コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

第7回 真宗カウンセリング・ワークショップ

2010-06-22 06:42:37 | コミュニケーションワーク

土曜から日曜にかけて、真宗カウンセリング・ワークショップを開催しました。
当初は3日間の予定でしたが、参加希望者が少なく・・・
どうも金曜日は仕事があるのと、参加資格に「三日間参加の方」とあるのがネックな様です。
締め切りぎりぎりまで3日間の予定で勧誘しましたが、様子見もかねて「二日間にするかも」とアナウンスしたところ「それなら検討します」との声がちらほら。
それでも3名くらいなので微妙でしたが、「少ない人数でも開催したいですね」との先生の一言もあり二日間で開催決定。

その後も迷っていた方などから申し込みをいただき、最終的には6名、先生と私を入れて8名でのワークショップになりました。


京都は梅雨の真っ只中、しかも前夜から「九州からの大雨が本州全土に移動し…」などと言われていたので心配していましたが、二日間とも雨には影響されず(ワーク中に大雨になることもありましたが、食事に出かけるときにはやんでいます)蒸し暑いのは京都では仕方ないのですが、会場の部屋には空調もあるので快適です。

興正寺の中にある婦人会館が会場。
二つの部屋を「どちらかお使いください」と鍵をもらって、和室と洋室(テーブル席)が隣接した部屋を選択(ちょっとだけ部屋代が高いんですけどね)
ちょうど8人がけのテーブルが、絶妙の距離感を作っていい雰囲気。
休憩時は和室でごろごろできるし。


セッションは全部で5回。
数分間のお念仏(時にはリレー念仏)と黙想の時間を各セッションの最初と終わりに。
それぞれの今の味わいを分かち合った後、自由に話し聞く時間。

で、中身は…と、これはここでは書けないんですが。

仏の願いを各自の存在の根底に置いての、そこに居る人を大事にする関わり

宗教観も様々、カウンセリング観も様々。
けれど、ひとつになっている感覚をい味わいました。


仏法を求めていくと、その廃立を厳しく見ていくことははずすことはできません。
しかしその一方で、それを受け取る人間はコロコロ変わる感情を刺激されると、真仮が混在し見極めることができなくなります。
ましてや人の口から法が語られるとき、その人の態度や感情に、こちらの人の部分が反応して閉じたり守ったり、あるいは傷つき反発し…おたがい人だから仕方ないんですけどね。

相手からの「それじゃ駄目」という否定を浴びたとき、「今のままのわたしで居られない」という思いはすべてを閉ざすものにつながります。

でもゆっくり「今のわたしでいてもいい」と受け止めてもらうところからはじめることで、外からではなく今まで経験してきたところに居る仏願に出会っていけると思います。
そう、すでに働きがあり、働きを経験している。
それを押し付けではなく、自らの「気づき」で味わっていける。

相手のことを語るのではなく、その相手が居ることで響く私のところを語ることで、それがまた相手に響いて気づきになっていく。
響きあい、育ちあう人間関係の中で、それが法に願いに包まれていることを味わえる。
いや、法に包まれているから、安心して響きあい育ちあうことができる。


生活の話題の中にも法が存在し、法の話の中で人同士の関わりを感じる。
「真宗」と「カウンセリング」
私においてはこの二つは切っても切り離せないものとして。

時間・顔ぶれを含めた、この「場」で出来上がった関係の中で、「私が私で居られる」二日間でした。


あまりに気持ちよすぎて、終わってからの飲み会でかなり語ってしまったことが気にはなりますが…(笑)
そのことはもしかしたら言葉にして残すかもしれないけど、このままスルーする確立が高いかな。
しかも今晩ミニカンがあるから、今のわたしから何が飛び出すか、ちょっと怖いかも。

金曜日には「聞き方・伝え方」の学習会もあることだし、まだまだ「私が私で居られる」ことができそうです。


緊急告知 真宗カウンセリングワークショップの件

2010-06-11 09:17:37 | コミュニケーションワーク
先日お誘いを書き込みました6月の「真宗カウンセリング・ワークショップ in京都」ですが、正式に二日間の日程に変更されました。

