1996年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 6号に掲載した記事を改めて下記します。
小さな硝子板が数枚必要になり、近くの硝子屋に行った。寸法が小さいものばかりで断わられるかと心配したが、硝子屋のおじさんは、「なんにすんの?」と、言いながら心よく寸法の硝子を、いとも簡単にカットしてくれた。私はさっきから店の前に置いてある赤錆びた大きな鉄の箱の中が気になってならなかった。その中には、厚いのや薄いのやの、透き硝子、くもり硝子の様々な種類の硝子の切れ端がぎっしりと詰まっていた。様々な硝子の切れ端の重なりの層を透過してやってくる、あるかないかのうすあおいような煙りの色彩が、そこにたちのぼっている。
硝子屋に走る直前、透き硝子を前に私は困りはてていた。硝子絵の仕事である。硝子絵は、裏面に描かれた絵を表面から透かせてみると、硝子絵独特の効果があるらしい。…らしいと言うのも、あの、油絵の具などで描かれた透過性を無視したかのような硝子絵をいいと思ったことがなかったからだが、どこか、郷愁の匂いのする硝子絵の言葉の響きや、透過性というところに魅かれ引き受けてみた。10センチ前後の四角い透き硝子板と向き合っているうち、真っ白な紙と向き合った時にやってくる妙な、いらだたしさがやってくるのだった。この、小さな透き硝子に身体が関係しようとしない。たとえそこに絵を描いたとしても、私の内から喜びはやってこないことは、わかっている。そのときふと、くもり硝子なら入れるかもしれないと直感し、硝子屋に走ったという訳だった。
赤錆びた鉄の箱の中の硝子の切れ端は、計画から排除された半端物のはしくれだ。いいなあ、この不揃いなはしくれのオブジェ。
「おじさん、これ、いただけますか?」赤錆びた大きな鉄の箱を覗きながら、思いきって言ってみた。「ああ、いいよ。持ってきな」快いおじさんの返事があった。いくつかの切れ端も、くもり硝子も想像をかきたてる。それは不思議な気配の記憶、懐かしさを含むものだ。そんな気配は、こんなところにもある。
先日、スーパーマーケットで透明な袋に入った5ケ入りのりんごを買った。照明のなか、棚に並ぶやけに堂々としたふうな粒選りのりんごから排除された粒そろわないりんご5ケ入りである。それは、掌に包むに似合うりんごで、あの野暮ったい大きなりんごには見られないそのりんごは林檎といいたい。その林檎をまるごとサクリサクリと空を眺めながら食べていく。それは食べているというよりも、なにかもっと、どこか遠くへ運ばれていくような近ずいていくような、懐かしさの気配が身体に滲みていくのだ。この懐かしさは、もちろん家族のアルバムを見ていく思い出とは異なる。
そして又、知人の個展の案内の葉書に印刷されている水彩のリアルな風景画にそれはあった。葉書の絵をみた時身体の奥に妙なざわめきが起こった。そこに描かれている風景の透過さ、透過色。会場に行った。絵を見に行ったというよりも、自分の内に常にそれを通してみる、或る懐かしさの気配と共通するナニカが気にかかったのだった。印刷された絵には、会場にあるナマナマしさは消えている。思い入れとか情感のタッチ、そういう範疇のナマの層をくぐりぬけ、葉書に表れた風景は、ナマナマしさを払拭した、不思議な光空間が感じられたのだった。遠い日の、あのくもり硝子や色セロハンを透かしてむこうを見た空間の不思議な気配への眼ざしの記憶と、印刷された絵に見た透過の光空間の抽象性の、眼ざしとの符号に気づいた。
展覧会などでの作品と、見る側のかかわり方は様々だし、自由といえば自由だが、見る自分と関係させていくと、より接近できて面白い。見えるものは見えないものに付着している。どう見えてくるのかは見る側の、眼ざしの問題でもある。
