コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリング in 子ども大会

2009-08-07 08:43:34 | 真宗カウンセリング

子ども大会の法話を中心に5回書いたが、この法座の間にお二人の方と真宗カウンセリングについて話をする時間があった。
そして、そのどちらもとても興味深く、大いに刺激をいただいた。

一人の方は、カウンセリングにおいては先輩であり、いろいろと背中を押していただいている方。
子どもらを迎えに行く車の中で、以前このブログに書いたことをきっかけに話が進んだ。
その方は、最近「共感」ということを深く味わっておられるらしい。
意識的に寄り添っていくのではなく、自己を開いていくことで相手に伝わるもの…それによって、二人の間の境目が無くなって「共感」出来ている状態があると。
この感覚は、実はわたしにはまだよくわかっていない。

「自己一致」することで見えてくる自分自身と、意識化できなくても底辺のほうにある「私」の部分。
寄り添っていき「受容」することで、意識化できていなくても底辺のほうにあると感じられる「あなた」の部分。
「私」と「あなた」の二つの三角形が重なり合うとき、重なっている底辺のイメージ。
そこが「共感」なんだというのが、いままでのイメージ。

真宗カウンセリングにおいては、そこは「超個」であり、ともに「仏に願われている」という部分で「安心して共有できる」ところだと思っていた。
だとすると、この方の味わっているものとはちょっと違う。

今の自分自身を振り返ってみると、カウンセリングの三条件のうち一番難しいのが「自己一致」だと思っていたし、やっとそのあたりを知識的ではなく感覚的に押さえる事が出来てきた気がするし、「受容」に関しては「尊重」というところで最近深まってきてる気がする。
そう考えると、「共感」に関しては、頭のイメージで持っているだけで「体感的」なものがはっきりしない。
上に書いたように「超個」ということであれば、法座ですっと感じていることなので納まるのだが…

ということで、まだ私が体感できていない「共感」の境地があるというのは、とても刺激的だ。
ここは、知識的に追い求めるものでも、意識的に体験していくのでもなく、カウンセリングやワークを体験していく中で、「良い関係」が出来上がったときに「これだ!」と体験するものなんだろうな。
そういうものが「ある」と教えてもらっただけでも、すごく大事なことだと。


もうお一人とは、先日行ったワークに出席された方と話されたことから感じたことを、「ぜひ高橋さんに話したかった」と。
話の詳細は書かないが、ちょっと否定的な気持ちになることを言われ、最初は嫌な感じだったけど、そのことを通していろいろ考える事が出来た…ということ。
何をして「本当に聞いてもらえた」というかは、それぞれの方の経験や比較の中で話されることだけれど、こちらが「聞いてあげている」というのと相手が「聞いてもらえている」というのはなかなか一致しなかったりする。
しかし少なくとも、「聞いてもらえてるとは思わないけど、それを言ったらこの人に悪い」と、自分の気持ちを殺して隠してしまうよりも、「聞いてもらえてると思わなかった」と言ってもらえるほうが「一歩進んだ関係」になっていると思う。

そういう「否定的な感情」でも表に出していいんだということを学ばれた方が、そのことを口に出す。
口に出された方もそれを受け止め、そう言える「関係」を作れたことを意識してみる。
世間的なお付き合いだとすると、ちょっとややこしい関係に見えるかもしれないが、お互いにとって次のステップにつながる大事な出来事じゃないかなと。

私自身、その方とお話して、それぞれの方の変化を通じておおいに刺激をもらった。
私がワークをしたことで、こういう風にいろんなところで波紋が広がっていく。
責任も重大だけれど、やりがいはある。
そして、私自身、ますます勉強し経験していかなければ。
得をするのは私自身だから。


次は8月22・23日に金沢でワークショップがあります。
定員まであと数名…締切までは間がありますが、希望者はお早めに。

第5回 真宗カウンセリングワークショップ


「尊重」をめぐる話 -5  「職場とうつ」を通じて

2009-07-30 11:20:24 | 真宗カウンセリング

ネットでいろいろなニュースを見ていたら、フッと目に泊まる記事がある。
関心ごとのキーワードが私の中にいくつかあり、そこに響くのだ。
最近はカウンセリングの関連することの比重が増えている気がする。
この記事もそんな中のひとつ。
タイトルは
「怠け者」「脱落者」――うつ患者8割「職場に偏見ある」
(誠Biz.ID)

