きな糸玉のようなオブジエがエアコンの風で静かに回っている。「なんと心地良い空間なのか」私は傍らの小椅子に腰掛け煙草を吸いながら何と二時間近く画廊に居座っていた。
榛葉莟子は山梨県大泉村に住み作家活動を続けている。雪が積もることはあまりないが四季を肌身で感じることができるごくありふれた日本の田舎の佇まいを今でも残す地で自然の営みに溶けこんで生きている。雨が降り、風が吹き、暖かい日差しを感じるようになると草木の芽吹きにあふれ、鳥のさえずりや木の葉のざわめきを聞きながら紅葉を迎える。都会生活に慣れ親しんだ人々にとって忘れてしまった耽々としているが変化に富んだ自然に身を委ねることにより見え聞こえてくる世界を榛葉は「転写」として捉え作品に顕すのだ。その表現素材や手法は固定されたものでなく、紙や木など身の回りにある素材を用いながら絵画的あるいは彫刻的手法などで自由に制作している。
作家に限らず日本社会で生きていくには誰もが理解する身分や職業、肩書きなどを暗黙の内に求められ、無職や自由業などの特殊な職業に従事していると社会的信用を得にくい。又、複数の職業を持つ人には不安を覚えるらしい。このような現象は一般社会だけでなく芸術家にも求められ、既存の核組みの範疇に入らなければ評価の対象にもならない状況が存在している。県展などに応募したが額縁に入っていないので受け付けてくれないという話も現実にあり、作品を作り発表するとなると作家もこの世界の枠組みを理解し、どの枠組みの中で制作していくのかを決め、その作風も大きく変化させずに継続して制作することが作家として生きていく条件であることを思い知らされる。美術大学の学科構成や公募展等で油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン等に分類されているが、これは日本だけの枠組みで世界共通でない。もちろん、世界共通の枠組みなど存在するはずがない。作家が何を感じ何を表現したいかでイメージが形成される、実用性を持つか鑑賞性に重点をおくか、そんなことはたいした問題でない、むしろ、作家にとってイメージを最大に表現できる素材や技法を永年の慣れや親しみだけに甘んじて制作するのでなく、例えば音楽や美術という枠組さえにもとらわれずに制作する姿勢が求められているのでないかと思う。
榛葉莟子はそうした創作活動を続けている数少ない作家の一人である。
画廊は作品が展示されていなければ、ただの箱。この空間に大泉村の空気と自然を榛葉莟子が転写して届けてくれた。この作品群は自然の中に身を委ねて感じる心地良さを超越し鑑賞者に穏やかな豊かさと安らぎを実感する場として存在させたのである。
◆「個展-かすり96-」 桜井玲子
◆「個展かすり-99-」 桜井玲子
桜井玲子個展-かすり99-
何年前の個展であったか、同じ千疋屋ギャラリーの全壁面を完全にタペストリーで埋めた作品を桜井玲子は発表した。通常タペストリーの展示では壁面の余白を額縁的に利用して展示される手法が一般的であるが天井と床を除いて全壁面を埋めたタペストリー展は類がない。切り抜いた枠の中で表現する手法はタペストリーだけでなく一般的に絵画はほとんどこの手法で制作されている。鑑賞者の視点を制約し、作者の意図を伝えやすくすることで多くの作家はこの手法を選んでいるのだが、桜井は大きく自らの制作手法を変えることなく全壁面を作品で埋めることにより鑑賞者の視点を一点から解き放すことで鑑賞者を作品に対峙する関係から作品の一部に取り込む関係に生み出した。こうして、平面の作品は壁から離れ三次元の世界を創出する。桜井玲子は「かすり」の技法を用いて平面の織物作品を制作し続けているが枠組みに閉じこもる制作意図を持たず穏やかであるが広がりのある作品作りに挑戦している作家である。
今回の個展は、その挑戦の姿を如実に表していた。会場の入口近くには近作を並べ、正面の作品とその左右の3点の作品は桜井玲子の生々しい制作姿勢を臆することなく素直に表現していた。桜井の作品は「縦かすり」で鮮やかな色合いを大胆に構成しているという定評があるが、今回は大胆さは維持しながら深みを感じさせる三様の作品で一点は鮮やかな地色の染色後に墨染を加えることで生々しさを打ち消す試みをし二点目は全体に地組織を織り込むことにより布の表情に深みをもたせている。三点目に私は注目したのだが前記二点のような作家の制作意図をほとんど放棄して、ただ思い入れだけで制作したことである。表立った計算をせず、自らに主眼を置かず、他者への思いを鮮明にすることで、余分な力を取り去り顕された作品はすがすがしい表情をみせてくれた。人が創作する限り作者の力の入れようが作品に反映することは間違いない。だが、経験を積んでくると手が勝手に動き一定の水準を満たす作品になるが、社会はこうした作品を作風として捉え、結果的に作家を拘束している。このような環境を心地良いと判断するか否かは作家が判断する問題なので外野がとやかく言うことではないが、鑑賞者の一人として経験を積んだ作家には多くを期待する。作家は多種多様であるので、勿論一律ではないのだが、願うことは無心で制作した作品との出会いを私は心待ちにしている。今回、桜井玲子個展でこのような作品に出会えたことは至福の喜びであった。