19日(土)10時半から 20日(日)16時半まで
会場は興正会館です。

なお、通いの研修会として開催しますので、宿泊が必要な方は各自手配いただく必要があります。
会場の興正会館も宿泊施設がありますので、こちらをご希望でしたら手配のお手伝いはさせていただきます。

研修費 15,000円(学生14,000円、研究会会員13,000円)

今週末まで受付しますので、ぜひご検討くださいね。

なお、案内は真宗カウンセリングのHPに掲載しております。
http://dbpca.web.fc2.com/details/20100618.html

フォーカシング・エンカウンター 華光会司会者研修会

2010-02-24 03:11:53 | コミュニケーションワーク

先の週末は華光会で「司会者研修会」
といっても、司会術を学ぶのではなく、法座で司会をする機会のある人のための研修会。
(もうちょっとわかりやすい主旨はかりもん氏のブログで)
そう、他人との関わりを考えるには、自分との関わり方を見つめてみる事が大事だ。

そこで、今回は「心の天気を感じてごらん」著者でもある土江先生をお招きしての二日間。
私にとっては昨年に「真宗カウンセリング研究会」での研修会についで、二回目のご縁だ。

昨年の研修会では「円座禅」と称されていたが、「フォーカシング・エンカウンター」という呼称にされていた。

ワークの流れを書いても良いけど、あんまり説明が続くのも面白くない。

そこで、二日間の心の動きを振り返ろうかとも思ったけど、どうも気が乗らない。

今は振り返ることに気が乗らないわたし。

実は直後に特定の人だけが読める場(mixi)に整理しないでそのときの心境を書いてみた。
ブログにするときはそれをまとめようと思って。
そういう作業もやろうと思えば出来るし、別に隠すことでもないから。
でもそれもしたくない。

今、二日前に言葉にした気持ちをまとめなおすことをしたくないわたし。

ならば、その二日間を経験して、その上でさらに二日間仕事したり、人と会ったり、家族と触れ合ったり、同じく参加した人のいろんな言葉を受け取ったりした今のところで、何でも良いからブログにしておこうかと。

こうして書いてみながら、複数の”わたし”が出たり入ったりしている。
そのことはフォーカシング・エンカウンターの最中に浮き彫りにされ、サポーターや先生の言葉を通して「あぁ、確かにそんな動きしてる」と腑に落ちた感じ。

たとえば、
文章を書いている「今の気持ちに沿って」と考える”わたし”
と、
そんな”わたし”を「打ち込んでる時点でもう過ぎた過去の思いじゃん」と冷めてみている”わたし”
さらに「それって本当に素直な思い?冷めている自分を演出して何か判ったふりしてるんじゃない?」という”わたし”
その他時々刻々、あんな”わたし”やこんな”わたし”

あ、分裂症って言葉が頭をよぎったわたし。

こういう風に、いくつかの”わたし”が複雑に動いている事実がありながら、その時々の”わたし”が主役の時には前の”わたし”を否定して自分が”本物”と主張するから、「いくつかのわたしがある」という事実を認めようとしない、いや認める必要を感じていない感じだった。
それを、外の人の言葉で「今のあなたはこうじゃないですか?」と、言葉にして返してくださることで(この言葉も多くは私自身の中から断片的に出てくる言葉)少し離れた視点で自分を見つめることが出来る。
そういう作業を体験させてもらえたし、講義の中ではそういう「プレゼンス」のことを教えてもらっていた。
あ、今のわたしの見方が、その「プレゼンス」なのかどうかはよく判っていない。

気がついたら振り返りも含めたことを書いてるなぁと思ったわたし。

最近のカウンセリングのワークや勉強会を通じて、その時々に現れる感じ(否定的なものも含めて)を、肯定否定なしに「そのままの感じ」として受け止めることは出来てきた気がする。
それは、その時々の”わたし”がそれぞれ受け止めている…あるいは、その時々に受け止められる”わたし”になっている。
うん、いままではその「感じ」を大事にしてきている。
もちろん、そこに焦点をあてるアプローチは私にとって大事なものだし、中心に在るもの。
そこに、その「感じ」をしている「わたし」を見つめる感覚が加わった。

