コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン継続学習会 2月

2010-02-26 02:58:48 | 真宗カウンセリング

ミニカン継続学習会 2月

今月はいつも一緒に世話役してるSさんはご都合でお休み。
さらにM先生も急に用事が入ってお休みと朝に連絡。
真カ研の集まりを一人で世話したことなかったんでちょっとドキドキ。

でも、始まってみたらいつもどおり。
いや、ちょっと気負ってたかな。

参加はちょうど偶数、私を入れて6人。
最初のチェックイン・2回のペアを組んでのミニカウンセリング

私の中の中心は、先日のフォーカシング・エンカウンターを経験しての”感じ”をいろんな角度からなぞってる感じ。

一人でブログにして味わうのも意味はあるんだけど、こうしてミニカウンセリングとして、カウンセラーさんに聞いてもらうことで気付くことがいっぱいある。

そのうちのひとつは、フォーカシング・エンカウンターに参加しているときはミニカウンセリングの聞き方を意識しているけれど、ミニカウンセリングで聞いているとフォーカシングエンカウンターで味わった感覚が浮き彫りになってくる。

すでに、その両者が私の中でとろけこんでいる。
これは不思議でもあり、落ち着いた感じでもあり。

でも相変わらず、そういう感じをしている自分を
かっこつけてるんじゃない?
と見ているわたしがずっといる。

まぁ、今は深く相手をせずに、
そうかもね~、そこに居ても良いよ
と肯定している。

でも、そのことを聞いてもらっているときに、自分ではヘラヘラと笑いながら「どうしたいのかなぁ」などと、感じを言葉にしていたら、振り返りのときにカウンセラーさんが「頭を抱えている」という言葉で返してくれた。

自分では肯定していて、深刻でなくヘラヘラしているとしか思えなかったのに、「頭を抱えている」と映っている…

まだそのことを消化し切れてないけれど、とても大事なことを教えてもらった。

自分で感じる、自分の感覚に「?」を付けている今の自分としては、こうやって外から見てもらっている人の言葉は大きな手がかり。
ましてや、安心安全を大事にしてくれている場で、私に「これを言っても大丈夫」と信頼してくれている人の言葉。
これはとても大きなもの。

実際は、こういうこと書いている自分も「かっこつけてる」可能性が高いんだけど、まったくの虚構じゃなく、なにかしら感じてにじみ出るものを元にかっこつけてるはずだから。

うん、月に一度だけれど、かけがえのない時間・空間だ。


真カ研月例会 2月

2010-02-19 23:39:20 | 真宗カウンセリング

メインの仕事だけではこのご時世なかなか収入が心もとないので、今月に入ってから副業も始める。
今までなかった時間を作ろうと言うのだから、当然何かが犠牲になる。
まぁ無駄な時間があればそれを削ればいいんだけど…
テレビを見たり漫画を読んだりなんてのも私にとってはメリハリの”緩”で無駄とも言い切れない(と言う時点であやしいけどね)
まぁ、今の時間の使い方に慣れればもうちょっとやりくりできるだろうけど。
ということで、ネットの時間も少し削られてきていて…と、更新が少なくなってる言い訳でした。

水曜日は真カ研の月例会。
今年度読み続けてきたロジャース氏の論文「十分に機能している人間」の最後。
(来月まとめの会はあるけど)

今回の題は「自由と決定論」
その詳細はかりもん氏がブログにされているので、私はまたまた省力。

今回、仕事の荷物の発送・家の用事などもあり、またまた遅刻。
いつもは最初のチェックインには間に合うけど、今回はすでに論文の検討に入ってた。
最初に自己紹介で一言でも発するのと違い、かなり流れに乗りにくい感じ。
それでも思ったことを言ってみるも、どうも受け入れられてない感覚。
何のことはない、私のほうが流れに乗りにくいから、その意識が場に投影されて、私のほうで勝手に壁を感じているのだ。
もっとも、そのときは「受け入れてほしいなぁ」と相手側に原因を持っていくのだが。

