コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

伝道研究会 7月

2010-07-11 01:24:23 | 真宗

月の第一水曜は伝道研究会、今月は7日に。

前回から装いを新たにしての2回目。
参加も新しい参加者が数名増えた。
一方で、前回参加されたのに今回お休みの方も。

テキストは「真宗の基礎 教義編」
前回の続きとしては大経の講義として四十八願の名称が続くところに入るんだけれど、ここでS先生の提案で大経のおさらい。
大経の位置づけや、何が書かれているお経なのかを、キーワードを各自が出し合うことで確認。
といっても、深く学んでいる先生方や勤勉な方からは要の言葉が出てくるものの、わたしなんぞは普段噛み砕いて聞かされているものの、それらを体系的に把握する能力が欠落しているので、「おぉそういえば聞いたことがあるぞ」の連続。
まったくお恥ずかしい話だ。
(いや、恥ずかしいと思っていないところが恥ずべきところだ)

「浄土真宗聖典」をサブテキストとして(いやこっちがメインだろ)使うが、その表記の意味合いも講義してもらう。
いままでいかにいい加減に使っていたかがよくわかる。
その欄外の表記を意識するだけで、今までと違って体系だてて感じる。
正信偈との関わりもわかりやすくなった。

さらに大教の構成を整理してもらい、大まかな内容を把握する。
いやぁ、ただただ「深い願い」として体感するのみだ。

最近は各地の法座でこの「大経」を取り上げて話されているようだ。
私のHPにも、かつて「Moz」先生が投稿してくださった
『仏陀が説かれた大無量寿経』のはなし
というものが掲載されているので、興味のある方はぜひご一読を。

8月はお休みで、9月は1日の水曜日、午後7時半からです。


京都支部法座 6月

2010-06-29 11:12:23 | 真宗
日曜日は華光会館での支部法座。
講師に増井悟朗先生をお迎えしての、法話と座談会。
遠くは四国からお参りの方や、初めてお目にかかる方など30名を越す参加者。

ご法話は「一切皆空」をテーマに、そこにつながる「真空妙有」をめぐって、「空」と「有」の関わりを。
わたしとしては流れの中での「称名」についてのお話が、最近の関心ごとにリンクしてありがたかった。

「称えもせずにぐずぐず言うな」
「ただ称えてるだけではあかん」
「称名は報恩、正因は信心」

時により、人により、「称える」ということについて真逆とも言える言葉に出会う。
もちろん、その言葉にいたるまでの流れや、相手の居所によるのだが。

先週の真宗カウンセリング・ワークショップでは、「称名念仏」する時間が設けられた。
あるときは各自自由に、あるときはリレー形式で順番に。
最初は「お念仏しましょう」との呼びかけに応えるものだったかもしれないが、いつしか「自分が称えているのじゃない」という感覚になり、やがてそんな「誰が」なんてことは意味がなくなり、そこには「南無阿弥陀仏」だけになってくる。

称え心を問題にするのは、称えることに価値を持たせたり、当てにしたりする心を問題にするため。
そういう「わたしの願い」はすべて「空」に帰してしまう。
どういう「称え心」が正解か求めるものではない。
なのでそこにぐずぐずこだわるのならば「称えもせずにぐずぐず言うな」という声に従い、まずは称えてみる。

じゃあ、と恐る恐る称えてみる。
何か変化が起こるのを待つ。
自分の身にわかる「功徳」があるはずだと。
お念仏の中身を問題にせず、自分の手ごたえを求める。
なので「ただ称えてるだけではあかん」と言われる。
でも、「じゃあどうすれば…」と困惑してしまう。

それまで一生懸命聴聞してきて「信心正因称名報恩」なんて言葉も知っている。
自分に信心がないのにお念仏しても意味がないと決め付ける。
信心をいただいてからの報謝の念仏でないと駄目だから、と。
これも自分で順番を決め、そういう自分の意に沿うか沿わんかで計る。

観るべきものはお念仏の功徳。
その「南無」のなかに長いご思惟やご修行がこもっている。
「阿弥陀仏」の名の中に、それが達せられた功徳がこもっている。

わたしが称えるのではなく、そのできあがった「南無阿弥陀仏」がわが身を通して現れてくるのに任す。
「それだけでいいんだろうか」
「わたしが変わらんといかんのじゃないだろうか」
そういう思いがわきあがってくる。
それがお念仏の功徳を疑う心。


誰にも邪魔されずに、また回りのお念仏の声に誘われるように、お念仏を称えるに任せる時間。
それは表から見ればただのワークなのかもしれないが、そこから飛び出してくる、周りにあふれる「お念仏」のなかにエネルギーがあふれている。

