コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

地域若者サポーター養成講座 第5回 -3

2008-11-19 00:21:47 | コミュニケーションワーク

もう一回、養成講座のことを書きます。

昨日書いた講義の後、3人組になって「聞き方」の実践がありました。
「話し手」「聞き手」「傍観者」の役割を決め、5分間「話を聞く」作業をし、その後順番に感想を述べ合う…これ役割を交代して3回行うというものです。

私はカウンセリングのワークで体験したり、ミニカウンセリングで何度も実践(この場合は二人組みですが)してますのでなじみのあるワークでした。

ただ、今回は「最初の1分間は、聞き手は相手の顔も見ないし、言葉の反応もしないでください」という条件付けがされました。
講義では「大事なスキル」として示された、「うなづき・あいづち」をしない状態と、する状態の両方を体験させようとすることですね。
それとももうひとつの条件「普段、話を聞くときの2倍・3倍うなづいてください」というものも加わります。

私は二人の女性と組みました。
最初は「傍観者」ですが、そこで感じたことは割愛します。
で、次に「聞き手」です。

最初の一分は反応をしないように、視線をそらすためにうつむいて、聞いています。
いつも間にか、うなづきながら、あいづちを打ちながら聞くのが当たり前になっていることに気付きます。
黙って聞いているのがこれほど「意識して、力を入れる」必要があるのかと驚きます。
当然、そちらに意識がいって、話が100%入ってきません。
「時間です」との先生の声で、話し手さんの方に向き直り、視線を合わせてうなづきながら聞き始めると、とても楽になりました。
本来は、この違いで「話し手」が楽になるかどうかの条件だったのでしょうが、私にとっては「自由に聞けない」という制約が、とても大きなものだということを実感できました。
それは同時に「いつもの倍うなづく」という条件にも当てはまり、無理に一杯うなづくにはかなりの意思が必要で、それは私にはとても窮屈なものになります。
そこには「私は十分うなづきの癖がついている」という自負との戦いにもなりますから、そちらに気持ちを向けるより、自然に聞くほうを選びました。(先生、ごめんなさい)

聞かせてもらっていると、話し手さんの主題も明確になってきましたので、感情の言葉の繰り返しに留意して、私のほうはゆったりと聞かせてもらった気がします。

「話し手」になって、やはり最初の1分間、聞き手が反応がないとノリが悪かったですね。
時間になってこちらを向いてくださると、満面の笑顔で一生懸命聞いて下さるので、特に整理せず、思いつくまま言葉にしていきました。
おかげで、先にアンケートで感じていたトラウマのことを少しだけ明確にできて、ちょっと思いの置き場所が作れた感じでした。
まぁ、5分という短い時間(そのうち1分は反応なしだし)で、しかも未経験の方の練習の場ですから、かなり状況をはしょって、出てくる感情の言葉中心にしましたから、じっくり向き合うまではいきませんでしたけどね。
「問題ありだな」ということだけは、しっかりと明確化。
それが前々回のブログに現れていますね。

今回、条件付の1分間を経験したことで、やはり今見につけさせてもらった態度やうなづきなどのスキルの大切さを再確認しました。
そして、傾聴して、相手の成長に任せる…またそのための関係作りが大切なんだと。
もっとも、このことは今までの経験から感じるところで、5分間のミニカンを一回経験するだけでは「違いがあるな」というくらいしかわからないでしょうけど。

あと、客観的に見て判ったことは、聞き手に見られることで、話し手は「身振り手振り」が加わって、何とか伝えようとするんだなと。
そのことで、声にも抑揚が加わるし、言葉にならない感情も現れてくるだろうなということですね。


この養成講座は、このあと実際に活動されている現場に実習に行くことになります。
私の実習先は12月の頭の予定。


地域若者サポーター養成講座 第5回 -2

2008-11-18 00:05:10 | コミュニケーションワーク

今回の講義には二つの柱があり、ひとつは前回話題にしたアンケートを基にした、実際の来談者がどのような状態で来るのかの実態。
もうひとつが「援助の手法」としての「カウンセリング」の話

私自身、数年にわたってカウンセリングに触れてきているが、その多くはミニカンやエンカウンターに参加しての実践と、ロジャース氏の論文を通じての専門用語よりの学習で、分かりやすい言葉でカウンセリングで体感していることを伝えるのは難しいと感じていた。
それを今回の講義では、とても分かりやすくまとめてくださり、その”大事”な部分を伝えてくださった。
もちろん、その後の実践を通じて参加者はその言葉の意味を体験していくのだが。

まずはタイトルとして「カウンセリング(傾聴)の基礎」として、そのサブタイトルに「その方の言い分を聴くこと」としてある。
「その方」というのはもちろん来談者であるし、何かを施したり対策したりではなく「言い分を聴く」ということが「来談者中心主義」を現してくれている。