その後の皆さんの発言にも反応しながら、私の乗りやすいところと乗りにくいところがはっきりしてくる。

論文の言葉を理解することはとても苦手だ。
しかし、そこに書かれていることを自分なりに受け止めて、自分の感覚で味わっていくことは楽だ。

で、ここでちょっと考えてしまう。
やはり論文と言う形でロジャース氏が伝えようとしている大事な話があるのだから、私がどう受け止めるかの前に、「何を伝えようとしているのか」をきっちり理解するのが大事じゃないだろうか、と。
そういう部分が私には大きく欠けている。
学術的に受けとめる方々にとっては、感覚的な私の発言は浅いだろうなと思う。

もう一方で、体験的に受け止めた感覚を、論文に記述されている言葉で「あぁ、これだ」とうなずく場面がある。
もしかしたら、それは自分の体験・身体感覚に取り込んでいる姿かもしれないが、机上の理解とは違う深みがある。


そういうことを感じながら、この「十分に機能している人間」という事を振り返ってみると、自分の内から湧き上がるもの、外部の刺激から影響を受けるもの、それらを「今の私」のところで「これが私だ」と、憂いのない受け止め方が出来ている状態じゃないかと。

学術的なアプローチが苦手で、感覚的なところがすき。
それが言い悪いじゃなくて、そういう自分が今の自分。
それを、これからどうなっていこうとか、このままじゃ駄目とかじゃなくて、今の自分は今の自分。

「どんな選択をしようが、正しい選択が出来る状態」というほどの自信はないが、どんな選択のどんな結果も、一度は受け止めることが出来る私じゃないかな。
そこに後悔や憂いは起こってくるんだけど(起こらなければ完璧かもしれない)そういう後悔や憂いもネガティブなものじゃなくて、「そういう自分」と受けていける。

まぁ、何がきっかけで、そんな今の私がひっくり返るかはわからんけど。

完璧な「十分に機能している人間」にはなりえないけれど、振り子のふれ幅の中では結構いい状態かもしれない。

明日からは華光会の研修会。
昨年真カ研でお世話になった土江先生をお招きしての研修会。
いい感じで天狗になってる状態の腹底が暴かれるかもしれません(笑)
何が出てきても受け止められるかどうか。


動いていくもの

2010-01-10 02:42:03 | 真宗カウンセリング
明日から華光の報恩講。
掃除やお荘厳の準備などお手伝いをし、その後有志で飲み会へ。
心地よい程度に飲んだだけなので、帰ってからも目が冴えてます。

準備は夜からでしたが、昼間は来年度の真宗カウンセリング研究会の日程関連の事務作業。
貸し会場の確認や見積もりのチェック、ネット用の案内作成、パンフの準備など。
打ち合わせは来週の水曜日ですが、代表の先生と明日会うので資料をまとめておきます。

で、大まかの日程が出てきております。
詳細は、真宗カウンセリング研究会のサイトに近日アップしますが…

まずは、これは今年度になりますが3月に広島でWS。
3月28日(日)~30日(火)
私は世話人にはなっておりませんが、出張なんかがうまく設定できれば参加したいなと思ってます。

6月には京都でWS
6月18日(金)~21日(日)

8月に再度広島WS
8月18日(水)~21日(金)

10月にもう一度京都でWS
10月29日(金)~31日(日)

他には5月から10回のミニカウンセリング
9月からのエンカウンターグループも世話役として入る予定です。

残念ながら、昨年行った北陸と九州は予定できませんでした。
あと、東京なんかも開催できればよかったんですが…
いろんな予定や経費を考えると、パズルのように組んでいくしかありません。
興味のある方は、ちょっとご足労ですが、ぜひ京都や広島へお出向きください。

