コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ワールドワーク

2007-06-19 00:54:01 | コミュニケーションワーク
土曜日に真宗カウンセリング研究会に桐山先生をお招きしての「ワールドワーク」がありました。(「かりもん」氏のブログに案内状の一文が掲載されています )

実は、私はお金を払ってワークに参加するのは初めてです。法座の一部で、経験者が取り入れたワークに参加したことがあるのと、あとは人づてに様子を聞いたくらいです。まさに身を持って体験した初めてのワーク…一言で言うと、「意識下にある自分と意識を離れた自分」を体感したものでした。

最初、先生によるワールドワークの紹介の後、簡単に自己紹介。次に頭の先から順番に身体の感覚を味わいそれを意識していく作業を行いました。私は途中で左手にしびれている感じを覚え、あとはずっとそこに気持ちが行き他の部分を尋ねていけなくなりました。「その部分に空間を与えて自由に動かしてあげてください」という指導を受けるのですが、「自由にしてあげる」というのがよく分からない。「先生のいうとおりにする」事が大事だとは思うのですが、「自分のしたいようにしてみよう」という選択をし、右手で左手をさすっていきました。すると、それまでは左手の痺れを意識してたものが、「左手が感じる右手の温かさ」に気持ちがシフトしていきます。その感覚を覚えて以降、「右手で左手をさする」という行動が、「身体感覚を意識するスイッチ」になっている気がします。

そのあと、ペアを組んで今自分に起こっていることを分かち合ったのですが、上に書いたようなことを話していたと思います。

次に、午後のワークで最初の入り口にする話題(トピック)を決めるために、皆で自由にトピックを出し合いましょうという指示をいただきました。「こういうときの身の振り方」に不安があるのと自信が無いこととで当初は傍観者になっている私です。最初に人間関係の問題が出され、いくつかそれに続く感じがあったので「やはり人間関係や真理的なものが中心か」と考え出していた頃、社会問題や非常に個人的な問題など多岐にわたるトピックが出だします。「カウンセリングだから人間関係問題」という感じで固定概念に捉われてしまう、枠を作ってしまう私自身が浮き彫りにされましたね。一方、そういう自分に気づいたことで少し自由な感覚が生まれだし、私も率直に思って言ることを出して見ました。「好きなことだけに自分の時間を使いたい」翻せば、自分の思い通りに時間を使えてない不自由さを感じていることが私の中にあったんですね。「わたしもそう思う」と近くの方がつぶやかれたことで、ちょっと安心していました。そうですね、率直に出しているつもりでも、回りの評価を気にしているんですね。まったく…って感じです(苦笑)

多くのトピックを丁寧に反応を聞きながら、メインのトピックに絞っていきます(この丁寧なプロセスにも感心しました)そして、ひとつのトピックを傘に、他のトピックをその下に自由に取り入れて午後のワークにしましょうということで、午前の部が終わりました。
(長くなるので一旦アップしましょう。このまま続きを書くかもしれませんし、時間を置いてから書くかもしれません)

京都支部座談会「聞き方について2」

2006-08-01 02:09:39 | コミュニケーションワーク
7月22日にあった集いです。この話題もすでに一週間以上経過してるんですが、私自身の振り返りおよび記録と言うことで。

この集まりの講師役を引き受けたときにはひとつの思いがありました。座談会・・・グループでの話し合い法座なんですが、求道者に対しての関わり方についてより良く出来ないかなと。
というのは、求道者なりに一生懸命自己開示しようとするのですが、”仏法”という正論によって「それでは駄目」という斬られ方をする場面を見受けるからです。実際、私自身が「法のため」としてそういう関わりをしてきましたからよく分かります。いや、カウンセリングを実践することでやっとわかりかけてきたところでしょうか。

また一方で、カウンセリングと言う言葉に嫌悪感を示す方も法座のグループには居られます。そういう方はそういう方で、発言者を大事にしようとする流れの中で、言いたいことがあっても「待ってあげてください」と止められることが多く、不満を持っておられます。

そこで発言者は否定や批判されることなく発言できることはどういう感じか、また他の人は発言者を尊重して「聞くことに徹する」感じはどういう感じかを体験してもらったらどうだろうかと考えました。

当日は普段の法座でご一緒するかた以外にも、遠方からのお参りや、カウンセリングでの仲間も参加してくださいました。思ったより多くの参加でちょっと最初の思惑通りは難しいかなと言う感じになりました。というのは、普段発言をさえぎられる方にゆったり話してもらおうと言う意図があったのですが、人数が多いとどうしても普段からしゃべれる人でないと口を開きづらいものがあるなと。

また、以前に行った「聞くということ」の第一回めからつながる事柄もあるので、前回の話をじっくりとすることにしたため、体験的な時間を少なくする必要もありました。

発言の尊重と、聞くことの意識化をするためにとった方法は、
○決まった時間(今回は7分間)発言者以外は一切口を挟まない。
○発言者に何らかの意見・感想を述べたい人は、あとから分かち合いの時間を確保する(今回は3分間)
○そのときに批判はせず、あくまで自分の感じたところで話する。
○沈黙も尊重し、待つ。
というルールでやってみようと言うことにしました。

