コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

円座禅 -3 フェルトセンスをめぐって

2009-09-16 02:21:54 | コミュニケーションワーク

昨日の記事でうまく「フォーカシング」を説明できなかったのですが、一日たって読み返してみて「フェルトセンス」という言葉に触れないといけないなという気持ちがあります。
この「フェルトセンス」というのがフォーカシングしていく相手…”感じ”ということになります。


自分の心を眺めていったとき(私の場合は”内省”という言葉がしっくり来ます)「なんか疲れてるな」というような”感じ”を味わう事があります。
仕事などをしているときにそういう”感じ”が現れたとき、その”疲れ”に付き合っていると仕事が進みませんから、その”感じ”を否定したり無視したりします。
そうでなく「疲れている」という感じを「いま・ここ・わたし」の姿としてありのまま受け止めていくことが大事になります。
(このことは以前「真カ研 月例会 7月」で話題にしています)

もちろん、「嬉しい」だとか「寂しい」だとか、いろんな”感じ”があると思います。
あるいは「おなかがしくしくする」だとか「ボォーッとした」というような身体的な感覚もあるかもしれません。

今回教えていただいた「フェルトセンス」ということでは
感じは未だ言葉にならないようないろいろな意味を含んでいる
という一歩深いところまで含んでいるようです。
それを
感じに触れながら言葉を発したり、表現したり、文章を書いたりすることで、感じそのものが変化していく
と教えていただきました。
(緑字は共に「心の天気を感じてごらん」より)

円座談のセッションでは、自分のフェルトセンスを感じながら言葉を発することで起こる変化「フェルトシフト」を感じていくということを体験します。

しかし、ここで私の受け止め方に問題が出てきます。

「いまおなかの辺りに重いものがあるけれど、心に影を落としているこの”感じ”を話せば、おなかがすっきりするんじゃないだろうか」という予感の元に話をしだします。
おなかの身体的感覚を言語化して話し、心にある”影の感じ”に付き合いながら言葉にしていきます。
羨み、妬み、葛藤…ゆっくりと聞いてもらうことで、言語化は進みます。
そして、予想通り、おなかのあたりの身体的感覚はかなり解消されています。
「話してみてどういう感じですか?」
という問いかけに、おなかの違和感がなくなったことを話します。
私としては、「感じが変化した」という感覚でしたが、フェルトセンスという点から見ると「それは想像できた変化」ということで、フェルトシフトとは異なるということを指摘されました。

内省的には予想通りであるなしに関わらず、現としておきている変化として、”ありのまま”受け止めます。

しかし、フォーカシングでは「予想外の変化」ということが大事なようです。
驚きを伴う変化
という言い方をされたように思います(すでに記憶があいまいですが)

このことにはちょっと困惑を覚えました。
というのは、私にとっていろいろ想定してしまうのは”くせ”なんですね。
数分間の「静かな時間」をもらうと、ひとつの事が浮かんでは、それに対するいろんな思いが回りで集散を繰り返し、誰かがこういう反応をしたらこう、ああいうはんのうをしたらああ、という具合に、いろんな想定をしてしまいます。
前いに書いたように、以前はそういう”想定”を振り払って、集中することに勤めていましたが、今は出てくるものは出てくるまま…として「いま・ここ・わたし」を味わっていますから。
また、「予想した変化」もそのまま「いま・ここ・わたし」として受け入れています。

ただ、私の感覚だけが正解だと固執するつもりも無く、今回先生に言われたこともひとつの受け取りとして…というより、これだけいろいろ想定するくせがあっても、それをも超えて「驚きを伴う変化…フェルトシフト」が起こってくることもあるのだろうなと。

それこそ、先に無理やり想定するのでなく、そのときそのときの”感じ”を大事にしていくだけですね。

今日はワークの話題に入るつもりでしたが、それ以前のところで終わっちゃいますね。

フェルトセンスに関しては、ごいっしょさせていただいた「かりもん」氏が詳しく書いてくださってます。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-1d3c.html


円座禅 -2 セッションについて

2009-09-14 23:55:24 | コミュニケーションワーク

先日の円座談で感じたことです。

最初に概要と共に、ルールをお話くださいます。
ルール1:円座談の場で語られたことは他の場で話さない。
ルール2:どんな感じもみんなで尊重。正直でいられるために。

ここまでの守秘・尊重は他のワークなどでも大事にされています。
そしてもうひとつ

ルール3:非暴力

これも当然他のワークで大事にされています、というか、絶対的な条件です。
しかし、この非暴力に関して、私は身体的暴力(これは絶対にだめですね)と、もうひとつは言葉の暴力ということで、「相手が困ること」という漠然な認識をしていました。
そこを円座談の土江先生はもっと明確な言葉で表してくださっています。
「プロセスを妨げない」
相手を攻撃する悪口は当然として、語ることに対してそれを妨げることを「暴力」とされています。
プロセスの中には、ひとつの”感じ”から広がっていく・成長していく流れというものが含まれます。
語り手がそのようなプロセスの中にいるときに、それを中断させるような行為、たとえば質問であったり、語り手が身構えるような意見であったり、そういうことも「暴力」であり、認められないということです。