感じも刻々と変わるから、それを見つめて、言語化していく事が大事だけれど、その感じてる”わたし”自身刻々と変化しているんだから、それを俯瞰してみる。

このことは、今ひらめいた。

そんな時々刻々の”わたし”を見つめやすいように、象徴化していく作業とその補助。
そしてその刻々の変化(シフト)を、象徴の変化を通じて見つめていく。

これがフォーカシング・エンカウンターだと理解したつもりになると怖いけど、何かしらこの身の中に育っているものがあるはず。

ちょっといいかっこしてきたなと思ってるわたし。


他にも「甘え」や「つながり」ってことでいろいろと”学んだ”こともあるんで、書けたらそのことも話題にしていきたい。

全部じゃないけど、打ち込みながら瞬間的に浮かんできたそのときの”わたし”を言葉に出来たら、それも織り込んでみた(色違いで書いた部分)

そういえば、研修会の各セッションに5分間の黙想があるんだけど、次々浮かんでくる時々刻々の”わたし”をどんどん言語化する作業していて、目が回るような感覚に襲われていた。
それを分かち合いのときに話すために、黙想中に現れた5分分の”わたし”を覚えておこうと。
分かち合いのときには全部”過去のわたし”なのにね。
そういうクセがあることも、今回よりはっきりした。

かしこいと思われたいわたし。

結局、うまく取り繕ってるわたし(のような気がしてきた)


報恩講…(関わりの観点から)

2010-01-12 15:24:20 | コミュニケーションワーク

報恩講が終わりました。
いろんな出会い、それぞれのご縁をとおして私自身への出会い、そして気づきを頂きました。

ご法話や座談でのことで感じたこともいろいろ書きたいのですが、その前に関わり方の部分でどうしても書き留めておかないと私自身が次に進めないなと思うことがあるので、そのことを書きます。

これは決して後悔ではなく、反省とは言えるかもしれませんが否定的な気持ちはなく、ただ、こういう自分がいたということを言葉にしておくことで次につながればいいな…という感じです。


最後の座談会、少ない限りある時間であり、それに対して多くの方とご一緒させていただいた場でした。
ある方が口を開いて疑問点をたずねてこられます。
私からすれば、つい今いただいたご法話の中でまさしくそのことを教えてもらっていたと思えるものでした。
そのご法話をされた先生もご一緒されていたのですが、私は自分の気持ちに任せて(間違いがあれば先生が正してくれるだろうという気持ちも含めて)ご法話でのお話の中身を確認する形でお伝えしてみました。

そのときはここに留意することが抜けていたのですが、今思えばその方が「たずねたかった気持ち」ではなく、理解・納得レベルのところで答えていた気がします。
その方も(回答の中身に)納得できない、私も(納得しようとしかしない態度に)納得できない。
思えば同じ事を言葉を変えて伝えようとしていただけだったなと。

でも、私自身はこれを駄目だったとは思えません。
そのときの私は、そういう動き方をしたかったのだと思うし、そのように動いていた。
ただ、未熟だっただけです。

いつしか話の流れで、その方の態度のところからはなれ、そういう身に対しての「本願のこころ」を軸にすすみだしたように思います。
このことも、つい今聞かせてもらったご法話で話してくださった内容です。

(こうして思えば、私が何かを伝えているのではなく、全部お話くださったことを私がなぞってるだけですね。まぁ当たり前の話ですが)

しかし、自分の姿ばかりを問題にして、なかなかお心に向きません。
別の方がその方の態度に「聞いてほしい」ということを叫びとして打ち出されます。

先に私のほうが感情的な言い方をしていたかもしれませんし、この方の叫びの後から感情的になったのかもしれません。
今はそのあたりは覚えてないのですが…

ここが今回、私が問題としているところです。
相手の方の気持ちではなく、この叫ばずにおれなかった方の気持ちを大事にしている私がいました。
言い換えれば叫んだ方の感情に巻き込まれていた…
これが良い悪いじゃなく、違うことも出来たはずだなという事を、自覚としてとどめておきたいと思っています。

叫んだ方の気持ちを聞いてほしかった

これは紛れもないそのときの私の軸でしたから、まったくそのとおりに動いている私がいただけです。
ただ、そういう方向の人が数人がかりで一人の方に向かっていく…そのときのご本人のお気持ちはたずねてないのでわかりませんが…(私だったら一生懸命自分を守ろうと構えちゃうでしょうね)いや、だからこそそこをお尋ねすることが大事だったなと。
私が言いたいことはちゃんと言ってくださる方が居られたのだから、余計に一緒にならずに動く道もあったはずです。