嫌いだと言いながらも、これでどうなると思いながらも、この口から飛び出してくるのは「真実」



こちらの求めるものは「一切が皆、空」であるのに、その「空」の身に「妙なる有」が用意されている。

ご法話の話と、わたしの思いが混じっているので、これがご法話の内容だと混同されないようにお願いしたいが、私がご法話に刺激されて、今キーボードに向かう刹那に味あわさせてもらっていることがこれ。


久々の参加者や、新しい出会いも楽しいが、そういう縁のところで喜ぶ身に、そういう縁を通して届く真を喜ばせてもらえる。
周りの人との関わりも、また「空」に帰していくのだから。

(でも、人との関わりの中でしか活きていないんだよなぁ…さびしがりやだから)

伝道研究会 6月

2010-06-05 22:41:05 | 真宗
水曜日は伝道研究会でした。
ここ数年、途切れ途切れの参加で、テキストの連続性が崩れたり、参加してない法座の話題が中心になったり。
また私自身の予定の関係で、真宗カウンセリングの研修や月例会などと日が連続してるときなど画でにくかったり。
そんな理由で、少し距離が開いていた感じがありました。

しかし、今年度から内容も開催方法も一新。

これを機会に、モチベーションを高めていこうと思います。
というか、モチベーションを高めないと法に向かわないのもどうかと思いますが…。


参加形態は、華光会の同人なら誰でもOK。
もっとも平日夜の開催ですから、遠方の方は難しいかもしれません。
多くの希望があれば、京都に限らず臨地での伝道研究会ってのも年に数回ならできるかもしれませんが。

テキストは、増井悟朗師が数年前に行われた研修会のものをみなで輪読することに。
「真宗の基礎」として数年かけて行われたものの第1編「教義編」

その詳細はかりもん氏のブログに記載されているので(例によって)省略。

プリントのほんの数行の部分を読んで、各自で味わったことや質問をしただけであっという間に2時間くらい。

今、わたしが浄土真宗を通じて知らされることのすべてが、法蔵比丘のたてた誓願から始まっているということ。
それまでにも多くの仏が「衆生を教化する」との誓いを立てそれを実行し成仏させてきたというのに、それが「無量の衆生」であってもすべてを成仏させることはなかった。
「無量」とは計り知れないほど広大な数ではあるけれど、この私の知恵で計り知れないというだけで”限り”はある。
つまり、多くの仏が済度してきた中にもれていた者がいるのだ。
しかし、法蔵比丘は「一切衆生を済度する」と誓われた。
「一切」ということは”もれなく”という事。
他のどんな諸仏もなしえなかった「この私を救う」ということを。
そう、この私はずっともれていたから迷い続けている。

こうして、起こされた誓いを元に、他の諸仏が作った国をつぶさに見て回り、どうすれば「この私」を済度することができるか思案し、四十八の願として立てられたというのだ。

仏の国の仏同士の話なのだが、その根源は「救われようのなかったこの私を救うため」の話だ。
「無量の衆生」からもれて「一切衆生」とくくらなければいけなかったものが何人いるかは知らない。
しかし、少なくともここに一人いる。
周りにもいるらしい「あの人やこの人」が先だろうと後だろうと、そんなものどうでもいい。
「この私」がもれている限り、「一切衆生」にはならないのだ。



テキストはちょっと難しいかもしれないが(仏教用語もいっぱいだし)とても大事なことを、その時々のメンバーが自由に発言して進めていくのが伝道研究会。
参加できそうな方はぜひ。

次回は7月7日(水)19時半からです。



気付きへの時間 ~永代経にて~

2010-05-07 00:04:55 | 真宗
GWも終わりましたね。
私は、本業は休みなれど、副業のほうは連休中もあり、その合間を縫って永代経にお参りさせていただきました。

3日間の法座ですが、大方の方は3日間この法座のために時間をやりくりして、法座漬けの日々を送られます。
しかし私は、普段の生活の中に組み込まれる形で参加。
これが良いのか悪いのか…

まぁ、家から歩いても10分かからない場所が会場ですから、家での用事や仕事と”折り合い”をつけて参加できます。
しかもそれで「フル参加」出来るのですから(体力的な問題はありますが)

「そんな心がけで法座に臨むなんて」ってなお叱りもあるかもしれませんね。
でも考えようによっては、そういう”折り合い”がつけられず、「生活か法か」なんて選択を迫られたら「生活」を取りかねない輩だってことは百も承知です。
そんな輩が、環境のおかげで「どっちつかず」のまま、法に浸らせていただける。
しかも、「役割」が与えられることで、「油断」しか出来ないやつが「油断できない状況」に置かれる。