確かにミニカウンセリングなどで大事にしていることにそういうことを含んでいます。
その場合はクライエントが語るあいだ、カウンセラーは質問したりすることは無く、”寄り添っていく”ことに終始します。
なれないときには、話題を促進させるつもりで質問したり聞き返したりしてしまいますが、それは「尊重」の精神が身につくにつけ、避けるべきことだと気付いていきます。
そのことを最初からルールとして「暴力」ということを定義する。
最初の気付きでしたね。


次にセッションに入っていくのですが、最初に数分間静かに時を過ごし(時には思考のテーマをもらいます)自分の中に現れてくる”感じ”を受け止めていきます。
昔のわたしは、こういう時間に「一生懸命意識をまとめないといけない」ということをしていました。
その後、様々なカウンセリングやワークの体験、そしてなによりも仏法を通じての「いま・ここ・わたし」ということを通じて、意識が乱れれば乱れるまま、新しい思いが浮き上がってくれば浮き上がるまま、「この後なにを語ろう」ということに固執せず…とはいえ、結構ここに固執する私が知るのですが、固執しているときは「固執しない」ということに固執しないで、無理せずそのまま「この後何を語ろう」という気持ちに任せたりします。
なんか禅問答みたいな言葉になっていますが、「何が沸きがってこようが、そのまま」という境地です。

区切られた静かな時間を終えると、グループで語る時間になります。
参加者が輪になり、その真ん中に「シャべラー」というアイテムがおかれます。
語りたい人は、そのアイテムを手にして語り始めます。
そのときグループの中にひとり「サポーター」(聞き手)をハッキリさせます。
「サポーター」は単なる聞き手(リスナー)ではなく、語り手が最後まで感じていることを語り終える手助け(サポート)をするという役目です。

じつはこの「サポート」というところが大事なところでした。

あまり比べることはしたくないのですが、いままでミニカウンセリングで大事にしてきたところに、「相手の尊重・成長を信じる」という事があります。
ここはわたしの未熟さもあるかもしれませんが、できるだけカウンセラーが”動かない”ことを大事にしています。
レスやオウム返しはしますが、それはクライエントが話することの促進であり、一段落があるまではクライエントが沈黙をしてもそれを大事にします。

今回、サポートということの中には「伝え返し」(レスと同様)だけでなく、「コメント」(カウンセラーの思い)さらには「洞察」を伝えるという事があります。
この「洞察」のところが微妙で、語り手が到達しなかった思いに対し「こういうことをおっしゃりたかったんじゃないですか」という関わりも出てきます。
この部分を軽々しく想像で動いてしまうと、「プロセスの妨げ」になり兼ねないなということを感じました。

しかし実際は、その関わりが間違っていても、語り手が「いや、そうじゃなくて…」と、真実に向かって促進される場合もありますから、大事なことにつながりますね。

まぁ、簡単に動くのではなく、それこそ”洞察力”を磨いて、身体的メッセージや、言葉の奥にあるメッセージを丁寧に拾い上げることが大事なんだと思います。

こうやってシャべラーを手にした「語り手」とサポーターがハッキリすることで、カウンセリングの形が出きあがります。
ただ、聞き手以外の周りの参加者もいっしょに話を聞くというところがカウンセリングとは違います。
じゃあエンカウターかというと、いつでも自由に関わっていく事が無いですから、それとも違います。

このブログではフォーカシングという言葉を使っていませんが、語り手がフォーカシングしたところを大事にしていくというところが「フォーカシング指向エンカウター」と命名されているところでしょうね。

ほんとうはこの「フォーカシング」というところも書けばいいのかもしれませんが、参加した方の話によると「フォーカシング」にもいろいろあるらしく、今回のフォーカシングは「他と少し違う」ということも聞いていますので、勉強していない私が説明できるものではないと…なので”感じ”という表現になってしまいます。

うーん、まだエネルギーの余韻が体内を渦巻いているせいか、ひとつのセッションの外側だけでこれだけの話になってしまいました。

説明を重ねるよりも、感想で今日は閉めておきたいと思います。

ミニカン・エンカウンターで自然と身についた”関わり方”を基準にするので、動きづらい感じもありましたが、この”場”に身を任せることで二日目の午後には私もサポーター体験をさせていただきました。
無理に”洞察”を意識することはありませんでしたが、普段通りの「聞き方」で、「語り手」さんとの関わりがもてたように思います。
そこには「語り手」さんの”開いていく”スキルがあったからだとは思いますが、言い切るお手伝いが出来たのならば…ちょっとうぬぼれてもいいですかね(笑)
今まで教えていただき、身につけてきた「聞き方」「寄り添い方」が、少なくとも間違ってはいないのならば、それは嬉しいことですね。


