コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

いいこと わるいこと (日曜礼拝 法話)

2011-06-21 03:08:31 | 真宗

ちょっと更新が滞ってました。

いえ、元気にはしてましたよ。

というか、元気でなければやってられないほど毎日の予定が詰まってて、体調維持のためにはブログの更新を犠牲にして少しでも睡眠を…と。

 

この間にはミニカンでの気づきもありましたし、PTAがらみで地域の会合に参加したり、3回目の小P連理事会があったり、真カ研月例会で新たに始まった今年度の論文輪読で気づいたことも。

 

他にも支部長研修会と、事務局ミーティングで「親鸞聖人750回大遠忌」の打ち合わせを進めたりもありましたね。

その事務局ミーティングのために、skypeをPCにインストールしたのですが、デスクトップでうまくいかず、サブのモバイルノートにインストールしなおし、予定していた時間に接続できずにメンバーに迷惑かけたりもありました。

さらには、そのskypeインストール以降、デスクトップの挙動がおかしくなり、今も恐る恐るPC利用してます。

 

そんなばたばたした状況ですが、そのなかでも一番責任の思い「日曜礼拝 法話担当」を昨日済ませました。

 

大体、年に1回くらい引き受けてる「日曜礼拝 法話」です。

今年は「罪悪観」をベースに「いいこと わるいこと」をテーマに話しました。

 

最初に一般的な善悪のことを押さえるために、今年PTA会長をすることで深く意識する事になった市P連の活動から、「マ・モ・ルを守る」運動のことを話しました。

「マナー・モラル・ルール」のことを説明し、それを守ることはとても大事なことだと。

(大人の人はぜひ見本となって、「マ・モ・ルを守る」を大事にしてくださいというアピールもしっかりと含めて)

次に子どもの聖典を開き、仏さまの目から見た「わるいこと」を題材にします。

「この中のことをひとつでもしたことがある人」と問いかけたところ、ほとんどの子どもが(大人は当然)手を上げてくれました。

「どれをしたことがある?」と尋ね、出て来た答えを黒板に書き、「これをしたことがある人?」と念押しで尋ねます。

「ころす」「うそ」「あらいことば」「二枚舌」…

小さいながらも、ほとけさまが教えてくれた「十悪」を意識してくれます。

次に色を引き合いに出し、いいことは白、わるいことは黒というイメージを共有。

白い絵の具に黒い絵の具を一滴たらしたら白ではなくなる。

そこにどれだけ白を重ねても、黒が入った事実は消えない。

 

と、こうして「わるいこと」の認識と、それを行ってる認識、さらにはそれは消えない事実として「わたし」の中にあり続けることを話しました。

 

レジュメはここまでで、「罪悪」を意識させることで終わるつもりだったんですが、話してるこっちの方が「このままでは気持ち悪い」という感じに捕らわれ、ついつい「だからこその南無阿弥陀仏」ということを追加。

ちょっと畳み掛けるように話したんで、伝わり方は弱かったかもしれません。

 

スタッフのM君が、録音した音声データーをすぐにアップしてくれました。

firestorage」でダウンロードできます。

 

 

しかし、こうして音声データで残ってるのを聞くと…早口なところが多いなぁ。

それに自分で思ってる声とぜんぜん違うし…。

 

後の反省会で聞かせてもらったけど、法話の後の分級座談会でしっかり聞いてくれてたようで。

かなりほっとしました。

 

このことが一段落したんで、できるだけ先週のいろんな出来事を振り返って、ブログにしていきたいなと。


月指す指

2011-05-03 19:07:04 | 真宗

永代経での座談会や、聞かせていただいたご法話の中に、なんとなく今回のテーマのようなものがありました。

もちろん、法の話の取次ぎですから、どこか一部分を取り出して語られていくものではありません。

あえて言えば、テーマは「南無阿弥陀仏」でしかありませんから。

 

そんな中でも、座談である方に話していたことと、最終日に先生から聞かせていただいたご法話が見事に一致しており、私の中のテーマ的になっていたように思えるのです。

(もちろん、同じ話でも先生がされるご法話は見事にまとまっていて、私のように雰囲気で語られるものではないんですけどね)

 

 

よく座談の席で

「お念仏を称えろと言うのなら称えますよ。でもなにも変わらないじゃないですか」

という言葉を耳にします。

その何も変わらないというところには

「歓喜の心が起こらない」

「すっきりとした気分にならない」

「腹底から称えていない」

などといった言葉が返ってきます。

 

そして

「わたしの念仏は本物じゃない」

と。

 

 

