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あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

生命に物語性なんてない

2023-01-13 | from:sachiaki
さっきTwitterをボケーっと見ていたら
富野由悠季監督と、虚淵玄監督の「死」の扱い方が
本人の思想によって違うっていうのを見て
虚淵さんは人が死ぬってことはとても大きなことだから
死ぬことに対しての意味をしっかりと描こうとするために
それが「物語」となるけれど、
富野さんの場合「死ぬ」ことに意味もなんてないと
いうスタンスなのでバンバン死んでいくんですよね。
私はどちらかと言えば富野さん派なので
人の死を美化するものが嫌いなsachiakiです。

私の旦那氏ことパンダさんがチェーンソーマンを見ながら
クライムムービーって命が軽いから苦手って話をしてて
私はクライムムービーくらいの命の軽さが
たぶん合ってると思っているって返したら
え〜って嫌な顔をされたのを思い出します。

別に命が軽いから命を弄んで良いとは言ってないんだけどな。
命が軽ければ死んで良いってのは
命に意味がないなら死んでも良いっていう風に言い換えられるので
自分が社会にとって役に立ってないとか
自分が人にとって迷惑なだけだとか
そういう風に思い込んでしまった時に
すごく死に近づいちゃうと思うんですよね。
いわゆる「相模原障害者施設殺傷事件」の
犯人の考え方ともリンクしちゃう話だとも思います。

命に意味がある=意味があるとはどういうことか。

その意味によって考え方は色々なんだろうけれど、
基本的に「意味」というのは「目的」を指すことが多くて
目的がなかったらそれは切り捨てていいなんてのは
機械的なんじゃないかなって思うんです。

だいいちその「命が重い」として
人一人ひとりに大きな意味付けをしているなら
どうして事故で死んだり、戦争で死んだり、
ある日突然起きてこなくなったりするのか、
それらに意味なんてあるのか、
そういったことになってしまうと思うんですよね。
意味なんてのは後付で付いてくるものなんじゃないかな。

あまりに酷い死に方をした。
悲しい死に方をした。
それが哀れだから意味を付けた。
そういうのは生き残った側のものでしかなくて
結局は死んだ人にとって意味があったのかどうかなんてのは
どうでもいいことでもあると思うんです。

ただ、どうしても自分が死ぬしかないような状況があったとき
そんなものはないと言いたいけれど
時代を遡れば人柱とかあったからね、
そういった時に自分を救うために意味付けをするのは
ありなんじゃないかなって思います。

ともかく何かの悲劇を物語として消費するってのは
とてつもなく傲慢な態度だと思うよって話です。

だからといって
ポンポン人が死ぬ映画がすべて良いってことでもないけどね。
私は命が重いっていうなら、
人はいっぱい死なないはずだっていうスタンスで
人は盤面上の駒とは違うんだから
戦略的に動かされて死地へと旅立たされるのは
あまり良いことじゃないって思ってるってだけです。
誰かが死ぬっていうことがとても怖いから
だから綺麗な物語にしないと受け入れられないってのは
なんか違うって思うだけ。

あー、そういやハリネズミが死んだ時も
パンダ氏は死ぬのがあまりに悲しいので
もう二度と体験したくないし、
死体を見るってのもあんまりしなかったかも。
私はずっと一緒に衰弱していくハリネズミと一緒にいて
死んだあともずっと抱っこしてて
もう二度と動かないことの悲しみを
自分の中に落とし込んでいたんですよね。
こういったことを踏まえてみても
「死」ってものへのスタンスや心の柔らかさとかも
人によってかなり違うんだろうなぁ。

とにもかくにも。
過度に美化しなくても良いんじゃないかってことです。
物語なんてなくても、万物はそこにあって
生きて朽ちていくってだけだってこと。
それを恐れる必要はないってこと。
そういった話をぼんやりと考えていました。
うまくまとまってない気がするけれど
今日はこの辺にて。モイモイ!
コメント
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