他のワークの事もいろいろ書きたい事がありますので、また明日以降に続けます。


円座禅 -1

2009-09-13 23:18:20 | コミュニケーションワーク
二日間のワークショップに参加してきました。
メインとしては円座禅(フォーカシング指向エンカウンター)のセッションですが、そこに「花束のワーク」や「心の天気」さらには「簡単なヨガによる身体のほぐし」を織り交ぜて、自分とまた仲間と触れ合っていきます。

それぞれのことは、改めて振り返っていこうと思っていますが、今日は全体を通じての”わたし”のところを簡単に。


自分の中にある”なにか”に向き合っていく手段としてのフォーカシングということを中心に体験したのですが、ある程度自分の”内”を内省していくことは、ここ数年行ってきました。
どちらかというと、そうして内省して見えてきたことを「そこに居るんだ」と受け止めるところまで。
まぁわたしとしてはそれだけでも昔よりは大きな成長です。
それまでは「そこに居ては困る」と隠したりそっぽ向いたりしていたのですから。

そこに居る
でも、いまはそれに触れない
触れないけれど、そこに居てもOK

そういう感じですね。

実際、自分の心を絵として表すワークでは、しっかりとそれらが「居る」事が確認できました。

いままでのミニカンやエンカウンターでは、自分のほうから触れたくなってきたことを相手にして、そこを尋ねていくことをしています。
しかし、この二日間のワークの中ではフォーカシングする時間に「テーマ」を提示されます。
もちろん、そのテーマにこだわることなく自由に向き合っていくことも許されていますが、一旦「テーマ」として聞くと、それが頭に残ります。
そのテーマがまさに、「居るけれど触れないでおこう」としている”黒いもの”に直結してきます。

セッションの中で、それぞれの方が「触れ合ってきた」ものを言語化して、語っていかれます。
もしかしたら、その”黒いもの”をめぐる、心の動きのところで私も話をする事が出来たかもしれません。
しかし、それも含めて「話さない」という選択をしました。

もう一方で、そういう「話さない」という選択をした事が、マイナスのエネルギーとして感じられてきます。
この円座談を通じて、多くの方が「語ることによって、開いていく」ことをされています。
そこに「閉じている」ことを表明することを躊躇している。
そういう自分に向き合っていくわけですから、どんどんと口を閉ざしていきます。
(そんな思いがもれてしまうことを避けるように口をハンカチで押さえているという身体表現をしていました)

一番最後に振り返りとして、この二つの事を話しました。

「そういうマイナスのものも出してもらっていいですよ」
というやさしい、抱きとめられるような言葉と
「話さないという選択をされたことでいいですよ」
という受領してもらう言葉。
それぞれ別の方からですが、返していただきました。

それを受けて感じたことは、
「マイナスのものを”出せない”と思ったのではなく、”出さない”と判断したということ」
この場は十分信頼できるもので、出しても大丈夫という感じは十分に受け止めていましたし、自分がサポーター(返し役)をするときでもそのことは意識しています。
そのうえで、”出さない”と選択した…
そのことに向き合っている気はします。
昔のように隠したり避けたりすることとは違う…私的にはそういう感覚があります。

そのへんをもうちょっと上手く伝えられたら良かったなという思いはありますが、上の二つの言葉をかけてもらったときに、今はこれ以上言葉を重ねて、変に自分の気持ちを探ってまぎれてしまうより、二つの言葉の余韻を味わっていたいなと。
(そのことだけでも語ればよかったなと今は思ってます)

今日は、最後の振り返りのところだけ記して、明日以降、大事なことを押さえておきたいなと思っています。

聞き方・伝え方 ~お知らせをかねて~

2009-08-31 00:05:57 | コミュニケーションワーク

来週の日曜日、「華光会 京都支部学習会」を行います。

5月頃から、いやずっと前から何らかの形でやってみたいと思っていた「聞き方・伝え方」を考える集まりです。

年に1回、京都支部法座として主に「聞き方」を中心に担当させてもらっていました。

過去に話題にしたブログなど
2009年
2008年
2007年(この年は気分的にブログを怠けてた時期なんで記録が残ってませんね。)
2006年
2005年

「仏教は聴聞に極まる」ということなので、皆さんの関心の多くは「聞き方」にあります。

どう聞いたらいいのか、悪いのか…
聞き方を変えれば進むんじゃないか…

当然の考え方ですね。
私も、自分が気付かせてももらったところでお話させてもらいました。

しかし、大事なのは、それが上手であろうと下手であろうと、「自分で気付いていく」と言うところにあります。
そのためには、「講義的に聞いて自分のやり方を検証する」のではなく、「何度も失敗しながら経験に学んでいく」事が大事です。
でも、実際に何度も失敗するのを繰り返す時間も余裕もありません。
なので「学習会」というかたちで、できるだけシンプルなところで実践していこうということです。

もう一方で、法座に限らず人間同士の関わりの中では「会話」ということが多くを締めます。
相手に伝えたい、相手に聞いて欲しい。
こういう思いを持ちながら、どうも伝わらないことにもどかしさを感じる。
やがて、聞いてくれない相手に原因を求め、責め、傷つけていく…
あるいは、自分の伝え方に自信をなくし、自分を責め、傷つき、閉じこもっていく…