確かに「自力の念仏」「他力の念仏」と言われたりしますから、

「私の念仏は自力だから駄目」

と考え込まれる気持ちは分かります。

 

しかし、弥陀の本願は「我が名を称えよ」というところにあります。

その「名(号)」には私を救うための功徳が収まってます。

私を救うことが出来なければ仏にならないと誓われた方が「阿弥陀仏」という名になられるのですから、私を救うための手立てが完成してるという証拠じゃないですか。

じゃあ、なぜ救うと誓わねばならなかったのかというと、ここに迷っている”わたし”が居るからでしょう。

そのものに、易く保てる形にするところまでのご苦労が込められて成就されたのがお六字です。

 

そのお念仏に出会わせていただいて、この口から称えさせていただいているのに、それを「自力」とレッテル張りしてるのは誰なんでしょうね。

自分の「こうなるだろう」という予想に当てはまらないから、満足できない…そんな浅はかな理由を、この念仏が自力だからなんて言い訳で突っぱねてるんですよね。

 

 

また、こんな大事なことを説いてくださっている人を、自分に合う合わない、得になるならないで、値踏みする心はないですかね。

この人だけが本物だ!なんていう風に、今までの知識や経験と比べてしまう。

無常だから、急がなければならないからと、「間違いのないように」と周辺事情を探ってしまい、肝心の「聞いておくれよ」の声に心が向かない。

それって、逆に無常をはねつけ遠回りしている姿じゃないですか。

「本願寺がこうなってきたから」

「今のお寺はこうだから」

「あの組織はどうだから」

いろいろ悔いたい気持ちはわかりますが、仮に華光が正しくても、そんなところを値踏みする対称にしていてはなんの意味もありません。

語るほうも聞くほうも、他を腐すんじゃなくて、目の前に示されている「法」を純粋に聞かせてもらえばいいじゃないですか。

 

そのことをご法話で「月指す指」のたとえでお話してくださいました。

 

そういう素直に聞けない浅はかなことを嘆かなくてもいいんです。

そこはもうお見通し。

いやそういう救いようのない身だからこそ、願わずにおれなかったんですから。

だから「正客」と言われる。

 

 

今回、いろんな先生から無常のことを教えてもらいましたが、私が頑張って、無常を知っていくのじゃなく、無常と知った方が先回りして本願を立ててくださってます。

このブログの文章だけでもここまで読む間に息を吸い、息を吐きしてるでしょう。

刹那の無常を、いつまでもないがしろにしてばかりの奴なんですから、自分で無常が知れるわけがない。

 

 

うーん、あまりにも一杯のことを聞かせてもらったんで、それを言葉にしだしたら収拾が付かないものになっちゃいました。

余計なものはいらないですね。

南無阿弥陀仏


3日間の永代経法要

2011-05-02 13:10:16 | 真宗

 

 

あっという間の3日間でした。

まぁ、私自身の問題で、法座に参加しながらも夜中は仕事に行って、午前中の法座は休んで寝ていると言う、いかにも集中に欠けた参加形態でしたから。

 

しかし、逆に数が厳選された法座ではしっかり集中力を発揮し(あくまで自称ですが)私らしい関わりができたのではと。

人の姿を通じ、先生方のお話や姿勢を通じ、弥陀の働きを存分に感じるとともに、この身からあふれるお念仏に十分浸らせてもらいました。

 

 

数年前だと、ほとんど朝方まで讃談しながら飲む(飲みながら讃談?)することも普通で、少ない睡眠でも3日間の間は問題なかったりもしてました。

しかし、やはり寄る年波か、薄く長い時間をかけるよりも、座談なら座談に集中できることを中心にしだした気がします。

 

元々は諸事情で懇親会に参加することをやめたんですが、これが座談会への集中を増していることに気づきました。

いや、懇親会や休憩時間の讃談も、立派な法座ですし、基本そういうのが大好きです。

でも、なんか3日間の使えるエネルギー総量が決まっているとしたら、そういうところよりも力の使いどころがあるなと。

食事時間や懇親会は別行動して、私の身の置き場は座談会。

もっとも、これもいつまで続くか分かりませんが。

 

で、座談会での関わりに集中すると言うことは、その座談会に臨まれる皆さんの”今”に大きく関わるご法話をないがしろには出来ません。

いや、そんな他人のためではなく、私のためにしっかり聞かせていただく。

その聞かせていただいたものを活き活きさせるのが座談会なんですね(あくまで私の場合はですが)

だから、回数は減っても、しっかり関われる状態で臨む座談会。

 

 