ついで「カウンセリングとは」ということで、巷にあふれている「カウンセリング」(対面販売、聞き取り調査)という言葉と、これからここで進められる「カウンセリング」の違いを教えていただき、本題に入っていく。

まずは話しての状態について

 話しているときは、自分の想いを表す言葉を探しながら話している。
 話しているときは、自分の声を聞きながら、言い過ぎかな、などと吟味しながら話している。
 話しているとき、聞いてくれている人の反応を見ながら、聞いてくれそうな表現を探しながら、話している。
 話しているとき、言うのをやめようかな…とも思っている。

これは私もミニカンの実践などで徐々に感じるようになってきたところで、言葉にでているものの裏にある思いは当然あるし、そういうものは行間というか、沈黙の時に”動いている”ものとして出て来るように思う。
もちろん、表に出ないところで動いているので、それを探る必要もないし、無理に引き出すのも当然良くない。
ただ、表の言葉だけでなく、こういう動きがあるよってことを知っているのと知らないのではずいぶん違うと思う。

さらに続けて

 カウンセリングでは理解することに力点が置かれます。
 基本にして、最強の援助法はよく「聴く」ことです。そしてこれを実現するには、「聴いてもらっている」と話し手に判るように示す事が必要です。

と教えてくださいます。
今でこそ、私も当たり前のように思っていますが、私自身以前は「理解」よりも「対策」が必要だと思っていましたし、何かアドバイスすることが援助だと思っていましたから。
ただ、この「聴いてもらっている」と話し手に判るというのはとても難しいことです。

そこで、「傾聴スキル」に話が移ります。

 うなづき
 あいづち
 同じ言葉の繰り返し(感情を表す言葉・直前に発せられた言葉)

このことは、私は実践の中で相手の方の態度や様子を真似することから覚えていきました。
それを改めて「スキル」ということでまとめていただくと、「やっぱりそうだよなぁ」とうなづけます。

このあと、3人組で実践するのですが、やはりなれない方には難しいものがあるようですね。
「話し手を大事にして、聞き手は言葉を挟まない」ということだけでも、何度も実践しないとね。
この実践の話はまた別の項にしましょうか。


最近ではカウンセリングの流れもいろいろあるようですし、支持的・操作的なものも必要な場合があるようです。
しかし、私の周りではとにかく「聴く」ということを実践して見せてくださる先達がいっぱい居られますし、その大事さを教えてくださいます。
それが、今回違う場所でも同じように教えてもらったことで、とても私の中にある芯を太くしてもらった気がします。

今回の養成講座の流れの中で、時間的制約やゴールを目指すことが重視されるのだったら、その活動と私の目指すものにちょっと違和感が残るかと思っていたのですが、実際に現場のカウンセラーさんが大事にされているところは私の思いと離れたものではないことが判り、ホッとした感じがあります。

足元の再確認をさせてもらえましたね。
今週は、真カ研の勉強会もあるので、ちょっといい感じの気持ちで臨めそうです。


 


地域若者サポーター養成講座 第5回

2008-11-15 23:29:44 | コミュニケーションワーク
1週のお休みを置いて、養成講座もいよいよ5回目。
講義形式としては最後の回です。

今回は「聞く」ということを講義と実習で学ぶのですが、私の場合は今回を目的にしていたと言ってもいいほど楽しみにしていた日。
それだけに、講義の中身、実習の感じ、私自身の感じなど、ブログのネタが一杯です。
もしかしたら、数回に分けるかもしれません。

そんな中でも、今日の感じというところは時間とともに薄れたり他の気持ちが混じるかもしれないので、本来なら流れを先にすべきでしょうが、この気持ちのところを先に書いておこうと思います。

まず、非常に満足できた回でした。
「聞く」「カウンセリング」ということを、私なりに学んできましたが、それはほぼ100%「真宗カウンセリング」を通じてのことです。
ネット上などで、他の流れのカウンセリングを学んでいる方とやり取りすることもありますが、それは言葉上のことがほとんどで、実践的な、実感の伴うところでの学びではないと思っています。
今回の講師の方は、アカデミックに研究されているというよりも、実際に現場でカウンセラーとして実践されている方で、教えてくださることが実感として伝わってきます。
その中身は、私が学びの中で感じていることを、言葉として明確に示してくださいました。
そのことはまた項を改めて書こうと思います。

そして、後半の実践でもミニカウンセリング形式で行われ、久しぶりに「見知らぬ方」の話を聞いたり、話したりする感覚を味わいました。
これもうれしいことでした。
このこともまた改めて。

