コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

自分と向き合う流れ

2011-03-25 23:49:42 | 真宗カウンセリング

先週は真宗カウンセリング研究会月例会。

今週はミニカウンセリング継続学習会。

ここ二ヶ月ほど、ゆっくりとカウンセリングの集まりに出られていなかったが、ロジャースさんの論文に触れ、ミニカンに触れすることで、位置つける場所に帰ってきた気がした。

ミニカンでじっくり話をすることはとても大きな事で、祖母の死以来、自分の奥底に触れることをしないようにしていたことや、いろんな面で普通に振舞おうと無理していたことに気づく。、

ある程度想像していたことだけど、あらためて言葉にしてみることで「ちゃんと向き合った言葉にしていない」ことがあからさまになる。

でも今はそれでも良いって感じもしてる。

 

明日は「聞き方・伝え方の学習会」

月曜からは広島のワークショップ。

広島のワークショップは、本来は別の方が担当だったがスケジュールの都合で8月の私の担当と交代することになった。

この時期に、じっくり三日間、ゆったりした時間をもらえる。
しっかり向き合うことが出来るかどうかわからないが、時間と場所は用意されている。

流れというのは、事前とおこってくるもんだなと。

さてさて、この流れの中で何が生まれてくるか…できれば力を抜いて、なすがままに。

「聞き方・伝え方の学習会」

広島真宗カウンセリングワークショップ」


真宗カウンセリング研究会50周年

2011-01-26 02:24:27 | 真宗カウンセリング

先々週末の「聴き方・伝え方の学び」や、先週の真カ研世話人会議、日曜礼拝、輪読会など書きたい話題は尽きない
ドラマ「スクール」第2回の話題も書きたいしね。

が、先にやるべきことを優先していた。
それもなんとか先ほどめどがついたので簡単にブログを。

というか、その「やるべきこと」ってのもそんなに時間のかかるものではないんだけど、日々の仕事や家事の合間でこなさなくてはならなかったり、急な出張が入ったり。
それならば、普段レギュラーででていない輪読会を欠席して・・・とも思ってたけど、流れもあって参加したし。
(そこに至る心の流れはブログネタとしては面白いんだけど…ちょっと賞味が切れてきたかも)
さらに飲み会などと言うお楽しみのお誘いは決して断ろうとしないし。

このへんのグダグダさが私らしいと言えば言えるし、そんなグダグダ状態であれこれ引き受けてしまうのも問題だけど、そういう「頼られる」感じで流れてくるものはうれしかったりするので、苦労はいとわない。
というか、そういうことを引き受けて「えらいねぇ」と言ってもらえることがうれしいしね。
そのへんはなにかと褒めてもらおうと擦り寄ってくる息子の姿となんら変わりないなと。

さて、もうちょっと書きたいところだけど、これも次の予定があるので今日はここまで。

そんな合間でも書きたかったのはこのこと。
真宗カウンセリング研究会は来年度「50周年」を迎えます
ちょっとした記念の集いも計画中なので、ご縁のある方は11月の予定を埋めないようにね。
近日、情報を発信します。


真カ研月例会 9月

2010-10-05 16:53:35 | 真宗カウンセリング

もう半月も前になるのだが、9月の20日に真カ研の月例会があった。
このときの月例会で取り上げたロジャース氏の「無条件の肯定的配慮」の学びは、その後の「聞き方・伝え方の学習会」や「エンカウンターグループ」に参加する私に大いに影響を与え、単なる学びから体験を通じて深められてきている。

カウンセリングにおいて、相手を「無条件」に「肯定的」に配慮することは、それを「頑張って行動にする」のが難しいこと。
それは行動が先なのではなく、とことんその「マインド」が研ぎ澄まされることで行動に現れるものだと思う。
その「マインド」の最たるものを言葉にされているのが「尊重する」と言うことだ。

