ART&CRAFT forum

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『時をこえて』 水町真砂子

2017-07-16 10:06:04 | 水町真砂子
◆水町真砂子 Triangle Warffie 1998年
サイズ:900×950
 素材:麻の強撚糸

◆Menuet 1987年
サイズ:1350x9500
素材:麻、木綿、ステンレス線、ピアノ線


◆ 呼吸する海  1989年  サイズ900× 550  素材:麻

◆ Yellow Crepe  1987年  サイズ:1350× 2800  素材:麻

◆ Un Titled 1976
サイズ:400× 2500
素材:サイザル麻、ウール

◆ 珊瑚礁  1995年  サイズ1200× 200  素材:麻の強撚糸


◆ Mosaic(ドビー機による二重織) 2003年  サイズ:830× 890

◆風のワルツ(ダマスク織) 1985年
サイズ:9200X9300
素材:麻の手撚糸


2006年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 39号に掲載した記事を改めて下記します。


 『時をこえて』 水町真砂子

 これははるか昔のことで、私が始めて織物にめざめた頃の個人的な経験です。1963年私はAmerican Fabrics という雑誌の中できわめて刺激的なグラフを見つけました。それはニューヨークの現代クラフトミュジアムで開催された企画展の記事でタイトルにはWoven Forms「織られたかたち」とありました。執筆はこの雑誌でおなじみのジャック・ラーセン(註1)です。私はその古い雑誌のあの写真に再びあってみたくなって先月図書館を訪ねて探してみました。書庫の中から選び出された1冊に思わず緊張してしまいます。ページをめくるとA3判の上質のマット紙に、鋭く刻印された不思議なタペストリーがあらわれました。若いウイーバー5人(註2)の作品です。60年代も始めの頃はラーセンもファイバー・アーチストとは書いていません。まだ織手なのです。42年前と同じように私はレナール・タウーニーの黒い河という鋭く精緻なハンギングに心をうばわれました。ラーセンも極めて象徴的で確固たる静寂を伝えると評しています。ドリアン・ザッチーは解放された女性というコンセプトで木の枝から吊り下げられた人手のような不定形で、ラーセンはピカソのようにパワフルで森で育ったようなかたちと述べていますが、織りの定義をはずしたこの仕事にはのびのびした開放感を感じます。クリア・ザイスラー、アリス・アダムス、シェイラ・ヒイックスと後の3人も、それぞれ強い造形表現で自分を語っています。平面から立体へと変容する前の萌芽のようなものが感じられる企画でした。織物が絵画や彫刻と同じようにコンセプトをもつ新しい時代の始まりでしょう。少し前にイタリアの建築雑誌のDomusも糸の彫刻として「織られたかたち」を編集していました。私はこれらの写真によって(今ならば情報によって…、と書くのが適切かも知れませんが)新しい造形にめざめ何かをしたいと考える自分と向き合うようになりました。64年の夏、ある日突然に転機がおとずれました。

 この稿は三宅氏のお話ではテーマは「織構造について」ということでした。
それがこのように自分もあまり書きたくない自分史のようになりつつあるのは、困りますが、どのように織物にアプローチし、どのようなメソッドで織物設計を学び、どうしてCAD(Computer Added Desigen)で織機を操作することになったのか、時を追って述べることで答えにしたいと考えます。

 前述のように「織られた形」から大きなインパクトをうけた翌64年、私は夫と共にスウェーデンに旅立ちました。瑞和辞典もないような時代でかばんのなかには北欧史とスカンジナビア・デザインの本が一冊あるだけの出発でした。途中、幼馴染の友達が留学中のパリにたちより、古典的なタペストリーを見る機会をえました。「タペストリーを学ぶのならキリスト教と西欧史の教養が前提」という友達の通訳でクリュニーの貴婦人と一角獣のタペストリーと、ゴブランの工房をたずねました。ゴブランの正門に政治家コルベールの像を見たときにこの工房が国家の強い保護のもとに存在することを知りました。革命によって衰退した時期もありますが、16世紀からずっとタペストリーを織っている工房は、ディドロの百科辞典にある版画そのままで、大きなビームにしっかりと経糸を巻いたオートリス(垂直織機)がならんでいます。今にも注文主の貴婦人が現れそうな雰囲気でした。新しい工房はドゴールが大統領の時代に建てられたもので明るく大きな空間にバースリス(水平織機)がならんでいます。丁度、点が集合して不定形になった色のマッスが織り出されています。フランスのタピストリー作家マチュー・マテゴの作品でした。この時私は始めて最高の手を持った人々の一生懸命な仕事に接したのですが、クラシックな仕事の確かさと深さに圧倒されました。すばらしいシンフォニーを聴いたあとのような気分でした。構内には付属の美術館があって昔のタペストリーばかりではなくピカソ、ブラック、レジエ、コルビジェなどの絵画をカルトンにして織ったものもありました。技術の精緻さが工芸を成り立たせるという古い言葉を思い出させました。伝統があってこそ始めて強靭な新しさが育つとゴブランの人々は確信しているようでした。

 フランスの文化遺産を数日楽しんだ私は、ウイーンでもタペストリーと2世紀も前のテーブルリネンをみて、ストックホルムへむかいました。別れ際に友達が面白いことをいいました。「フランス人の旅行者が北欧に行くとテ-ブルウエアの立派なことにびっくりするそうよ、でもグルメは住めないみたい。銀のフォークやクリスタルのお皿たべてるそうよ」「北欧の文化を批判しているわけね」「というより優越感にひたっているのよ」私はグルメではないので少しもがっかりしませんでした。むしろダマスク織のテーブルクロースやクリスタルの蝋燭立を想像して満足しました。この会話の意味を私は次第に理解するようになります。北欧は長いパースペクティブでみると中央ヨーロッパの辺境にすぎなかったと信じられてきたのでしょう。