私個人としては、もし声を掛けていただけるようでしたら、どこなりと飛んでいきます。
真宗カウンセリング研究会主催としては上記の日程ですが、御呼ばれでしたら喜んで。
WSという形で、いろんな方と出会うのが楽しくて仕方ありませんから。

また、京都でやっているような学習会も広げていきたいなと。
土日がらみなら、高速1000円を利用して、遠方でもお安く…(笑)
車で移動するのは好きですからね。


まぁ、なかなか好きなことを生業にするのは難しいのでしょうが、自分のスキルが他人の役にたって、なおかつ多少なりとも収入になるのなら、これはうれしいことですね。

って、生々しすぎますかね。
(ちょっとアルコール入ってるんで、ご容赦を)

宿善 と 求道心 ~華光大会の御法話より

2009-11-27 00:17:14 | 真宗カウンセリング

華光大会の話題から、座談会のことを中心に書きましたが、聞かせていただいた御法話の中にも大きな気付きがあります。
いや、冷静に考えると何度もお聞かせに預かっていることなのでしょうが、このタイミングで聞かせていただくことで”響く”事があったりします。

大会が始まる前のエントリーで「因果」のことを少し書きました。
お浄土に生まれさせていただくのは、仏様の「因」によるということ。

今回の法話の中で増井先生が「五重の義」のお話をしてくださったのですが、その中の「宿善」のお話の中で、「求道心」ということをおっしゃってくださいました。
先生のお話は、その前後の流れもあるので、部分的に取り出しても本意が伝わらないと思いますので、興味のある方はいずれ発売されるであろう音源か映像をお待ちください。
(華光会のHPを要チェックですね)

で、私が味わったことは、先生のお話と、私自身の関心の部分が混ざり合って残ります。

普通「宿善」というと、私がなにか善を積んで、それがいつか因果の種になるという風に思われますが、この私が積もうと思う時点で、その宿善(と思っているもの)には「欲」が混じってしまいます。
また「求道心」というものは、この私が真実を求めていく心と思われますが、実は私のほうには「求道」する心など微塵もなく、求めているものは「欲」を満たすためのものでしかありません。

なぜ「求道心がない」と言いきれるのか…
「求道する」と言うことは、お浄土に生まれたいと願う心から起こるのですが、本当に私はお浄土に生まれたいと願っているのでしょうか。
罪悪も無常も、本当に感じてませんし、観じることもできません。
「苦から逃れたい」と言う心はあるかもしれませんが、それも「目の前の苦」を何とかしたい気持ちに他ありません。

そう、求道心もなければ、宿善もない…
お浄土に生まれさせてもらえるはずがありません。
聴聞といっても聞けるはずがありません。

聞けない奴なんです。

でも、様々なご縁をいただき、おかげさまをいただき、まがりなりにも法座にお参りして”求め”ている。

ここまで書いたらお気づきでしょうか。
全部、仏様のお働きによって「求め心」までいただいている。
阿弥陀仏の「宿善」が、私の「求道心」となって、この身に働いているんですね。

それなのに、「宿善」を積めると思い込んだり、一生懸命「求道心」を起こして聴聞していると思っている。

これが大きな過ちですね。

だから、私の方にあると思っている「宿善」=「求道心」は頂きものだと知る。
なぜいただけるのか…
それは、この私が「願われている」から。
その願いを成就させるための「因」をいただいている。

「求道心」も、起こさせてもらっているんですね。


真カ研 月例会 11月

2009-11-19 14:57:55 | 真宗カウンセリング


先月と同じ「十分に機能している人間」の章、中盤。

先月のSさん、今月のMさんと、はじめてレジュメ担当をされるが、さすがに現役学生さんはきれいにまとめたレジュメを作られる。
ついつい理屈っぽく並べようとする分析型(基本理系の流れだしね)の私には無理だな