そんな周辺状況でありながら、私自身はちっとも困っていません。
そこにブレないものが末通ってるんですね。

今回は人数限定の小グループ座談を担当しました。
合間の夜中に副業に出かけたりすることもあったので、代理が聞かない「一人先生・司会状態」は荷が重いかなという懸念もあったんですが、「限られた時間で法を伝えるアプローチ」の中でこういう少人数でゆっくり話を聞く場の重要性は、最近の私の関心ごとでもありましたし、「私しか出来ない」っていう自負もありましたので引き受けました。

「私しか出来ない」って言うのは、なにも能力的なことではなく、ちゃんとした「先生」の場所には多くの方が殺到されますから「3人限定」なんていう場は持ちにくいでしょうね。
本当は先生方も一人一人の話をじっくり聞きたいという気持ちを持っておられるでしょう。

また逆に大人数が集まる場には多くの「法を伝えたい」という方も参加されます。
時には一人の求める方に複数の方が「お勧め」される場面もあるでしょう。
そのことに功罪があったりします。
なんといいますか、「畳み掛ける」ということの必要性も捨てがたいのですが、それが「押し付け」になり、「領解」とは少しずれた伝わり方になることもあります。

今回、3日間少人数のグループでは、「ゆっくり」ならではの深まりです。
私がなにか伝える事をしなくても、お一人お一人が「今の自分」を語ることで、その語りの中から現れる「言葉」に自ら気付かれていかれます。
そこに「仏願のはたらき」があることをその都度都度確認していくお手伝いをするだけ。

一見、大きな心境の変化は現れていないようにも思われますが、今まで「そう思わないといけない」と受け止めていたものが、押し付けや詮索ではなく、「こう聞かしてもらっていた」と腑に落ちるという楽な感覚で動いていたように思います。


「人数の多いところで責められて”傷つく”から、やさしい高橋の部屋」だと思ってる方もいるようですが、別にカウンセリング的な場所にしているつもりはありません。
多少口調はやさしいかもしれませんが、「真綿で首を締める高橋」と若者に言われるように、大事なことは外していないつもりです。
小人数だから、一人一人の話をゆっくり聞ける(邪魔されない)という要素は大きいでしょうけど。
そのことを大事に出来る背景には、カウンセリングで学んだ関わり方、非暴力の考え方に根ざしてはいます。
しかし、人間同士の関わりを超えた「出世間の教え」は外せません。
いい気分で終われるもんじゃない、「わが身の真実」をごまかすことは出来ませんから。
ただ、それが「責め」と受け取るのではなく「気付き」であるということだけ。

法座で感じたことをいろいろ書こうと思ったんですが、大まかな印象のところで長くなっちゃいました。
今日はこの辺にしておきます。

足元を見つめる出会い

2010-04-29 17:36:08 | 真宗
先週の土曜日、一月前に逝去した叔父の納骨に参列した。
高橋の家は代々浄土宗(らしい)
大谷本廟から国道の高架を挟んで南側にある、尼寺が墓所。
子どものころから何度も墓参りには来ている。
もっとも、そのころは宗派なんぞ気にせず(というか知らないし)ただ足がしびれるかどうかだけが気がかりな時間だった。

先月、逝去の後の法事で久々にこの寺を訪れ、浄土宗のお勤めに触れた。
知らないお経も多かったが、「仏説阿弥陀経」は耳なじみだし、「重誓偈」は一緒に声に出せる。
あと間に何度も十念のお勧めがあり、十声の念仏を称えさせてもらう。
周りの親戚方はなかなか声に出すのは恥ずかしいようだが、お念仏はほっといても大きい声で称えさせてもらえるし、堂々とお念仏させてもらえる環境はとても気持ちがいい。

翌日の日曜日にはPTAのパトロールで神社を回った。
地域のお祭りで、子どもの同級生らは法被を着て参加したりみこしを担いだりもしている。
うちの子には参加させないが、縁日として遊びに行くのはやぶさかじゃない。

10年以上前に、ネット上で論戦を繰り広げたことがあった。
浄土真宗というくくりの中で、「自分のこととしての聴聞」を大事にするものや、「教団の改革が先」だという人たちとのやり取りが中心だったが、その中に「浄土真宗であること」をことさら大事にする方が居られた。
その思いは理解も出来るのだが、「浄土真宗以外に触れることすら駄目」だと相手を否定・攻撃する人だった。

確かに、自らの足元、信じるものをハッキリさせずに、あちこちに気持ちが揺らいでいるならばお叱りを受けることもあろう。
しかし、自分の信がハッキリしていれば、逆に他の宗派などに触れることで、なおさら自分の信じさせてもらっているものがハッキリしてくる。

念仏行を大事にする場所でお念仏をすればするほど、ただの行ではなく、そこに回向される信心がありがたくなってくる。
強制される、あるいは奮い立って称える念仏ではなく、縁に触れて湧き上がってくる念仏。