 ストックホルムの中央に16世紀にできたオールドタウンがあります。バルト海が内海に入り込んだ多島海の小さな島の一つで、ドイツ人が建てた古い教会や船員のためのホテルやカフェなどがあり海沿いには王宮ものぞめる特別な地域でした。ハンザ同盟の時代は交易の中心地だったので由緒ある旧跡もおおく、夏はとてもにぎやかでした。私はその町で織物の勉強をはじめました。クラスは目的もバックグランドも国籍も違う学生が10人で面白いメンバーでした。美術系のセラピストになるために単位の取得をめざすイギリス人、ゴブラン織の経験はあるがハーネス操作の織物をはじめたいフランス人、キャリアアップのため単位取得をめざすスウェーデン人、というような人たちで私のような造形表現のために織物をという学生は少ないようでした。大きな織機が一台ずつあたえられ、他に織巾220cmの家具用生地やブランケットのための古い織機がありました。講義のなかで興味があったのは織物機構学と素材論、織物構造分析などでした。どれも実技をふくみます。機構学は織機の原理やメカニズムについての説明と分解や組み立ての実習、道具類の補修と管理などで近代以前の織機やアジア、近東、南米などの織機について形態と機能を調べる宿題もあって、急に織機とその周辺についてのクラスの関心がたかまりました。私にとってはこの講義がアプローチになって構造分析とデザインの時間に入る頃には理解の程度が少しあがりました。このあたりのカリキュラムの立案と展開がなかなか巧みで、工学的な領域と美術的な領域を有機的に連動させるところが学生をひきつけていました。私は夜学でスウェーデン語を履修していましたが、まったくできない学生でした。織物のクラスでは落ちこぼれることもなく楽しく課題をこなしてすごせました。織構造の講義は15cm位の斜文織の布をわたされ1リピートを見つけピンセットで糸をはずしていきます。はずしながら3ミリのグラフ用紙に経糸と緯糸の交錯点を記入していきます。これは多様な織構造を体験するためで宿題も出され50枚ぐらい分析し分類しました。ドラフトは織機のメカニズムと、糸の関係を記号化したものですが、分析の後では「どうしたらこの布が織れるのか」糸通しとタイアップとペダルの踏み順を考えます。目的は布の創作で色彩と素材も関連した非常に総合的なトレーニングでした。日本の場合、構造の学習は三原組織の概論から入りそれで終わるか、または全くカリキュラムにいれない場合もあるようで残念です。織構造の次に織物設計が大きな課題で実技とつながっているので講評が終わるまで緊張していました。学校には時々外国の学生が作品のスライドをもって現れました。ほとんどアメリカ人でしたが武者修業なのです。オブジェや立体のタペストリーが多くとても積極的に批評をもとめしばしば大議論になりました。大抵は3時のお茶を一緒にして仲直りしてわかれます。

 64年の冬、スウェーデンに始めてアメリカからコンピューターが輸入され私もその不思議な箱をストックホルム大学にみにでかけました。今考えるとそれは第一世代のコンピューターだったのでしょう。10トントラックのようにすごく大きいグレイの箱でした。その日はコンピューターの能力を確かめようと集まった、大勢の学者がその箱を取り巻き熱気と期待でいっぱいでした。その機械が世界の産業構造を変貌させると言う明るい展望が語られていましたが、自分の理解力では信じられませんでした。私たちが織物のソフトを持つためにはもっと時間がかかったのです。

 次の年は多層構造のデサインに集中し多くの時間を割きました。先生はいまのラトビアから亡命された方で丁寧に制作のプロセスを指導なさる方でした。若い助手も学生の個性をよくみることが仕事の一部のようでした。そのころスウェーデンには「織物を教える」という雑誌がありました。楽しいけれど教えることの難しいクラフトの先生方の雑誌でした。知らない国で未知のテキスタイルを始めた日本人に、きちっとしたメソッドで導いてくださった方々に感謝いたします。66年の秋、2台の織機と本と糸と共に私たちは渋谷の家に帰りました。ストックホルムを去る日、NK(デパートメントストア)のインテリア部のギャラリーでシェイラ・ヒックスの個展をみました。あの「織られたかたち」のメンバーの一人です。みたこともない素材で独特のテクスチュアをだした不定形のタペストリーやクリヤーな色彩のラッピングのオブジェなど、そこにあるのは自分の知らない世界でした。帰国の日に偶然見てしまったシェイラの個展は、人はそれぞれ固有の方法を持たなくてはならないことを教えてくれました。