もし今後似た場面があったとして、実際にどのように動くかはわかりませんが、こうやって言葉にすることでもう一度私の中に刻んでおきたいと思いました。


丁寧に関わるには、今の私には「ゆっくり関わる」という時間的要素がますます大事だと思っています。
かといって、そうじゃないとき(限られた時間)は無理だ、仕方がないでは終わらせたくない気持ちもあります。

私にとっては大事な気づきとなりました。


伝えるために大事なこと

2009-12-05 01:49:47 | コミュニケーションワーク

 

今日、自動車免許証の更新に行ってきました。

過去5年の間に違反経験のある人は、ご褒美で特別な講習とビデオを見せていただく事が出来ます。
残念ながら駐車違反の検挙からまだ5年は経過しておらず、晴れて今回も講習を受けさせていただくことに…


まぁ、こういう講習はほとんどの人が「仕方なく」受講していると思います。
受講しないと交付してもらえないから…
確かに、こういう態度の人が毎日来るのですから、講師の方も大変でしょうね。
しかし、いろいろと気になる事があります。


聞く側の態度に問題があるってことは認めた上でなんですが。
この講習では「安全運転」のための大事なことを講義されます。
一応、官の側からすると、しっかり話を聞いて違反や事故を繰り返さないようにという前提があるはずです。
しかし、繰り広げられた講義には、そういう「聞いて欲しい」という気持ちが伝わってきません。

ひたすら早口で、必要なことを駆け足で羅列する…
この私ですら「早い」と思うくらいですから、年配の方には聞くのが辛かったことでしょう。
早くしゃべるうえに、口ごもった感じで進んでいきますから、余計に聞き取れません。
「時間通りにこなせばいい」というやっつけ仕事の感覚だけが残ります。


このことから、逆に「伝える」ことの大事さを感じました。
ただ情報を羅列するだけではなにも伝わりません。

ゆっくり丁寧に

当たり前と言えばこれ以上当たり前のことはありません。

私が、法座やカウンセリングで、こういう師にめぐり合えているから、そうではない伝え方が気になるのかもしれませんが。

そして、その心がけとして

相手が聞いてくれたかどうか、確認できなければ次の話題に移らない

というくらいのものが必要だと思います。

ただ「相手に言いたい」と言うだけならば、言いたいことをどんどん投げかけて言い切ってしまえばいいのかもしれませんが、「伝えたい」と言う気持ちがあるならば、自分の気持ちよりも、相手のことを大事にする必要がありますね。


真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡 -3

2009-11-07 01:22:33 | コミュニケーションワーク

気がつけばもう一週間前の出来事になってるんですね。
日々の生活の中で、刹那刹那に代わっている自分でもあるんですが、でもまだまだそのときの感じが余韻で残っている部分もあります。
もう一回そのことを書いてみましょう。

今回のワークショップでご一緒した方のお一人は、以前何度か(というかずっと長い間)お会いしていたときと、もっている空気感が大きく変わっていました。
その元になることもいろいろお聞きしたのですが、そのことはここでは触れません。
ただ、とても嬉しい感じがしましたし、頼もしい感じもしましたし、さらには嫉妬に似たものを呼び起こすくらい「すごく開放された」感じをうけました。

二日間、その方のお話を聞かせてもらうことで、今までのお付き合いの歴史を含んだ上での、今また新しい関係が出来上がってきたのを感じます。

そんな中で、その方のずっと思われていたことを言葉にされていました。
「ずっと、いろいろ聞いてもらっていたけど、返してもらっているのが、応えて欲しいポイントとちょっとずれていた」

いやぁ、ショックです。
もちろん、今の私から見れば過去の私は稚拙だなぁと思います。
ですので、力不足なことは仕方ないのですが、「ずれている」と知らずに「しっかり関われている」と思っていた事が恥ずかしいですね。

と同時に、「そう言っても大丈夫」と思ってもらえる関係が、今回出来上がったんだなと。

振り返ってみると、覚えているだけで(といっても普段は忘れてますが)本当に多くの方との関わりがありました。
私が拙いために多くの方を傷つけてきたと思います。
一方では「そうなるしかなかった」というところで収めることもありますが、もし今そういう方々ともう一度出会う事があれば、少しは違った関わりができるかもしれないなと。