では、今日は何を書くか…それは非常に個人的に感じた、私の内面の部分になってきます。

今回の講義をするにあたって、実際に面談の現場で使われているアンケート形式を試してみることがありました。
実際に支援が必要な若者に、今の状態を確認するための項目で、その答えからトラウマや他者との距離感などを計る事ができるようです。

で、やってみた結果に現れているのは…わたしには大きなトラウマがあり、ずっとそれを引きずっていて、ふと気を緩めるとそのときの痛みを思い出し、そこに捉われてしまうという…

その部分はいくつかの項目の中の1ブロックなんですが、そこだけ18点満点の14点。
問題のない人は6点以下のようですから…問題ありですね。
他の社会的な関わりなどを表す部分は低い数字なんですがね。
講師の先生は、「そういう問題を克服している人は点数が低い」というようなことを言っておられましたが、普段の「社会人している私」ならば、そういう項目も普通に低い点数をつけていたかもしれません。
そういう内面を引きずっていたら、仕事などやってられないですから。
が、カウンセリング的なイメージがすでにあったため、飾らず、開いた状態でその項目に対していたからでしょう、普段奥底に閉じ込めているようなものが、気がつけば表に出てきていました。
だからこそ、トラウマというんでしょうね。

幸い、後半のミニカウンセリングでそのことを口にさせてもらい、「出てきたものに驚き、こだわっている自分が嫌だ」というところまで明確化させてもらいました。
そうやって、外に出してやれたことで、そういう自分をもう一度見つめなおすことができたようです。

いつもながら、ミニカウンセリングは「体験的な練習」でありながら、見事に自分の問題に向き合わせられる時間ですね。
人のために身に着けるカウンセリングではなく、その時々の「今」の自分のための時間だと痛感します。

それには、今日の講師の方の話や態度がとても心地よく、実習までに気持ちをほぐしてもらっていたからだろうなと。

このカウンセラーさんが教えてくれたことも、ぜひブログで残しておきたいと思っています。
(帰り際に、ブログにしても良いかたずねたら、快く笑顔で了承してくださいましたので)

地域若者サポーター養成講座 第4回

2008-11-02 00:07:06 | コミュニケーションワーク
今日は地域若者サポーター養成講座でした。
先週は法座の講師依頼が先に決まっていたため欠席したので、参加は3回目です。

これまでは講義を聞くことが中心でしたが、今回はグループワーク。
テーマに基づいてグループでアイディアを出し合い、まとめ上げていく…ブレーン・ストーミングに近い感じですね。

グループワークに入る前の導入で、「地域」とはどの範囲をイメージするか、「若者」とはどの年代をイメージするか、参加者の意識調査のような感じで、講師の指示に従っていました。
これが結構リラックスできましたね。

続いて、グループ分けですが、これもゲーム(ワーク)形式をとっています。
各自の背中に張ったものの名前を、周りの人に質問しながら(答えは、はい・いいえ のみ)正解を絞っていくというものです。
ここで感じたのは、私の場合背中の正解を「予想」して、その予想が当たっているかどうか確認する質問をしていました。
そうすると、予想が外れるとまったく正解に近づけません。
結局、予想して外れたものを消去していく方法になります。
逆に、まったく予想せずに広い質問から絞っていく方法は固定概念を持たずに素直に探っていけるんだということが分かりました。
分かっては見ても、予想という固定概念に捉われてしまう自分だということが余計ハッキリしてきて、その手法から逃れられない厄介な性格をしているんですけどね。

背中に張ってあるものの種類別にグループに別れ、いよいよグループワークです。
まずは自己紹介のワーク。
前の人の紹介を繰り返してから、自分の紹介をするというものです。
テーマは「今の気持ち」と「所属」と「名前」
前段階で、それらをまず紙に書くのですが、いろんなワークで「思いつくまま言葉にしてみる」ことを少しできるようになってきた私は、「気持ち」や「所属」をどんどん箇条書きしていました。
しかし、次の人が私が発言したものを覚えないといけない…ということで、紹介する項目を出来るだけ絞っておこうという配慮が頭をよぎります。
それが、このワークのためにいいのか悪いのかは分かりませんが。
結局、私の場合は「不安とワクワクする気持ちのある、浄土真宗とカウンセリングを学んでいる、高橋です」という紹介になります。
私は2番目だったので、「○○という気持ちで、××をされている、??さんの隣の、不安とワクワクする気持ちのある、浄土真宗とカウンセリングを学んでいる、高橋です」ということになります。
次の人は、それを全部言った上で自分の紹介を足していく。
最後の人など7人分の紹介を繰り返す必要があるというものでしたね。
でも、試験じゃありませんから、詰まったときは他の人がフォローするという。
なかなか、グループ・コミュニケーションの気持ちを自然と持っていけるワークでしたね。