 旧友の嶋貫昭子さんが渋谷の家にみえられ新しい織機と資料に感心され、それがきっかけで北欧にいかれることになりました。私は自分の制作の座標軸が定まらず試作がたまるばかりなのです。いつも若い方が助手として制作を手伝っていましたが少したつと留学の希望を持つようになり、私の工房は海外留学の予備コースみたいになっていました。私の場合には自分の中に用意されたものがなく、回り道も多かったのです。語学もテキスタイルも充分な準備をしてほしいと願いました。明治維新の頃の留学生と同じで残念です。スウェーデンのニケルヴィックやHVテクニック、アメリカのクランブルック、スイスのアトリエと希望者の行き先はさまざまでした。69年ごろから東京家政大学で非常勤として教えるようになりました。71年に3ヶ月ほどユーレイルパスでスペインからノールウエイの北極圏までまわりました。トロントヘイムという小さな町で、ハーナ・リーゲンのタペストリー(注5)を捜し歩きやっと出会えたときは感激しました。情報の乏しい時代の旅は大変なものでした。アルタミラの洞窟や各地の民族博物館の写真や資料は大学の授業でつかわれました。この旅行でローザンヌのタペストリービエンナーレを見ました。太いロープを巻きつけたアバカノヴィッチの作品には発想の大胆さと理念に裏づけされたコンセプトにがみられましたが私は織られた仕事のアバカンとなづけられた円形の立体のほうが好ましいとおもいました。シェイラ・ヒックスが来日されたのはこのころのことです島貫昭子さん、熊井恭子さん、橋本京子さんなどと美術出版社にあつまってお話をうかがいました。ほとんど忘れましたが一つだけ記憶に残っていることがあります。「大銀行やホール等のタペストリーの制作者はどのようにして決められるか」という質問について答えられたものでした。「アメリカでは公共建造物を建てた場合、建築費の何割かを芸術品の購入費にあてることになっています。芸術家は公募、または委員会などで選ばれます。私はニューヨークで建築事務所の電話帳を机の上において多数の建築家とコンタクトをとったことがあります。アポイントメントがとれたらプレゼンテーションをまとめます。こういう努力が建築家とファイバーの芸術家をむすびつけて良い結果が生まれるのです。貴方たちは電話をかけたことがありますか」。みんな沈黙しました。彼女は感覚の良い芸術家でもあるけれど同時に行動的な企業家でもありました。

 70年代に入ると日本の経済活動が少しずつグローバルになって作品を個展や公募展で発表するだけでなくクライアントの依頼による制作活動が活発になりました。確か74年ごろ佐伯和子さんとお会いし、二重構造の織りの基本をお教えしました。とても色彩感覚に特徴のある方で、着想もするどくパワフルでした。その後89年まで数人でWEB TEXTILEというグループをつくり文献購読や制作に励みました。   

 81年にオーストリーのリンツのタピストリーフェステイバルにでかけました。この年はローザンヌの開催年でもあり小さな町はファイバー関係の人々であふれていました。銀行のウインドウやお店のなかにもタペストリーが飾られ公園の木々の間にはキルトの旗がはためいています。ギャラリーには大きなタペストリーが飾られオープニングの時はワインを片手に石畳を踏みしめてギャラリーめぐりを楽しみました。この旅でリンツの近くのハルシュタッツの遺跡(註3)をたずねたことと、オランダの北ブラバンド(註4)でアバカノヴィッチの作品にめぐり合ったことは計画外のことでしたが幸運でした。小名木陽一さん、嶋貫昭子さん、内山洋子さんがご一緒でした。

 考えるところがあって旅から帰るとすぐダマスク織機をスウェーデンに注文しました。中東からヨーロッパにかけての織機は、大体おなじ機構でつくられています。しかしダマスク織機だけはメカニズムが違います。時間をかけてマスターしようと計画をたてました。織巾150cm、奥行280cmの織機が到着した時組み立て方も知らないのに好奇心だけがふくらんで、はりきっていました。75枚ものハーネスがついていたのには驚きました。以来5年間に20点以上の制作をしました。寡作ですがのんびり落ち着いて織るのがダマスク織の楽しいところではないでしょうか。助手の両角尚子さんと菊池加代子さんが協力してダマスク織のプロセスを改善したことで、6枚不規則朱子織によるダマスク織が良い結果を得ることができました。

 91年に大学院ができて織構造を修士論文のテーマにする院生が集まりました。コンピューターに支援されたドビー織機が研究のために輸入され、私もふくめてCAD(Computer Aided Design)にとりくむことになりました。ドビー織機とそれと連動したPCとソフトでCAD環境ができ織構造の入力、保存、記録、補正などがリアルタイムでまとまり仕事の内容が変化しました。ドビー織機の特徴はマルチハーネス(多数綜絖)の織りにあります。専門的になりますがハーネス数とペグプラン(ペダルとのタイアアップ)が64通りも組み合わせられるのでデザインの選択肢が通常の織機に比較すると非常に多くなります。24枚ハーネスまでの織作業も可能です。デザインのシミユレーションなどが創作にとって有効でした。ソフトは3秒に1点ずつ新しい織構造のデザインをうみだしプリントアウトもしてくれます。しかし私はCADによるデザインや織りを16年も続けていますがいまだにそのすべてを肯定することができないでいます。ドラフトで糸の交錯を判断する、糸の動きを瞬時に表現する、材質感をリアルにしめすなど、評価すべきところもあるのですが、織りの仕事はもう少し自分の意志と手をうごかしたものでと思っています。

註1:Jack Lenor Larsen、アメリカの代表的なファイバー・アーティスト、評論家、コレクターでもあり古代ペルーについての研究論文を始め著書多数、代表作 beyond craft the art fabric
註2:Lenore Tawney、Claire Zeisler、Alice Adams
Sheila Hicks、Dorian Zachai
註3:ハルシュタッツ文化の中心地、岩塩野生産地、資料館にケルト人の先祖が織ったBC800年ごろと推定される平織,斜文織などが展示されている
註4:オランダの北ブラバンド県の県庁舎に多数のタペストリーのコレクションがあり知事室、会議室などにオランダのハーマン・ショルテンなどの作品がある。アバカノヴィッチのサイザルで織られた7m×12mの大きなタペストリーは特別なホールに納められている。
 注5:第2次世界大戦でノルウェーに侵攻したナチスに抵抗した市民の活動をテーマに制作した。
              