テキストの中の言葉を借りれば

「あなたはこんなときは良いが、こんなときは悪い」というように選択的に評価する態度とは正反対のものである。

ということだが、逆に言えば普段はどれほど選択的に評価しているのかということが照らし出だされる。
そう、なにかにつけ自分の物差しに合わせて「評価」することをしている。
「尊重」しているつもりでも、そこにはこちらの「尊重できる」という評価されたものに対してであって、無条件ではない。

実際に、私が人の話を聞かせてもらうときを思い返すと、その悩み・苦しみに対して「何とかしてあげたい」という意識が強くなる。
それはアドバイスであったり、同調(だと思っている)であったり、激励であったりする。
しかし、そのことは一方で、「今、苦しんでいる」相手を、その状態は”だめ”と評価して、早くそこから脱却することを促す…正確に言えば、脱却することで自分が役に立っていることを自己評価することを求めている姿じゃないだろうか。

クライエントにとって、今の状態を否定されることは、その問題が解決した「理想」の姿をあてにするしかなくなる。
「今・ここ・わたし」が尊重されずに、成長するように頑張らなければいけない。
もちろん、そのことが結果として成長することも多々あるだろう。
しかし、「今・ここ・わたし」として存在し切れないことになる。

ちょっと変な言い回しになったが、「悩んでいる」自分で在りきること、「苦しんでいる」自分で在りきることを抜きに、背伸びして成長しようとしても、そこには無理が生じて、不安定な危うい「成長」になってしまう気がする。

「悩んでいる」自分が「今・ここ」、「苦しんでいる」自分が「今・ここ」
そうあっても良いんだ。
自分自身で「こんなときは良いが、こんなときは悪い」という評価をしてしまう手伝いをカウンセラーがしてしまうことは恐ろしいことだと思う。
カウンセラーに対して言語化することで、「悩んでいる」「苦しんでいる」ことを十分に経験することで、自ら何らかの動きが起こる(それはそのときすぐでなくても、緩やかなものであってもいい)ことが、本当の成長じゃないだろうか。

もちろん、苦しんでいる本人は今すぐその状況から脱却する術が欲しいんだと思う。
しかし、安易な配慮がそれを産むとは思えない。
もちろん、一時的な安定は得られるかもしれないが。

「無条件」で「肯定的」というのは、同じ悩める人間同士の関係では難しいだろう。
しかし、究極の形として「在る」ものだ。

カウンセラーが何かを成すのではなく、「尊重」し「寄り添う」ことで生まれてくる関係。

とても能動的に意識することで生まれる、受動的な行動とでも言おうか。
いやぁ、まだまだ学びは深い。

こんな気持ちで、いろんな方と一緒に、そこに居る一人一人を尊重したワークにしたいと思ってます。
第9回真宗カウンセリングワークショップ 受付中です。


真宗カウンセリング・ワークショップ in広島

2010-08-24 08:50:21 | 真宗カウンセリング

18日から3日間、広島での真宗カウンセリング・ワークショップでした。
結論的には非常に充実した濃密な3日間。

その内容や流れはここでは述べませんが、私の中にはいくつかのトピックが残っています。

まず参加者のことですが、私が何回か参加した真宗カウンセリングのワークショップは、そのご縁の浅い深いはあれど、みなさん、旧知の方とのワークショップでした。
ただ、法座でご一緒するときといろいろと違う関わりがあり、それはそれで新鮮なものです。
しかし今回は、まったく初めてお会いする方も半分ほど居られます。
そのほとんどは、広島の地でのワークショップには参加されており、私がその出来上がった関係に飛び込んでいくというものです。

基本的にどんなご縁との方でも「今・ここ・わたし」ということで、等しく関わらせてもらいますし、それができていると思います。
しかし、この私は完璧なものではありませんから、多少なりとも旧知の方と、新しく出会った方との距離感に差が生まれてきます。
それを”だめなこと”と、自分を責めることはしません。
そういう”差異を感じている私”というところで、そのまま動いていきます。