次は、出題されたテーマについて、自分の思いをメモに書いていき、それをグループで検討するワークです。
横軸に「個人-社会」縦軸に「長期的-短期的」という十字を書き、自分の思いがどの座標に位置するかをグループで考えていき、その上で近いものは他の人も出していってまとめていく…ブレーンストーミングと同じですね。
今回は、出てきたものに優先順位をつけたりしないので、結論を導くものではなかったですが。
実はこの過程が一番充実していて、「地域若者サポーター」という共通の意識を持ちながら、でもそれぞれの経歴や思いの違いで幅広いものが出てきました。
たとえば、「こういうものを目指して欲しい」というものに対して「今の現状を大事にしてあげたい」という感じですね。
私は、「今・ここ」を受け止めることが大事と思っていますが、同じように考えている人もいましたし、最初は「はやく一歩踏み出す」ことを望んでいながら、「でも、今のままでいいっていうのも大事ですね」と他者の考えを受け入れる人もいます。
この話し合いには、いくつかルールがあり、当然その中には「他の人の意見を大事にする」ということがあります。
やはりこれは大事なことですよね。

内容はいろいろ具体的なことから、心構えのようなものまで。
結論を導くのじゃなく、こういう「考える」という過程が大事だと思います。

今日の研修を終えてみて、やはりこういう「思い」を言葉にして、表に出してみて、他の人の思いを聞いて響きあうもの、うごめくものを感じていくというのは面白いです。
疲れますけどね。
今日のは研修会なので、ある程度意識を持った人が集まっているので動きも活発ですが、じっくり時間をかけて「まだ動けない人」たちにも響きあうようなエンカウンターグループができれば、この「地域若者サポーター」というものが目指すもののひとつの方向になる気がしました。

そうですね、プログラムを提示して、そこに乗っかれる人はすでに動いているプログラムに任せて、その流れに乗れない人とじっくりと聞き合い話し合いできるものができればいいなと。

どうもというか、やっぱりというか、私はお坊さんと思われやすいようで、「ぜひお寺でそういう地域活動をしてください」と頼まれてしまいました。
ちょっと、今後のやりたいことへのヒントになりそうですね。

地域若者サポーター養成講座 第2回

2008-10-22 01:06:07 | コミュニケーションワーク

ちょっとさかのぼって、土曜日に受講した「地域若者サポーター養成講座」のこと。

前回はちょっとアカデミックな立場から見た現状を、大学の教授に講義してもらったが、今回は現場の人からみた現状を講義。
まずは、大阪にあるサポートセンターの方のお話でした。

乱暴にまとめると「こういうやり方で、こういう成功例があります。ただし、こういう問題もありますけどね」という感じでしょうかね。
前回は現状の問題を突きつけられてマイナスのイメージを持ち、今回は「条件付で成功してます」という話で、私のほうに「じゃあ、その条件にはまらない人は置いてけぼり?」という疑問が残ってしまいました。
つくづく、天邪鬼な捕らえ方をしてる私だなと(苦笑)

数十人相談を受けて、そのうちより専門的な対応が必要な人はそちらを紹介し(たとえば医療的な対応が必要な人とかね)手に負える十数名にプログラムを施して結果を出す。

冷静に受け止める部分では、その十数名が結果を出したんだから、今まで何も出来なかった状況よりも大きな進展だと思いますし、職員の方のご苦労などは尊敬に値すると思っています。
でも、腹のほうにちょっと引っ掛かりが残る。
最初の数十人の中に、他も紹介されず、プログラムにもついていけない一握りの人が居るんですね。
そういう人を先に外して、「プログラム参加者のほとんどが結果につながりました」と言われても、納得できない腹がありますね。
じゃあ、どうすればいいのか…というところが私にもないんで困るんですが。

今回受講している講座が、そういう「プログラムのサポーター」枠を広げて、対応して(結果につなげる)いく人数を増やしていこうという試みなのか、今までの施設や試みで対応し切れなかった部分を受け持っていく施設・人材を作っていこうとする試みなのか…私にはまだ読めていないのです。
もしかしたら、講座をやろうとしている側にも明確なビジョンはなく、まず現状を知っている専門家以外の人材を増やして、知恵を出していこうと言う段階かもしれませんね。

現在実施されているいろんなプログラムの話に戻りますが、十数人にいろんな(社会的)体験をさせていくのですから、最低限「行動できる」という条件にかなっている人が対象になります。
最初の面談で、それが可能かどうかカウンセリングで判断するそうです。
とすると、私の考えている時間(回数)制限や指導、目標設定をしないカウンセリングではなく、それこそ「カウンセリング販売」のように、相手に合うものを探る面談ということなんでしょうね。
そうやって枠内に収まるかどうかで選別しないと、あまりにもの異端子を団体活動に入れたら、団体に悪影響を及ぼすからすべてがパァになってしまう危険があるのは分かります。