民具のかご・作品としてのかご(24)『素材の話2・経木』 高宮紀子

2017-07-12 08:40:14 | 高宮紀子
◆写真1

◆写真2

◆図 1

◆図 2

2005年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 38号に掲載した記事を改めて下記します。

 民具のかご・作品としてのかご(24)『素材の話2・経木』 高宮紀子

前号で素材の可能性について話しましたが、今回は素材が創作のヒントを与える、という話をしたいと思います。

今年の5月、韓国人アーティストと日本人のバスケタリー作家による交流展が石川県の金沢で開催されました。2003年に韓国で行われたのが最初で今回が二回目です。アーティストが韓国から来日することになり金沢の伝統工芸を見るいいチャンス、できたら一緒に見学に行きたいと思い鶴来の檜(ヒノキ)細工振興会に連絡しました。鶴来は、金沢の南部、北陸鉄道石川線で半時間ぐらい行った所にあります。最近、白山市となりました。檜細工はもともと白山の奥地、尾口村あたりで作られていたのですが、歴史を経て現在はこちらに移っています。数年前に横町うらら館という施設を訪ねたのですが、冬季の休館中で見学もできず、近くの観光物産の展示で笠とかごを見て帰りました。白山を仰ぐふもとでおいしい物もあり、また一度訪れたいと思っていました。

振興会会長の河岸さんの所で笠とかご作りを見学しました。昔は当地のヒノキを株ごと使いましたが、今は奈良県から建材の柱の余材を購入しています。厚さおよそ7mm、60cmの板を2~3週間水に浸けて電動カンナにかけて0.4mmぐらいの厚みのへぎ材を削ります。材はヒンナと呼ばれ、多少の厚みの違いがあり、製品の部分によって使い分けます。ヒノキは人の生活に深く関係してきた植物の一つです。外皮で屋根を葺き、内皮でかごや衣類を作り、船の板目に詰める縄も作られました。木部は建築、船材に、また割いて曲げ物、経木、笠などの編組品を作ります。
笠は組みで作られていて、雨の日も使うことができるそうで、昔は山と里の生業にかかせなかった物でした。鶴来では今も笠を雑貨屋で見かけます。笠の他、びくや箱ものなど、いろいろな形のものが現在は作られています。いつごろから、かごが作られたのかはわかりませんが、材が薄いので重い物を入れるというよりは光沢や形を楽しむものです。写真2はびくの形のかごですが、木曾でもイチイの同じ形のかごがあります。

以前、お風呂に入れて香りを楽しむヒノキのヘギ材を買ったことがあります。ヒノキの清潔感のあるテキスチャー、光沢が好きで、この材を使ってなんとか作品ができないだろうか、と考えました。面白そうな新しい素材を手にした時、たいがいのバスケットメーカーはそう考えます。珍しい素材ならなおさらです。しかし実際に組んでみると厚みがありすぎて、うまくいかず、問い合わせても薄い材が手に入らないということで断念していました。

それからしばらく経って、2001年からRevolving(リヴォルビング;回転するかご)シリーズを作り始めました。現在も続いていますが、最初、素材はケント紙の厚いのを割いて薄くして使っていました。どうしても作業中にできるしわが気になってきて柔らかい紙を数種試し、現在の再生紙に行き着いたのです。そんなリヴォルビングのシリーズも去年で14点目となりました。思ったより多くの作品が展開したのですが、10点を過ぎたころから、先が見え始めたような気がし、そろそろ展開は終わりかな、と思っていました。バリエーションの作品を作るのではなく、また他の要素を加えることはやめよう、唯一一個の形につながるアイデアを大切にしたい、そういう思いがありましたから、ただ材の数を増やして複雑にしたり、組み方を変えて作るというのは、やり方が違うと感じていました。それと、だんだん最終の形がどうなるか予想がつくようになり、作る喜びが無くなってきたのも事実です。ですが、ここで踏ん張って素材を変えてみようと思いました。それで鶴来の檜細工のへぎ材を試すことになりました。
違う素材で同じ組織プロセスを試してみる、というのは私の困った時のカミ頼みです。以前、かごの技術を学ぶのにかごを見ながら同じように作ってみるのがたいへん勉強になると教えられ、民具の一部や全体を見ながら作っていました。でも常に民具と同じ素材が手に入らないことが多い。違う素材でやってみるのですが、今度は使う素材の主張があって、いろいろな問題が起こります。かえって、この事が面白いと思うようになりました。それ以来、アイデアにつまずくと、素材を変えることで生じる変化を観察して元のアイデアを練り直す、ということを時々しています。

しかし、ヒノキのへぎ材がずっと気になっていたものの、へぎ材の幅が1cmしかないことが問題でした。2本をテープの上に張って広くしたものの、こんなことやりたくないな、で断念。問い合わせても幅があるものはできないと言われ、ヒノキの材と私の関わりもここまでか、と思っていたのですが、その後、ひょんなことから経木を作っている所と連絡がつき、少し送ってもらいました。最初はヒノキの経木がほしい、とお願いしたのですが、どうしてもヒノキだと幅の広いものは粘りが無く割れてしまうそうで、松の経木を送ってくれました。添えられた手紙には、今までいろいろな樹木で経木を作ったが、松は粘りがあります、とありました。

不思議なことにバスケタリーの方法で作品を作るようになって、次々に物事がつながっていく、という現象に遭遇してきました。今回もそのようです。松の経木はなるほど、薄くても割れにくいし、光沢がありました。そもそも食品を包む薄いものですから、なるべく厚く削ってもらったのですが、作品の材料としては薄い方がいいということが後でわかりました。
リヴォルビングのシリーズには、組みという技法を元のところで、分解してみたい、という動機がありました。それは組むプロセスにも現れています。組み組織を作る時は、2方向の材が同時に組みあい、それぞれの材の進む方向は同じです。でも私の方法では、並ぶ材の進む方向は交互に反対になっていて、しかも同時ではなく1本ずつ、時間差で組みあいます(図1を参照)。全体から言えば、新聞紙の束に紐を縦横にかけて、中央で締めるという力関係に似ています。素材に紙を使うのは同じ幅の材を取るのが簡単ですし、押しピンで留めることができる、そして後から1本を通すということも可能、ということからでした。