どちらも、それがそのときの紛れも無い自分ですから、そのことを苦にする必要はありません。
でも、もし今よりほんの少しでも「伝える」事が出来たなら、傷つくことも傷つけることも避ける事が出来たなら。

じつは「伝え方」を意識するのは、「聞き方」を意識することの裏表にあります。
と、ここから先は言葉で学ぶのではなく、経験に学んでいっていただきましょう。

最初に、私が「やっていきたい」と思っていた集まりと書きましたが、実は他の方から「学んでみたい」と言う声をいただきました。
自分の「やってみたい」だけだと、独りよがりの気がして、なかなか一歩が踏み出せなかったんですが、ちょうど良いタイミングで引っ張っていただきました。
その分、責任も増しますが、それを糧にして動いてみようと思います。

日時:9月6日(日)
場所:華光会館
参加費:500円
主催:京都支部

案内を作成しましたので、パソコンからの方はこちらをご覧ください。
学習会案内(pdf)

学習会という名称にしましたが、講義ではなく、その時間と空間といっしょにいる仲間によって”学び習う集まり”です。

さてさて、楽しみです(いや、不安もいっぱいありますが…)


作られた対応 第6回真宗カウンセリングWS-3

2009-08-28 00:03:29 | コミュニケーションワーク
以前の話題とかぶる部分もあるけれど、今までの法座活動で何度か出会ってきた、私によく似た「営業ぐせ」のお話。

ワークショップでいろんな話をしていくうちに、自分の”くせ”を人の姿を通して知らされたりする。
くせと言うと、”行動のくせ”って感じだから、思考のパターンと言ったほうがいいかもしれない。

これは個人的な素養なのか、あるいは来歴による刷り込みなのか、分析してみたら面白いかもしれないけど、それはパス。

でも、私の来歴から語ってみることは出来るかもしれない。

学生時代にアルバイトでホテルのバーテンダーをしていた。
全国系列のいわゆる高級ホテル(西本願寺の北側にある)で、アルバイトと言えど接客マナーを一から叩き込まれる。
それまでも客商売のバイトはあったが、徹底の度合いが違う。

そこには「自分を殺して、お客様のためにつくすことを第一義とする」と言うものが基本になる。
サービス業なのだから、飲食物を売るだけでは終わらず、雰囲気や会話を楽しんでもらうことに対してお金をいただくのだから。(サービス料なんてものもいただくしね)
多少、腹に据えかねるオーダーであっても、笑顔が基本だし、怒りなど気取られては”ならない”。
厨房の職人さんなどは感情をぶつけてくるが、料理を作ってもらわないと話が進まないのでこちらはひたすら頭を下げて頼む。
もちろん、その分、別の場所で発散するのだが(この時期は仕事後の麻雀やポーカーなどで発散してたかな)どんどんコントロールが上手になって、仕事中は感情を押し殺し、偽りの笑顔の仮面を常に表に出していた。

その後、営業職に就職すると、これまた自分の気持ちは後にして、ひたすら客先で頭を下げる日々だ。
もちろん、その見返りとして営業成績があり、それに応じて給与が手にはいるのだから、あたりまえのように自分の感情は殺す。

こういう日々が続くと、もうコントロールじゃなく、普通に感情を押し込める事が出来るようになる。
また、いつしか感情を押し込めていることすら忘れる。
それが都合がいいから。

法座やワークショップで、「どういう感じ?」と尋ねられるとき、頭が稼動して「適した答え」を紡ぎあげ、言葉にして返す。
「もっと自分を出して」などと言われても、こっちは精一杯「自分を出している」(つもり)
「腹底を」と言われても、こちらの”判断”では、それが腹底だったりする。

そう、自分では違和感なく、普通に対応”できている”
頑張って対応してるんじゃなく、それがこちらの自然な姿だったりする。

これは相当根深い。
自覚症状が無いし、他所から指摘されても、その指摘をも取り込んで自分の物にする能力に長けているのだ。

世間的に、営業などで成功している人ほどこの傾向が強い(だから私は抜け出せたのかも…)
自分の気持ちを正直に出す人より、よっぽど付き合いやすいだろうし、飲み屋などで”よいしょ”されて嬉しがらない相手はいない。

しかし、そういうお芝居はバレバレなのだ。
世間でも、利害があるからそのお芝居を気付かないフリをして、腹底では「こいつも何考えてるかわからん」とキツネとタヌキが化かしあいをしているだけだ。


ここを揺り動かせるのは…
私なりに答えはあるのだが、出さないでおこうと思う。
こういう能力に長けた人は、その答えを聞いて、それに応じているフリがすぐにできてしまうから。

もう一度書くが、こういう人は決して誤魔化しているのではない。
本人は精一杯、自分を出していこうとしている。
自分でも気付かずに、自分を誤魔化しているのだ。
指摘されて、それを受け入れても、勝手に頭が作動してしまう。
ゆっくり、何度も何度も、剥がしてもらうしかないのかもしれない。