実際、人の話を聞かせてもらうというのはとてもエネルギーが必要です。

自分の言いたい事を話すほうがはるかに楽です。

いや、別にカウンセリングをしようと思っているわけではないんです。

でも、ご法話などで先生方からしっかり法水を浴びられてるんですから、ご自身の口からその浴びたものを言葉にしていくだけで良いんです。

だから、こちらから与えたり促したりするんじゃなくて、ただただ語りたいように居ていただく。

そのための聞き役です。

語り手に寄り添うだけ。

 

ただ、複数の方が集う座談会ですから、途中でいろいろと影響を受けて動く方も居られる。

もちろん、そういう方も大事にしたい対象です。

でも、私の力不足で、いちどに多くの展開を引き受けられない。

なので、今語っておられる方を一番にさせてもらいます。

幸い、普段関わりのある方が多いですから、直接関わらなくても、目の前で語られている姿を通してご自身の問題として聞いてくださっているという信頼があります。

みんな弥陀に願われてここに居るのですから。

 

そして、今回のご縁はまさに、長年ご聴聞されている方が、自らのことを語る中で、自らが聞かせていただいていることを言葉にして、自らの言葉に気づいていかれる様をありありと見せてくださいました。

こちらはちょこっと整理するだけ。

語られた言葉の中の大事なところを言葉にして返させてもらうだけ。

もうすでに働きはあるのですから。

 

 

1回だけ大人数のグループにも参加したのですが、やはり難しさを感じました。

まぁ、ただ大人数ということだけではなく、様々な要因があるのですが。

 

 

と、状況の話ばかりになってしまいましたが、聞かせていただいた中身についてはまた項をあらためて…

 

 


あわれというも中々おろかなり

2011-02-22 23:32:12 | 真宗

今朝、おばあちゃんが死んだ。
ずっと病院で寝たきりだったし、93歳ということもあり、そう遠くない時期にこの日が来ることは予想できた。

先週には知人の訃報があった。
今まで知人の告別にはできるだけ赴いていたが、なぜか今回は気が向かなかった。
家庭や仕事の予定がやりくりつかず、葬儀には連れ合いだけがいくことになったときは、不思議な安心感があった。

日曜日には日曜礼拝で法話をし、その知人の話題を持ち出しもし、大人の座談会では当然のごとくその話題にもなった。

でも、メールや人の言葉で知人の死をしるだけで、面と彼の姿と向き合うことを避けて、リアルではないところに自分を置こうとしていた気がする。

今から思えば、この来るべき祖母の死…よりー身近なリアルな死を予感していたからこそ、逃げていたんじゃないだろうか。

昨晩、病院からの連絡があり、院長先生から状況を聞き、今後の方針を相談した。
その中の一部は家族の同意が必要な項目だったために、呼ばれて説明を受けた。
その時点で、結末は予想できた。
でも、予想なんてものは妄想妄念と同じで、リアルなものではなく、自分の想像しえる範囲で作り上げたものでしかない。

連れ合いに連絡をし、時間が遅かったんで寝ていた息子二人を残して、娘二人は最後の挨拶をさせた。

付き添うという母だけ残して帰宅し、朝に母からかかってきた電話で病院に向かった。
その電話をかけて病室に戻ったときには、すでに息を引き取っていたそうだ。
私はそんな状況でも「まだ間に合う、会える」という、何の根拠もない思いを旨に、朝の混雑した道を車を走らせていた。
そう、この期に及んでも、おばあちゃんが死ぬということはリアルではなく、想定外だ。
まったくもって、自分の都合でしかものを考えていない。

病室に居たおばあちゃんは、穏やかな顔をしていた。
呼吸マスクやいろんな装置がすでにはずされていたため、これまでよりも楽そうに見えた。
手は暖かかった。
私の手なんかより、はるかに生気があった。
でも、命はそこになかった。


お寺、葬儀社など、いろんな手続きを請負い、事務的にこなしていく。
逆に、感情的なことを感じることがない感じで、淡々とことを進めていく。
一度、家につれて帰り、今後の相談をする中、祖母が世話になっているお寺のご住職が来られ、枕経をお勤めしていただく。
臨済宗のお勤めで、南無妙法蓮華経。

日時などを打ち合わせして、家族交代で家に帰り色んな準備。
私は夕方に一度帰り、子どもらをつれて戻った。
普通の布団に寝ている、身近な状態を息子らに見ておいて欲しかった。
祖母の家に向かう途中で、息子らに初めて祖母の死を告げる。
どこにどう反応しているのか、泣きじゃくる息子ら。
説明や理屈じゃないところなんだろうと思う。

