以前,洪思翊について書いたとき,洪思翊がまさに韓国人とアイルランド人を比較していたことをご紹介しました。
再録すれば,
洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された。それは氏の少年時代,洪中将が大尉だったころのことである。当時の日本における韓国人への差別・蔑視はいわば「あたりまえの状態」であり,帝国陸軍の大尉に向って直接こういう態度をとる者はいないとはいえ,家族は例外ではない。従って少年の国善氏にとって「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか,これはどうにかならないものか」
と父に訴えた。当時の洪大尉はこれに答えて次のように言ったという。
「これは大変に困った問題,むずかしい問題,また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが,アイルランド人とイギリス人の間に,非常によく似た問題がある。それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで,どのような扱いをうけても,決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして,どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とはっきり言い,決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」(→リンク)
と。
実は,戦前,日本ではずいぶんアイルランド問題が論じられたらしい。
特徴的なのは,当初,日本を「小国」アイルランドになぞらえていたのに,大正時代にはむしろ日本を「大国」イギリスのほうになぞらえて論ずる姿勢に変わること。
そして,まさに植民地朝鮮の統治方式を,イギリスのアイルランド統治から学ぼうとする視点の研究と,その逆に,アイルランド問題を論じて日本の植民地主義を批判するものとが出てきました。それぞれの立場の論文が,1919年から1920年代に出て,盛んに論じられたようです。
いくつか挙げれば,吉村源太郎『愛蘭問題』(1919),下田将美『愛蘭革命史』(1923),矢内原忠雄「アイルランド問題の発展」(1927論文)。アイルランド独立運動については高橋貞樹『愛蘭の民族解放運動』(1924-25論文)。沢村康/石黒忠篤『アイルランドの土地政策』(1926)。
洪思翊は,これらの書籍・論文を読みあさったのだと思われます。
再録すれば,
洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された。それは氏の少年時代,洪中将が大尉だったころのことである。当時の日本における韓国人への差別・蔑視はいわば「あたりまえの状態」であり,帝国陸軍の大尉に向って直接こういう態度をとる者はいないとはいえ,家族は例外ではない。従って少年の国善氏にとって「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか,これはどうにかならないものか」
と父に訴えた。当時の洪大尉はこれに答えて次のように言ったという。
「これは大変に困った問題,むずかしい問題,また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが,アイルランド人とイギリス人の間に,非常によく似た問題がある。それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで,どのような扱いをうけても,決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして,どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とはっきり言い,決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」(→リンク)
と。
実は,戦前,日本ではずいぶんアイルランド問題が論じられたらしい。
特徴的なのは,当初,日本を「小国」アイルランドになぞらえていたのに,大正時代にはむしろ日本を「大国」イギリスのほうになぞらえて論ずる姿勢に変わること。
そして,まさに植民地朝鮮の統治方式を,イギリスのアイルランド統治から学ぼうとする視点の研究と,その逆に,アイルランド問題を論じて日本の植民地主義を批判するものとが出てきました。それぞれの立場の論文が,1919年から1920年代に出て,盛んに論じられたようです。
いくつか挙げれば,吉村源太郎『愛蘭問題』(1919),下田将美『愛蘭革命史』(1923),矢内原忠雄「アイルランド問題の発展」(1927論文)。アイルランド独立運動については高橋貞樹『愛蘭の民族解放運動』(1924-25論文)。沢村康/石黒忠篤『アイルランドの土地政策』(1926)。
洪思翊は,これらの書籍・論文を読みあさったのだと思われます。
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