じゃぁ、その面談ではじかれた親や子は、その後どうしてるんでしょうかね。

あと「決して、自分の手に余る案件を受けないでください。専門家に任せましょう。こちらもつぶれてしまいます」ということを何度も強調されていました。
これも頭では十分理解できます。
でも…。
むうずかしいことですね。

休憩を挟んで、先にブログにした自己紹介の時間があり、あとは京都の事例を。
まぁ、これから実際に現場で実習をしたりして、施し側の目指しているものと相談に来る方が目指しているものがかみ合っているのかいないのか、体感していくことが必要なんでしょうね。
今回出会った方の生の声を聞かせてもらったんで、余計にそういうことを感じます。

次回は私の都合でお休み。
レジュメを後日いただくのと、講義を録画したものを貸してもらう約束をして帰りました。


 


地域若者サポーター養成講座 第1回

2008-10-14 00:37:46 | コミュニケーションワーク

「地域若者サポーター養成講座」というのを受講してきました。

今まで、法座活動の延長からカウンセリングを学びだしたことと、保育園の関係から親子コミュニケーションを考えることをしてきましたが、ちょっと違う世界も覗いてみようかなと。
違う世界と言っても、まったく未知のものではなく、今までの学びを、今までとは違う場で実践に結び付けられればいいなと考えています。
学びよりも、実戦経験のためという思いが強いですね。

そう考えているときに、偶然にもこの講座の案内が目に入りました。
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000046150.html

まぁ、この講座やそのあとのサポーター活動は「ニート対策」という行政の動きがメインなんでしょうが、自分の子どももこれから「若者」(この活動定義では15~34才)になって行きますし、同時に親の立場としていろいろ相談を受けたりしていく方々の心配の対象もこの年代が増えてくるでしょう。
そういうときに、こういう講座で「現状」を知っておくのも大事でしょうし、実践的に関わって経験をしておくのも、プラスになるでしょうしね。
このブログでもいろいろ還元できるかもしれません。

さて、そんな自分中心の動機ではありますが、先日第1回目の講座を受講してきました。
今回は大学教授を招いて、「支援が必要な現状」の実態と、「どういう支援活動があるか(できるか)」ということ、そして世界で実践されている「援助活動」の報告でした。
率直な印象としますと、今の日本では「縦割り行政」のつけで、地域・学校・行政の連携がとれず、その責任の不明瞭さ(押し付け)がネックになっているんだなという感じですね。
諸外国の取り組みを聞かせてもらえばもらうほど、この先生は今の日本行政を憂いている感が前面に伝わってきました。

本当は、そういう行政システムを変えていきたいというのが主題で話されたんでしょうが、「システムが変わらないと本当の支援活動が出来ない」ということでしたらこれから講座を受講してサポーターになろうとする私たちには制限がついてきそうでマイナス印象ですね。

そういえば、学校で生徒相談をしている知人がいるのですが、自分の生徒でいる間は支援できても、学校を離れたら関わりが切れてしまうことを問題にされていました。
本当の支援は、学校や行政の管轄で引き継いでいくのではなく、地域が継続的に学校-社会-職場と変わる状況があっても寄り添っていくのが理想なんでしょうね。
この「地域」というのは、かつては近所のおじさんやおばさんであり、私が学生のころだと行きつけの喫茶店のマスターであったり、楽器屋の先輩であったり、そこに行けば相談に乗ってもらえる身近な人間だったんですね。
いま、行政ではそういう集まりの場を作っているんでしょうけど、問題はそういうコミュニティに出かけることが出来ない個々の人であり、その人数が年々増えていってることでしょうね。

まぁ、偉そうに言ってますが、私が個人でなにか動こうと思ってもその力はたかが知れています。
せいぜい、こうして不特定のひとに言葉を伝えるくらいですけどね。

今回の講座には50名以上の参加者がいました。
見た感じ、私より年上で、定年後地域活動を考えている感じの人が半分くらい。
ちょっと若かいめで、ボランティアに関心のある感じの人が残りの半分。
あとは、私と同じように、今子育てで「若者」の親をしている感じの人かな。

どうなるか分かりませんが、今までとはちょっと違う切り口で、今までの私の学びと経験を見つめる鏡にしてみましょう。

ここからは余談ですが、学生時代、授業が苦手で1時間もじっと講義を聞いていられない私にはこういう時間は苦痛でした。
法座やカウンセリングの場が、いかにゆっくりと落ち着いた時間の流れであるかを再確認し、感謝の気持ちがありますね。
とにかく進行スタッフや教授の話が早口で落ち着かない。
まぁ、講義ですからしかたないんでしょうが、言葉を浴びせかけられる感じ。
聞き方・伝え方で大事にすることの逆を行っている気がします。
まぁ、こちらは聴きに行く立場なんで、こちらががんばるしかないんでしょうけど。


