再び言葉の乱れについて。
「古代バビロニアの碑文に「最近の若者の言葉が乱れている」という文句があった」
ということを,どこかで読んだ記憶があって,探してみましたが見つかりませんでした。
「若者の言葉が乱れている」というのは,古代からの真理のようです。私も,子どもたちの言葉使いが乱れていると感じますが,たぶん私の親の世代は,私の言葉が乱れていると感じているのでしょう(「犬にごはんをあげる」とか)。
常連のコメンテイターの方から,「よろしかったでしょうか」という表現が気になる,というご意見がありました。私もときどき日本に一時帰国するとき,コンビニなどでこの表現を聞くと耳に障ります。この十年の間に定着した新表現のようです。
じゃあ,「よろしいでしょうか」とか,「よろしいんじゃないですか」はよろしいんでしょうか。
もう20年以上も前に,「よろしいんじゃないですか」という表現の嫌らしさを分析した作家がいます。筒井康隆さんです。以下は,『言語姦覚』(1983年,中央公論社)からの引用。
「よろしいんじゃないですか
幾分かの反感、時には悪意すら抱いている事物、人物の行為、出来事に対して質問され、それに賛成せざるをえない場合にこのことばが、いくらかの冷淡さとともに発せられることが多い。(中略)
それは誰でもがよろしいというんじゃないですか。あなただってよろしいというんじゃないですか。え。わたしですか。わたしの意見など、まあ、どうでもよろしいんじゃないですか。わたしの意見がどうであれ、たいていの人がよろしいというのであればそれでよろしいんじゃないですか。あなたにもそれはわかっているんじゃないですか。わかっていながらわざとわたしに訊いているわけでしょうけど、わたしが「よろしくない」なんてことは言う筈がないことだってわかっているんじゃないですか。それがわかっていながらわたしに質問するのはもしかしたらわたしをいやな気分にさせることができるかもしれないというひそやかな楽しみがあるからじゃないですか。さらにまた万が一わたしがいやな顔をしたり怒ったりすれば儲けもので、そのことを人に言いふらせるという楽しみが増えるからでもあるのじゃないですか。もちろんわたしが本心からよろしいと思っているのではないこともあなたにはわかっているんじゃないですか。だからわたしはよろしいとは言ってないじゃないですか。よろしいんじゃ「ないですか」と言ってるんじゃないですか。まあ、それをどう受け取ろうとあなたの勝手なんじゃないですか。そしてまたあなたがどう受け取ろうがわたしにとってもそんなことはどうでもよろしいんじゃないですか」
ビートたけしは「みたいな」と「って感じ」に噛みついた。
この間、寿司屋のオヤジが怒ってた。
「マグロみたいな」なんて、注文する。
「マグロみたいなってなんだ」
「だからマグロで、トロって感じの」なんてぬかす。
「寿司屋に来て、トロとかいう感じのものなんてあるか、これはトロなんだよ」
(『たけしの20世紀日本史』新潮社,1996年)
えっ?
なんか韓国と関係ないみたいなって感じ?
まあ,たまにはよろしいんじゃないですか。
「古代バビロニアの碑文に「最近の若者の言葉が乱れている」という文句があった」
ということを,どこかで読んだ記憶があって,探してみましたが見つかりませんでした。
「若者の言葉が乱れている」というのは,古代からの真理のようです。私も,子どもたちの言葉使いが乱れていると感じますが,たぶん私の親の世代は,私の言葉が乱れていると感じているのでしょう(「犬にごはんをあげる」とか)。
常連のコメンテイターの方から,「よろしかったでしょうか」という表現が気になる,というご意見がありました。私もときどき日本に一時帰国するとき,コンビニなどでこの表現を聞くと耳に障ります。この十年の間に定着した新表現のようです。
じゃあ,「よろしいでしょうか」とか,「よろしいんじゃないですか」はよろしいんでしょうか。
もう20年以上も前に,「よろしいんじゃないですか」という表現の嫌らしさを分析した作家がいます。筒井康隆さんです。以下は,『言語姦覚』(1983年,中央公論社)からの引用。
「よろしいんじゃないですか
幾分かの反感、時には悪意すら抱いている事物、人物の行為、出来事に対して質問され、それに賛成せざるをえない場合にこのことばが、いくらかの冷淡さとともに発せられることが多い。(中略)
それは誰でもがよろしいというんじゃないですか。あなただってよろしいというんじゃないですか。え。わたしですか。わたしの意見など、まあ、どうでもよろしいんじゃないですか。わたしの意見がどうであれ、たいていの人がよろしいというのであればそれでよろしいんじゃないですか。あなたにもそれはわかっているんじゃないですか。わかっていながらわざとわたしに訊いているわけでしょうけど、わたしが「よろしくない」なんてことは言う筈がないことだってわかっているんじゃないですか。それがわかっていながらわたしに質問するのはもしかしたらわたしをいやな気分にさせることができるかもしれないというひそやかな楽しみがあるからじゃないですか。さらにまた万が一わたしがいやな顔をしたり怒ったりすれば儲けもので、そのことを人に言いふらせるという楽しみが増えるからでもあるのじゃないですか。もちろんわたしが本心からよろしいと思っているのではないこともあなたにはわかっているんじゃないですか。だからわたしはよろしいとは言ってないじゃないですか。よろしいんじゃ「ないですか」と言ってるんじゃないですか。まあ、それをどう受け取ろうとあなたの勝手なんじゃないですか。そしてまたあなたがどう受け取ろうがわたしにとってもそんなことはどうでもよろしいんじゃないですか」
ビートたけしは「みたいな」と「って感じ」に噛みついた。
この間、寿司屋のオヤジが怒ってた。
「マグロみたいな」なんて、注文する。
「マグロみたいなってなんだ」
「だからマグロで、トロって感じの」なんてぬかす。
「寿司屋に来て、トロとかいう感じのものなんてあるか、これはトロなんだよ」
(『たけしの20世紀日本史』新潮社,1996年)
えっ?
なんか韓国と関係ないみたいなって感じ?
まあ,たまにはよろしいんじゃないですか。
速度ルルチュリセヨ(速度を落としてください)を無視し続けるタクシーアジョシは恐い。
でもまあ、コンビニで買うたびに世間話するのも、鬱陶しいかもしれないけど。
言葉は生きているから変化するのは一向に構いませんし、その点では、若者言葉にはあまり嫌な感じはしません。「られる」が「れる」であったとしても、その人自身その使い方がもっともふさわしいと選んで使っている言葉であれば、聴いていても納得できるのです。
言葉の本質そのものでなく、ウエイトレスになればかわいい女の子も、いい年のおばさんも、みんな画一的に違和感も感じず横並びに使っていることに対する不快感でもあったわけで・・・。
ま、その時には内心筒井氏の思うことを私も腹の中で同じように思ってたりするんですけどね(笑)