結局二人の方が発言者になり、分かち合いでは3名の方が感想などを述べてくださいました。
その後、発言した方それぞれに感じを尋ねたのですが、「発言を尊重してもらい言い切れた感じがする」ということをおっしゃってくださいました。

その後、休憩を挟んで座談会にしたのですが、残り時間も少なかったこともあり自己紹介と感想を一回りするだけで時間になりました。ほんとうはこの時間で多くの人の感想を聞き、そこから膨らましていきたかったのですが、仕方ないですね。
始めてきてくださった方にも、雰囲気は味わってもらったかもしれませんが、なぜこういうことをしているかが上手く伝わったかどうかわかりませんし、お目当ての普段話辛さを感じている人にゆっくり時間を与えることも出来なかったのですが、「聞くことを意識する」ということはみなさん感じてくださったようなので、ぜひ近いうちにもう一度体験時間をじっくりしてみたいですね。

仏法的には、「人間的な尊重」のもうひとつ奥にある「求道」が大事なのですが、伝道の過程で人間同士の関わりあいがある以上、コミュニケーションを意識できるに越したことはないと思いますから。

今回の企画をしたことで、私の中の思いも整理され深まってきた気がします。もっとうまくやることもできたでしょうしね。
一番得したのは私自身ですね。

親子のコミュニケーションで思う事

2005-12-08 07:09:16 | コミュニケーションワーク
前回書いたことを少し深めてみたいと思う。

4人の子ども(それぞれ性格や行動が違うから面白い)を育てていることや、親子コミュニケーションの集いなどに何度か参加している経験で、いろいろ知らされることがある。

その中の一つに「否定じゃなく、受容の態度」の大事さがある。

子どもがグズって泣くときに「泣くな!」と言うことは簡単である。こちらとしては泣かれて困っているわけだから「泣くな」といいたいのは当然だ。これを少しやわらかく、私メッセージにして「おとうさんは泣いて欲しくないと思ってる」と伝えることも出来る。コミュニケーションとして相手に強制するのじゃない「私メッセージ」は大事だし、心がけるべきである。

次に「何で泣いてるの」と問いかけることが出来る。
その理由を聞いて解決できることなら解決してあげたい。そうすることで泣く必要もなくなるわけだし、私も大助かりである

しかし、子どもにはそれは通用しない。
子ども自身、いざ泣き出したら「なぜ泣いているか」を正確に伝えるなど出来るはずがない。またその要求はおおむね子どもの「わがまま」が多いから、「何で」を聞いたとたんに「それはあなたのわがままだから駄目」となってしまうことうけあいである。泣くのも駄目、要求も通らない…子どももどうしようもない。こっちもどうしようもない。それよりますます泣き続ける子どもに、こちらの余裕はなくなり、声を荒らげ脅しはじめてしまう。

子どもにとって「要求を通したい」と言うのもあるだろうが、ほとんどはその時点で「ただ泣きたい」だけである。ならば泣かせてあげればいい。いや、泣き続けるのは困るのだが、「ただ泣きたい」ということを受け入れてあげることは出来るんじゃないだろうか。

「そうかー○○ちゃんは泣きたいんかー。いいよ、泣いてもいいよー」
すぐには泣き止まないだろうけど、受け入れられているということは子どもにも伝わるはずだ。態度として抱きかかえてあげることもすれば、ますます受け入れてもらえることが伝わる。すると子どもも落ち着いてくる。徐々に要求の底にある気持ちを表明してくれるようになる。
「○○が欲しかった…」「○○ちゃんに意地悪されて悲しかった…」
「そうか、欲しかったんか」「そうか、悲しかったんか」と気持ちを受けてあげたらさらに受け入れてもらえることが通じていく。

そこで買ってもらえたり、意地悪の相手に謝らせたりという「解決」ではないのだが、気持ちを伝えることが子どもにとっては大きなことじゃないだろうか。それを聞いてあげることが出来るか出来ないかは大きな違いがある。

最初は形のところでしか出来ないかもしれないが、通じ合えたらうれしいものである。

成道会

2005-12-04 15:00:47 | コミュニケーションワーク
「じょうどうえ」と読みます。仏教の慶事で、12月8日なんですが、昨日、子どもが通園している保育園で成道会の集いがありました。お釈迦様が悟りをひらいて仏陀になられた日です。
その中で子どもたちがホールで歌を歌うイベントがありました。うちの子は落ち着きがなく、吠えたり跳び跳ねたり。
その時、副園長(通称 べっぴん先生)が子どもたちにかけた言葉が素敵でした。
「よし、みんなでオーイしよう」子どもたち「オーイ!」「次はジャンプしよう」子どもたちジャンプ!

駄目!とかやめなさいとか言われても余計に騒ぐ年頃。「いいよ」と言ってやらしたら落ち着くんです。
ここにコミュニケーションの大事なところがあると思います。否定じゃなく、受容の態度。許されているという事が伝わったら、聞いてくれる。

そういう先生に、子どもが育ててもらっているのが嬉しいです。

写真は集いの中でお釈迦様の物語を「四門出遊」から「お悟り」までパネルシアターで見せてくださった中の一節。今まさにお悟りを開かれようと菩提樹の下で瞑想されているところです。これを子ども達が一生懸命見てくれているのがまたありがたいです。