今の自分、環境を変えたくて、ひたすら神にすがる光景に触れれば触れるほど、誰も変わることの出来ない「自業自得」が知れてくる。
もちろん、頼りたくなる気持ちもあるし、そういう人たちの気持ちも理解できる。
ただ神頼みでは自らの罪悪の行き場はごまかされてしまうだけだ。

そういう他の考え方を批判したり責めたりするのではなく、それらを縁に自分自身を問題にする。
他を責めているうちは自分の問題にならないんじゃないだろうか。

クリスチャンじゃないのに、クリスマスに浮かれる私。
現人神は認めないというのに、その祝日の恩恵にはあずかる私。
神を崇めないのに、神社の縁日を楽しむ私。
そんな輩だからこそ、南無阿弥陀仏のおいわれをしっかり聞く。

もちろん私には浄土真宗を通じて気付かせていただいた世界がすべてだ。
しかし、それは浄土真宗がえらいのではなく、阿弥陀仏の願力がえらいのだ。


打ち込んでいて思ったが、「縁日」って漢字で書くと深いなぁ…。

日曜礼拝4月 はなまつり

2010-04-27 05:01:31 | 真宗

日曜日は華光日曜礼拝の「はなまつり」

花御堂もお飾りをされ、お釈迦様に甘茶をかけてみんなでお祝い。
子どもたちによる献灯・献花・献灯のあと散華、おつとめをして、ちかいの言葉。
早めに集まった子どもたちが、何度も何度も練習して行う。

うちの子は二人の息子が「献灯」と「ちかいの言葉」担当だ。

ご法話は本職M先生。
花祭りの「花」と華光の「華」を通じて、「泥中の白蓮華」である仏様の「おこころ」
そして、「こころ」はどこにあるのかというお話。

4月は学生が卒業・就職したり、帰省や職場の変化などでボランティアの先生が入れ替わる時期でもある。
今年も数名の移動があったため、私も子どもの分級のお手伝いに。
園児と小学1・2年生の組を受け持った。
まぁ、この年代は静かに話を聞かせるまでが9割の仕事。
ばらばらに好き勝手するのが当たり前で、1箇所に集めるとちょっかいの出し合い。
当然その辺は織り込み済みで、どなって静かにさせるなんて野暮なことはしない。
こういうときはまず大声を出させる。
その代わり静かにすることもさせる。
具体的には、先生が手を上げてるときは「好きに叫んでよし」、先生が手を下げたら「その場で静かにする」
つまり、ゲームにしてしまう。
これで、声を「出すとき」と「出さないとき」を作ってやる。
で、何度か遊んだ後、「静かにした状態」のときに話しかける。

まぁ敵もさる者で、何度かやってるうちに飽きてしまうし、効力が無くなる。
そうしたら今度は手を水平にしたときは「声は出さずにスローモーションで先生に近づいてくる」なんて新しいルールも加えて、新鮮さを(少しでも)出す。

まぁ、そんなこんなで何回かに分けて自己紹介を交えて「どんなお話だった?」ということを全員に確認。
「忘れた」や「わからん」っていうのも多いけど、「おしゃかさまのおはなし」「こころのおはなし」などとキーワードにふれてくれる子らもしっかりいる。
ご法話の中の「宿題」でもある「こころはどこにある」「どんな感じ」「色で表すなら」ということも試してみるが、反応するのは一部の子。
みんなが遊ぶ中、一部の子でもこうやって先生の話が響いているのがすごいことだ。
「赤」「肌色」「ぴんく」と最初はあったかい色。
「悲しいときも同じ?」とたずねると
「青」「水色」「透明」と答えが返ってくる。
単純にハートのイメージで赤系の色を答えてるだけじゃなく、変化を感じているのは「見つめている」作業をしてるんだろうなぁ。

これを読んでるみなさんもぜひ、いま「心はどこにある?」「どんな感じ?」っていう自分の感覚にたずねる作業をしてみて欲しい。

おやつの時間まで先生役をして、大人の分級座談へ参加。
しかし、途中から入って流れに乗っかる前に、「特別ライブ」のお誘い。
こっちも楽しみだったので、分級座談は中断してライブ見学。

ライブ後再び分級座談に戻ったが、ある方のライブ評によって気分は最悪。
確かに音楽には好みがあるし、「自分の好みじゃない」ということを表明するのは自由だけど、自分の好み以外を否定して「駄目」と相手を攻撃することは「自由にしていい」ことじゃない。
ましてや「ここは自分の思いを自由に言っていい場所でしょ」と本気か皮肉か分からないけど、自分本位の「自由」を振りかざされると「安全な場」を目指しているものが崩されてしまう。

と、実はこの時点で私自身が「自分の求めてる価値」を基準にして、それに沿わない人に「困って」しまっている。
「困っている」ところまでは私の感覚だし、それを表明すればよかったんだろうけど、気持ちはその人を「攻撃」「排除」に向かってしまっていた。
なんのことはない、「気分を害した」感情に巻き込まれて、同じことをしているのだ。

