ここのところ舞い込むお悩み相談のDMを見ていると
どうにもこうにも関係性というものの境界線を
どちらかが踏み越えてしまっているものが多く
そういやみんな大好きアドラーも
人の問題と自分の問題を切り分けるってのがあったなぁ
なんて思ってたsachiakiです。
人は困っている人を見たら
それを助けたくなるものだし、
逆に助けてくれない人に対して恨みを持ったりするものですが
「あなたと私は別の人間です」ってことをわきまえていれば
助けを与える・求めるべき順序ってのがあって
それはまず自分の一番近しい人だし、
その一番近しい人でさえも他人であるからには
一蓮托生で死んでくれ!とは言いづらいものがあります。
共倒れになっては元もこともないですからね。
だから一番身近な人が二人(ないしは家族間)での
関係性を鑑みた時に
自分を救うためにもケアした方が良いってことで
結局は自分自身のためってところがあるし、
自分自身を救うように動くのなら
「私ばかり損をしている」みたいな嘆きにも繋がりにくいのかと。
うちうちで処理できる問題は気持ちで解決できる問題だから
よそにまで口出しをさせるとややこしくなるし複雑化してしまう。
でも気持ちで解決できるような内容でない時
例えば犯罪である可能性がある(暴力や金銭トラブル)に
発展してしまっている場合は
今度は第三者の力が入らないとどんどん悪い方向へ進んでしまう。
今起こっている「困りごと」がどういう類の困りごとなのか
それは解決するプロセスが気持ちで片付くものなのか
形式的なものが必要なのか、
そういった整頓が必要なんだと思います。
まぁ境界線を踏み越えがちな人だと
この整頓がまず苦手だったりするので
ここら辺が難しいなって思うんですけどね……。
問題ごとが起こっている場合、
まずは物事を俯瞰するってことが大事で
方法はとても簡単で、まずはざっくりと
ノートに起こっている困っていること
ってのを書き出してみるんですわね。
で、書き出したものに対して
そこに棒線でも引いて解決したらどうなっているのか
っていう予想(ゴール)を書き出すんですね。
そしたら今度は解決後の状況を見て
それにはどんなプロセスが必要だろう?
って考えてみるんです。
困っていることだけに捕らわれている時には見えなかったことが
不思議とスルスルと出てきたりします。
それを実行できるかどうかはまた別の話なんですけれど、
問題を俯瞰して見てみた時に
ヘルプを求めるのが妥当な人や
もしくは自分が手を出し過ぎてないか?など
そういったものがちょっと見えてくると思います。
あと物事を考える時に
「あなたのためを思って」という考え方はしないことですわね。
あなたのためを思っているようで
それは自分にとって状況が改善して欲しいからこその言葉なので
「私は〜して欲しい」と言い換えるだけで
自分がどんだけ傲慢なのかという自覚も出てくるし
相手の気持ちにも寄り添える言葉が出てくるようになります。
気持ちを押し付けることは良くないというのが
近年のメインストリームですが
人間はどこか感情で繋がっている動物なので
少なくとも誰がどういう気持ちで動いているのか
そういうことが分かるようになると
もっと息がしやすい社会になるんじゃないかな〜と思います。
とりあえず今回もまた厄介な相談だったので
大変なことに巻き込まれてますなぁ……と同情しつつ
そんなに気に病むことではないよって返しております。
そろそろ私、なんか相談料みたいなのもらってもいいんじゃないの?
なんて時々思ってしまうけれど
そういう仕事でもないからいっかってことで。
私は私のやるべきことをやっていきますよ。
そんじゃまた。モイモイ。