祖母の家に着いたら、うちの家族と母とだけで白骨の御文章をあげさせてもらう。
何かお勤めをしようかとも思ったが、息子らに聞いてもらうにはこの方がいいだろうと。
御文章そのままあげたあと、その意味を説明する。
浄土真宗に縁の浅い母にも何か伝わればと。

祖母の残した写真やノートをみんなで見る。
私と出かけたときのことを記して「食事に連れて行ってもらった。うれしかった」などと…

そのままそこで食事をして、今帰ってきた。

おばあちゃんの死を、受け止めることが出来ているのか、まだリアルじゃないのか、それすら分からない感じに包まれている。

ましてや、自分の死などまったく現実感がない。

白骨の御文章を、今一度拝読すべきはこの私のほうだ。
このあはれなものに問われているのだ。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。

 

 


報恩講 ~召還の呼び声

2011-01-11 09:03:27 | 真宗

二日間の報恩講が終わりました。

今回は、久しぶりに増井悟朗先生の座談会に司会役で配備され、いろいろと味わいが深かったですね。

以前書いた華光大会の時もそうでしたが、座談に対する私の確固たる思い(確固とはいえ時と共に移ろってますが)と、目の前に繰り広げられるものにしんどさを感じるところがあります。
大事なことなのに、「否定」という刃でしか伝わらない伝え方はその場に居て心苦しくなります。
伝えたい方の思いもわかるだけに…ねぇ。


一方でそんな伝わり方への想いを超えたところで、法の前に照らし出されるものに浸らせていただいた二日間でもあります。

その味わいは、終わってからちょっと呑みに行ったときの何気ない話題からハッキリと私の中に言葉にさせてもらいました。

「私の居所」

これが二日間のご縁の中で聞かせていただき、目の前で繰り広げていただいたもので味わえたんですね。

他人に伝えるための言葉ではなく、私の腑に落ちるところでの言葉なのですけれども。


今、ここ、この刹那に届いている呼び声に、応えさせていただくだけ。

それが一念だとかそれとは違うとか、そのためには堕ち機が知れていないととか、無常観や罪悪観はとか…そういうものが「居所」をはかるものだと思われがちなんですが、そうではない。
届いている声に忘れがちなこの私が、居所を問われたその刹那に、届いている声に気づかされたなら、たちまちに南無阿弥陀仏と応えさせていただく。
次の瞬間には、それが全力だったのかそうじゃないものかとか、でもまだ足りないものがあるとか、いろんな想いが襲ってくるかもしれないけれど、まずは称えさせていただく。
そして、そういう想いによって、「ごちゃごちゃ考えるのが私で、それがお目当てなんだ…」と願いに気づいたなら、その刹那に応える。
「忘れっぱなしのやつやな」と実機を知らされたなら、その知らされることがお働きなんだからその刹那に応える。

振り返れば、そういう「ごちゃごちゃ」理由を並べ立てる輩だから、機の中身や法の中身を懇切丁寧に先生方が説いてくださっているんであって、つまるところは「南無」に「南無」で応えておくれってことなんですよね。

一瞬前までごちゃごちゃ考えてるし、一瞬後にはまたごちゃごちゃ考えるんだけど、この刹那だけは応える。

「いや、それができないんですよ」
「称えるだけならできますが」
「でも響かないんです」
などなど、いろいろおっしゃりたいことはあるでしょうがね。

先手の「南無」はいついかなると時いかなる場所にも満ち満ちているんですから、私のほうの接点は「今・ここ・わたし」で応えるだけですね。

 


変わるもの、変わらないもの (年が変わって思うこと)

2011-01-07 06:54:34 | 真宗

サボってる間に年が変わりました。
今年もよろしければお付き合い願います。

ここ数年、「新年に志し新た」と言う感覚が年々薄れ、むしろ「大晦日と新年の変わり目の刹那で、この私のいったい何が変わるというのか…」と天邪鬼なことを考えてる次第です。

振り返れば、誕生日を境に、昨日まで少年法の保護にあった人間が一般に扱われるようになったり、酒・煙草がご法度だったのに解禁されたりだとか…人間が勝手に定めた時間の単位でもって、いったい本質の何が変わるのか…ということをずっと考えてきました。
そういう時間軸の問題ではなくて、本人の自覚・成長の問題なんだろうと。

しかし、帰結するところは「そういう自覚と言う不確かなものに頼らざるをえないから、時間と言う客観的なもので計るしかない」ということになるのですかね。


というような愚痴愚痴したことを、新年早々のSNSに書き込んで、新年を迎えておりました。

今年は娘の受験もあって、毎年恒例の連れ合いの実家にも行かず(帰省と言うよりは新年のお手伝いが目的でしたが)久々に京都で新年を迎えました。
ということで、元旦は朝から母方のお墓参りに行き、祖母のお見舞いに行き、午後から華光の修正会にお参りしてきました。
(本当は、本山の元旦会に初詣でするつもりでしたが、気がついたら6時だったもので…)