いや、この私の性分からいくと、引け目を感じて、とてもフラットな関わりができないような気もします。

いやいや、想像だけで決めてしまうことのほうが良くないですね。

今までの事が消えることはないですし、それをお互いの歴史として内に秘めた状態での「いま・ここ」のところで、どのようなものが生まれてこようと、「そのように」いけるような私でありたいですね。

「どのようなもの」の中には、否定的な関係に支配される私もわきあがってくるでしょうが、それを無理に「それじゃ駄目だ」と抑えることもしないような気がします。

あるアニメでの「逃げちゃだめだ」という有名なシーンがありますが、「逃げてもいいんだよ」と言う言葉が私にはしっくり来ますね。

うーん、最初の書き出しと様子が変わってきましたが、そのまま投稿することにしましょう。


明日は(もう日付が変わって今日ですが)京都支部学習会
先日のミーティングを踏まえて、またワークショップの余韻を抱えて、どのような集まりになるのか、楽しみです。
よければご参加ください。


 


真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡 -2

2009-11-06 00:01:03 | コミュニケーションワーク

今日はミニカン継続学習会の予定でしたが、事前の参加申し込みが少なく中止になりました。
来月は10日ですので、皆様早めのご予定を。

で、以前からこの学習会の前か後に「ワークショップの分かち合い」をしましょうと松岡先生と話しておりましたので、中止になった分たっぷりと時間をかけて話をしてきました。
同じ出来事でも、先生の感じる側面、私の感じる側面それぞれありますし、お互い話し合うことで気付きがあったりします。
今日もその場面での、また後からの細やかな対応に、ありがたさを感じ、また勉強させていただいた感じです。

そんな振り返りも経たところで、先日のワークショップでの気付きを少し。


私自身が真宗カウンセリングを学びだした頃…いや、それ以前に回りの仲間が学びだした頃から、「開く」ということの理解が大きなテーマになっていました。
なかなか「開く」事が出来ない私自身。
「あぁこの人は開いているなぁ」と感じる様々な場面。
そんな対比を通して、私なりの「開くと言うことは…」というものをずっと持っていて、さらにそこに近づけないもどかしさを感じていました。

その時点での「開く」ということに、じつは大きな誤解があったんです。

それは

自分のうちに秘めているものを包み隠さずオープンにする

と言う感覚です。
言い換えれば

話しにくいことでも話ができる関係を築いていく

ということ。


しかし、ここには「無理して何でも話をする」ことも「開く」と認識し、それができない自分を責めるという非常に辛い状況にありました。
そりゃあ人に言えない話は一杯あります。
守るべきものもありますし(まぁ、たいしたものではないですが)、自分が良く見られていたいという欲も(たいがい見透かされてたりもしますが)あります。

そういう表に向けての「開く」の前に、内なるものが「開く」と言う事があるのを最近になって気付いてきました。

自分の中かから浮かび上がってくる思い・感情に対して、そのことが不都合だからとか、それでは駄目だと思うからとか、そういうことで蓋をしてしまう事があります。

理想の自分に対して、そうじゃない現状を嘆いて自分を責める…そういうことにつながってくるので、隠そうとする。
それもがんばってやっていると言うより、無意識にそうしてしまっているんですね。

そんな自分の内なるものを、そおっと受け止めてみる。
どんな思いや感情が出てきても、「そんな自分がそこに居るんだね」と。

これが、内なる自分に「開けて」いる状態じゃないかなと。

そんな自分があるって事を言葉にして伝えてみる。
その隠そうとしている中身をオープンにするんじゃなくて、「隠しておきたい私なんだ」ということを言葉にしてみる。
これは内なるものを「開いて」それをそとに「開いて」いる状態ですね。

中身を何でもさらけ出すんじゃなくて、今どういう自分かってことを丁寧に見つめて、あるいは衝動的にあふれてくる感覚をそっと捕まえて、
「今、こういう私がいます」
と言葉にしてみる。


もうひとつ「開く」に関して言うと、自分の中にある100のことを100表に出すことだけが「開く」じゃなくて、その中のほんのひとつでも言葉にして見る事が出来たら…
残りの99を問題にするんじゃなくて、1つでも言葉に出来たことを大事にする。
そういうプロセスも「開く」と言うことにかんして味わえます。