そんな初めてお会いする方の中にひとり、お会いするのは初めてだけれど、ネット上で数年前にご縁があった方が居られました。
そのことはお互い認識しており、楽しみにしていました。
しかし、私の中にほんの少し”不安”な気持ちがあります。
その数年前のご縁というのは、ネット上の掲示板で真宗のことで熱く語っていた時期で、私自身真宗カウンセリングに出会っておらず、「言い負かしたい」欲にかられてのコミュニケーションでした。
もちろんその当時は「私が気づいた真実を伝えたい」というものですが、今から思えば「法の刀」でもって敵陣に飛び込んでいく行為です。
そのときの「相手の居所」を一切認めようとしない「勝敗」のコミュニケーションで、今から思えば非常に恥ずかしいものです。
そのことを”知っている方”ということが、勝手に不安感を作っていきます。

と、思い返せるのも、この3日間でその方ととても近づけたからだと思います。
今ではその不安は一掃され、次のご縁を楽しみにしています。

あと、人数による距離感というのも感じましたね。
全部で16名の参加なんですが、序盤は一グループで進んで行きます。
どうしても一部の人のかかわりが中心になりますし、「声はなくともそこにしっかりと居られ聞いておられる」という安心感はあれど、「声が聞きたい」「居所が知りたい」と思っている私がいます。
「少ない人数のほうが話せるかもしれない」という声があり、二日目から二つに分かれてみました。
私が担当した方は部屋が小さく、とても近い雰囲気。
それがとてもいい距離感をうみ、また少ない人数ということで私のアンテナ能力にも適い、いい時間をもてました。

ただ逆に、もう一つのグループの話題がわからない…まぁ当たり前といえば当たりまえですが。
離れたグループの方とは少し距離が開いたイメージがあります。
でも、最後にまた一グループになって分かち合ったときに、話題には距離はあれど、顔が見える安心感でなくなった距離もあったなと。

もう一つ大事なトピックがありました。
カウンセリングを学び、自分の心の動きを丁寧に確認しながら話をすることを学んでくると、自分の発している言葉が本当なのか…うそが混じってないか、ごまかしていないか、気になりだすことがあります。
正直に、自分のありのままを表現できない…そのことが気になりだして、ますます口に出てくる言葉と気持ちに隔たりが出てしまう、さらにはそういう自分を否定しにかかってしまうかもしれません。
ある方が、そういう直接的な言葉じゃないんですが、「これはうそじゃないか?ごまかしてるんじゃないか?って気持ちが出てくるかも知れないけど、話してみようと思います」と一言おっしゃいました。
私にはそのことがすごく大事に思えて「うそじゃないかって気持ちや、ごまかしてるんじゃないかって気持ちを持って話しておられるということもあるかもしれないけれど、そのまま聞かせてもらいます」と一言お伝えしました。
私にとっては「聞かせてもらう」という私自身の宣言でしかありません。
しかし、その方には「そのまま話しても良いんだ」っていう後押しに聞こえたそうです。

言葉としてのコミュニケーションとしては、正しく伝わっていないんですから減点ものですが、一つの言葉が、お互い違う作用であれ、そのことで深いコミュニケーションができるきっかけになったという点では理想的な作用になりました。
いや、言葉の意味以上に働きがあった感じです。

私のほうは、ただ聞かせていただくことしかできません。
アドバイスや分析…してしまう心もないとは言いませんが、するつもりはありません。
でも、その「ただ聞かせていただく」ということを通じて、話される方が気づきを持たれる。
気づきによって変化していかれる。
変化でもって成長していかれる。

響き合い 育ち合う 人間関係

そのことを学ばしていただいたことと、学びなんてレベルじゃなく、私の経験として深く刻まれたことがうれしい時間でした。

この三日を通して、他にもいろいろ気づきがもちろんあったのですが、その時点で書き留める気になっていたらまたアップしようと思います。

ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございました。


お知らせ:
9月28日より、京都にてエンカウンターグループが始まります。
毎週火曜の夜、10回の連続研修なんで近場の方中心になると思いますが、ぜひご参加ください。
お問い合わせは高橋まで。
manu.takahashi@nifty.ne.jp