私自身がこのことから解放されたのは…ほんの最近のことだと思う。

感情の様子を尋ねる 第6回真宗カウンセリングWS-2

2009-08-26 00:00:30 | コミュニケーションワーク
今日も先のワークショップでの話題から。

そのワークの時間は、仏法のことをめぐって話が進んでいた。
頭でうけとめ、なかなか進まない…
でも、本人はひとつひとつ理解していかないと先に進めない。
お勧めする側と受ける側がぐるぐる同じところをめぐっている。

ひとつのことを「聞いてもらえた?」と確認すると、「これこれこういうことを聞かせてもらいました」と。
しかし、それが頭の理解としか思えないと、問う側もどう伝えればいいかとうなってしまう。
問われる側は、これじゃまだ理解が足りないと思うのか、理解したと言う事が上手く伝えられていないと思うのか、次々と理解を補足して理論武装を強固にしていく。

そんなとき、「どういう気持ちが流れているんだろう」と言う事が気になる。
今回は、ちょっと合間を見て尋ねてみた。
「もし、言葉を重ねているときになにかの感情が湧き出てきたら、ちょっとそれを言葉にしてみてください」

結果としては、少し感情の言葉が出てきても、その感情を説明しだして、感情よりも知識や理解に流れていってしまう。
でも、一度そういう確認をさせてもらってからは、本人も気付かないところで感情の言葉が表に出だしてきた。
感情といっても、なにも激興したり、泣き叫んだりすることではない。
「ちょっとしんどい」とか「悲しい感じ」とか、そういった類のもの。
このときの関わりではここまでの言葉にもならなかったけど、「モヤモヤ」だとかそういう言葉になって現れていた。

ミニカウンセリングを実践させてもらううちに、話し手のトピックのことより、そういうトピックを話しているときに現れる感情の言葉に敏感になっている。
そういう言葉に触れることで、そこにいる方が鮮明になり、存在が感じられる。
逆に、どれだけ饒舌な言葉を並べても、理屈だけだとそこにその人が見えない。

思えばわたしもずいぶん理屈・理解・分析によって、多くの言葉を並べてきた。
自分のことをわかってもらうと思えば思うほど、言葉を重ね続け、自分でも言いたい事がわからなくなってくる。
それでも、言葉を重ねることを止められない。
そんなとき
「わかってほしい」
「伝わらなくてさびしい」
なんていう短い言葉のほうが、よっぽど多くの事が伝わる。

法座でも、しつこいように「それでどんな感じ?」と尋ねる事があるが、とても大事なことだなと。

もちろん、その感情を口にした瞬間、また違う感情に変わっていることもあるが、それでいい。
そんなことはお見通しで、口にしたことを自分の耳でもう一度味わってみる事が出来れば、そこに意味がある。


今回、この場面で感情の確認をさせてもらったときに、別の方から「感じを尋ねてもらって、すごく自分のことを気にかけてもらっている感じがした」というようなことを言っていただけた。
「こうしたら、ああしたら」と押していっても聞けないときに、ちょっと自分を振り返ってもらうためにも、大事なことだったんだと。

日がたって少しその場の正確な描写が出来なくなっているが、まぁ、わたしの受け取りを記すブログなんでご容赦を。

受け入れられたい 第6回真宗カウンセリングWS-1

2009-08-25 00:26:03 | コミュニケーションワーク
今回のワークショップで最初に表に浮き上がって来たのは「受け入れられたい・認められたい」という感情の話題。
その対象はいろいろあれど、多くの人が持っている感情じゃないだろうか。

「あるときに受け入れてもらった気がした」
というプラスの感情もあれば、その裏側で
「ずっと受け入れてもらえなかった」
という感情が苦しみとして残っていたりする。

もしかしたら、こういう「受け入れてもらっていない」というのは、こちらの思い込みで、相手側は「そんなこと無いよ」という場合もあるかもしれない。
しかし、こちら側の「こういう風に受け入れて欲しい」という思いと、相手側の「こういう風に受け入れているよ」という思いがぴったりと一致することは少ないのじゃないだろうか。

これは私自身も深い深いところで抱え続けている感情だったりする。
「双方の思いがそれぞれにあるのだから、仕方ない」という蓋で、ずっとずっと追いやっているものだ。

それでも、少しは「認めてもらう」ために一生懸命尽くしていく。
社会で頑張り、家庭で頑張り、認めてもらう種を次々と積み重ねていく。
それがなんら役に立たないという事実がもしあったとしたら…そんなことは絶対受け入れたくないから、どんどん積み重ねていく。
積み重ねる作業の間は充実している。
でも、ふっと一息つくとき、不安がよぎってきたりすると、それを振り払って頑張り続ける。

このことを「分析」するならば、「幼少の頃”認めてもらえなかった”ことがトラウマになって…」だとか、「不況で仕事を失ったら、目標がなくなって何をしていいかわからなくなる会社人間」だとか、様々な問題に直結していく。