回りに100%近くオープンにしている人がいたら、そうなることを理想としてしまいがちです。
(こちらは100%と思っていても、本人はほんの少しだって場合が多いでしょうけど)
それも大事でしょうが、今の自分自身を認めていくこと。
そこから「開かれた私自身」が始まって行くと思います。


 


真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡

2009-11-01 23:47:22 | コミュニケーションワーク
二日間の「真宗カウンセリング・ワークショップ」が終わりました。
素敵な出逢いの二日間という感じです。
この二日間に体感したことだけで数日ブログにかけそうな勢いですが、今日はまだ旅先(福岡にもう一泊しています)ですので簡単に。

時間がたつと気持ちも変わるので、記録的な意味を込めて…そんなのはメモにでもしておけば良いんでしょうが、私にはこのスペースがあるんで、活用させてもらいましょう。

このブログにも今までいろんな形で、私にとっての「真宗カウンセリング」ということを記してきましたが、この二日間で「いままで言語化できていなかった」おぼろげなイメージのものがはっきりしてきたという感覚、そしてあらたに出逢った感覚をつうじて、ますます「真宗カウンセリング」が深まってきました。

「いま・ここ」を共有している人たちを通じて、「いま・ここ」の「わたし」との出逢いをする場。

繰り広げられるのは目の前の人たちとの関わりであるけれど、そのことを通じて「私自身」に出逢っていく。

するとそこに現れるどのような「わたし」であっても、それが「いま・ここ・わたし」として受けられるし、さらにはどのような「わたし」も、弥陀の本願に願われていることに気づいていける。

いや、言葉にすると今までも記してきたことの焼き直しに過ぎないけれど、わたしの中では単に頭でつむぐ言葉以上のものとして、身体全体に浴びた感覚。

もうちょっと時間がたったら、また違う言葉で表すことができるかもしれませんね。



今回、「お念仏のワーク」をする時間があったり、自由にお念仏する時間もあったりして、より「ダルマベースド」の感覚が大事にされた感じも、わたしにとって深まる時間だったなと。


また、具体的な話題を通じて書けたら、またアップしていこうと思います。


ご一緒させていただいた皆様、先生、ありがとうございました。
南無阿弥陀仏



地域若者サポーター養成講座

2009-09-21 23:20:48 | コミュニケーションワーク

昨年参加して、いろいろ勉強・刺激を受けた京都市の取り組み「地域若者サポーター養成講座」が今年も行われます。
私としてはカウンセリングスキルを「若者サポーター」の活動として提供していきたいのですが、いまのところ活かす機会はありません。
とりあえずは最低限の活動として「広報」に努めたいと思っています。

先日もお世話になった保育園などに活動のポスター貼りをお願いしてきました。
今回は、ブログで紹介という方法を使おうかと。

基本的にはニート状態にある若者に、職業的自立を目指してもらおうという活動です。
理想は、企業や公共で就労環境をつくり、受け入れること。
が、そういう面では私はお役に立てません(自分の給金もままならない状況ですからね)

が、昨年サポーター養成講座を受講することで、精神面のサポート、また周りの家族に対する精神的サポートは、バックアップとして大きな意味があると認識しています。

先日、京都府が行っている別の同様の取り組みに参加されている方とお話しする機会があったのですが、行政任せだとなかなか問題が多いということを聞いています。
それよりは地域地域で、府や市などの区切りを廃した、現場レベルのアイディアを集結した取り組みのほうが即効性がありそうです。

そのために、まず現状を知ってもらうことからということで、この養成講座があります。
興味のある方は、参加をご検討ください。
無料でいろいろ勉強できるのはありがたいことですよ。

問合せ先

昨年参加した時のことをブログに記しています。

第1回
第2回
第3回(この回は別の用事でお休み)
第4回
第5回
第5回-2
第5回-3
実習


円座禅 -4 花束のワーク・こころの天気

2009-09-17 09:40:30 | コミュニケーションワーク

二日間のプログラムの中に二つのワークがありました。

ひとつは「花束のワーク」
白い紙の上から4分の一あたりに波線を引きます。
上のスペースの好きな場所、好きな大きさで円を書きます(形は丸とは限らなくてOK)
心に浮かぶセンテンツを上に書き、真ん中に線を引き、下側にそのセンテンツに対する”感じ”を書きます。
たとえば上に「仕事」下に「ヘトヘト」という具合に。
それを思いつくまま、いくつも書いていきます。