で、祖母の病院にいったとき、世間では元旦と浮かれているときも仕事をしている看護士の方の姿を見、まずます「新年だからって変わらんよな」と。
さらに、寝たきりの祖母の姿から、祖母にはもう旧年も新年も意味がなく、朝も夜もなく、静かにここに「居る」姿をみました。

そんな想いを抱きながらお参りした修正会ですが、やはり帰るべきは虚仮の姿ではなく、法に照らされたところなんだなと。


増井先生のお話は「いろはうた」を題材に、無常を教えてくださいました。
だからこその南無であることも。
(修正会・いろはうたの話題はかりもん師のブログで)

そう、私の中には「昨日と今日で何が変わった?」という感覚と、「昔の私と今の私で何が変わった?」という感覚の、二つのスパンで味わうものがあります。
1つの意味では、変わっていないと思っているのは私だけで、この刹那刹那に常ならぬものはないという事実があることを。
また、変わっていないつもりで、ほんの一日の間に食べた食事だけでも多くの命をいただき、罪を重ねていることを。
さらには、その境目がどこだと言うことではなく、常に照らされている法に「南無
」と応えさせていただける身にしていただいているという大きな変化があるということ。
もちろん、その中には変わらぬ因果の道理によって、「堕ちるしかない身」という”常”があるということも。


年賀状を作成しながら子どもの成長に驚き、祖母の姿に元気だったころの思い出を探り、自分を横において「変化」を見せ付けられながら、無常を無常と知れない身を感じます。
いや、感じないだけで、事実はここにあるんですけどね。


華光大会 ~礎があって今がある

2010-11-25 23:58:00 | 真宗

華光大会の3日目には総会がある。
華光会は同人組織なので、総会による議決を元に活動が成される。

私もかつては深く関わっていたが、この総会ひとつ開かれるために多くの方のご苦労と手間とが費やされる。
そういう一部の人が勝手に動いて成り立っていくのではなく、同人ひとりひとりが深い意思を持って参加することが大事なことは、皆さん分かっているようで結構温度差がある。

今年の議題の中に「親鸞聖人750遠忌法要」の話題があり、その実現のための寄付金に関する話題があった。
その資料の中に、過去の大遠忌法要や慶讃法要のものがあり、そこに「維持講発足」「同人会制度発足」の文字があった。

私が華光会にお参りした時(20代前半)には同人会は組織されており、かなりお年を召したお歴々が運営をされていた。
当然若輩のものには何が行われているか理解することもなく、ただ指示に基づいてお手伝いをさせていただいていた。
30近くになったころ、住んでいるのが会館に近いことや、まだ若く長いスパンでいろいろなお手伝いが出来るだろうと言うことで、運営委員のひとりにお誘いいただいた。
そうすることで今まで見えていなかった多くのことを学ばせてもらった。


華光会の軸は伝道活動であることはハッキリしている。
一番目に映るところは、法座での先生方のご活躍。
ご法話であったり、座談でのお勧めであったり。

そういう法座を行うためには、法座のお手伝いをしてくださる方々が必要になる。
大きな行事は支部による当番制であったり、また近郊有志の事前事後のお掃除などがある。
また、普段先生方のお世話してくださるご家族や、会館や事務を維持管理してくださる事務員の姿もある。
まったくもって、おかげさまだなぁと。

と、ここまでは普通にご恩を感じることが出来るのだが、よくよく考えてみればこれはすでにある会館や行事があり、それを甘んじて受けている状況での、現在進行形でのおかげさまだ。

しかし、当たり前のように通わせてもらっている会館も初めからあったわけではない。
当番でお世話する支部にしても、その成り立ちには多くのご苦労があったはずだ。

私が聞いていて把握している範囲では、最初は伊藤康善先生の下に集まった数名が、座を持って仏法談義されていたものが”会”の前身であり、伝道活動ということで言えば「華光誌」というものを作成するところから始まっている。
それが広がりを見せるとともに、人が増え、座が増えてきて、友同行が集まれる場所が必要になってきた。
華光会館という「資産」を持つことに対しても紆余曲折あったようだが、熱い意思の元に建立・維持されてきた。

そしてただ集まるだけでなく、建物の維持・組織の維持として「維持講」そして「同人会」と広がってきたようだ。
私もいろんな集まりで経験しているが、複数の人の意思をまとめて、継続していくことはとても困難が伴う。
ましてや、なにもないところから作り上げるのは並大抵のことではない。