しかし、真宗カウンセリングの場ではそういうことは必要ない。
「受け入れて欲しいんですね」ということを受け止めてもらう。
「受け入れて欲しい自分なんだ」ということを受け止める。
あとは、周りの人がアドバイスすることも無く、探ることも無く、自分自身が「いまの自分」をゆっくりと味わって、そこに「こうしたい」というものが現れてくるならば、そのことを意識して口にして自分でもう一度かみ締める…そのことが、自身で成長していくことになる。

このことは法の話にもつながっていて、いままで積んだものが「役にたたない」ということは絶対に受け入れがたく、つぎつぎに頑張って「これならば受け入れてくれるでしょ」と…

と、そこのところは今日は置いておくとして、みんな「受け入れて欲しい」と願っているんだなぁ、と。

このことひとつでも、真宗カウンセリング・ワークショップでの二日間は「大丈夫ですよ」と、しっかり包み込んでもらった時間だった。
きっと、参加してくださった皆さんも味わってもらえたんじゃないかなと。
だからこそ、いいことだけでなく、マイナスの感覚もしっかりと口にしてもらえたんじゃないかと。




京都支部法座 7月

2009-07-12 00:04:34 | コミュニケーションワーク


今月は私が担当させていただきました。
数年にわたって「聞くという事」をテーマに年一回、時間をいただいておりました。
今年は、私のほうにいろいろ思いがあり、違った形に。

まずは、「聞く」を体験してもらおうと、2分間目をつぶってもらい、最初は外から聞こえる音を、後半は自分の身体を意識してもらいました。
どちらか片方だけでも大事なワークなんですが、ちょっと欲張って。
その感想を元に、自己紹介をしていただきます。

と、こういう風に流れを記録として残すのも良いのですが、それよりも私の感じたことや思いを書くほうがいいかなって気がしてきました。

この後は「ミニカウンセリング」の実践を皆さんに体験していただきました。
実は、法座でよくごいっしょさせていただく方には「カウンセリング」というと批判的になってしまったり、構えてしまったりする人が少なからず居られます。
なので、出来るだけこの言葉を使わないように…っていうのがずっとあったんですが、そういう「受け入れがたい何かしらの気持ち」を持った人にも「まずは体感してほしい」という気持ちがあったんです。

最初に少し「決め事」を話したのですが、調子に乗って少し先出ししすぎてしまいました。
「体感」してもらって、出てきた「?」を聞いてもらおうと思っていたのですが、戸惑ってる方に少しでも楽になってもらおうという…
まぁ、これは良い面も悪い面もあったので、今後の課題にしましょう。

最初に手本として二人に実践したもらった後、3人ずつ6組に分かれて実践です。
すでに経験があり、上手にされる方
どうしていいかわからずに、決め事から逸脱する方
力の入ってる方
いろんな方が居られて当然です。

その中で気付いて欲しいことがあります。
表の型としては、「相手の方を尊重する」ということなのですが、同時に「尊重されたらうれしくありませんか?」ってこと。
自分が嬉しければ、そのことを相手の方に返していく…
型でなく、心の部分で「しっかり聞いてもらうって嬉しい」を実感してもらいたい。
まぁ、これは私の欲なんで、簡単にことが運ぶとは思ってません。
でも、やってみなければ、誰にも伝えられない。
いくら講義で「こうやって尊重します」といっても、型を真似ることしかできません。
そう、頭で理解するのじゃなく、気付き・体感。
これがテーマです。

なので、できるだけ皆さんが感じたことを聞かせてもらうことに時間が裂きたかった。

ここでもうひとつのテーマ
「何を言っても大丈夫な関係」
これは、ミニカンの時の場面設定として「型」から入り、それが全体で作り上げられたらいいなという私の欲です。
もしかしたら、そういう「型」をしつこく言い過ぎたんで、自然に出来上がった関係じゃなかったかもしれませんが、(私のやり方に対する)少し否定的な言葉も出してもらえたと言うことは、「言っても大丈夫」という場に出来ていたのかなと思っています。

本当は、あとからの解説や補足もなしで、今後「体験していく中で自分で気付いていく」ことに任せておきたかったんですが、ちょっと否定的な感じを受けた方にもお土産を持って帰ってもらいたいという、これまた私の欲で、少し話させていただきました。
「人の話を聞くことを大切に出来ずに、阿弥陀様の話を聞けていると思いますか?」
うーん、今さらながら、姑息な言葉ですね。
ちょっと反省です。
これこそ、人に言われて理解するものじゃなく、自らの気付きによって腹底で受け止めるべきことです。

まぁでも、言葉としてお土産にしていただいて、いつか腹底に響くお手伝いになっていれば…。

何人かの方は、それぞれの方の受け止め方でこのあたりを感じてくださっていました。
嬉しいことです。

今日のご縁で、レジュメでは考えていなかったのに、気がつけば話していたことがあります。
「相手の成長を信じる」ということ。
こちらから操作的に関わって、教えたり理解させたりするのじゃなく、「聞く」に徹することで、話し手が自ら気付いていく…そんな成長が必ずあると。
もっとここに徹底できる私であったなら…まだまだ「伝えよう」というスケベ心が強いですね。