自分の心のなかに浮かんでくるもの、またそれに対する”感じ”を、言語化し、外側に置いて行く事で、客観的に眺める作業になるのでしょうか。

ひとつのものを書くと、それに関連した事がいろいろと浮かんできます。
それは大きかったり小さかったり、真ん中のほうにあったり端にあったり。
”感じ”のほうも、好意的なものであったり、ネガティブなものであったり。

そうやって出来たものを眺めてみると、いろいろ面白いものが見えてきます。
自分の関心ごとの縮図であり、普段はあまり意識してないと思っているのにしっかりと主張してくるものであったり。

特に、あまり触れたくないことがしっかりと浮かび上がってきたときには、それを書いてみるかどうか迷います。
今回はワークの体験ということもあるので、そこは素直にいこうと、場所を探して書いてみます。
結局、一番隅っこのほうで、感じは「関わりたくない」という言葉といっしょに。


これは私のくせなんですが、こうして行っている「表現」に意味を求めてしまいます。
今回、それが良いのかどうかわかりませんが、無理に気持ちを修正せず、浮かんでくるままにまかせていました。
そうして見えてきたものは、手前(下)に置いている物ほど大事にしているもので、遠く(上)に置くほど避けようとしているセンテンツだなと。
もしかしたら心理学のほうでいろいろと説明付けられるかもしれないですね。

人によっては、ただの円ではなく周りを花のように飾ったり、手足をつけて動きを加えて表現している人もいました。

 

もうひとつは「こころの天気」のワークです。
こちらは絵に描くことで、心の様子・感じを、外に出して表現するものです。

これも自由に絵を書けば良いのですが、「天気」という言葉にとらわれている私は空の様子を思い浮かべました。

基本は青空です。
どちらかというと深い藍。
時刻は夕方…陽はあるはずですが、ちょうどそこだけに白い雲があり陽の光を隠しています。
でも、雲はそこだけなので、空は晴天のまま。
さらには、その雲の裏に太陽があるのを主張するように、雲のスキマからオレンジ色の陽の光が地上に射しています。

「完璧に晴天」というのは今の私の気持ちとは違います。
かといって、雲に覆われているのでもない。
しっかりと私を照らす太陽があります。
その太陽も遠慮がちに雲の後ろにあったりします。
後ろにあるのに、スキマから陽を射すことで「みえなくてもいつもここにいるよ」と。
うーん、複雑ですねぇ…一貫していない。
(ちゃんとした精神鑑定うける必要アリかもです)

ここまではこのワークをはじめたときに一気にビジョンが生まれてきました。
そのイメージを形にしていく作業です。
(表現がちゃんと出来てるか…イメージを絵に出来ているかは疑問ですが)

ところが、こうして絵にする作業をしているうちに、違ったものが心に生まれてきます。
遠くのほうに別の雲が気になりだします。
真っ黒な雲。
一度気になりだすと、どんどん雲は膨れてきます。
なので端の方に黒い雲を書く…いやもうちょっと大きくなってきた…雲を大きくする…大きくしだすとそこまでも大きくないかと…
その雲は近づいたり遠ざかったり、膨らんだりしぼんだり。
絵として留める事ができません。

そういう雲に付き合っていると、今度は光のほうが単純なオレンジじゃなく、もっと光り輝いて見えました。
黄色を足していると一筋の光だけでなく、周りがその影響でキラキラしてくる…

最初は「浮かんだビジョン」に固執して、それを形に留めるという作業。
後半は変化に合わせて深みを加える作業。

これも「花束のワーク」同様、あまり分析しないほうがいいのかもしれませんが、やはり分析してしまうこの”くせ”…
まぁ、それのよしあしじゃなく、そうしてしまうのが今の私だということを受け取ります。

実は、この記事に書いた感覚も、今日参加した「真カ研月例会」での刺激を受けて、また違ったステージに動いて来ています。
でも、まずは当日の感じを出来るだけなぞっておきます。
(月例会のことはまたあらためて)