今回の部分は、この「十分に機能している人間」と仮説されている”彼”と、”文化”また”社会”との関係について述べられている。

これまでも繰り返し繰り返し述べられていることだが、この仮説上の”彼”は、「どのような感情・欲求がおこってきても、それに対して防衛せず自由で居られる」ということだが、それは回りがどのような文化であろうと、それに影響されることなく「そのままのわたし」で居られるということ。
前回は診断上で異端児と診られても、それに関わらず「自分自身で居られる」ということだったが、今回の部分では文化に対してもそうだと。
さらには、先駆者になりえるということ。

話し合いの中で、今では異常と思われるが、その時点では異常と思えなかった文化、たとえば戦国時代や戦争時代など様々な規制がある文化、また特定の宗教下に支配され思想に制限がある文化ということを例に出して、先駆者と呼ばれる人たちはそういう文化の中でも「自分自身」を存分に発揮できた人ということが出てきた。
しかし、今でこそ先駆者と呼ばれる人たちも、その時代の渦中では評価される事がなかったのじゃないだろうかと。
やはり「異端」として扱われていたんだろうなぁ。

じゃぁ、今は正常な文化と言えるのか…
私の頭によぎってきたのは、同じ枠に入るように教育することを”良し”として、そのレールから外れるものを”悪し”とする、また会社でも特殊な考え方を認めない、そんな今の文化も、ロジャース氏が言うような先駆者を受け入れていない文化だと思える。

回りになじむためには、ある程度自分を殺して、”迎合”することを求められる。
いや、それを無理に行っているのではなく、自然とそういう妥協をしてしまうようになってしまっている現実…
なかなか「十分に機能している」状態とは程遠い気がします。

一方で”社会”との関係。
閉じこもることなく周りの人とコミュニケーション取れていくかと言うことです。

仮説上の”彼”は、その瞬間瞬間に起こってくる欲求に対して、その欲求を阻害(防衛)することなく自由でいる事が出来るのですが、私のイメージだと自分の欲求に忠実であるととても自己中になると思います。
しかし、「あらゆる欲求」に自由でいられるならば、一番適切なベクトルでそれらの欲求に満足できる行動を選択できると言うんですね。

たとえば、「殺してやりたい」という衝動が生まれたとします。
普通(何をして普通と言うのか…まぁ道徳的ということでしょうか)、そこには「自制」の欲求が働き、「殺したい」という欲求を抑えてしまいます。
ごくあたりまえの動きのようですが、これだと「殺したい」と言う欲求を封じ込めたままですから、何かのきっかけで抑圧されたその感情が爆発する恐れが残りますね。
(そのたびに自制がフル活動するのでしょうが…)
しかし、「十分に機能した人間」ならば、「殺したい」という欲求を抑えるでもなく、自己の中で他の欲求、たとえば「殺すことで悪い人間に思われたくない」だとか「殺さずに仲良くなれるようになりたい」だとか、(わたしには上手く想像できませんが)他の欲求にも応える形で、適切なベクトルで行動すると言うのです。
この話だけですと、妥協点だとか、中庸だとかいう感覚に思えてくるのですが、それだとすべての欲求が中途半端に終わるでしょうから、そういうことでもなさそうです。
すべての欲求が満たされるのか、あるいはそういう欲求に煩わされる事がない心境になるのか…これはもう”悟り”と言っていいかもしれません。


このあと、この「殺したい」という欲求をもったクライエントに出会ったときに、カウンセラーはどういう対応が出来るか、という話題で話が膨らみました。
そのことは、また機会があればこのブログの話題にしてみたいと思います。

今回書いた話題だけだと、この仮説上の”彼”はすごく特別な人間のように思えますが、こういう”彼”になるのが目的、あるいは”彼”を作るのが目的ではなく、カウンセラーが適切な関係を持つことが目的であり、その結果、究極のところ”彼”のような「十分に機能した人間」になりえると言うお話。
一足飛びに行く話ではありませんね。