真宗カウンセリングが語られる

2010-08-03 10:18:27 | 真宗カウンセリング

日曜の朝、NHKラジオの「宗教の時間」に知人の丸山 顕子さんが出演された。
で、いろいろ感じたことがあるんだけど…

8日の朝にも再放送があるので興味のある方はぜひお聞きください。
で、この先はまだ読まずに、先入観なしで聞いてくださいね。
かなり、私の偏った聞き方で書き込むので…(笑)
8月8日午18:30~19:00 NHKラジオ第2
各地の周波数はこちら

 

丸山さんとは、法座でずっとご一緒してるし、真宗カウンセリングの先輩でもある。
ちょうど私が華光でご聴聞を始めたころと、彼女がカウンセリングから華光の法座に出会ったころと重なってたと思う。
なので、当時の話をされるところは、その情景も浮かんできた。
懐かしくもあり、共感できるもの。

これは、頭では仕方ないと思っているけど、違和感を禁じえない部分でもある。
それがなにかというと、このラジオ収録の「聞き手(金光寿郎氏)」の聞き方。
「ひとりの方の話したいことを30分でまとめる」という大前提があり、それを「万人に伝える」という目的があるから、そう考えると当たり前といえば当たり前なんだが…
とても「操作的」であり、あらかじめ決めてあるゴールに導いていくもの。

彼女が「自死」のことを話題にし、そのことを周囲に「受け入れられない」という告白。
多くが「そうしないためのアドバイス」や「それは駄目」という責めであり、そう考えてしまう自分自身を「そういうあなたなんですね」とそのまま受け入れてもらえず、そのことで苦しんだという話。
そこでであった「真宗カウンセリング」や「西光義敞」師との話題。
そういう流れだったと思うんだけど、「今のわたしをそのまま受け取ってもらえる」というカウンセリングにとっても仏法にとっても重要なファクターを、それこそ「そのままゆっくり」と話題にしてもらいたかったんだけど、そういう出会いの意味づけや、そこからの「生き方」に話題が引っ張られていったという印象が強い。

「死にたい」と思っていることを、「そう思っているあなたがそこに居るんですね」と受け止めてもらえることの大事さ。
「でも、生きていてくれてよかった」という”人”が目の前に居る瞬間の大事さ。
真宗カウンセリングの”要”がそこに語られていたように思う。

もちろん、彼女の話を聞いて「生き方」に悩みを抱えている人の多くが感銘を受けただろう。
でも、そのことよりも、「いま・ここ・わたし」をありのままに受け止めて、自身が気づきの中で成長していくという、真宗カウンセリングの「非操作的」なところが伝わればなぁ、と。


と言いつつ、この放送を聴いて「真宗カウンセリング」に興味を持った人が、真宗カウンセリング研究会やこのHPに出会って、「そのままを受け入れてもらえる」ことを体感してもらえればいいなぁという、至極「操作的」な思惑でこの記事を書いてる気もたぶんにあるけれどね。

まぁ、半分冗談で、半分本気。
真宗カウンセリングのワークや研修会で実際に行われている、「いま・ここ・わたし」を大事にする感覚は、自分自身で体感してもらわないと、言葉で説明しきれるものじゃないしね。

8月の広島でのワークもまだ少し空きがあるようだし、京都では9月から「エンカウンターグループ」の研修も始まるし、10月には1泊のワークショップもある。
また、各地で継続的に学習会やワークを開いている仲間も居るので、興味のある方はぜひお問い合わせを。

真宗カウンセリング研究会のホームページはこちら

また、仏法のほうでの出会いのことならばぜひ華光会の行事へ。

華光会のホームページはこちら。


私自身がもっと広いメディアなんかで何かを伝えることができるような輩だったらいいんですけどね。
そんな力はない。
せいぜい、ネットというメディアを利用して、お取次ぎをするだけ。
「ご縁をつくった」ってことを鼻にかけてる、どうしようもない一面もあるけどね。