いやぁ、ころころと変わる「こころ」に出会い、そんなドロドロのところに真っ白な華を咲かせてもらえる、そんなことにあらためて出会わせてもらえました。

「はなまつり」のことはかりもん氏もブログにされてますのでどーぞ。
花御堂の前で「ちかいのことば」を読んでる、腕だけ映ってるのが我が息子です。


花祭り と 本願寺

2010-04-09 16:46:52 | 真宗

昨日4月8日は花祭り。
毎年、どんなことを書いてたかなと過去のブログを振り返ると…2年連続で入学式に絡んでたことが分かる。
(こういうとき、ブログって便利ですね)

そこでも書いてたけど、単に「お釈迦様の誕生をお祝いする」というよりも、お釈迦様がお生まれにならなかったら、私がこの迷いから離れることは出来ようも無かったという事実に打ち震えるばかりだ。

お釈迦様がお生まれになったことは、天の諸仏もお喜びになったという。
人間の世界に、仏のお心を伝えてくれる存在が生まれたのだから。

ということで、本願寺にでもお参りして、灌仏しようかと思っていたら新聞で次のような記事を見つけた

西本願寺飛雲閣を9日特別公開
(Webの記事をリンクしておく)

「花祭りじゃなくなるけど、せっかくなんで行くなら9日にしよう」
と思い、仕事なんかもうまく調整できたので出かけてきた。
思い立ったら、自転車で15分も走れば行けるというのはありがたい話だ。

久々の本願寺参拝。
思ったより人手は少ない。
きっと明日からの週末には多くの参拝・観光があるかもしれない。

で、入り口に向かったら「写真撮影お断り」の無粋な張り紙が。
入り口の案内係(黄色のジャンバーは無粋だなぁ…やっぱ黒衣を着ててくれないと)のお姉さんにここからならいいですか?と確認して、入り口の外から雰囲気だけでも。

二つの戸をくぐって庭園へ。
最初は茶室っぽい建物があって、そこから水路に沿って庭園へ。
でも通路以外は柵で区切って入れない。
要は通路沿いに歩いて景色を見るだけで、飛雲閣の中には入れない。
庭園と外観を楽しむだけ。
でも、普段は見れ無いと思うとちょっとお得な気が。

人でも少ないから、のんびりと散策の感じで池と建物を眺める。
写真が取れたらなぁ…
ということで、本願寺のページをリンクするのでその写真でご勘弁を。

外に出てから、ちょっとでもと思い、いくつかのスポットで撮影。
(塀の外からだから、公開してないときでも見える範囲で)


修復なった御影堂


普段は閉ざされた飛雲閣への入り口(右端に無粋な張り紙が)


外に出て、鐘付き堂から覗く飛雲閣


上の写真からズームで。2層目の襖絵もちらりと。


白い壁の向こうには素敵な庭園が…なのにねぇ。


御影堂縁側から望む飛雲閣


さらに縁側の端まで移動して。下が庭園出口


同じ位置からズームで

この飛雲閣で、誰が何をしてたかは知らないんだけどね。
まぁ、本願寺自体、親鸞聖人がここにいたわけでもなく、伽藍でしかないし。
ただ、御影堂や阿弥陀堂にお参りして、そこでお念仏させてもらう「わたし」が問題なだけ。

でも、あれだけの伽藍の中で、声にしてお念仏してたの私ともう一人くらい…。
衣着てる人も何人かいたんだけどねぇ…。
まぁ、周りがどうあれ、お念仏したいときに堂々とさせていただきますけどね。
他人のことや組織のことなど、私にはどうしようもないしね。


おまけ:御影堂のついで(?)にきれいになってた志納所
懇志が多く集まったからきれいにしたのか、多く集めるためにきれいにしたのか…
と、これ以上書いたらまずいかな。


 


京都支部法座 ~迷いの姿~

2010-03-02 00:01:03 | 真宗
日曜は京都支部法座、辻家家庭法座として行われました。
家庭法座というのは、そのお家を会場に提供していただくことで、普段お参りになりにくい家族・親族やご近所の方のご縁になって欲しいと言う願いから、その準備・お世話・講師へのお礼などをお世話してくださるところに、有縁方はご一緒にとの願いで支部の法座として開放してくださっているものです。
辻さんの場合は、熱心に法座を開いてくださっていたおばあちゃんやご主人が先に旅立たれ、お子様方もすでに独立していると言う中で、毎年家庭法座をしてくださっています。
華光会館のご近所と言うこともあって、最近は皆が集まりやすい会館を会場にして行われています。