紙と変わらないと思っていたのですが。経木で同じ方法を試してみると、やはり問題が起こりました。後から材を既にできた組んだ材に潜らせると、たちまち裂けてしまい、進めなくなりました。それで、同じ方向に材を進ませて、全体を組みの組織で包む、というように変えました(図2を参照)。それでも問題はもう一つ起こりました。
どんどん巻いていくと外側の材は僅かですが、伸びなければ層の間に隙間があいてしまいます。紙の場合はある程度伸びたのだろうと思いますが、経木の場合は、紙と違い柔軟性が無いため、一周するとどうしても、ゆるみができました。紙の場合はピンで留めることができましたが、経木は、ピンの穴が縦方向にずれて裂けてしまいます。分かっていたはずの事、経木は木なのだ、ということが結果でした。
その後、なんとか一つ作品ができましたが、(写真1右のRevolving six elementsKyougi)隙間があまり開かないように幾度も巻きなおし、時間がかかってしまいました。それと一つ不満も残りました。それは紙の作品で感じていたこと、材が解けそうになる危うい感じが気になってきたのです。そこでもう一回、経木で作ることになりました

今度はどういうことが起こっているのかじっくり観察しながら作ってみました。隙間がどうしても開くのは、それは端の角(写真で三角形の所)と中心側との高さの差だと思いました。層になってくると角の所がどうしても低くなって、それより高い中心側との間が開いてきます。そこで角を丸くしないで三角になるよう、隅を押さえてみたのです。数回押さえると、なんとなく三角形の形にしっかりしてきて、少しですが距離が出て隙間が多少解消されました。そのまま巻いて作ったのが、写真1の左の作品です。同じ方法ですが、右の作品とは違い、層を薄く作っています。作り終えてから、前の作品と並べてみました。作っている時は気づかなかったのですが、前回の作品で三角の所はへこんでいますが、今回のは三角の所が出っ張っています。これは予期しなかったことで驚きました。そして最後はヒノキの経木で組んで、釘をさしこんでみたのです。僅かですが次の作品を展開する方向が見えました。

前回、現代バスケタリーでは、素材をどう使うかということ自体も作る人の考えを表すチャンスだと書きました。これに加えたいのは、一つの素材や技術と自分との関係を深めるという行為を諦めずにずっと続けることでいつか納得する作品につなげる、そういう長い時間が必要だということです。一見展開が難しそうなアイデア、新鮮味のない素材、に対して自分がどうやったら興味を持てるようになるか、そういうことを考えるのは楽しい時間ですが、それを積み重ねるのはちょっと忍耐がいります。新しい素材のおかげで、リヴォルビングもまた続けていけると思います。経木で作ることで、これから何を見ることができるのかが楽しみです。


「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの染色- 上野 八重子

2017-07-10 12:51:50 | 上野八重子
◆指でパープル液を付けて描いたと思われる文様 (豊雲記念館蔵)

◆身を取り出してパープル腺を出したところ

◆パープル腺を刺激して液を取っているところ

2005年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 38号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの染色- 上野 八重子

 ◆貝紫 
 まず、豪快な…と言うか、楽しくて美味しいおまけ付きと言うペルーならではの染色をご紹介しましょう。

 焼け付く陽射しの中、カメラのピントを合わせる間もなくみるみる色が変わり、黄→緑→黒→紫とこの間5分、ワクワクする時間なのです。染材料を煮出す事もなく、媒染剤も使わないこの染めは貝紫染と言い、ペルーでは紀元前12世紀頃より行われていたようです。今まで自分が目にした資料では、この染めは帝王紫と言われる貴重な染めであり、染色時には危険を伴い、また貝を絶滅させると言う事で幻の染めと思っていました。が…体験してみると大きな違いがあったのです。

 一口に「貝紫染め」と言ってもその染色法は国や地域によって異なり、地中海沿岸では小さな巻き貝から1gの色素をとるのに2千個の貝を割ったと言われ、その貴重さから帝王紫と呼ばれていました。浸し染めが行われていましたが今では滅びてしまっています。又、メキシコでは貝の口蓋に息を吹きかけ脅してパープル液を出させ、それを糸にこすりつけた後、貝は海に戻す方法で染めています。男たちは波の荒い岩場に降りて海岸線を何百キロも移動しながら行うので、年に何人かが波にさらわれるという事ですが今では殆どが化学染料に変わってしまい、染めている人は僅かとなっています。日本でも志摩半島の海女がパープル腺液を松葉につけ、描き染めする習慣がありました。

 このパープル腺とはアクキガイ科の貝(ヒメサラレイシ、アワビモドキ、ヘマストマ、ツロツブリ、シリヤツブリ、トランキュルス、イボニシ)にあり、外敵から身を守る時とか餌を取るときに吹きかけて痺れさせる…いわゆる貝の武器なのです。体内では乳白色や黄色で紫外線に当たると紫色に変色する性質を持っています。

 ペルーの貝紫染めには和名:アワビモドキ(学名:Concholepas peruviana LAMARCK)が使われます。日本でおなじみのアワビとよく似ていますがアワビはミミガイ科でパープル腺はありません。ペルーではチャンケと呼ばれ古代より食用として捕られていて、身を取り出した後に手や衣服が紫色になることから染色に結びついていったのではないでしょうか。藍染めをした時に爪がいつまでも青いのと同じように、これも紫色の爪となって楽しい余韻を残してくれます。現在では、もっぱら食用として捕られていますがパープル液は貝自身を染めてしまい、売り物にならずに「やっかい者扱い」されているとの事で染色には殆ど使われていません。

