昨日の記事でうまく「フォーカシング」を説明できなかったのですが、一日たって読み返してみて「フェルトセンス」という言葉に触れないといけないなという気持ちがあります。
この「フェルトセンス」というのがフォーカシングしていく相手…”感じ”ということになります。
自分の心を眺めていったとき(私の場合は”内省”という言葉がしっくり来ます)「なんか疲れてるな」というような”感じ”を味わう事があります。
仕事などをしているときにそういう”感じ”が現れたとき、その”疲れ”に付き合っていると仕事が進みませんから、その”感じ”を否定したり無視したりします。
そうでなく「疲れている」という感じを「いま・ここ・わたし」の姿としてありのまま受け止めていくことが大事になります。
(このことは以前「真カ研 月例会 7月」で話題にしています)
もちろん、「嬉しい」だとか「寂しい」だとか、いろんな”感じ”があると思います。
あるいは「おなかがしくしくする」だとか「ボォーッとした」というような身体的な感覚もあるかもしれません。
今回教えていただいた「フェルトセンス」ということでは
感じは未だ言葉にならないようないろいろな意味を含んでいる
という一歩深いところまで含んでいるようです。
それを
感じに触れながら言葉を発したり、表現したり、文章を書いたりすることで、感じそのものが変化していく
と教えていただきました。
(緑字は共に「心の天気を感じてごらん」より)
円座談のセッションでは、自分のフェルトセンスを感じながら言葉を発することで起こる変化「フェルトシフト」を感じていくということを体験します。
しかし、ここで私の受け止め方に問題が出てきます。
「いまおなかの辺りに重いものがあるけれど、心に影を落としているこの”感じ”を話せば、おなかがすっきりするんじゃないだろうか」という予感の元に話をしだします。
おなかの身体的感覚を言語化して話し、心にある”影の感じ”に付き合いながら言葉にしていきます。
羨み、妬み、葛藤…ゆっくりと聞いてもらうことで、言語化は進みます。
そして、予想通り、おなかのあたりの身体的感覚はかなり解消されています。
「話してみてどういう感じですか?」
という問いかけに、おなかの違和感がなくなったことを話します。
私としては、「感じが変化した」という感覚でしたが、フェルトセンスという点から見ると「それは想像できた変化」ということで、フェルトシフトとは異なるということを指摘されました。
内省的には予想通りであるなしに関わらず、現としておきている変化として、”ありのまま”受け止めます。
しかし、フォーカシングでは「予想外の変化」ということが大事なようです。
驚きを伴う変化
という言い方をされたように思います(すでに記憶があいまいですが)
このことにはちょっと困惑を覚えました。
というのは、私にとっていろいろ想定してしまうのは”くせ”なんですね。
数分間の「静かな時間」をもらうと、ひとつの事が浮かんでは、それに対するいろんな思いが回りで集散を繰り返し、誰かがこういう反応をしたらこう、ああいうはんのうをしたらああ、という具合に、いろんな想定をしてしまいます。
前いに書いたように、以前はそういう”想定”を振り払って、集中することに勤めていましたが、今は出てくるものは出てくるまま…として「いま・ここ・わたし」を味わっていますから。
また、「予想した変化」もそのまま「いま・ここ・わたし」として受け入れています。
ただ、私の感覚だけが正解だと固執するつもりも無く、今回先生に言われたこともひとつの受け取りとして…というより、これだけいろいろ想定するくせがあっても、それをも超えて「驚きを伴う変化…フェルトシフト」が起こってくることもあるのだろうなと。
それこそ、先に無理やり想定するのでなく、そのときそのときの”感じ”を大事にしていくだけですね。
今日はワークの話題に入るつもりでしたが、それ以前のところで終わっちゃいますね。
フェルトセンスに関しては、ごいっしょさせていただいた「かりもん」氏が詳しく書いてくださってます。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-1d3c.html