今年も、増井悟朗先生を講師に、ご法話と座談会。

ご法話の内容も触れたいのですが、今私の気持ちは後の座談会の関わりに心が向いています。
まぁ、どんなに説明しても私のフィルターを通したものなので、出来事を忠実に記載することはしません。
というか、法座といえど、その時間にその場所でそのメンバーで行われた時間ですので、誰が何を言ったかなどのことをブログで公開したくないなと言う思いがあります。

なので、私の中ではつながっているけど、表に現れる文章だとよく通じないかもしれません。


座談の中で、「先生にお聞きしたい」ということで質問をされる方が居られました。
まぁよく見る光景ですし、先生も丁寧に答えられます。
が、ひとつの回答に満足(?)しても次々と質問が繰り返されていきます。

私にとっては予想されていたことでもあるんですが、ネット上で何度も目にする話題。
そのことを華光会は、増井先生はどう捉えているのかという。

今まで、自分が聞いていたことが正しいかどうか不安になってくるんですね。
一部を否定したら、他のことも否定したくなってくる。
そういう人の否定する言葉で、自分も不安になってくる。
それがどんどんいろんな人に増殖し、ある人は否定することを目的とし、ある人はまだ否定できない人を目覚めさせようとする。
おそらくそういうことだろうと”想像”しています。

今の今、南無阿弥陀仏のお心の話を先生がされていたんですよね。

でも、自分が質問したいことが解決しないと、なにも聞けないのかもしれません。
その気持ちを大事にしたい感じがひとつ。
もう一方では、10年間(人によっては20年だったり30年だったり)積み上げてきたことの「正しい・間違い」を全部検証するには同じ年月が必要なんじゃないかなという(私が)待ちきれない感じがひとつ。

そこには、法を説いている指の検証であって、その先の月が一切目に入っていない。

捨てさせられるものの正体がありますね。

そしておそらく、そのことをいくら周りが「間違っている」と詰め寄ったところで、自分自身で気付かないことには、方法のもちかえで、手法が「組織・個人の否定」から「駄目と言われたからがんばって意識しないようにする」という、どちらも法抜きの「自分で変化を求める」姿でしかないのが悲しいことですね。

そういう姿を見抜くためにすでに一劫を費やされて、もうお見通しだからそんなところに力を入れなくてもいいんだよとの願いが、すでに南無阿弥陀仏として出来上がっているんですけどね。


「先生に直接答えていただいて、安心しました」というようなことを最後のほうで話してくださったんですが、その「安心させてくれた」先生の伝えたいことに向いてくれたら、この日質問したことは無駄にならないんだけどなと言う気持ちがあります。

もしかしたら、また別の質問で、不安を解消する作業が続くかもしれません。
でも、そこには際限がない。
私の欲を満たすことでしかないですから。

まさに、この日法話で話してくださった四苦八苦が、この欲を満たすと言う私の根本から起こっているということを…
まさにそこがお目当ての「願行具足」の南無のお心ですよね。


ある人が「まだ間違った教えを信じている仲間に、正しいことを伝えたいから聞いてている(信心獲得したい)」と言っていました。
昔、ある人は「自分を師として法を聞いてくださる方のために、法を聞かなければ(信心獲得したい)」と言っていました。
私は「連れ合いや、連れ合いのお父さんに認めてもらうため(信心獲得したい)」に、熱心に聴いているふりをしていました。
(私のは別として)どれも世間的には尊い姿で、利他行ですよね。

でも、私が抜けています。
「すべての衆生」というのは、わたし抜きのすべての人が法を聞いても、私一人が聞いていなければ成立しないんです。
ならば、周りの人を目覚めさせるより先に、大事なことがあるんじゃないでしょうかね。

なのに、ついつい人のことを問題にしているのは、誰を隠そうこの私ですね。
そういうご縁を通じてしか、この身が知れない…もったいない話です。

日曜(祝日)礼拝 2月

2010-02-12 16:18:51 | 真宗

今月は日曜日にいろいろと行事が入っているため、祝日の11日が「日曜礼拝」でした。

この日を迎えるまでに、かりもん氏のブログでの記事が私の中で大きなテーマになっており、ちょうどご法話も座談の話題もそのことを深めさせてもらえる機会になった気がします。

そのブログの冒頭に書かれた、先日の仏教青年会のご法話

「仏法はなぜ難しいのか。それは、お経の言葉や用語が難しいというだけではない。私の願い(欲望)と、仏様の願い(本願)、つまり、私が日頃求めてるものと、仏様が私にあげようとおっしゃるものが、あまりにも違いすぎるからです」

私はその法座に参加してませんし、ほんの部分だけなのでそのご法話で先生がおっしゃりたかったことをしっかり受け止められているかどうかはわかりません。
しかし、このモニターを通して、その文章を通して、私の中に届いてくるものはあります。