真宗カウンセリング・ワークショップ

2009-10-29 23:48:34 | 真宗カウンセリング
さて、週末はいよいよ「真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡」ですね。
世話役を3人にして、多くの参加を…と意気込みましたが、やや少な目の定員割れ。
しかし、面白いもんで、多ければ多いなりの、少なければ少ないなりの、「いま・ここ・わたし」が集まった関わりになれるというのがね。

私はすでに知っている方ばかりの参加なので、最初から気兼ねなく入っていけそうです。


最近…いや、ここ数年ずっと、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」と、それぞれだったり組み合わさったりしながら、いろんな関わりを持ってます。
私自身は”ひとつ”なんだけれど、外からの関わり方によって私の中の”現れ方”が違ってたりします。
でも、それは側面が違うってだけで、本質はおなじ”わたし”だってことがますますハッキリしてきます。

よく、「法座は厳しい」「ワークショップはゆったり」というイメージの方が居られますが、確かに進行の仕方はそういう面があるかもしれません。
法要や法話があって、限られた時間に多くの方と関わる「法座」
二日間など、いくつもセッションのある「ワークショップ」

「法座」は毎回顔ぶれが変わって、前回の時間からつながってる話題になっても数名は流れがわからず、そこにも気持ちが取られる。
その分、時には有無も言わさず、「無常」を突きつけられることもある。
限られた時間に”要”を聞いてもらわないと、次の時間にはリセットされることもあるから。

「ワークショップ」は、その時間に大きな変化が無くとも、ゆっくりゆっくり居所を確認しながら、気付きを待つ。
ただ、わずかの変化でも”成長”として受け入れられる。

と、こういうイメージが多いようだけど、じつはこれは全然本質じゃない。
むしろこういうイメージに捉われて参加していては、自分の尺度で聞いたり成長したりする、自己満足で終わってしまう。
どちらが”自分向き”だと選り好みしている時点で、肝心の”法”が疎かかになってしまう。

法を前面に出すことで、仏願に出会うその人を尊重するか、その人を尊重して、そこにかかる願いに気付いていってもらうか。
主役はお一人お一人。
目的は仏願に出会うこと。

そこに”法”があり、そこに”機”があることになんの違いもない。


などということを、最近やっと「この身」に現れる”相”を通して味わえるようになってきました。
そうです、二つを分けて理解に勤め、それをひとつにしようと躍起になっていたのは何を隠そうこの私自身なんです。


と、そんな思いを抱きながら、福岡へ向かいます。

興味をもたれた方、ぜひ次回はご一緒しましょう。
年末までに来年度の計画を立てますので、ご要望があればぜひ。

京都では、毎月小さな集まりは行っています。

真カ研 月例会 10月

2009-10-22 22:56:17 | 真宗カウンセリング

今月もテキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を。

今回は小見出しも「十分に機能している人間」ということなので、この論文の中核に位置するのかもしれない。

内容的には、これまでの話を要約し、さらに次につながる部分。
様々な仮説に対して、証明していく作業があとに続くんだろう。

参加者の間で話題として盛り上がる部分が数箇所あったけど、私が印象的なのは、「セラピスト」と「診断家」にわけて、そこに起こっている出来事に対する評価が矛盾している例を挙げている場面。

ここでいう「診断家」は、ロールシャッハやTAT診断によってクライエントの状態を量る人のことで、その評価が時には適切なセラピィによる変化に対して、認知されなかったり逆の評価をされる事があるというもの。

で、私自身心理学を専攻したわけではないので、こういう診断方法は門外漢であるが、雑学的に知っている範囲でいくと「統計学的に、多数のデーターから適切と思われるカテゴリーに当てはめていく」というタイプだと認識している。

とすると、たとえば1000例中999例があてはまる評価があったとして、1例だけでも規格外のものがあったりする。
つまり、「他と比べてどう?」という相対的な評価方法をされるんだろうけど、この論文でロジャース氏が話してる「十分に機能している」というのは、「自分自身であるということ」であって、たとえ周りの評価がどうあれ、自分自身が「どのような選択もできる」ということ。