きもの美術館で開催された「SHIFU(紙布)桜井貞子展」については当誌にて七海善久氏が触れるので詳細は譲るが菊池正気氏などの協力を得て失われようとしていた日本独自の紙文化を再興し和紙の可能性を再認識させた業績には敬意を表したい。こうした活動が多くの人々に感銘と勇気を与え、世界に類のない日本の紙文化の発展に大きく寄与するであろう。
横浜美術館では「世界を編む展」が開館10周年記念企画展として開催された。経済のグローバル化や情報化が国境の壁を低くしたと言われているが美術の世界でも国家や文化圏ましてや油絵や日本画、彫刻、工芸等々などの枠組の中だけでは方向性は見えてこないという現状を打破する一つの試みとして画期的な展覧会であった。日本の美術ジャーナルを形成している人々によると美術と工芸を鑑賞性に特化しているか実用性を持っているかで区分し工芸は常に美術より低く位置付け、席を同じくすることはなかった。今回の展覧会の意味することは日本流でいうならばジャンルの異なる日米欧24名による作品が一同に会し相互刺激をすることと、研究者の鑑賞性を押し付けられることはなく一般の鑑賞者が「世界を編む」という切り口で企画された展覧会を鑑賞することができたことでないだろうか、残念なのは研究者の視野の狭さから的確な作家と作品を選んだとは思えず、作品の展示に十分な配慮がされていない、などの疑問点が残るが多様な問題を抱えている日本でこの展覧会が実現したことに賞賛をおくりたい。縦割りで一律の展覧会しか開催されない現実の中で、企画者の顔の見える多様な展覧会が生まれる契機になれば幸いだと思う。
榛葉莟子と桜井玲子そして桜井貞子、「世界を編む展」の企画者である沼田英子を同一の尺度で語ることはできないが、僅か一ヶ月に同じ画廊と近隣の美術館でおのおのが「無為の風」を吹かせたことは間違いない。こうした作家は国内はもとより欧米においてもグローバルな視点を持ちながらも世の中の動きに翻弄されることもなく創作活動を続けているために表出することはあまりない。21世紀はインターネットや図書でのバーチャルな交流から展覧会などのリアルな交流迄もが国家、人種、宗教、等々の枠組みを超えて世界各地で日常的に多彩に催されると予想されるが、こうした時代こそ美術館学芸員の独自の切り口による企画が求められ、結果として優れた展覧会に結びつくことになるのであろう。世界の人々が豊かな生活を送る時が訪れるのか否かの一端を学芸員が握っていると言うのは無理な要求なのであろうか。
桜井玲子個展主旨
私は、忘れられない思い出となって ふっと戻ってくるものには、なにかしら同じような匂いと色があると感じている。それらの情景や気配のなかには、静かに そして ゆっくりと動いているもの、移ろうものの途中の美しさとでもいえるような不思議な魅力が内在していると思っている。
濃密な大気の中 ぽっかり浮かんで漂っているような風を感じて ゆらりと揺れるような 雨をもらって 流れて沈んでゆくような 光を浴びて 溶けてゆくような ほんの少しだけの ひんやかな変化のなか 止まることのないある時間 ある空間になんともいえない心地良さと懐かしさを感じるのである。この感覚をタペストリーに再現したいと思う。
そのことは、風や雨や光や空気の中に、私の感じとれる色や形を みつけ出してゆくことでもある。私は常に、その とてもたよりない程の小さな感覚を大切に制作してきた。これからも 同じ心持で制作してゆくのだと思う。その過程で、つくったタペストリーをみてもらおうと思っている。 桜井玲子
私は、忘れられない思い出となって ふっと戻ってくるものには、なにかしら同じような匂いと色があると感じている。それらの情景や気配のなかには、静かに そして ゆっくりと動いているもの、移ろうものの途中の美しさとでもいえるような不思議な魅力が内在していると思っている。
濃密な大気の中 ぽっかり浮かんで漂っているような風を感じて ゆらりと揺れるような 雨をもらって 流れて沈んでゆくような 光を浴びて 溶けてゆくような ほんの少しだけの ひんやかな変化のなか 止まることのないある時間 ある空間になんともいえない心地良さと懐かしさを感じるのである。この感覚をタペストリーに再現したいと思う。
そのことは、風や雨や光や空気の中に、私の感じとれる色や形を みつけ出してゆくことでもある。私は常に、その とてもたよりない程の小さな感覚を大切に制作してきた。これからも 同じ心持で制作してゆくのだと思う。その過程で、つくったタペストリーをみてもらおうと思っている。 桜井玲子