ここ数年、新しいご縁がひろがり、15年ほど前の「華光会館再建」事業にでさえ関わったことのない方が多く居られるようだ。
そう書くと、同人が増えて拡大しているようにも聞こえるが、実数は横ばいだったりする。
亡くなられた方や、高齢化でお参りできなくなって来ている方も同様に増えているからだ。
私が運営委員にお誘いいただいたときに、先にたって活動してくださった方々の顔を浮かべてみる。
ほとんどの方が、上記の理由などで今目の前に居られない。
そのころはかなり先輩だと思っていたお歴々の年齢にいつの間にか近づいていることをふと感じてしまう。
先輩方のご苦労のホンの一端でも引き継いで、何かを成すことは出来ているだろうか…。


目の前で法を相続してくださる先生方のご苦労は、もちろん一番に感謝すべきことだ。
また、今裏方としてご苦労してくださっている方々への思いもハッキリしている。
それらと同様に、今ある聞法道場や同人組織が成り立つ意味を忘れないでいたい。
会った事のない方のご苦労など計り知ることは出来ないけれど、今ここに在ることは当たり前のことなどひとつもない。
今ここで私が聴聞させてもらえていることが、先達のご苦労の証拠だ。

維持のお金や、お手伝いの身の苦労ばかり問題にして、あれやこれや愚痴を言ったりしてしまうのが私の本性だが、当たり前にしていることの根っこのところで、多くの礎があることをなかったことには出来ない。
いや、なにも物や組織の維持のことではない。
先生方がご法を相続してくださるご縁に会える事も、それらの礎なしにはありえない。

総会の最後に恩徳讃を歌わせてもらうのだが、最後列から前に並んだ役員席を望ませてもらったときに、K河さん、Tさん、T本さん、S田さんらの姿が見えた。(ご存命の方も居られますのでお間違えなく)
このときだけは、如来大悲や師主知識のためではなく、先達を思い偲んで涙が流れ、声が詰まった。
いや、これら先達こそ、如来のお姿であり、師主知識のお姿だ。


華光大会 ~満ち満ちたお働き

2010-11-24 19:22:11 | 真宗

3日間の華光大会が終わりました。
ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございます。

今年も大いなる刺激をいただきました。
一味を深め合う仲間も、求め悩み苦悩する仲間も、そういう様々な”熱”が繰り広げられることによって、私がご聴聞させていただく場でありました。

終えてから振り返ると、いろんな側面で余韻が残ってます。
何回かに分けて書き記そうかなって言う気持ちがあるんですが、いろいろかまけて実現するかは…
でもまずは、法の部分から。


今回、座談会の担当ではあったんですが、自分が先生として入るものと、他の先生と組ませてもらうものと(しかも日によって違う先生)あったりして、それぞれアプローチが違ってちょっと私の中の継続性が弱い感じがありました。
でも、一貫してベースに流れているものは間違いなく同じものですね。

私が先生として関わらせてもらった2回の座談会では、そのベースとなるものが特に強く表れた気がします。
”わたし”の側の求めているもの、法悦であったり体験であったり、納得であったり理解であったり、そういうものと仏法で聞かせてもらうものとは違うと言うこと。
わが身を知ることは大事ではあるけれど、そこは突き詰めれば「聴けるはずのない身」であり、「堕ちていくしかない身」であると言うことで、そこが変わったり良くなったりすることはないですね。
だから「仏様はなんとおっしゃってる?」というところに翻していくんですが、言葉だけでやり取りするとそれも方法論に陥ってしまう。
根本である”仏願”は、私が求めるだとか、私が聞き開くだとか、そういう次元ではないところで、常に・すでに働き続けてるものなんですね。

よく「そのままのお救い」って言葉が使われますが、それは私が「何もしないでそのまま」という自分で放棄することではなくて、「何も出来ない私」という前提の上で、「出来ないものが何もしなくてもOK」という大いなる力が私に働いているからこその「そのまま」なんですね。
その「お働き」を抜きにして、「どうやったら自力を捨てられる」だとか「どうやったら阿弥陀様に向き合える」だとか、自分のありようを何とかしようとする・・・がんばって「そのまま」になることでは決してないんですね。

その「お働き」を感じれば自分の何かが変わると思って探ったり待ったりするんですけど、それも実は大間違い。
こちらが知覚することが出来ないところで、常に・すでに働き続けている。
こっちがそれを分からないだけなんです。
もちろん、分かる力もありません。