と、ロジャース氏の言葉を追っかけていくととてもややこしい表現になるが、それはできるだけ細かく伝えようとされているからだろう。

なので、私なりの解釈で行くと…
(つまりぜんぜんアカデミックでない”感想”)

自分自身に起こってくる出来事に対して、「いやだな」という感情があっても「あぁ、嫌だと思っている私なんだ」と受け止める事が出来るし、その「いやだ」という感覚が世間では「そんな風に思ってはいけません」というものであっても、「思ってしまっている」事を否定せず、その時点での自分を”大事”にできる。
そのうえで、「こう思わないほうがいいかな」という気持ちが出てきたならば、それはそれでその感情を尊重できるし、それまでの感情にこだわらない。

これは、世間的には「節操が無い」とか「優柔不断だ」などというレッテルを貼られるのかもしれないけど、そういう評価に縛られること無く「そのときの自分自身」でいる事が出来る。

うん、今の私には無理です。
周りの評価を常に気にしているし、自分自身に「どのようになってもいい」という自信が無い。
逆に周りの評価に合わせて、自分自身を隠して、無理に納得させている。

「十分に機能していない人間」あるいは「不十分に機能している人間」って事。

いや、これでも以前よりは結構自分自身にOKを出すようにはなっているんですが…


ただ、この論文の今回の部分で
「セラピィの仮説上の終結点を私なりに定義してみたが、ここでは、実際のクライエントはそこに接近するけど決して完全に到達することのできない極限として記述したのである」
とある。
理想ではあるけれど到達できない極みの境地。

うーん、やっぱり仮説上のものでしかないのか…
でも、限りなく接近できるものでもあるという。


この論文の仮説を論証する場面がこのあと続くので、来月以降もじっくり触れ合っていけば”接近”できるかもしれない。


真カ研 月例会 9月

2009-09-18 23:34:39 | 真宗カウンセリング

水曜日には真カ研の月例会がありました。

ちょっと遅れていったのと、いつも使用している会場の入り口が閉鎖されていて、「もしかして昔の会場に戻った?」などと勘違いもあり、キャンパス内を(龍谷大学内に会場があるので)うろちょろ。
結局先月と同じ会場でしたが、その校舎の一番遠いところにある入り口まで戻る必要がありました。

ということで、着いたときにはチェックインが始まっており、そのときに話されている方が最後のようで、すぐに私の番。
会場に迷っていた話と(同じように迷った方が数名いたようです)先日の円座談に参加したこと、あと今年も行われる「京都市地域若者サポーター養成講座」の話を。

引き続いて、テキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を前回に引き続いて。

正しいセラピーによって導かれたものにどのような特徴があるかということ。
そのひとつは「自分自身を再構成する仕事を完了した」という認識ではなく、今が「プロセスである」ということを知っていて、自分に自信があり、「どこに向かっているかわかっている」ということ。

ここをめぐっていろいろと意見を交わしたんですが、船をたとえに出して「まだ到着していなくても、今の状況を正しく知る事が出来れば、どちらに穂先が向いているか知る事が出来る」という話が興味深かったですね。

私のところでは、まず自信というものが無く、いろいろと周囲からの関わりで持って「こっちのほうに向いている」と教えてもらっても、「ほんとうに今の向きでいいんだろうか」と不安になります。
また、向きがあっていれば、今がプロセスの途上であっても安心できるのでしょうが、到着(完了)しないと最後まで不安のままのような気がします。

「今はプロセスでもいいんだよ」
「今の歩みでいいんだよ」
そういう言葉をいつも熱望しながら、実際かけてもらっても自分の「いいように」聞こえてこないと安心できない…
このあたりを考えるとき、先日の「円座談」で教えてもらっていることに通じてきている気がします。


もうひとつ大事な話題に「経験」という事がありました。
論文でもよく使われている言葉です。
私は、それは「積み重ねてきているもの」として、過去からつながってきているもの、私の歴史として、今の私を構成しているものだと認識していました。
一般的に使われる経験はまさにそうですよね。