若い友だち達の展覧会がある。不揃いの林檎たちならではの乱気流渦巻く不思議空間が現われればいいなあと思う。
小さな硝子板が数枚必要になり、近くの硝子屋に行った。寸法が小さいものばかりで断わられるかと心配したが、硝子屋のおじさんは、「なんにすんの?」と、言いながら心よく寸法の硝子を、いとも簡単にカットしてくれた。私はさっきから店の前に置いてある赤錆びた大きな鉄の箱の中が気になってならなかった。その中には、厚いのや薄いのやの、透き硝子、くもり硝子の様々な種類の硝子の切れ端がぎっしりと詰まっていた。様々な硝子の切れ端の重なりの層を透過してやってくる、あるかないかのうすあおいような煙りの色彩が、そこにたちのぼっている。
硝子屋に走る直前、透き硝子を前に私は困りはてていた。硝子絵の仕事である。硝子絵は、裏面に描かれた絵を表面から透かせてみると、硝子絵独特の効果があるらしい。…らしいと言うのも、あの、油絵の具などで描かれた透過性を無視したかのような硝子絵をいいと思ったことがなかったからだが、どこか、郷愁の匂いのする硝子絵の言葉の響きや、透過性というところに魅かれ引き受けてみた。10センチ前後の四角い透き硝子板と向き合っているうち、真っ白な紙と向き合った時にやってくる妙な、いらだたしさがやってくるのだった。この、小さな透き硝子に身体が関係しようとしない。たとえそこに絵を描いたとしても、私の内から喜びはやってこないことは、わかっている。そのときふと、くもり硝子なら入れるかもしれないと直感し、硝子屋に走ったという訳だった。
赤錆びた鉄の箱の中の硝子の切れ端は、計画から排除された半端物のはしくれだ。いいなあ、この不揃いなはしくれのオブジェ。
「おじさん、これ、いただけますか?」赤錆びた大きな鉄の箱を覗きながら、思いきって言ってみた。「ああ、いいよ。持ってきな」快いおじさんの返事があった。いくつかの切れ端も、くもり硝子も想像をかきたてる。それは不思議な気配の記憶、懐かしさを含むものだ。そんな気配は、こんなところにもある。
先日、スーパーマーケットで透明な袋に入った5ケ入りのりんごを買った。照明のなか、棚に並ぶやけに堂々としたふうな粒選りのりんごから排除された粒そろわないりんご5ケ入りである。それは、掌に包むに似合うりんごで、あの野暮ったい大きなりんごには見られないそのりんごは林檎といいたい。その林檎をまるごとサクリサクリと空を眺めながら食べていく。それは食べているというよりも、なにかもっと、どこか遠くへ運ばれていくような近ずいていくような、懐かしさの気配が身体に滲みていくのだ。この懐かしさは、もちろん家族のアルバムを見ていく思い出とは異なる。
そして又、知人の個展の案内の葉書に印刷されている水彩のリアルな風景画にそれはあった。葉書の絵をみた時身体の奥に妙なざわめきが起こった。そこに描かれている風景の透過さ、透過色。会場に行った。絵を見に行ったというよりも、自分の内に常にそれを通してみる、或る懐かしさの気配と共通するナニカが気にかかったのだった。印刷された絵には、会場にあるナマナマしさは消えている。思い入れとか情感のタッチ、そういう範疇のナマの層をくぐりぬけ、葉書に表れた風景は、ナマナマしさを払拭した、不思議な光空間が感じられたのだった。遠い日の、あのくもり硝子や色セロハンを透かしてむこうを見た空間の不思議な気配への眼ざしの記憶と、印刷された絵に見た透過の光空間の抽象性の、眼ざしとの符号に気づいた。
展覧会などでの作品と、見る側のかかわり方は様々だし、自由といえば自由だが、見る自分と関係させていくと、より接近できて面白い。見えるものは見えないものに付着している。どう見えてくるのかは見る側の、眼ざしの問題でもある。
若い友だち達の展覧会がある。不揃いの林檎たちならではの乱気流渦巻く不思議空間が現われればいいなあと思う。