「あ~っ、ここでも貝紫は幻かっ!」と思われるかもしれませんが、貝さえ手に入れれば手軽に出来ますのでペルーに行った時には染めてみてはいかがでしょうか。

 では簡単に染め方を書いてみましょう。まず、魚市場から生きてるチャンケを買ってきます。身の回りにナイフを入れひっくり返し、パープル腺を刺激してパープル液を出させます(蛍光色の黄色)元気な貝なら1個からTシャツに思い切り描ける量が採れます。筆を用意し、図柄を自由に描いてみましょう。原液のままでは濃い紫色、水で薄めるとピンク色になりますが、部屋の中では黄色のままです。しかし、野外に出し陽に当てると見る間に変色していきます。そのままガンガンと陽に当てた後、濯いでカスを落とすときれいな紫色が現れてきます。

 さて、パープル液を絞り出した後の貝は…もちろん刺身で美味しく頂けるのです。ここでは染色の為に貝を殺すのではなく、むしろ食用が主でオマケに染めが出来る…と言う事で何となくホッとします。

 ところで書き出しにある「体験してみてわかった大きな違い」とは、まず染色法が地中海沿岸は浸し染め(色素を溶解するのに古い尿、蜂蜜、食塩水を使っていたらしい)メキシコはこすり染めと言う事で製織前の糸を持ち歩いて染めていたのに対し、博物館にあるアンデス染織品はあきらかに布にしてからの染めであり、それも貫頭衣という大きな布に大胆な模様が描かれているのを見ると2千個の貝で1gとか、布を担いで海岸線を渡り歩
く…とかではなく、もっと簡単に染めていたのでは?と疑問に思っていました。 が…確証はなく「やはり、布を担いで…なのかなぁ?」と考えが揺らいでいた時、ペルーで染色体験ができ疑問が解けたのです。

 ペルーの海岸地域はフンボルト寒流があり、寒流には燐酸塩を含んだ湧昇深海流が合流し、強い太陽光線と合わせてプランクトンを産し、それに魚が群れ…と村落には豊かな海の幸をもたらしています。貝紫貝チャンケもそんな海の幸の一つなのです。きっと古代の染織家たちは作品完成を急ぐことなく「今夜は久しぶりにチャンケの刺身だから、食べる前に染めようか!」なんて言いながら模様を描いていたのではないでしょうか。

 目まぐるしく動いている今の世の中、そんな中で古代のペースを考えるのは難しい事かもしれませんが、時にはこうして原点を見つめるのも必要だと思うこの頃です。以前、日本の染色ツアー者が貝紫染めをする為に多量の貝を犠牲にしたと言う話を聞きましたが、自分の欲求を満たす為に異国文化のペースを脅かすのは如何なものか…と胸が痛みました。

 さて、ここでアンデスの貝紫染めのまとめをしてみましょう。

 ペルー海岸地域は高温多湿状態になっても雨にはならず、万年降雨量0と言うほどで延々と砂漠が続き、アンデス山脈から端を発した河川が広がる地域のみが町を形成しています。地上絵で有名なナスカ、主都のリマ、古代染織品の宝庫イカ、チャンカイ等がその一つです。ペルー綿はそれらの村落で栽培され、貝紫染めには綿織物が使われていますが「綿もある、貝もある…」という中から染めるという行為が必然的に始まったのではないでしょうか。アンデスに限らず流通経路のなかった古代文化では身近にあるものから発展してしていったように思われます。そして衣服は貫頭衣(ポンチョ)、これは日本でいうと着物に当たるものでいわゆる民族衣装です。2枚の布の真ん中を空けて縫い合わせる簡単なものですが脱着が楽にでき、1日の中で寒暖の差があるアンデスではとても重宝な衣服なのです。ある時、白地のポンチョを着ていた古代人が、フッとお洒落心が働いてチャンケ貝の液で模様をつける事を思いついたのではないでしょうか…なんて、これは私の勝手な想像なのですが。 その模様は指で液を付けただけと思われる大雑把なものから、彼らが得意とする図案化された模様まであります。布に描いていたという点では地球の反対側、志摩半島の海女も同じ事をやっていたというわけです。

 貝紫染めは天然染料…一般的にいう草木染めに分類されますが、限られた貝でしか染められませんので、やはり「幻の染め」と言えるでしょうか。 アンデスの染色については他にも特殊な染料や生産地で見た事など、お話ししたい事が多くありますので次回も続けたいと思います。(つづく)

『インドネシアの絣(イカット)』-今も息づくイカット-(前編) 富田和子

2017-07-08 11:48:10 | 富田和子
◆フローレス島
 イカットを着て、椰子の葉で編んだ篭を頭から下げた女性達の出で立ちも、手にはポリ袋、後ろの若者はTシャツにジーンズ…全てがあたりまえの風景である

◆フローレス島
筒状のイカットをたすき掛けにして、赤ちゃんを抱きかかえるのに便利な服装である

◆フローレス島
若い女性の着こなしはTシャツの上にイカット

◆サブ島
オシャレをして、港にやって来たご婦人達。長い筒状のイカットをウェスト部分で折り返し、ブラウスと組み合わせてスカートのように。

◆スマトラ島:バタック族の婚礼
楽団の音楽に合わせて踊りながら、参列者は次々と新郎新婦をウロスで包んでいく。この時の結婚式は盛大で、200枚ものウロスが贈られたそうだ。