しかし、ロジャース氏が伝えようとしていることは「今まさに対面してる瞬間瞬間の”経験”」ということだと。


円座談のセッションの中でも、一度起こってきた”感じ”を中心に、それをいかに表明するかということに思いをはべらせていました。
確かにそうしていることでも次々に新しい”感じ”が生まれてくるのですが、それはすでに過ぎ去ったものを考察していることになっていた気がします。

瞬間瞬間経験していることを、瞬間瞬間捕まえていく…

うん、イメージはわかるのですが、意識してそう持っていくことは難しい気がします。
いや、意識などせずに、そういう刹那を感じさせていただいていることも多々あります。
そのときは「十分に機能」しているようにしていただいたときなんでしょうね。

法座などで自力無効と知らされ、任せきる事が出来る瞬間などは、まさにそういう「刹那」に生きている瞬間ですね。
法に照らされるというのは、まさに「十分なセラピィに出会った」以上の高まりをいただいている気がします。

ちょっと話題がそれましたが、円座談で感じた「まだまだ未熟」な感じ、「上手く出来ない」感じを、ロジャース氏の論文を通じてもう一度かみ締める事が出来ました。

そこには、先に行っているものへの羨望と、ある程度進んだ気でいるのに突き落とされた悔恨とがうまれて来ます。
このことは別に書かなくても良かったんでしょうが、なにか得体の知れないものを感じてたので、ちょっとその感じに付き合ってみたときに言語化できたものです。

でも、そういう作業をしたことで、意外とその感じに引きづられていない今の私もいます。


大きな流れの中の、トピック積み重ね

2009-08-24 11:10:07 | 真宗カウンセリング


この週末は金沢での「真宗カウンセリング・ワークショップ」でした。
二日間、9名のグループでのワークに、たくさんの出来事が詰まっていました。
ゆっくり振り返ろうと思いますが、あまりにも内容満載なのでブログにまとめるには時間がかかりそうです。
ですので、まずは感謝の意と私の受けている流れだけでも。

参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
役割をあたえ、導いてくださった先生、ありがとうございました。
ワークショップでいろいろ話をする素地を作ってくださった、今までカウンセリングのワークで育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
法の部分でも育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
これまでのすべての関わりに、ありがとうございました。
それらが、私という個に収束して、このワークショップの時間と場になっていました。
大事なのは「いま・ここ・わたし」
「いま・ここ・わたし」というのは点ですが、その点に至るまでは大きな流れがあります。

すでに、これを書いている私は、二日間のワークを経た「いま・ここ」で動いていますから、振り返ってもまったくそのときの「わたし」とは変わっています。
でも、その二日間がなければ、今のわたしはありません。

まぁ、書いてみて至極あたりまえのことだと思いますけどね。


で、流れとして考えると、このワークの前から連なっているものがあります。
(深いところのつながりは今は置いておきますが)

水曜日に伝道研究会に参加してことはまえの記事に書きました。
このときの気持ちは、その前の日曜日の京都支部法座から続いています。
木曜日に「ミニカン学習会」があり、参加したのですが、2回の実践でひとつはこの日曜の法座から水曜の研究会で抱えていることを聞いてもらいました。
ここで話できた事が大きなポイントになり、自分の中の問題を”そおっと”存在確認をし、「やっぱりまだそこにいるんやね」と。
もう一回の実践では違う話題をするのですが、「あえて触れない」という私自身の判断に、逆に「存在がある」(あるから触れないことができる)ことを浮き彫りにします。
”ある”けれど、置いておく事が出来るわたし。
この押さえが出来る出来ないは、大きな違いでした。

ついで、金曜日にちょっとした打ち合わせがありました。
9月に行う「京都支部学習会」の打ち合わせです。
この学習会では、法座の集まりに「カウンセリング」を取り入れるもの。
「カウンセリング」という言葉を前面に出さなくても、同様のことはできるのですが、提言してくださった方が積極的に「カウンセリング」を意識したいということなので、それは素晴らしいと思い、嬉しく思い、引き受けさせてもらうことになりました。

