写真:京城帝国大学(現ソウル大学)
朝ドラ、「らんまん」の舞台は、東京大学理学部植物学教室。
最初、「東京大学」と聞いて、東京大学は戦後の新制大学の名前で、戦前は東京帝国大学だったはず。さらにいえばその前はたんに「帝国大学」で、京都に二つ目の帝国大学ができたときに「東京帝国大学」になったので、槙野万太郎(牧野富太郎)が通っていたころは「帝国大学」だった。でも、番組の中では、わかりやすさを優先して、史実とは違う「東京大学」を使っているのだろうと思っていました。
ところが、『日本語を作った男-上田万年とその時代』(山口謡司著、集英社、2016年)という本を読んでいて、
明治十(1877)年、東京大学設立
明治十九(1886)年、東京大学を帝国大学に名称変更
明治三十(1897)年、京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と名称変更
という記述にぶつかり、あらためて調べてみると、確かに「帝国大学」の前身は、「東京大学」であり、ドラマの中の名称が正しかったということを知りました。
なお、戦前にあった帝国大学は全部で9つ。
「帝国大学」としての設立年は、
東京帝国大学1886年
京都帝国大学1897年
東北帝国大学1907年
九州帝国大学1911年
北海道帝国大学1918年
京城帝国大学1924年
台北帝国大学1928年
大阪帝国大学1931年
名古屋帝国大学1939年
植民地に作られた京城帝国大学と台北帝国大学は、大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも早かったわけです。
韓国では、「日帝強占期」(日本の植民地支配の時期)の教育をさして、「愚民化政策」と呼んでいます。
実態はどうかというと、日韓併合当時、書堂と呼ばれる教育機関(日本の寺子屋にあたる)が16,000か所あり、そこで約14万人の子ども(男子のみ)が学んでいたそうです。
韓国併合後、日本は朝鮮全土に小学校を設立し、併合から32年後の1942年には全児童の56%が小学校に就学しており、小学校の義務教育化は1946年に実施するはずだったが、日本の敗戦のため、実現しませんでした。
就学率だけでなく、朝鮮時代は教育機関から排除されていた女子が、日本の統治下で初めて教育機会を得たことも大きい。
問題は、そこにおける教育が、原則として「日本語で行われていた」ことで、子どもたちは当時の「国語」である日本語には堪能になっても、ハングルは限られた時間しか教えられないため、「ハングル文盲率」が高かったそうです。
35年間の統治の間、日本語の法律、行政文書、教科書、文学は、朝鮮語に翻訳され、その過程で日本で作られた和製漢語がそのまま朝鮮語読みで採り入れられたため、朝鮮語は教育に必要な近代的語彙を備えることになりました。
それが、解放後、教育を朝鮮語で行うことを可能にしたわけです。
京城帝国大学
近代韓国語の成立
植民地に作られた京城帝国大学と台北帝国大学は、大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも早かったわけです。
韓国では、「日帝強占期」(日本の植民地支配の時期)の教育をさして、「愚民化政策」と呼んでいます。
実態はどうかというと、日韓併合当時、書堂と呼ばれる教育機関(日本の寺子屋にあたる)が16,000か所あり、そこで約14万人の子ども(男子のみ)が学んでいたそうです。
韓国併合後、日本は朝鮮全土に小学校を設立し、併合から32年後の1942年には全児童の56%が小学校に就学しており、小学校の義務教育化は1946年に実施するはずだったが、日本の敗戦のため、実現しませんでした。
就学率だけでなく、朝鮮時代は教育機関から排除されていた女子が、日本の統治下で初めて教育機会を得たことも大きい。
問題は、そこにおける教育が、原則として「日本語で行われていた」ことで、子どもたちは当時の「国語」である日本語には堪能になっても、ハングルは限られた時間しか教えられないため、「ハングル文盲率」が高かったそうです。
35年間の統治の間、日本語の法律、行政文書、教科書、文学は、朝鮮語に翻訳され、その過程で日本で作られた和製漢語がそのまま朝鮮語読みで採り入れられたため、朝鮮語は教育に必要な近代的語彙を備えることになりました。
それが、解放後、教育を朝鮮語で行うことを可能にしたわけです。
京城帝国大学
近代韓国語の成立
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