真カ研月例会 6月

2010-06-18 11:53:50 | 真宗カウンセリング

ロジャース氏の「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」輪読も本文に入っていきます。

今回は私がレジュメ担当。
事前に内容を何度も読み込んでいると、学習会の本番で得しますね。
わからないところ、理解しがたいところが先にはっきりしてますから、皆さんの話のどこがポイントになっているかを把握しやすい。
と、毎回担当するごとに思っているのですが、次の月になると予習もせずにぶっつけ本番で学習会に挑んでしまっているという体たらくですが。

論文の主題となる「必要にして十分な条件」というのは有名なものだが、ここには六つの条件が示されている

1.2人の人が心理的な接触を持っていること
2.クライエントは不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること
3.セラピストはその関係の中で一致しており、統合していること
4.セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験していること
5.セラピストは、クライエントの内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努めていること
6.セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮が、最低限クライエントに伝わっていること

今回私が担当したのは、この六つが「必要にして十分」であり「他のいかなる条件も必要ではない」というロジャース氏の力強い宣言と、第一・第二条件の解説部分。

実は今まで「必要にして十分な条件」として話題にするときは、セラピストの三条件「自己一致・肯定的配慮・共感的理解」の三つを中心にしてきた気がする。
もちろん、この三つはとても大事だ。
しかし、今回レジュメ担当してみて、その前段階の二つにも非常に重要な要素が含まれていると感じた。

「1.2人の人が心理的な接触を持っていること」
考えてみれば「カウンセリングの状態」という時点で、2人が向き合い、相手の存在を知覚しているので、この条件はわざわざつけなくても成立していると思われる。
しかし、それが「当たり前」と流していけるかというと、「この条件が整っているからこそ成り立つ」ということを意識することはとても流して済ませられるもんじゃない。
たとえば、無理やりつれてこられてカウンセラーの前に座らされたクライエントがいるとして、カウンセリングに否定的で受け答えもおざなりだったとしても、「前にカウンセラーがいる・前にクライエントがいる」と潜在的にでも意識しているならば、これ心理的な接触をもっているのじゃないだろうか。
テレビの中の人物や、妄想の相手ではない、お互いに存在を知覚している相手がそこにいる。
これは「当たり前」ではないんじゃないだろうか。

心のどこかでいつも誰かとつながっていたいと願う(そのくせ表に出る態度では拗ねたり、攻撃したり)私にとって、そこに存在としていてくれることは「在り難い」ことだということをもう一度押さえなおす意味で、この条件にはハッとさせられた。

「2.クライエントは不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること」
これもカウンセリングが始まっている時点で、クライエントは何かしらの問題を持って「不安」だってことは当たり前のように思われる。
しかし、この「不一致の状態にある」ということをもう一度しっかり認識することで、表に出てこない(表出する出来事に一致していない)問題があるということを押さえなおして、相対することはとても重要なことだと。

自己一致・不一致ということについても、なんとなくわかっているようで、いざ誰かに言葉にして伝えようとするとうまくいかない。
自分の中で「あぁ、一致してる」「うーん、不一致だ」とはなんとなくわかるようにはなってきたのだけど。

そのあたりを、この第二条件を学びなおしたことで、ちょっと深まった気がする。
といっても相変わらず自分の状態をどう表現すれば良いかは難しいけれど、「不一致の状態・不安がある状態を明白に近くされる必要はない。潜在知覚されるだけで十分」という言葉によって、「何がある」かを詮索しなくても「何かがある」とうっすら感じるだけでこの条件は満たされる。
心の状態を探るときに、「快晴…だけど、なんとなくうすーい雲があるような…」でOK。
まぁ、本当に快晴の人もいるかもしれないけれど、「そう思い込みたい」って人もいるだろうし、その「思い込みたい」という心を「なんかすっきりしない」って感じで味わっているならば、立派な「不一致」だ。

ここで「不一致」ということを意識することで、第三条件の話が大きな意味を持ってきそうだ。
(そこは次の担当者さん、お願いします)