「うつ」とどう向き合うかという本人の問題も大事だが、周りがどう対応するかは結構間違った考え方が広まっている気がする。
そういう関心から「職場の偏見」というのは、カウンセリングの学びの中でいろいろ考えさせられる問題だ。

まず、回答者の意識に触れられている。

 「あなたがうつ病になる可能性はあると思いますか」という質問に対し、診断経験も症状経験もない人でさえ、「うつ病になる可能性は、まったくない」と言い切る人は15%にとどまった。しかし、「身近に治療経験者がいるか否か」で回答者を分類すると傾向は大きく分かれる。家族や親しい友人に治療経験者がいる人は、48%が「自分がうつ病になる可能性は、大いに/ややある」と答える一方で、近親者に経験者がいないと74%が「あまり/まったくない」と回答した。

身近に「うつ」と診断された人の半分は自分も可能性があると考えており、回りに経験者がいないと74%が可能性が無いと答えている。
ひとつには、周りに治療経験者がいないと答えている人が持っている「うつ」のイメージがかなり深刻な「うつ」のことしかないんじゃないかと思う。
休職しなければならないほどの「うつ」をイメージして、「自分はそこまでならない」という意識なんだろう。
しかし、そこまで周りから見てそこまで深刻じゃなくても、「うつ」に悩んでいる人は多いはずだ。
一方では「仕事をしているなら、まじめにやれ」と「うつ」で困って通常の動きが出来ない人を思いやることが出来ておらず、その程度は「うつ」じゃないと判断している人がいるだろう。
もう一方で「『うつ』と見られたら困る」と、実際はしんどいのにそういう自分を受け止めず、無理をして、さらにしんどくなってしまう人がいるだろう。

「うつ」を正しく把握できない、周りであり、本人であり、その誤った認識が双方をしんどくさせている。

周りの正しい認識があれば、本人も「うつ」である自分とゆっくり向き合えるし、「うつ」と付き合いながらも仕事を続けていくことが出来る。
しかし、成果主義であり、深刻な不況の現在の社会では、ゆっくり立ち止まることを許してもらえない。
結局、無理に無理を重ねて「休職」を選ばざるを得なくなる。
それならばまだましで、「退職」を迫られる場合もある。

京都市がおこなった「ニート対策」の講習を受けたときに、若い時期にそういう「仕打ち」をうけた人たちの状況を聞いた。
とても大きな「心の傷」を負い、壁を作って閉じこもってしまう。
自分で自分が許せず、向き合うことを放棄して、無気力になってしまう。
周りはそれに困惑し、責める。

「うつ」でもいいんだよ、それが今のあなたの等身大の姿だから

と「今・ここ・わたし」を周りも自分も認めることが出来れば、そこから何かが始まるはずなのに。

「うつ病が快復しやすい職場像」としては、「快復したら復帰できると思える職場」「(過保護と思われるほど)周囲が“優しい”」といった意見が出た。

という話も出ているが、ここも少し間違った考え方がある気がする。
「周囲が“優しい”」ことが良いと思われているかもしれないが、ここに「腫れ物に触る」ような感じがあるのじゃないだろうか。
「触れないようにする」「理解に勤める」というのは、「『うつ』は駄目なこと」という考え方からスタートしているのじゃないだろうか。
きっと、「自分は『うつ』にならない」「『うつ』になると困る」という怖れの気持ちがあるんだろう。

「うつ」であるあなた(わたし)であっても、それが今の姿

と受け入れることと、それが駄目なことじゃないと言う認識。
それが偏見から抜け出すことじゃないだろうか。

じつは、程度の差があるだけで、みんな「うつ」の傾向はある。
周りと比べる「わたし」ではなく、いまのありのままの「わたし」をまず見つめてみて、その「わたし」を認めてあげてもいいんじゃないだろうか。
そうすれば、他の「わたし」も受け入れてあげられるはず。

そういう職場作りには、些細なことでも「聞いてくれる」「言っても良い」関係が大事なんだろうなと思う。

残念ながら、企業が求めるカウンセリングは職場復帰や現状回復を求めるカウンセリングで、短期間で結果が求められるもののようだ。
本当に、「そこに居る人」を大事に尊重するカウンセリングが必要だと思うのだけど。