今後、ゆっくりと時間をもらえれば、ゆっくり繰り返すことでそこを実現していきたいなと。

すでに、次の動きがあったりもしますので、こんな私でもお付き合いくださるなら、出来ることから。
出来れば、よりよい結果につながればそれに越したことは無いので、私のほうは私のほうで、成長しておきたいなと。

うん、結局は皆さんのご縁で私が育てていただいてますね。

コミュニケーション論

2009-06-01 23:30:55 | コミュニケーションワーク

今日は仕事の関係で、京都市内の数箇所を自転車で移動していました。
心地よい気候(ちょっと汗ばむくらい)のなかを、青空を見上げながらお寺やビル街などの混在した「京都らしい」ところを走っていきます。
そんな中、前回書いた会議のコミュニケーションのことをいろいろ考えていました。

コミュニケーションをとろうとするときに、大きく二つの事が関係者の中で流れていく気がします。
ひとつは「出来事」、もうひとつは「感情」です。
相手に何か伝えようとするときに、このどちらを受け止めて欲しいのか…また相手がどちらを受け止めたのかでコミュニケーションの流れが違ってきます。

たとえば、前回書いたところで言うと
「どうして今までと違うやり方に変わったのですか」
という質問の場合、「出来事」で行くならば「やり方が変わったことの是非」になりますが、「感情」で言うならば「変わった事が嫌」「変わって戸惑っている」「変えて欲しくなかった」と、様々なものが奥底に潜んでいます。

これに対して「こういう理由で変わった」だとか「決めるときに説明した」というような「出来事」に対する回答は大事ですし、これが正論ならば余計に相手は「出来事」に対して一段落つけ、納得なり次の段階の質問なりに移っていくことが出来るでしょう。
しかし、そこに「感情」をわかって欲しいという気持ちが残っているならば、まったく受け止めてもらえていないことに、ますます感情が渦巻いてしまいます。

私は、ミニカンやエンカウンターを通じて、出来事を話すときでも、その時々に湧き上がってくる感情があれば、出来るだけそれを言葉にするようにしています。
そうすると、相手の方がその「感情」を受け止めてくれるんですね。

ですから、相手に伝えたい人は出来るだけ「感情」を言葉にしてみる。
伝えられる側は、その「感情」の言葉を受け止めてみる。

実際に「やり方が変わった」ということはひるがえらなくても、「嫌だと思われたんですね」「戸惑っておられるんですね」「変えて欲しくなかったんですね」という”受け止め”を経た上で「でも、こういう理由で変わったんです」と返していけるならば、一歩進めると思います。


また、もうひとつ大事なことに「最後まで聞く」ということがあります。
相手が言い切らないうちに、反論をしてしまう場面がよくあります。
やはり自分にとって「嫌なこと」を延々と言われ続け、早くそれをさえぎってこちらの言い分を返したくなるのは当然でしょう。
しかし、多くの場合、相手がまだ言い切っていなければ、こちらの反論を聞いたうえでも、またもとの話題に戻されて「言いたい気持ち」を成就させるまで終わらないことが多いと思います。
じっくり腰をすえて「聞ききる」事をした上で、「こちらも言わせてもらっていい?」と確認して進めていければ、何かが変わると思います。

逆に話し手が言い切る前に、相手が動き出したときは「ごめん、まだ言い切ってないからもうちょっと言わせてもらっていい?」と意思表示をできれば、相手も気づいてくれると思います。

日本人って(べつに日本人にくくる必要もないんですが)、「阿吽の呼吸」とか「暗黙の了解」とか、はっきり表明しなくても「わかってくれているはず」でコミュニケーションを進めてしまいがちです。
そういうのを美徳としているのかもしれません。
でも、そのことでお互いが「言い切らない」まま話が進んでいけば、結局堂々巡りを繰り返します。

ミニカウンセリングで、話し手と聞き手を明確に分けて、コミュニケーションを体験するのはすごく大事なことだと思います。
まずは、そういうコミュニケーションが上手に出来るひとに「聞いてもらう」体験をして、「言い切る」ことがいかに気持ち良いか知ってもらえれば素敵だと思います。

親子の関係でも、職場の関係でも、コミュニケーションであるかぎり、これは大事なことですね。

幸い、私は多くの方とのご縁で経験してきたことが、今は当たり前のように感じています。
でも、最初は当たり前じゃなかった。
知っている人との出逢いがあり、教えを受けて、体感できたんですね。

いろんなところで機会がいただけるならば、私が得たものを共に体感する集いをどんどん開いていきたいですね。
関心のある方は、遠慮なくご連絡ください。
プロの講演家じゃないですから、気軽にお手伝いさせてもらいますよ。

