放浪の旅からちょっと横道
というか、本来自分の思いと出会うことが目的の旅なので本筋と言っても良いかも
1日目の”出会い”を通じて、私の中の思いが言語化できてきたこと
テーマ的な言葉で言えば「ニーズに合う」とうこと
縁あって浄土真宗に出会い、私自身が悟っていく道で重要だったことは「後生の一大事」ということ
私の知識や認知力を超えたところで、私の行く末を案じてくださる存在がある
それは、今現在生きている世界(今生)でのあれやこれやなどとは比べ物にならない苦の世界であり、そこから解脱することで得られる悟りの世界
なので、「今生の大事に右往左往するな」と
このこと自体は「まこと」であり、ぬかすことはできない
そして、このことの「純粋性」を大事にする法座に当たり前に接していたことで、ここから逸脱することは考えられなかった
自分自身にも枠ができ、相手にも枠を示す…時には押し付ける
だって、「まこと」なのだから
また、浄土真宗というカテゴリーにありながら、この「まこと」の純粋性から外れる教団やお寺の現状に憂いを感じていた
「なぜ、純粋に後生のことを問わないのか?」と
しかし、カウンセリングにも触れるうちに変かが起こった
いくら「まこと」を大事にしていても、目の前で関わるのは「人間」という存在同士であり、それは「目の前の出来事に右往左往する愛しい存在」であるということ
さらに「受容」ということを重んじるならば、その右往左往を、その苦悩をそのまま受け入れることの是非が問われる
純粋性や「まこと」を押し出して、「いまそこにいるあなた」を切りつけてよいものか
あるひとは、先祖の供養が大問題で宗教に触れているだろう
あるひとは、占いやまじないの結果に心の安定を求めているだろう
あるひとは、癒しやヒーリングで苦しみを軽減しているだろう
あるひとは、今晩の食い扶持に困って腹の足しにならない説教なんて見向きもしないだろう
そんなことが「後生の一大事」に関係ないからといって切り捨てられても、責めることではない
「あなたはそうなんですね」と受容する
振り返れば、弥陀の誓願は「あまねく衆生を救う」というもの
それを「救うというのだから何もせずにお任せ」となると少し違ってくるのだが、受容という点ではこちらの「ありよう」を超えて、「今欲するもの」を超えて、願い、誓ってくださっている
と、話がまとまりにくくなってきたが、大元が「受容」の塊なのだから、人間同士の関わりにおいて「純粋性」だけを是としなくともよい
弱い弱い人間という存在同士で、供養であろうが癒しであろうが、「いまここのあなた」が求めるものに応じて接する
ニーズがあるのならば、供養を大事にする集まりであっても、癒しを与える集いであっても、一宿一飯を与える場であってもいいじゃないか、と
かたくなに「まこと」だけにそぎ落とされた集まりも、ニーズがあるならそれでよし
「まこと」なんて思いが至らなくても、目の前の関わりとしてゆったりお茶を飲んでいてもよし
もちろん、どっちかに決めなくとも、その時その場所、その時の仲間で、右に行こうが左に行こうがよし
まぁ、このよしあしってのも所詮私のものさしの範囲ですけどね