抗日への決意
戦争長期化にともない、ビルマ経済は疲弊し、人々の生活も悪化した。主要産業の米は、英植民地時代にはインド、アフリカへの輸出が盛んだったが、日本の占領により輸出先を失い、農家は大打撃を受けた。日本軍による牛馬の徴発、村民の労働者としての徴用も人々を苦しめた。特に泰緬鉄道には多数の労働者が動員され、万単位の犠牲者を出した。また、日本兵士の振る舞い(ビルマ人への平手打ち、全裸での水浴びなど)は、人々の憎しみと軽蔑の対象となったという。
ビルマ国軍の中には、抗日蜂起を叫ぶ者もいたが、アウンサンは30倍の兵力の日本軍と戦うことはできないと判断し、機が熟するのを待った。
1944年、日本軍はインド東北部のインパールに大軍を進めた。この、補給を無視した無謀な作戦は、航空兵力を充実させていた英軍の強力な反撃に遭い、数万人の戦死者・病死者・餓死者を出して大敗を喫し、7月に中止命令が出された。
インパール作戦失敗の一か月後、アウンサンは、ひそかに抗日闘争のための地下組織結成に着手した。地下組織はパサパラ(反ファシスト人民自由連盟)と呼ばれ、ビルマ共産党、人民革命結社、ビルマ国軍により構成された。議長にはアウンサンが就き、その他の要職にビルマ共産党、人民革命結社の幹部が就いた。
パサパラは準備の過程で、インドの英軍にも間接的に連絡をとったが、戦前のアウンサンの反英活動に不信感をもっていた英国は、支援に積極的ではなかった。これを見たアウンサンは、英国に頼らず、自力で武装抗日に転じる決意を固める。
アウンサンは、蜂起する地区を決定し、日本には口実をつけて軍を移動する許可を得た。アウンサンが慎重に計画を進めた結果、日本軍は蜂起直前まで軍内の不穏な動きに気付かなかった。これには、首相バモオが、蜂起を察知しても日本軍にはいっさい伝えなかったことも大きい。
武装蜂起
45年3月、シュエタゴンパゴダ広場でビルマ国軍の出陣式が盛大に催された。表向きは、英国と戦う日本軍を側面から支援するための出陣と言うことになっていた。
アウンサンは兵士に次のような訓示を与えた。
「兵士諸君! くどくは言うまい。今から戦場に出陣する。苦しいだろう。餓えるかもしれない。さまざまな困難に直面するだろう。だが、ビルマ人としてビルマ人の意気を示せ。上官の命令に従え。上官は兵士と一心になれ。諸君に約束していたとおり、自分も兵士諸君と共に出陣する。ビルマの敵を粉砕せよ。身近な敵を探して攻撃せよ」
訓示の中の「敵」とは、英国ではなく日本を指していたのである。
日本軍がアウンサンを疑うようになったのは、出陣式の後、アウンサンが歩兵大隊とともに姿をくらましてからである。
出陣式の10日後、1945年3月27日、アウンサンは全軍に日本軍に対する一斉蜂起の命令を下した。
このとき、アウンサンは、バモオ首相に次のような手紙を送った。
「……私は、ビルマを現状から救うために最善を尽くすつもりです。しかし、閣下もおわかりのように、現状は私たちにとって暗闇の日々です。日本軍は、彼らが企図したすべての目的から撤退しつつあります。雨季入り前(6月前)に戦争が終わったとしても私は驚きません。いずれにしても、私には日本軍を責める気はありません。なぜなら、戦略的観点から見れば……日本軍にとって撤退だけが唯一賢明で自然な選択だからです。
しかし、私たちにはまだ希望があります。もちろん、私たちは単独で逃走を続ける準備をしなければなりません。
私は、我々の大義が必ず勝利をおさめることを信じて疑いません。私は最善を尽くします。閣下は現在、私を誤解されているかもしれません。しかし、信じてください。あとしばらくすれば、私の意味するところをわかっていただけるものと確信しております。……閣下が最悪の事態に備え、可能なあらゆる準備をなさることを祈っています」
この手紙には、バモオへの配慮や感謝が表れている。バモオは、ビルマ側の警察から入手したパサパラの情報を日本側には隠していた。つまり、地下抗日活動は、バモオ首相によって守られていたともいえるのだ。
独立後、ビルマで編まれた歴史書には、パサパラの抗日蜂起が特筆大書され、日本軍側戦死者1万8000などと書かれているが、実際の戦死者は約千人(多くとも4774人)と言われ、戦果は限定的だった。しかし、この行動が、戦後の英国に及ぼした政治的効果は絶大だった。
当初、疑いの目を向けていた英国が、パサパラを正式に認知したのは、蜂起後3か月近く経ってからだった。英国は、6月末、ビルマ国軍を英国第14軍の下に、愛国ビルマ軍(PBF)の名で組み入れた。
こうして、アウンサンらは、一時期「ファシスト日本」と協力したとはいえ、最後は自力で抵抗に転じ、英軍のビルマ復帰作戦を側面から支援した、独立を目指す純粋なナショナリストだということを示すことに成功した。
英国の東南アジア司令部最高司令官マウントバッテン卿は、戦後、パサパラの抗日蜂起を高く評価し、公式に謝意を述べた。初期に日本に協力したことについては、やむを得ない状況下のものだとして、理解を示した。このため、アウンサンらは戦後、対日協力の罪を問われることはなかった。
アウンサンが抗日に転じた1945年3月、日本軍は敗色濃厚ではあったが、未来の展望は不透明であり、アウンサンの行動は大きな賭けだった。
戦後、1946年後半にアウンサンは半生を自叙伝にまとめた。
その中でアウンサンは、自らの独立にいたる見通しが大変甘かったことを率直に認めている。英国の植民地下で、彼は、大衆デモ、納税拒否運動、英国商品不買運動など市民的不服従闘争を展開すると同時に、自前で武器を調達して植民地軍の基地や警察署をゲリラ戦法で攻撃することにより、英国植民地体制を自力で倒せると考えていた。また、日本軍の侵攻も、自力で抑えることができるとも考えていた。そして、日本軍に協力したことについては、自らの判断ミスだったと反省を述べた。
こうした反省が、アウンサンの正直な気持ちなのか、戦後の英国との独立交渉を有利に展開するための戦略だったかは、わからない。
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