こうして、わたしなりの「カウンセリング」を十分に意識しての「ワークショップ」への参加です。

ここに書いたのは表面的な部分だけですがまさに”大いなる流れ”の中にいることが実感できます。

後日書くかも知れませんが、ワークショップの中で「仏法」中心の時間がありました。
一方では「法座」から意識されてきた「カウンセリング」
一方では「カウンセリング」の場から意識されてきた「仏法」
同じでも、違うものでもあり。
その中心に私がいます。

あるいは、わたしも含めて全部、大きな流れの中ですね。

今はここまでにします。

妻有芸術祭 アートとセラピー

2009-08-19 15:45:42 | 真宗カウンセリング

お盆の休み中、家族を帰省先の上越に迎えに行った帰り、少し足を伸ばして十日町近辺で行われている『越後妻有「大地の芸術祭」』を観にいきました。

普段芸術鑑賞には縁が無い…というか心得が無いのですが、今回は知人が十日町で参加しているというので、顔を見に。
おそらく、隣町である上越にいなければ出かけることも無かったでしょうが、これがご縁というやつですね。

事前にホームページで概要を見ていましたが、かなり広い範囲で様々なイベントが行われています。
とても、「見て回る」というものではありません。
目的はあくまで十日町の「やさしい家」という会場です。

上越から十日町まで、隣町とはいえ、車で山を越えて1時間半かかります。
ですので、途中で食事休憩をとりながら…と計画し、車をゆっくり停められる「道の駅」を目標にしました。
すると、ちょうどその「道の駅」周辺が、会場のひとつになっています。
「食堂で食べるべし」の計画を変更し、コンビニでお弁当を買いこんでアートに囲まれた場所でいただくことにしました。

案内図

道の駅から望む場所にあるオブジェ

首の無いキリン


実際に入れる「スキマをすすむ」

先ほどの巨大オブジェ

中を覗けるだんだん小さくなる家

昼食を終え、目的の十日町病院へ行き、そのとなりの「やさしい家」へ。

空き家になった民家を会場に、いろんなものが展示されています。
しかし、この「やさしい家」の主目的は、隣の病院の中に様々なアート作品を飾るというところにあるようです。
(直接病院内を見に行くことはできませんが、様子はスライドで上映してくれています)
私の知人も、毎日決まった時間に病院を訪れ、そこに居る人たちの姿をスケッチし、そのいくつかを「やさしい家」会場に飾っています。
おそらく、スケッチさせてもらった本人にも渡しているのでしょう。

ほかにも、誰でも作れるように工夫した紙細工の”樹”を訪問者に作ってもらい、階段をその樹で一杯にするというものもあります。
ホームページで見ると、病院のほうもそんな樹で一杯飾られていました。

スタッフのおねえさんと

ひとつの側面からみると、”作者が作品を作っている”ということでしかないかもしれませんが、たとえばスケッチすることだけでも、その作業の時間、描き手とモデルが時間を共有している…そんな、コミュニケーションを感じます。

紙細工にしても、近所の子どもが毎日のように遊びに来て作品を作っていると聞きました。
私の子どもも楽しんで作っていました。
これだけで、芸術祭に参加したことになりますよね。

芸術的なものから外れて、その作業をするというところだけで、「アートセラピー」という事があると思います。
絵を描いたり、粘土細工をしたり、砂遊びや、箱庭遊びなどもあります。

今回拝見したのは、そこまでセラピーを意識されてはいなかったかもしれませんが、アートを通して、一つのコミュニケーションの形があったんじゃないかなと。

出逢い・ふれあい・つながり…
そんなことを感じたご縁でした。

病院の様子がわかるHP

やさしい家のwebカメラ

大地の芸術祭公式ページ