今回輪読した全体像のなかで
「簡潔な記述が、論文を読み終えたときには、もっとずっと意味の深いものになるようにと希望している。」
というロジャース氏の語りかけがあった。
六つの条件をさらっと流してしまうけれど、簡潔な言葉だからこそ、そこに込められた意味をじっくり意識することはとても大事だろうなと。
序盤の二つでこれなんだから、3条件に至るとどこまで深いのやら…

仏法と同じで、わかったつもりはいくらでも訪れるけれど、本当のものはどこまでもどこまでも深いんだなぁ。


あと、ここには書けないけれど、参加者の生身の体験のところで「学び」の出来事を深めていけるって言うのは、とても味わい深いですねぇ。
真カ研の会員限定ですが、会員の方はぜひ予定をやりくりしてご参加を。
また、興味のある方はぜひご入会を。
詳細は真カ研HPにて
http://dbpca.web.fc2.com/


真宗カウンセリング・ワークショップのお誘い

2010-06-06 00:01:53 | 真宗カウンセリング
ふと気がつけばアクセスカウンターが10万を超えてました。
のんびりと「知る人ぞ知る」状態でやってきましたが、最近常連さんが増えてきてるようで…うれしい話です。

今月は真宗カウンセリング研究会のワークショップが京都であるのですが、思いのほか参加希望者が少なく困っています。
今年度は広島で2回、京都で2回、ワークショップが計画され、昨年行った北陸と九州はなし。
なので、京都での開催に参加してくださるかなと思っていたのですが、北陸は別行事と日程がかぶってしまい…
ならば近郊の皆さんが参加してくださればいいのですが、どうも3日間というのがきついのか、あるいは金曜は仕事があるから難しいのか…などといろいろ考えています。

そこで、まだ本決定ではないのですが、このまま中止にするよりは2日間に縮小して、費用の負担、仕事の兼ね合いの負担を減らせば参加してくださる方が出てくるのでは…と考えたりもしています。
どうでしょうかね。

それなら参加してみようかなって方はぜひご連絡を。
manu.takahashi@nifty.ne.jp

真宗カウンセリング・ワークショップはとても不思議な空間です。
京都でミニカン・エンカウンターの研修会もありますが、それとはまた違った雰囲気があります。
また、私が「聞き方・伝え方の学習会」をやっていますが、それともまた違います。

2日間(あるいは3日間)、ゆっくりと流れる時間の中で、仏法の話をしたければそれもよし、世間話をしたければそれもよし。
ただ、そこにいる数人の中に現存する「仏法に根ざした」思いがベースとなって、意識するしないにかかわらず、法に思いをはせることがあります。

自由である、願われている、許されている…
言葉にすると様々ですが、「いま・ここ・わたし」でいられることを体感できると思います。

ということで、皆様にお勧めします。

今の時点での詳細はこちらでご確認ください。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20100618.html

真カ研月例会 5月

2010-05-26 08:42:06 | 真宗カウンセリング
順番は入れ替わりますが、先週の水曜日に真宗カウンセリング研究会の月例会がありました。

今回から新年度として(4月は総会)新しい論文の輪読がスタート。
この論文は数年前にされていたそうですが、メンバーも変わってきているし大事な部分なのでもう一度ということで。

「ロジャーズ選集」から「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」と言う論文を。
参加者は7名。
常連のうち数名が体調不良や他の予定で欠席。

今回は次回からのレジュメ担当の決定などをした後、まずこの論文を含む章の解説文を輪読。
つづいて論文の序文と、「問題」という章まで。

解説の部分では、この時代(論文がまとめられたころ)の研究者たちからの評価(主に批判)や、逆に表彰されたさいの表彰文を通じて、その位置づけを再確認。
専門的なことを深く追求し、「分かるものにだけ分かる世界」を求めていく人たちからは「軽い」という評価をされていたようだが、ロジャーズ氏が一つの「わかりやすい」結論を導くまでは、数多くの仮説とそれを実証する実践が費やされていることを軽視しすぎている。
事実、ロジャーズ氏が明らかにしてくださった「必要にして十分な条件」というのは、今に引き継がれてきて、さらにそれを根底において様々なアプローチにつながっている。
いま、私が様々な形で人と関わっていくことには、直接的に学んだり、あるいは人の姿を通して学んだりした「必要にして十分な条件」が大きく影響している。