連絡先 manu.takahashi@nifty.ne.jp


地域若者サポーター養成講座 実習

2008-12-02 01:05:26 | コミュニケーションワーク

 

実習というのは、実際に若者の支援をしている施設へお伺いし、現状を肌で感じる場です。
何箇所かの訪問先が提示されていたのですが、会場が家の近所ということと、11月後半は忙しかったので唯一12月の設定だったこととを考えて、12月1日 南青少年活動センターを選びました。
で、今日行ってきました。

場所はうちから歩いて5分弱。
私の子どもらが通っている小学校の隣。
という近所でありながら、中に入ったことはなく、その活動も大体のものしか知りませんでした。
「若い子が集まって、サークル活動をしたり、たむろっているところ」というイメージしかなかったですもんね。

しかし、今回実習先になっているということで、事前に説明を受けていたことは「サポートセンター」として、若者の相談場所であり、居場所であるということ。
今回は、その活動の中のひとつである、「あじプロ」というものを見学させてもらうことがメインでした。

あじプロ」というのは、「たまと体を使って働くことをっかんするプログラム」ということで、南青少年活動センター内のカフェを利用して仕事の体験をするというもの。
具体的には数名の募集を受け、事前研修を2回、カフェの店員として実践体験を3回、振り返りをし今後を相談するのを1回の6回連続のプログラム。

今日は、実践体験の1回目ということで、はじめて人前で店員体験をする二人の若者に、私たちが客として応対してもらいました。
緊張しながらも、事前に教えられている接客マナーを実践しながら、人前で仕事をするという体験をしていました。

私自身、接客のバイトや仕事は結構してきていますが、これには向き不向きがあって、コミュニケーションの苦手な人にはかなりハードルの高いプログラムでしょうね。
でも、誰かが押し付ける体験学習ではなく、自分の意思で一歩踏み出そうとしているので、がんばろうという気持ちが伝わってきました。

今回、スタッフの方からの説明と、質疑のやり取りを通じていろいろ感じたことがあります。

以前、このブログで別のプログラムを講義で聞いて、「目的に引っ張りあげるプログラム」という印象をうけてちょっと違和感を感じたことを書きましたが、今回のプログラムは一応「就職支援」という側面はあるものの、一気に「社会活動できるようにする」ものではなく、傷つき悩んで「どうにもできない」という人の「相談を受ける」ことからの延長で「ちょっと試してみる?」という立場だろうなと。
本人の気持ちをできるだけ尊重しようという気持ちを感じたし、実際に動いてみて感じる「しんどさ」や「悩み」をできるだけ聞いてあげる時間も大事にしている感じも受けましたね。

前回のカウンセラーさんとの実習でも感じましたが、大きな枠としての支援は「社会に卒業していく」ことを目標にしながらも、実際の現場では「今、ここ」のその人を大事にしてあげようという緩やかさを持っているんだなと。
今回、サポートステーションの所長さんが同行してくださったのですが、以前の講義では「引っ張りあげる」「押し上げる」という目標を持って「地域若者サポーター制度」をはじめようとしているいるような印象を持っていました。
しかし、今回少し話する時間があり、「まず現状を広く知ってもらいたい」ということを大事にされていて、対策・対応よりも、まず受け入れることの大事さを軸に置かれているんだなと感じましたね。
ただ、行政が絡み、予算が絡むと「数字で表す実績」を求められるのが世の常ですので、いろいろ大変でしょうけどね。

今日、応対してくれた若者の話に戻ると、ちょっと会話した人の話で「やっぱり仕事に向いてないかな」という言葉があったそうです。
その言葉に対して、多くの方は「そんなことないよ」とか「大丈夫がんばって」という声をかけたり、思ったりしたそうです。
確かに、そうやって鼓舞してあげるのも大事でしょうけど、誰かがまず「そう、向いてないと思ってるんだ」と、その子のありのままの思いを受け止めてあげることも必要だろうなと思っています。
もしかしたら、そう返されて自分から「でもやってみる」という気持ちが生まれるかもしれませんし、周りが引っ張りあげるより、はるかに自分で決めた気持ちのほうが強いはずですしね。
あるいは、「向いてない」という思いから抜け出せないとしても、「私は大丈夫だと思うよ」というメッセージの方が寄り添っていけるんじゃないかと思いますね。

他の話題でも感じたんですが、何かに傷つき動けない人に、ただただ「それは気の持ちようだ」とか「でもがんばれ」というのだけでは、届かないと思うんですね。
「いま、そこにいる」そのままを尊重していくこと…あらためて感じています。

他にもいろいろかくネタはあるのですが、今回はこの辺で。

「ニート」という言葉で社会的に括られてしまっている「いろんな思いのパーソン」がその人の数だけ種類があるという現実。
家族という組織だけではどうしようもない、コミュニケーションが難しくなっている現実。
一方で、なにか道をつけることができないかと取り組みが行われていること。

知っていたけどもっと深く知れたことや、知らなかったことがあるということを、このサポーター研修で知りましたね。