◆スマトラ島北部:トバ・バタック族の葬儀
 頭部と下半身にウロスが掛けられている。屍衣には最高位のウロスが用いられる。参列者は結婚式と同様、ウロスを肩から掛けている。すでに高齢で子供達や孫に囲まれて旅立つ彼女の葬儀に悲壮感はなかった。


2005年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 38号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-今も息づくイカット-(前編) 富田和子

 ◆日々の暮らしの中で
 イカットの用途は何かとよく聞かれることがある。最も多いのは衣服としてであり、 日常着としては姿を消した地域でも、冠婚葬祭などの儀式の時には、正装や装飾のためにイカットは欠かせないものである。婚礼の贈与品や結納品として、葬儀の屍衣や副葬品として、また祭壇を飾る布として等々、その用途は広く、各民族のアイデンティティーを示す重要な役割がある。
 インドネシア随一の観光の島、バリ島には年間30~40万人の日本人観光客が訪れるが、バリ島から東へ足を延ばす観光客は極めてまれである。せいぜい隣のロンボク島までか、世界最大の大トカゲであるコモド・ドラゴンを見に行くコモド島へのツアーに参加するのが一般的なコースのようだ。更に東の島々を訪れるのは、ダイビングの達人かイカットの魅力にとりつかれた「物好き」な人達であったりするが、バリ島やジャワ島とはまた異なったインドネシアに出会える。
 バリ島の東に位置するヌサ・トゥンガラ諸島の島々では、現在でもイカットが盛んに製作され、日常着としても活用されている。コモド島の隣、フローレス島の玄関口であるマウメレへはバリ島から飛行機で約2時間余り。 空港より町へと向かう車窓から、庭先でイカットを織っている風景を目にすることもある。市場に出掛けてみれば、イカット姿の女性達の多さに目を奪われる。女性用の衣服の場合、イカットの布を筒状に縫い合わせて用いる。腰に巻いたり、肩から掛けたり、寒い時や雨が降った時には、頭からすっぽり被ったりと自由に着こなしている。片方の肩からたすき掛けにして、懐に荷物をしまい込んだり、赤ちゃんを抱きかかえるのにも便利そうな服装である。また、冷え込む夜には毛布にも寝袋にもなる。最近ではレーヨン製のイカットも盛んに織られている。布の風格としては天然繊維、天然染料に及ばないのだが、彼女たちにしてみれば、木綿よりもレーヨンの方が、軽く、柔らかく、涼しく、洗濯の乾きも早いので人気があるようだ。それは日常着としてのイカットが今なお息づくための宿命かもしれない。

◆祝いの席で
フローレス島の南に位置するスンバ島のイカットは人物や動物などの具象的模様が独特で、イカットの産地として良く知られている。このスンバ島における婚礼には贈与品が欠かせない。家畜の世話をする男性は水牛や馬を花嫁側へ、布を作り豚の世話をする女性からは、それらを花婿側に贈るのだが、それはむしろ、婚姻を成立させるための支払い義務であり、一定の価値基準に基づいて両家の交渉が慎重に行われるという。贈与品は両家の地位と名誉を顕示する意味を担っているので、イカットもまた当然重要な財産となる。
インドネシアの西端に位置するスマトラ島は面積世界第5位の大きな島であり、多数の民族が居住している。そのうちの一つ、北スマトラのトバ湖周辺に居住するバタック族は伝統的な慣習を踏襲している民族でありる。バタック族もまた特有の伝統的な布を所有し、それは「ウロス」と総称されている。 ウロスには儀礼用の聖なる布と日常用の俗なる布、また、儀礼用の中でも「魂のウロス」「死のウロス」といった名称がある。さらに模様や技法、構成や大きさなどにより約50種類の名称があり、個々に固有の役割や意味やランクが決められていたというが、現在ではそれ程厳密な用いられ方はされていない。また、かつては衣服としても身に着けていたが、今ではすっかり洋装となったバタック人の日常生活で、洋装に仕立てたもの以外、布のままのウロスを衣服として用いることもない。しかし、冠婚葬祭など様々な儀式において、ウロスは重要な役割を持っている。儀式に参列する場合は、必ずウロスを肩から掛ける。女性の場合はショールのように掛ける時もある。たとえ服装が平服であっても、その上からウロスさえ身に着ければ正装として認められる利点もある。婚礼の儀式では、それぞれの両親、叔父、叔母、兄弟など多くの親戚や式の参列者からウロスが贈られ、新郎新婦をウロスで包む。また、両家の間でもウロスが交換される。人々は2人をウロスで包みながら門出を祝い、両家の幸福と繁栄を願うのである。

◆死者と共に
 スンバ島東部、イカットの村として有名なレンデを訪れた時のことである。実は死んだ人がいるのだと、茅葺きとんがり屋根の大きな家に導かれた。その人は亡くなってすでに2年経っており、6日後に葬儀が行われるという。入り口から恐る恐る中を覗いていると、家の中へ入るよう勧めてくれた。その人は26歳の若さで、病気で亡くなったという。 若くして未亡人となってしまった奥さんが隣に座っている。しかも娘が一人いたが、その子もすでに亡くなってしまつたとのことだった。
 遺体は、普段は屋根裏に安置され、重要な儀式が行われる日だけ下に降ろされるのだそうだ。遺体はまるで胡座をかいているように見えるが、足を前に出し膝を立てて座らせ、手は頬づえをついた格好にして紐で縛り、イカットなどの布を掛けてあるという。布の枚数を聞くと60枚ということであった。遺体には特別な処理を施すそうで、家の中は異臭があるわけでもなく、嫌な気配を感じるわけでもなく、毎日、コーヒーや煙草が供えられ、家族と共に静かな日々を過ごしているかのようだった。そして、何十枚ものイカットに包まれて埋葬され、死者はイカットと共に来世へと旅立っていくのである。[続く]