真宗カウンセリングワークショップ その2

2008-09-30 00:28:59 | コミュニケーションワーク
今回のワークショップで感じたこと、体感したことをもう少し言葉にして見ます。

カウンセリングの研修会に参加しだしてから、ミニカンやエンカウンターグループの研修会を何度か体験して来ましたが、この1年は月例会の参加だけに終わっています。

それまでは自らが体感し、出会って、気付く過程から、ロジャースさんの論文を通してその意味を裏付けていく過程に移っていました。
その一方で、実際の聞き方がどうなのかをチェックする機会がなくなっていました。

それまでの体験で身についた部分は、普段のさまざまなコミュニケーションで活きてきてはいるのですが、やはりチェックは必要です。

具体的には、ミニカンの15分ほど決められた時間を「聞くことを意識する」という訓練されていたものが、少し雑になっている自分を発見しましたね。
幸い、これまで経験させてもらっていたものがあるので、「できていない」自分に気付くことができたし、すぐに「自分の気持ちは置いておいて、聞く」ということを意識しだしていました。

しかし、かつてはその「徹する」ということを過大視していた自分に、「自分の心に起こっている動きを一旦受け止める」事の大事さも加わり、

聞く
触発されて起こってくる心の動きを受け止める
それを表に出すかどうかを考える
留めておいて、相手の方の気付きに任せる

ということを意識していました。

実際はそうスムーズにはいかず、留めておいたものに意識が引きずられたり、表に出したい自分に任せて口に出していたりもしました。

やはりそこには操作的、支持的なものが混ざりますから…

でも、そうやって動いてみて、そういう操作・支持をしていたということが気付けます。
勉強であり、体験ですね。

それがあらわれた場面があります。
聞き手がじっくり待って、話し手が自分から気付いて言葉に出していくことができたという場面。
一段落ついた後に、他の参加者が「上手に引き出しておられました」ということをおっしゃった。
わたしは「引き出したのとは少し違って、ひたすら待っていることで、自ら気付いていかれた」と言っていたんですね。
これって、このわたしの行為が、その「上手に引き出しておられました」といわれた方が自分で気付いていくのを待たずに、教えようとしている姿ですね。
恥ずかしい話です。

しかし、そのことがより深く「成長を待つ」ということの意味をわたしに刻んでくれました。
理屈の理解ではなく、体験的に受け止めたんですね。

それは、単に「待っている」という形や手段ではなく、そのことで話し手のなかに起こってくる動きを大事にしていくことだし、そういう自らの気付きがどれだけ大きな意味を持つか…
さんざん、ミニカウンセリングで私自身が体感させてもらったことなんですけどね。

しかし、今まで2時間くらいの研修でしていたことを、二日間、計5回のワークで気持ちを集中させるのはとてもエネルギーの要ることでした。
べつに、集中しなければならないと追い込んだつもりはないのですが…
今回はそうやって力をいれて参加する”時”だったんでしょう。
疲れはあっても、とてもいい時間だったんですから。

これから、ちょっと違ったかたちで、カウンセリングを、法座を見直していく作業が待っている気がします。

まずは、10月の法座担当の準備に現れてきそうですね。

真宗カウンセリングワークショップ

2008-09-29 00:23:15 | コミュニケーションワーク
昨日・今日と真宗カウンセリングワークショップでした。
とても濃密な二日間。

世話役ということで、準備の時点からいろいろと動く心境があったんですが、今はそういうことを追っかける感じの気持ちじゃないですね。
もちろん、それも貴重な流れなんで一度押さえておきたいとは思っています。

でもそれよりも、”今の感じ”を、ぶれる前に言葉にしておきたいなと思っています。
内容の流れや具体的なこと抜きの”感じ”なんで、人には伝わらないと思いますが、それよりも自分のために出しておこうという。

”熟成されていく”という言葉がまずあります。
カウンセリングを通じて、出来上がっていく”関係”ということをいろいろ考えているのは私にとって大いなる学びです。
そこを順番につづると長くなるので今は割愛。

この二日間で感じたのは、「ここは何を言ってもいいし、自由に振舞っていい、そして守られた場であり時間です」ということ。
それを今までの研修会などでは、時間が限られ短いことでもあるので、「そういうルール」として決めていた感じがあります。
もちろん、今回も主旨の中のひとつとして、また大事なこととしてこのルールは明示されています。

でも、そういうこちらで決める・意識するということではなく、二日間ワークを進めていくことで、参加者の居場所が自然に「わきあがってくることをそのまま言葉にしていける」という空気・関係になっていったのを感じるし、関わり方はいろいろあれど「あなたを大事にする」「わたしを大事にする」ということが、知識や理解ではなく、深まっていく感じがありました。