でも、よーく振り返ってみると、何かの縁に触れてふと「ありがたいなぁ」とか「うれしいなぁ」とか「申し訳ないなぁ」とか、思わず(自分で動かそうとせず)心が動くことはないでしょうかね。
時には思わず「南無阿弥陀仏」と口をつくことがないでしょうかね。
そんな動きの意味を求めても、仕組みを求めても仕方ありませんよ。
私が知覚し得ない働きがあって、動かされているんですから。
ついつい口から「南無阿弥陀仏」が飛び出す…
私の力でありえるはずがないんです。

それを、やれこれは自力だとか他力だとか、喜びが伴ってないとか叫びあがるものでないとか、そういうありようにとらわれて自分で”判断”しようとしている。
そんなこちらの枠に収まるもんじゃないんですけどね。

こんな私の口からお念仏が飛び出してくることほど、知覚しようのない働きがあるってことの証拠はありませんよ。


この華光大会で、最後のご法話は増井信先生でしたが、まさにこのことを分かりやすく力強くおっしゃってくださいました。
私の言いたいことと同じことを法話してくださるとは流石だなと。
いや、これは冗談ですが…
というか、単なる冗談ではなく、人間的なところでは同じことを考え、同じことを伝えようとすることは偶然のようにも思えるんですが、大元の阿弥陀様の願いがハッキリしているんだから、表現は変わることがあれど、「機の真実・法の真実」は変わりようがないんですね。
(真実がいくつもあったら困ります)

もちろん、その真実を増井信先生はじめ、多くの先生方から繰り返し教えてもらっているのですから。
でも、ただ教えてもらったことを覚えて話しているのではなく、教えてもらったことがこの身にかかっていることが在り難い。
考えて相手の方に伝えるのではなく、湧き上がってくる願い・思いが、言葉になって表れ、相手ではなくこの私自身が聞かされていくんですから、こんなにすばらしいご縁はありません。

この私自身はざるで、教えてもらったことも、気づかせてもらったことも、ましてや阿弥陀様の願いすらすぐに忘れて・・・いや忘れる以前にわからないまま、今ここにいます。
でもそんな聞けない・分からないやつが、常に・すでに働いている法の海に浸っていることで、ざるがざるのまま本願にかなっていける。

私が、法に浸っていることを知らないだけなんです。


増井信先生のお話は、ご自身のブログでも触れられています。

かりもんの実践的!真宗法座論


諸仏の救いからもれた身

2010-09-11 09:41:46 | 真宗

明日、12日に京都の華光会館で日曜礼拝があります。
今月は私がご法話の担当をすることになりました。
子ども中心の集まりでするご法話ってのはとても難しいもんです。

担当することが決まった直後、小学校のPTAの仕事をしているときに日曜礼拝に来てくれている子に会いました。
「こんどおっちゃんが日曜礼拝でお話しするけど、何のお話がいい?」ってたずねたら「ほとけさまのお話」と一言。

ほぼ毎年ご法話を担当してるけど、どちらかというと「罪悪」や「因果の道理」あたりを芯にすえた話が多かったように思う。
なので、いっちょ「ほとけさま」を子どもに伝えてみることに挑戦してみるかと…

ところがこれが難しい。
いろんな切り口があるけれど、あまり細かく説明する話になるのもよくないし、かといって子どもだからと御伽噺で終わるようなものにするわけにもいかない。
とりあえずレジュメを作成しだして、まとまってきたものを日曜礼拝担当の先生にメールしてみて意見を聞くことに。
そのアドバイスはとても的を得たものだったけど、どうも一番話したいこととちょっと違うところに力点が置かれたアドバイス。
逆にそのことで、何を話したいかが私の中ではっきりしてきた。

「ほとけさま」というのは一杯いて、そのなかの「あみださま」が私を救ってくださる誓いを立てたという話。(うーん、これだけじゃわからんよね)
で、アドバイスは「あんまり他のほとけさまの事に興味がいくより、あみださまにしぼっては?」というもの。
しかし、今回私の中にある大きなテーマは「諸仏に見放されたわたし」それを唯一「一切衆生」を救うと誓願を立てられた「あみださま」ということを話したかったんだと。
だから、あみださまのほかにも、力を持ったほとけさまが一杯いること、また、修行して仏になろうとしている「ぼさつさま」も一杯いるということ。
そのうえで、そのどのほとけさまも私を救えなかったしぼさつのように修行することもできない…迷い続けるしかないわたしだということをはずせない。