少なくとも、真宗カウンセリングをともに研鑽している仲間からはそういう意識を教えてもらえる。(現実の難しさも教えてもらえるけど)

8月には北陸でワークショップがある。
第5回真宗カウンセリングワークショップ
いろんな方と、身を持ってそういう空間を味わってみたい。

最初は単独の話題として考え始めたけど、結局「尊重」のことが私の底辺にあるんだなと思い、このシリーズに組み入れることにした。

注)「うつ」と一口に言っても、精神状態の変化の一部の場合もあれば、身体的な問題の場合もありますので、ちゃんとした診断・治療は必要だと考えています。

 

「尊重」をめぐる話 -1
「尊重」をめぐる話 -2
「尊重」をめぐる話 -3 (法座編)
「尊重」をめぐる話 -4  「死別体験者への言葉かけ」を通じて

「職場とうつ」に関係する話題は、こちらでも書いています。
親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 42


真カ研 月例会 7月

2009-07-16 00:01:20 | 真宗カウンセリング
真カ研の月例会でした。

ロジャース氏の論文「十分に機能している人間」から「セラピィ後に見られる人間の三つの特徴」の項です。
今回は私がレジュメ担当…なんとか無事終わりました。

「最善のセラピィを受けるとどのようなところに到達するか」というテーマを元に、三つの特徴のうちの第1番目が担当部分。
その特徴とは「自分の経験に開かれている」ということですが、これだとわかりづらい。
そこでその対極にある「防衛している(閉じている)」というのはどういうことか、というところから論じられていきます。

で、結局、自分の身体的感覚や感情が知覚されるときに、それを「ありのまま」受け止めることが出来ているのが開かれた状態。
その感覚が「疲れている」とか「怖い」だとか、ネガティブなものであってら、それを「疲れてるなんていえないから頑張ろう」とか、「怖がらずにいよう」というふうに、その感覚を捻じ曲げて虚勢を張っている状態は、事実を歪曲して防衛している姿=開かれていないってこと。

私自身、コミュニケーションの話題のときに、「出来ないことがあっても責めずに、出来ていないってことを受け止めてあげてください」と言っていることがこのことになると思う。
「出来ていない」という感情が出てきたときに、「それじゃ駄目」とかいう風に責めたり、「出来なくても仕方ない」と慰めたりするのじゃなく、まず「出来ていない私なんだ」とそのまま受け止める。
そういうふうに受け止めても良いんだっていう、「自由に生きる」状態にさせてもらえるのが、最善のセラピィを受けたときに現れるクライエントの特徴だということ。


これはまさに、「いま・ここ・わたし」でいられる状態だと思うし、それを許されるセラピィって仏様の願いそのままだなぁと。
まぁ、仏法の場合は、いくら自分で閉じたつもりでも「見透かされている」という面もありますが。


今回、レジュメ担当したことで、いつも以上に内容をじっくり味わえた感じがありますね。
(逆に、普段は事前学習もなしに、その場の場の流れに任せているってことですが)

良い時間を過ごさせていただけました。

法話「わるいこと」

2009-07-04 01:22:55 | 真宗カウンセリング

先日書いていた通り、日曜礼拝の法話で話したことをホームページのコラム欄にアップしました。

http://homepage1.nifty.com/MANU/korams/k090626.htm

あらためて、長い説明になっちゃってるなぁと。
子どもたちは、よくついてきてくれたと思います。
華光の同人の方は、その模様がホームページから音声データとしてダウンロードできます。(ダウンロードページ
期間限定ですので、取りそこなった方は私にメールくださればなんらかの方法でデーターをお渡ししますね。

で、このブログにはもともとの原稿をアップしちゃいます。
話したものがかなり変わってしまっているということがお分かりいただけるのでは。


今日は「わるいこと」のお話をします。

みんな、どういうことが悪いことだと思うかな?
(ゆっくり時間をとってみんなの声を聞き、黒板に書く)

先生はいくつか書いてきました。
(紙に印字したものを黒板に貼る)