わたしなど、ついつい自分が経験させていただいたことを「説明」することもあったのですが、そういうことなしでも、目の前で繰り広げられる”関わり”に自分も一緒に居て、体感として「気付き」「成長」していく姿を浴びています。

そこに法のお勧めが加わる場面もあるのですが、導いたり、引き出したりするのではなく、すべて自身の内側から「気付かせてもらっている言葉」としてあふれ出してくる、またそれをゆっくり待っている空気が尊かったです。

理屈や頭の理解のところでは、二日間じっくり時間があるからとか、この顔ぶれだからとかいう「条件がそろった」ということも出てくるのですが、それは条件ではなく、「それが今、ここのすべて」ということも言える気がします。

また改めて、振り返りながら大事なことを押さえたり、次のステップにしていったりということもすると思いますが、今は自分のうちにともされた灯をそーっと抱えていたいし、照らされる大きな光にも手を合わせていたい…。

いや、まったくもって言葉にすると独りよがりですね。

心にはいっぱいエネルギーをいただきましたが、身体のエネルギーは絞りつくしました。

ご一緒させていただいたみなさま、そしてM先生に感謝です。
そして南無阿弥陀仏

念仏することがご報謝…

会合のことと、法座のことと、つれづれに…

2008-09-07 00:14:10 | コミュニケーションワーク

今までも何度か話題にしたが、町内の役員でいろいろな会合に参加している。
今日は自主防災の集まりで「煙探知機」の設置義務に対する、地域一括購入の説明会。

で、こういう会合でいつも思うのだが、みな人の話を聞かない…聞かなすぎる。
音として聞いているいないで言えば聞いているんだろう。
しかし、自分の都合のいい聞き方をするし、なにか質問しようと思っている人はそのことに心が捉われているから、すでに説明されていることでも「自分の質問したい言葉で」一度外に出さないと回答に興味を示さない。

そんなやり取りを聞いているうちに、「この人は質問の答えがほしいのか、それとも不信感を吐き出したいのか」疑問に思えてくる。
おそらく後者なんだろう。
もっとも本人は質問しているつもりだろう。
しかし、吐き出したいんだから、どんな答えが返ってきても満足できない。

そこで、私のやり取りも含めて、私の周りのコミュニケーションに意識のある人がどういう風にしているのかを思い返してみた。

今日の会合では、質問に対して主催者側が一生懸命回答しようとしていた。
それはしごくまっとうで、丁寧な回答だった。
しかし、一生懸命答える、あるいは主催側の理屈を主張するばかりの印象がある。
なぜかと考えると、一度質問者の「質問の内容」を受け止めるという行為が抜けているからじゃないだろうか。
さらに一歩進めば、質問者の「質問したい気持ち」を受け止めることができれば違って来たんじゃないだろうか。

法律で決まった防災の機器を買わされる。
お金が絡むから、「義務なのか」とか「その価格は適正なのか」などという、なんとかしてお金を払わずにすまないかという方向の質問が多かった。
そこには「ちょっと困っている」という気持ちがあるようだ。
それを置き去りにして、表面の言葉にだけ答えているもんだから、質問者もなかなか納得しない。
回答者は、しっかり質問に答えているのに何が問題なんだ?という気持ちになってくるだろう。

と、こうして書いていると、法座で私がよく陥る場面に似ている。
自分のことを置き去りにして表面的な質問をされる方がいる。
そこには、そういう質問をしてなんとか手がかりにしようという何らかの”気持ち”があるはずなのだが、表面の言葉に応えてしまって、どんどん表層のやり取りになっていく。
質問者もこちらも、上滑りしていることに気づきだしても、なかなかそれをやめることができなくなる。
「そういう質問をしたくなったのは、どういう気持ちがあるんですか?」
と、ちょっと向きを変えることができれば、
「困っているんです」とか「怖いんです」だとかの気持ちの言葉が飛び出してくる。
千のうわべの言葉より、その一言の方がよっぽど重みがある。
その人がそこに”居る”

で、今日の防災機器の話だが、義務だとか、手間がかかるだとか、普及率はどうだとかの問題は表層のことだ。
消防の人が主張していたのは
「この機器を設置することで、家族の危険を減らすことができるんです」
ということだ。
この本当に自分の言葉として語られていることが受け止められない人たち。

思いが受け止めてもらえずに、耳を向けられない人。
そういう人たちの気持ちを受けとめきれずに、主張を受けとめてほしいとする人。
ちょっと、コミュニケーションに気を配れば、本質が伝わるのに…
もったいない話だ。

 

そういうコミュニケーション術を、講習の形でいろんな会合の場で広めて生きたいと思ってるんだけど…
どうやって宣伝すればいいんだろう?
http://homepage1.nifty.com/MANU/others/lecture.htm