『微熱色の庭』 榛葉莟子

2017-07-06 10:13:59 | 榛葉莟子
2005年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 38号に掲載した記事を改めて下記します。

『微熱色の庭』 榛葉莟子

 ある日の午後、台所に水を飲みにいく。水道の蛇口をひねりあふれさせながら注いだコップ一杯の水をごくごく飲む。飲みながら窓の外を見る。硝子窓の向こうの夏の午後の陽ざしが白々しくもよそよそしく、なにか変だった。あたりがシーンと静まり返っている。あんまりシーンとし過ぎているので耳をひっぱった。耳がふさがれでもしたかのように音がないのだ。夏休みもまだ半ばだというのに遠く近くを走る車の音もなく、坂道を行き交う車も人影も猫一匹いない。ぴたり風が止んでいるのか草も梢の葉っぱの先もさりげなくすらも揺れていない。何もかもが静止し音が消えたのだ。みんなどこに行ってしまったのだろう。睡ったように動かない。飲みほしたコップの中に吸い込まれていくような定まらない空っぽの感覚が走った。その感覚はいつかどこかで経験したことがある恐いような懐かしさがあった。

 夏の午後の陽ざしの昼とも夕ともつかない、かったるいような宙ぶらりんのたとえば四時前後、海辺で経験する凪ぎがある。突然、風がぴたっと止んで波の音が遠のきシーンとした音の無い時は出現する。まとわりついてくるような塩っけを含んだ湿気た重い空気の中、昼寝から覚めてぼんやりぽつんとひとり座敷にいる微熱があるような汗びっしょりの子供の頃の映像が浮かぶ。海辺で経験したシーンと音の無い中にぼんやり座っている空っぽの不安だけが膨らんでいった記憶がある。夏の午後の宙ぶらりんの時刻には凪ぎの魔法にかかって遠くへ連れていかれるような不安を伴った感覚を経験する。

 空は一面厚い雲に覆われていた。いつもなら燃えるように赤い見事な夕焼けを見せながら沈む陽は隠れている。一滴の赤みも雲を染めてはいなかった。どんよりとした夕暮れ時の庭先でのことだった。すぐそこの茂みが動いたような気がしてふと眼が向いた。咲いている赤やオレンジや桃色や黄色の花々に、ぽっと電気が灯ったかのように花の色が明るく鮮やかに見えた。それからすーっとあたりが赤みを帯びてきた。厚い雲に覆われた空に変わりはなく雲が切れた様子もなかった。なるほどこの厚い雲の向こう側は晴れていて、日没の夕焼けの輝きは厚い雲の層を透かし、底を潜り抜けているからか、いつもの燃えるような夕焼けに染まる輝く庭先の赤みとはちがっている。墨の一滴を滲ませたかのような、少しぽおっとした何だか熱っぽいように反射する庭の陰翳は魔法がかった微熱色の気配に充ちている。

 微熱の庭にいつまでもたたずんでいたからかというわけでもないが、微熱から高熱になり珍しく夏風邪をひいた。その後、腰痛を発症、近くの整体士の治療で早々に回復したけれど三十数年前の激痛の再来にあわてた。もっと言えばショックだった。心身をつなぐ調節のネジの油差しをさぼっているぞと固くなっていた身体からの信号なのだ。それにしても痛いという事態は丸ごと全体の自分に影響がいく。痛いというそのことのみに神経は集中するから余裕はなくなる。歯の痛みなどはその最たるもので夜のながさの苦痛が加わるのだから痛みは倍加する。昔経験したことだが、歩行困難なほどの腰痛がいっとき消えた経験がある。何としても行かなければならない急死した兄のお葬式の丸一日、痛みは消えて動き回っていた。心配してくれる声にはっと気がついた。まったく痛みを忘れていたのだった。ちがう神経に気が集中していたということなのか、自分の身体の内側で兄のお葬式の一日を痛みから解放してくれた魔法がはたらいていたような不思議な経験であった。マラソンの選手がある距離までの苦しさの限界を超えると楽になってくるという話を聞いたことがある。よく我慢しましたよねとランナーへの応援の声もよく耳にする。身体のなかでアドレナリンという物質がはたらき苦痛を和らげる防衛制御になるということらしいのだ。必死の限界点をじっと身体の中で見張りながら見守り判断操作するものの眼はとても毛深い原始の眼と感じてしまう。

 なにか面白そうな展覧会や芝居や・・と情報を手に入れても遠方故に見送り、見逃す悔しさは四六時中あるが、逆にその環境を肯定的に受け入れ情報を遮断することで孤独の力に集中できるということは言える。けれどもやっぱり見たいものは見たい。そんな折、県立美術館でのジャン・コクトー展に行った。文庫本の詩集を持っているくらいの詩を通しての知り合い程度ではあったけれど、あらゆる創造に詩が宿ると考えていたコクトーの映画作品を初めて三本観ることができたのは幸運だったかもしれない。たとえば「オルフェ」の画面で鏡の向こう側へ入っていくシーンなど、現代のCGでは簡単に表現はできても、その時代コクトーは、水面に潜るのを上から撮影することでうまくいきましたと映像ならではの表現の実現を語るそのシーンは、嘘がほんとうに見える詩的に美しく不思議なシーンで今も眼に焼き付いている。きれいすぎるCGでのシーンならどうだろう。リアルすぎて奥行きが見えず、どうしても詩的な不思議が心に広がりにくいように想像する。