仏法を「難しい」と思うこともあれば「難しくない」と思うこともあります。
前者はやはり「私に出来ることが無い」ということ。
「これをして、これを達成しなさい」と指示されるのならば、努力努力を積み重ねて、そこに近づいていくと言う道があります。
しかし、それらが一切否定される。
「役に立つものは何一つ無い」と。
すると、どうしていいのかわからない…難しいんですね。
後者は「何も変わる必要が無い、そのままの姿がお目当てなんだよ」ということ。
これも「何も出来ることがない」ということ。

このように、同じことなのに難しいと取ったり難しくないと取ったりしてしまう。
そういう部分を、悩んでいる方にお伝えするときに、どんどん言葉を費やせば費やすほど、言葉上の関わり、観念上の理解に陥ってしまう気がします。

そこをすっきりと言い切ってくださったのが、上に上げた先生のお言葉。

私が追い求めているもの…たとえば今の苦しみを何とかして欲しいとか、信心喜べる身になりたいとか、そういうものは今の私が「変わる」事を求めている。
欲の塊ですね。
しかし、仏様が願ってくださるのは、そんな変化の喜びではなく、また目先の苦の解決ではなく、苦しまなければならなかった大元である”迷いの身”の解決。

はっきり行って、そんな壮大な得体の知れない幸福なんて求めていないんですね。
口では「お浄土に生まれたい」なんていっていても、それは私が想像しえるお浄土と現実を比べて、「あぁ、はやくこの現実から逃れたい」としか願ってないんですから。

だから、そんなことに右往左往している私の望みというものに見切りをつけて、「今の私の現実をなんとおっしゃっているのか、それをどうしてくださると言っておられるのか」と、ご本願を聞かせていただく。

座談会でお話させていただいた方々も、「どうして今求めておられんですか」という問いかけをされても、「この身の変化」しか出てこない。
いや、当たり前ですよ。
私も偉そうなことが言える立場じゃない。
でも、そこばかり追いかけていては、聞こえてきているものも聞こえない。


もうひとつ、このお話をもとに私の中で味わっていたことがあります。
こちらは人間関係での話です。

AさんがBさんのことについて、意見を述べます。
AさんにはAさんの思いがあり、それをなんとかBさんに伝えたい。
しかし、Bさんは「こういう風に伝えて欲しい」という伝え方に問題を感じ、そうじゃない伝え方のAさんの思いを受け止められない。

そしてそのことをBさんが複数の方が目にすることが出来る場で表明された。
そのときのBさんが伝えたかった事があるでしょうが、どういう気持ちでBさんが伝えたのか確認されないまま、今度はそのBさんの行動を第3者があれやこれや話題にしだす。

伝えようとする側の求めているものと、聞いている側の求めているものに大きく違いがあるまま、第3者を巻き込んで話がすすんでいく。
なにも、この例に限ったことではなく、よく見かける場面です。
本人不在の井戸端会議や給湯室会議もそうでしょうし、飲み屋での話題もほとんどが人の噂話じゃないでしょうか。

と、話がそれてきました、この話題はまた別に機会にしましょう。
(人間関係のことは学習会に参加してくださるといろいろ気づけると思います
「聞き方・伝え方」の学習会 2月13日

つまり、そういう人間関係の話題も、私には冒頭のお話につながってきたんです。

人間同士でも(人間同士だから余計に?)相手の思いを正確に受け取ることは難しいです。
ましてや、仏様の願いは、それがさらに人間を通してでしか聞けないんですから、見かけや信頼度や相性や、そういったまさに人間的なところに影響されて、また同時に自分自身のものさしに合わせようとゆがめて受け取ってしまいます。

最初から正しく聞くに越したことはないのですが、まずは
私の求めているものと、仏様が与えてくださるものが違う
ということをしっかり受け止めることから始まるんだと思います。


人間同士の伝達 と それを超えて伝わるもの

2010-02-06 01:43:34 | 真宗

先日、ある方からメールをいただき、いろんなことを考えるご縁になりました。

法座での出来事を通して
○感情的に迫ってこられることにおどろいた
○お聖教をおろそかにしていないか?
○体験や実感で答えないで、お聖教についてしっかり答えて欲しい

本来ならばしっかりといただいたメールを引用して、それのお答えすべきかもしれませんが、このブログではあくまでそのメールをご縁に私が感じる・味わうところで書こうと思います。
ですので、上に書いた内容もブログねたのための大まかなあらましですから、実際のご質問と少し趣旨が違ってきていることをご了承ください。

もっとも、送信主にはすでにメールで返信していますし、他の方でもコメントで問いかけいただいたりしたらこのブログ上でもしっかり内容を引用して丁寧に答えさせてもらおうと思っています。