そして、そんな諸仏の救いからもれた身をめがけて、ぼさつとなって修行し「なもあみだぶつ」を成就した名であり、体であり、願であり、行である姿。

うん、この流れで話したい私がいるんだな。


あとは、複雑にならないように、盛りだくさんにならないようにちょっと気をつけて、話題が散漫にならないように逸話を削って…
うーん、それが難しいんだけどね。


ここを話したくなってるのは、伝道研究会で「法蔵の発願」をじっくり話し合ったことが強く残ってるから。
そのテキストより抜粋。

「選択本願は浄土真宗なり」とあるが、浄土真宗の根源をたずねれば、弥陀の発願よりはじまる
(五十三仏の出世)久遠の昔、錠光如来をはじめとして、次々に、五十三仏が出世され無量の衆生を教化し、ついには成仏させられた。
(世王仏と法蔵)五十四番目の世自在王仏が出世なされたとき、その説法に感激した国王は出家して法蔵比丘と名乗り、
(法蔵の選択)一切衆生を済度せんがための誓願をおこされ、師仏の指導を仰ぐことによりついに五劫の間思惟し、かっての諸仏のなしえなかった大誓願をおこされた。
(四十八願)そして、これを師仏の前にのべられたのが、四十八願とよばれるものである。

あぁ、今こうして打ち込んでみたら、これを伝えるのってすごく難しいんじゃないだろうか…
えーい、乗りかかった船だ、やってみるべし。


討ち死にするMANU.を見たい方はぜひお参りを。

日曜礼拝


京都支部法座・・・の話題だけどその関わりについて

2010-08-13 07:57:08 | 真宗
先週の日曜日は京都支部の家庭法座でした。

ご法話や座談での”中身”が大事なんで、そのことを書くべきなんでしょうが、私には「関わり方」の点で引きずってるものがあったりします。
その日の晩や翌日くらいに言葉に書き始めたのですが、少し時間を経た今のところで言葉にしておきたいと思ってます。
時間がたってるので、そのときの”事実”は薄れてきており、逆に”思い”は濃くなってきていますので、出来事はきっかけ程度としてお受け取りください。
(当日ご一緒したから見れば多少の印象違いはあると思います)

それは座談最後の先生の一言でした
「なんかみんなの話は言葉だけの気がするなぁ。積み重ねで話をしている。”今、死んでいく”という話なのに」

いやもう、おっしゃるとおりです。

一方で、「いや、それをおっしゃるならこんな最後じゃなくてもっと早い時点で言っていただいてたら…」なんて気持ちがわいたのも事実です。(かくしたって仕方ない)

そこには「自分なりに関わってきた」というものがひっくり返されたことに対する、受け入れがたいものがあったんでしょう。
座談後、一緒に関わっていたAさんが近づいてきて「きつい一発をもらいましたね」と言ってこられました。
そのときに私が返した思いが、私のすべてだったかもしれません。

「”今、死んでいく”ということを押し付けられても無理がある、やっぱりそこは自らの”気づき”じゃないと…」
この辺が最近の私の”関わり方”の根底にある気がする。

頭で思い込もうとしても無理。
感情で流されてもだめ。

そんな自分を超えたところで、”事実”と”事実を知らしめる縁”にふれて、気づかされるもの。
その”気づき”ってのは、とてもとても繊細なもので、人によっては劇的に「あぁ」と力強く出会うこともあるけど、多くは心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの。
それは、じっくりじっくりその本人の言葉で確認していくもの。


そう考えてみると、それまでの座談の流れの中で、ちょっとした心地悪さに蝕まれていたことを思い返す。
発言する方の言葉ではなく「それはこういうことですね」と関わる人のわかりやすい言葉に置き換える行為。
多くの言葉を費やして、発言する方の時間を分断・邪魔する行為。
過去の詮索や、関わる人の体験よりの同情。

それぞれに意味があることは理解してるが、他人の運転する車に乗って、ブレーキやアクセル、ハンドルの切り方のタイミングなんかが、自分と違って心地悪い感じ…

そう、その場を信頼できないし、任せて置けなかった。

この日の座談が良い悪いじゃなくて、私が目指しているものが照らされた感じ。

心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの…

時間の少ない多人数の座では、それを守っていくのは難しいかもしれない。
でも、大事にしたいし、それが実現できる場もいくつか体感している。


と、言葉にして落ち着いて考えたら、”どーーん”と事実を明らかにしてくださる先生が居られるからこそ、そこはお任せして動ける私がいるんだなと。

大事なことは、その関わりの渦中にある”人”を大事にするという大前提。
ただやさしくすることが大事じゃなく、責めることが大事じゃなく。
その”人”が、その人のまま”経験”することを邪魔しない。


広島での真宗カウンセリングWSが来週に迫ってきた。
この思いを再確認できる場になりそうな気がする。
(広島WSの申し込みは締め切られました)