「ぬすむ」「ころす」「けんか」「うそ」「わるぐち」「おこる」・・・

ほかにも、ちょっと難しいことばだけど、こういう悪いこともあります。
「えっちなこと」「おべっか」「にまいじた」「よくばり」「まちがったかんがえ」

このうち、「けんか」は「ころす」といっしょにしておいて、全部で10個あります。


じゃあ悪いことをするとどうなるかな?
「おこられる」「おまわりさんにつかまる」(「地獄に落ちる」)←この時点で出なくてもOK

じゃあ、この中でおまわりさんに捕まるのはどれ?
「けんか」「ぬすむ」「ころす」 「うそ」
(「うそ」もつかまる「うそ」があります)
からだをつかって、相手の人に何かすることですよね。
(黒板に線を引き、「からだ」の範囲に入れる)

じゃあ、つかまらないけどおこられるのは?
「わるぐち」「おこる」
これはこの口でやっちゃうこと。
(もう一本線を引き、「くち」の範囲に入れる)

じゃあ次に、これらを心で思うだけだったら…
さっきの「おこる」っていうのは、口に出して「おこる」こともあるけど、心の中だけで「おこる」こともあるからこっち。
「相手を憎たらしい」と思ったり、「お母さんなんか死んだら良いのに」って思ったり、「あのおもちゃ欲しいからお友達から取っちゃおう」って思ったり。
憎いと思ってけんかしちゃったら捕まったり怒られたりするし、死んだら良いって殺しちゃったら捕まる、おもちゃも盗んじゃったら捕まるよね。
でも、心で思うだけでやらなかったら…おまわりさんは捕まえに来ないし、お母さんも心の中までは判らないから怒らないかもしれない。
(でも、お母さんはみんなの顔を見て「悪いこと考えてるな」ってわかるから、ばれることもあるけどね)
そこまできついことじゃなくても、「今日のおかず嫌いだなぁ」とか「あれ、ほしいなぁ」なんて思うことはないかな。

でも、心で思うだけでも「わるいこと」は「わるいこと」だよね。
ばれなかったら「いい子」と思ってもらえるかもしれないけど、実は全部判ってる人が居ます。
○○くんは、殺したり、盗んだりしてなくても、「殺したい」とか「盗みたい」って思ったね…それは悪いことだよって。

(横線を二本引いて、つかまる・おこられる・地獄の種に分けて貼りなおす)

おまわりさんに捕まらなくても、お母さんに怒られなくても、こういう悪いことをした人は「地獄」に行きます。
いやだよね。
「じゃあ、もう悪いことはしません」って思って、これから「悪いことをしないようにする」・・・そのことは大切です。
でも、やらずに済むかな?
そして、いままでやってきたことが無かったことになるかな?
この「わるいこと」を一個もやったことがないひと手を挙げてください。

殺そうと思わなくても、ご飯のときにいろんな命をいただいてるでしょ。
それは漁師さんやお店の人が代わりに殺してくれてるだけで、みんなのために命をもらってるの。

先生も最初は「そんなに悪いことはしてないよなぁ」って思ってたの。
でも、ここでお話を聞かせてもらってるうちに、いっぱいいっぱい悪いことしてるって教えてもらった。
仏様がそれを全部知ってるよって教えてもらって、それが「うそ」とは思えなかったし、なにより仏様が見ていなくても自分で「わるいこと」してるのを、他の人には隠せても自分では隠せないから。

みんなも、一度「自分はどんな悪いことしてるか」をこの後の分級で考えてみてください。
自分で思う「わるいこと」じゃなくて、仏様が見てる「わるいこと」をしてるかどうか。

そして、「わるいこと」をしたらどうなるのか、これからの日曜礼拝でしっかりお話を聞いてください。



「尊重」をめぐる話 -4  「死別体験者への言葉かけ」を通じて

2009-06-27 23:46:23 | 真宗カウンセリング

「別離の悲しみを考える会」に参加したあと、ブログにすることでもう一度かみ締めなおしたり、講師の鷹見さんにお礼のメールを送ったりして、少し俯瞰したところからもう一度問題を押さえてみる事が出来ました。

そうすると、もう少し聞いた話の具体的なところでも振り返ってみたいなという欲求が生まれています。
ちょっと、その気持ちに乗っかってみようと思います。

もしかしたら、これから書くことは「あたりまえ」のことかもしれません。
しかし、それを「あたりまえ」と思っていない人の言動によって傷つく方が居られるのも事実です。
ならば、「あたりまえ」と留めておかずに、言葉にしてみることでもう一度私自身が、新たなものとして取り込むことに意味があると思います。