 


ワールドワーク その2

2007-06-19 01:51:45 | コミュニケーションワーク

昼食をはさみ、午後の部です。

最初に午前に決定したトピックを出されたAさん詳しくお話を聞かせていただきます。そしてそのことについて質問や感想などエンカウンター的に話し合っていく途中のある言葉に先生が反応され「そこを大事にして見ましょう」ということで、ロールプレイをすることになりました。意見を主張するAさん、その対極にAさんが問題とされる対象の人役Bさんが座ります。そしてAさんと思いを同じくする人二人がAさんの横に、Bさんの横にも二人。この時点で6人の方が前に座って、再度Aさんの主張を聞きます。回りの参加者も自由に中に入れますし、Bさん側の方がAさんがわに行くのも自由、逆もあり。最初の参加者が外に出るのも自由。場合によっては退室するのも自由。そういうことを説明していただき、スタートです。私は当然(笑)どうすればいいかわからないので、外の輪で座っています。

内容のことは書きませんので、流れがわかりにくくなるかもしれませんがご了承ください。
じつは、エンカウンター的に話している時点で、Aさんに対して言いたいことを持っていました。そのことを抱えきれなくなったとき、私はAさんの正面側に座りにいっていました。ここまでは意識的に動いています。
”場”はAさん側とBさん側という対極構図にとどまらず、石庭の石の様にあちこちに要素があり、それぞれのところに波紋が広がり、ある波紋は交じり合い、ある波紋は反発しあい…そういう状況だったように思います。思いますというのは、私は客観しできる状態に無く、石の視線で波紋の中に入り込んでしまっていましたから。
流れの中で、私は遠くの方で分かり合っている人の声を聞いています。私もそこにいって一緒に輪に入りたい…違うところには、わかって欲しいと手を伸ばしている景色も見えます。その時「動けない私」がいました。輪に入りにいけばいいのに、手を伸ばせば良いのに、伸ばされた手をとりに行けば良いのに…その「動けない」ということを口にしていたようにも思います。口にしようとして出来なかったかもしれません(この辺、あやふやです)
次に気がついたときは、ある方が後ろから背中に手を置いてくださっていました。その温かさを覚えてます。何時しか、その手は肩に置かれていました。その手に自分の手を合わせばいい…頭はそう思っているのですが、自分の手は自分の腕を抱えるだけで他には動けません。どれだけの時間がかかったでしょうか、何がきっかけかわかりませんが、肩に置かれた手を握りいっていました。
私の悪い癖で、後で分析してしまうのですが…もしこの手が正面から来ていたら私が後ろに向いていたと思います。この手が握り返すことを強要してきたら振り払ったと思います。
「ある関係に置いて、自分からは動きたくない。でもつながりたい。なのに、つながれ言われると素直にしたがえない。まことに勝手な話だが、時がくるまで待って欲しい…」
いやはや、なんとも…もう参りました。こんなにはっきり現れてくるとは。でも、スッキリしました。

このあと、一度場から離れ、外の輪に戻りました。Aさんをめぐる動きはまだ続いています。新たな登場人物も現れ、問題の収束点にむかっていっているようです。「行き着くところまでハッキリさせた方がいい」という声もあります。それに対し、「待って欲しい」という私が反応していました。それはAさんの側でもあり、Bさんの側でもある私の思いです。その時点でのAさんとBさんの間に座っていました。後から考えるとAさん側で「待って欲しい」その後Bさん側に移ってもう一度「待って欲しい」という動きの方が正確だったかもしれません。(そういう風に双方に動いている方も居られましたから)

かなり、意識化出来ていなかった、あるいはしていても隠していた部分を刺激されましたね。
こういう自分の内部で起こったことだけ書きましたが、ワークを通して教えてもらったこともたくさんあります。
私の中で起こっていることはグループでも起こる。グループで起こることは社会でも起こる。社会で起こることは世界でも起こる。世界で起こることは、社会で起こる。社会で起こることはグループで起こる。グループで起こることは私の中で起こる。今回は目の前のグループと私との関係だけでしたが、そのことを知るには充分でした。
もうひとつ、起こることには意味がある。そこにいる人には意味がある。動いている人だけじゃない、傍観者にも意味があり、受け入れられない・反発する人にも意味がある。言葉だけじゃなく、本当にそう思わせてもらえるのは桐山先生の指導の下に目の前で起こっていることがしっかり説明してもらえたからですね。

「ここにいてくださってありがとう」ちょっとしたところで放たれた言葉でしたが、私に深く染みていました。

一緒にいてくださった皆様、ありがとうございました。

今の時点で、この日のことをブログなどに書かれているところをリンクしておきます。
「かりもん」氏のブログ
「とのひろ」氏のブログ