という前置きの上で…

まず、法座で感情的に迫ってこられる場面は私もよく目にしています。
というか、私自身そういう関わりを多くしてきました。
また、感情的に迫られて困る側のこともありました。

今はそのことを振り返って、「伝える」事が大事ならば感情的になるのは双方にとって良くない面があると思っています。
ただ、感情的になってしまうくらい、その方が持っておられる「思い」というものがあるでしょうし、そのことは大事にしたいと思っています。
また、驚く方の気持ちも大事ですから、私がそういう場面に出くわしたならば、できるだけ驚くことでとどまらないように、肝心の「伝わるもの」を丁寧に確認していく作業をしたいとは心がけています。

似たような事は先月のエントリーでも書いていますね。

やはりこの部分は今の私には大事なテーマで、法座であるからには「伝えるもの」がありますし、表に出る人間関係はこだわるべきものではないはずです。
しかし、人間同士のコミュニケーションでしか伝え合うことが出来ない。
ならば、コミュニケーションを意識していくこと、学んでいくことは、双方のためになるはずです。
だれも傷つきたいとは思っていないし、傷つけたいとは思っていないはずです。
「言いたいこと」を第一にするのもいいですが、それが上手くいかないときに「感情」に巻き込まれてしまうのは双方が傷つくことになりかねませんもんね。

ただ、いつも冷静でいろなんて言うつもりはありません。
感情の中に伝わるものも確かにあるんです。
聞く側がそれを受けられる状態ならばそれもいいのでしょうが、多くの場合は感情的に迫られると困ってしまい閉じてしまうんじゃないでしょうか。

私が始めた「聞き方・伝え方」の学習会は、まずはそういう「困る」場面とそうでない場面を体験していくことで、自分でいろんなことに「気づいていく」ことを考えています。
それほど、この「伝え方」は今の私にとって大事なテーマなんですね。


さてもう一方の「お聖教」の問題です。
最近出合う多くの方は、長年にわたってお聖教を学んできておられます。
頭が下がります。

じゃあ、私はお聖教を学んできていないのか…
比較で言うと、そういう方々ほど覚えていないですし、確かに弱いですね。
ただ、私は覚えたり理解したりという「学ぶ」ものでは無いと思っています。
根本は「南無阿弥陀仏」にあります。
それひとつがあれば、全部具足しているのですから。

ただ、その「南無阿弥陀仏」が「誰が何のために」作られたのかということを知るために、先人の言葉を頼りにします。
だって、仏様の言葉を聴く術を持っていませんから。
そうするとお釈迦様が初めて人間の言葉で伝えてくださったお言葉を残されたものは当然大事にしなければなりません。
それは最初インドの言葉で、そのままでは私はわかりません。
なので、いろんな方が伝えてくださる中で日本語にしていただき、さらにただの文字の羅列である「南無阿弥陀仏」にこめられたお心を聞かせてもらうしかありません。

ここで大事なのは、その伝わる言葉を一字一句間違えないようにしたり、一生懸命解説して理解することではなくて、「誰が何のために」と聞き「今・ここ・わたし」と「南無阿弥陀仏」の関係が仕上がることが大事です。
もちろん、その関係が出来上がった上で、より多くの「こめられた願い」を知ることが出来れば、大いなる喜びになるでしょう。
逆に、その関係なしに知識を重ねても、それは命切れるときに「役にたたない」、火葬場で焼かれて消える「脳漿の働き」でしかありません。

話を戻しますが、法座でお同行さんが「体験」や「感じ」で伝えようとすることが多いのは、「知識」では救われないから、「今湧き上がるもの」を感じて欲しいという思いからです。(私はそう思ってます)
それは「実感している」人の言葉であり、お聖教のことばと見かけは違いますが、むしろ生きて働いている仏様の力です。

お聖教が正しいとかわかるとか、この人が信用できるとかできないとか、好きだとか苦手だとか…ついついそういうことに気持ちが行ってしまいますが、その後ろに「南無阿弥陀仏」がああることを聞いてください。

人を見ずに、南無阿弥陀仏に触れたならば、勝手に「私の心」は動きます。
「わかった」とか「覚えた」とかいう頭・知識の動きでなく、また回りの人に影響されて怒ったり泣いたりする単なる感情の動きでなく、「あぁ…」と勝手に湧き上がってくるものがあります。
ふれれば動くんです。


明日から華光では仏教青年会の宿泊行事があります。
私は参加しませんが(もう仏青はとうに卒業してますし)、その前にこのブログを見る方がいるかもしれません。
ふれれば動くんです。

お聖教は理解しようとがんばるのではなく、勝手にその言葉からあふれる「願い」が働いていますから、浴びるように、その刹那刹那に打たれてください。

仏法を浴びて、打たれてください。
南無阿弥陀仏が勝手に働いています。