もし、ロジャーズ氏がただのセラピストで、自分の前に訪れるクライエントだけを相手にして、そのセラピーに終始しただけならば、今の私は無かったかもしれない。
自らが達した「確信」の世界を、後に伝わる言葉にするためにさらに検証を続け、論文として記述することに努められた。

その決意的なものが、論文の序章に書かれている。
「理論のごく小さな断片を取り上げて、もっと完全にそれを記述し、そしてその意味と実用性を探求する」

おそらくセラピーの現場ではロジャーズ氏に内在している理論を、そのクライエントに合わせて断片的に応対することで、完璧に近いセラピーを実践されていたんだろう。
それを「完全に記述」することで、「意味と実用性」を後進のものにわかるようにしたのだ。

自らの悟りを、自己だけで完結させずすべての衆生に伝える決意をしたお釈迦様のように。
また、自らの信を何とか伝えようと言葉を尽くしてくださった先達のように。

今の私を作り上げている小さな断片には、様々なおかげが満ちているのを感じる。
仏法の三量のように、カウンセリングの学びとしても、自らの了解と、学術的・理論的な学びと、活きた実践の世界が補い合い、引っ張り合いして、わずかずつでも歩ませてもらっていることが、とてもうれしい。

早速、来月のレジュメ担当になったので、ロジャーズ氏の世界に触れていこうと思うし、それを発表して他のメンバーの話を聞いて深めるのがとても楽しみだ。

真カ研月例会 4月

2010-04-22 10:03:47 | 真宗カウンセリング

4月の月例会は総会。
昨年度の事業報告や本年度の事業計画、決算報告や予算案報告、おおむね「総会」というのはそういう流れで運営の現状や予定を話し合うものである。
しかし、良いのか悪いのかはわからんが、そういう報告をきっかけに、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」に関して、各自が問いかけられる場になり、語り合うことでお互いの「歴史・経験」を通じての「いま・ここ」を見詰め合う”場”になっていく。

考えてみたら、報告議題が全部終わらずに時間切れとなるなんて、「総会」としては問題があるかもしれない。
しかし、満足度は十分ある。

参加した行事の報告を通じて、いろいろな思いがよみがえってくるし、ワークショップや学習を重ねたことで成長(でありたいと思ってる)や変化を感じる。
自分の内部だけで熟成されている「真宗カウンセリング」を、報告するために言葉にする作業で(うまく言葉に出来ないもどかしさもあるが)再確認する。

質問に答えていく中で「法座」や「エンカウンターグループ」との比較を意識し、故西光先生が図式化された「世間の関わり」「法の上にたった出世間の関わり」の差異が明らかにされてくる。
いや、私が明確な意識化、言語化が出来ていなかった部分を、すでにしっかりと教えてくださっていた。
かりもん氏のブログにも話題にされています)

自分の立ち位置というところではハッキリするが、それを説明するのは難しい。
つくづく、学術的に整理する能力に欠けていると痛感する。
良い言い方をすれば「現場主義」となるのだが、これだけ手間をかけてもらって”素人”ってのも…ねぇ。

といいつつ、「自分はこれでいい」って思いもあったりする。
今から理論を学んでいる人と同じになる必要もないし、完璧になりたいと言う欲も無い。
もちろん、出来る人に対して”嫉妬心”はいつも絶えないが。

真宗カウンセリングを研究するのではなく、真宗カウンセリングを体感した「わたし」として、その時々の関わりをしていく…なんとなく、そういうイメージは出来上がっていたりする。

もちろん、その「真宗カウンセリングとはなにか?」と言う部分にゴールは無く、学びと実践で体感していくだけだ。
学術的に後進に引き継いでいくと言う大事な役割もあるのだろうが、それは他の方に任せて、私は姿を見ていってもらうしかないかな、と。

もし、こういう(甘えた?)考え方じゃ駄目だとお叱りもあるかもしれないし、そういう要請があればそのときに動くかもしれないけど、こんなやつもいてもいいんじゃないかな。

(だって、みんな賢くて…って言う感覚があるのは卑屈ってことかな)

と、だいぶ話題がそれてきたけど、総会を通じていろんな味わいがありましたってことで。

こうやって書き込んでみて、卑屈って言葉がいろんな面でいまのわたしにぴったりくるなぁ。


新たな展開と振り返り ~PTA会議と真カ研月例会3月~

2010-03-19 05:05:31 | 真宗カウンセリング

いろいろブログに書きたいネタが山積みの中、自分の身体を休めることに専念する中(ようは眠気があるときや遊びたいときに、そっちを優先してるだけ)木曜日に二つの予定が重なった。
ひとつは子どもが通う小学校のPTAミーティング、もうひとつは真宗カウンセリングの月例会。

保育園時代に役員をご一緒していた方々が多くPTA役員をされていたご縁で、来年度のPTA役員にお誘いいただいた。
まぁ、すでに卒業して高校生になっている長女の時代から、すでに11年お世話になっているし、一番下は今年度入学したところであと5年はお世話になる…1学年二クラスしかない小さな学校だから、いつかは回ってくるのも当然だし、ここはお手伝いさせていただこうと。
また、このブログで展開してる「親子コミュニケーション」に関することを分かち合っていくことで深めて行きたいし、新たな刺激をもらう機会にもなるだろうなという欲もある。
同時に、実績として今後への人脈作りができればといういやらしい心も。
「仕方なくいやいややらされている」というよりは、いろいろ自分への見返りを感じられることはいいんじゃないかと…ね。

今回は新役員と継続して役員をされる方との顔合わせと、さまざまな行事などの説明、あとは役割分担。
事前に日程をいろいろご相談いただいていたが、他の方の都合などもあり月例会と見事にバッティング。
なので、自分の役割が決まった時点で失礼して早退。


ということで、真カ研の月例会に遅れて参加。
今月は1年間進めてきた論文輪読の最終回で、一度担当者を決めて最後まで進めてきたので、出来るところまで読み返して分かち合っていくということ。
到着したときは各自のチェックインが終わって、ちょうど最初の章を読み始めたところ。
ひとこと今の気持ちを話する機会は逸したが、論文輪読は最初から入れたのでちょっとほっとした。

一度じっくり読んだ論文も、最後まで通読した後もう一度ふれると、以前とは違った印象に感じられる。
この後に展開されることへの予告編だけなら、こちらが勝手にイメージを膨らませてしまうだけだが、本編を見た後ではその言わんとするところがよく分かる。
もっとも、まだまだ理解は”難しい”。
でも、この論文に出会う前よりは確実に血肉になっている気がする。

さらに、ここ数週間実際に行っている関わりに対して、もう一度大事な礎をもらった気がした。

カウンセラーが動きたい欲求ではなく、クライエントの自らの気付き

そこには、こちら側のカテゴライズや診断、誘導や促しはいっさい必要ない。
動きたくなるのは、早く進行させたかったり結果を求める、周囲やこちら側の都合。

もう一方で、ただ言いたい事を我慢して壁になって聞くことが傾聴ではなく、クライエントが安心して「自分の中の危険な領域」まで自らが進んでいける場と時間を共有するお手伝い。
あらゆる”生まれてくる感情”にたいして、「そのままでいられる」ことができるのが「十分に機能している」ことであり、よいセラピー(カウンセリング)が出来るならば限りなくその状態に近づけるということ。

これらのことを、論文内容や参加者との分かち合いの中で再確認させてもらえた。


様々なワーク・勉強会の実施・相談の実践などを通じて経験し血肉になっていく部分と、それらが勝手に動き回ってしまわないような原点の確認。
机上の理論だけでも、勝手な自己流でもない、学びと実践に私自身が成長させてもらっていることを感じる。


あとは、そんな「受けた刺激」を言葉にするこのブログをもうちょっと更新する時間と気力があればいいんだが…