講義の中の一説に「死別体験者への言葉かけとして、控えたほうが良い表現」というのがありました。

安易な励まし・保証
 「しっかりしてね」
 「がんばってね」
 「大丈夫だよ」「大丈夫もうすぐ元気になるよ」
安易な同意
 「あなたの気持ちはよくわかる」「心中お察し申し上げます」
悲しんでいることを責めたてる
 「いつまでも泣いていてはだめ」
 「悲しんでいても死んだ人は喜ばないよ」「悲しんでいても死んだ人は生き返らないよ」
 「泣かないで」
悲しみの比較
 「あなたはまだましよ」「○○を亡くした人はもっと悲しいんだよ」
 「あなただけじゃないのよ」
 「~するより、まだよかったんじゃない」
 「長く苦しまないでよかったんだよ」
立ち直りの時期や方法を勝手に決める・急かす
 「もうそろそろ立ち直ってもいいんじゃない」
 「早く新しいパートナーを見つけて元気になって」
 「また作ればいいじゃない」
 「早く遺品の整理を」
 「納骨はどうするの」
無理解
 「あなたは強いわね」
 「元気そうでよかった」
 「時間が癒してくれるのよ」
 「○○さんの気持ちもわかってあげなくちゃ」
関係の無い話・理解できない話
 自分の体験談やアドバイスの押し売り
 同じような境遇の赤の他人についての話
 難しい話・専門用語の羅列
死の意味(意義)や原因を勝手に決める
 死(遺志)を社会化することを押し付ける
 「先祖のたたり」「悪因縁を取り除いてあげないといけないですよ」
 遺族感情に反した死の意味づけ

「別離の悲しみを考える会」資料より

いかがでしょうか。
励まされて元気になるタイプの方も居られますが、みんなが必ずしもそうじゃない。
「自分は励まされて元気になったから」といって「がんばってね」と声をかけてあげることが、相手の苦痛につながる場合もあるなんて想像できましたでしょうか。
「あなたの気持ちはよくわかる」なんていうのも、相手に方に寄り添っていることだと思ってなかったでしょうか。
比較して、「まし」だと思ってもらうことが美徳だと思ってませんでしたでしょうか。
勝手に相手の調子を決め付けるのも論外です。

こうやって見直してみると、「あなたのために」という気持ちでスタートしているはずが「理解してあげている私」に酔ってしまうことになっていないでしょうか。
もちろん、そんなつもりは無く、ほんとうに「あなたのために」という気持ちなんでしょうが、それが必ずしも相手の方の気持ちに添っているとは限らない・・・ということを意識して欲しいんです。

だめなことばかり言われても困りますよね。
ではどうしてあげたら良いんでしょうか。
じつは、「こうすれば良い」っていう正解を提示することは出来ません。
ただ、私はこうしているってことがあります。

まず、こちらが話すんじゃなくて、相手の話を聞いてあげる。
何も返事をしないのも辛いですから、相手の方が話された「気持ち」を口に出して返してあげる。
たとえば「悲しい」と言われたら「悲しいんやね」と。
勝手に想像をつけくわえて「親を亡くして悲しいんやね」とか、「辛く悲しいんやね」とか、「すごく悲しいんやね」とするんじゃなく、相手の言葉だけ返す。
相手が沈黙しているときは、ゆっくり待ってあげる。

実はこれは簡単なようで、なかなか出来ていないことです。


今回の話題は、「死別体験者への声かけ」として書いていますが、普段のコミュニケーションでも通じることが多くないでしょうか。
ちょっと悲しみを抱えている友達や、悩んでいる子どもに対して、アドバイスや励ましを送る…それが、本当に相手が望んでいることかどうか。

私は以前から「がんばれ」という言葉に対しての思いや、相手の気持ちを決め付けることに対して、「そうじゃないんじゃないだろうか」ということを言い続けてきました。
それらは、カウンセリングを学んで「相手を尊重する」というのはどういうことかということを深く意識してからより強くなっています。
細かいテクニックをなぞっていくのもひとつの道かもしれませんが、その奥底にある「相手の尊重」ということが身についてくれば、言動は後からついてきます。

まずは、これは「言って欲しくない」ということを鏡に、自分の間違いを意識してみるところから、「じゃあ尊重ってどういうことだろう」って考えてみて欲しいんです。
「相手の嫌がることをしない」っていういのは、まずやってみることが出来るんじゃないでしょうか。


ご縁・出逢い・心の動き ~「別離の悲しみを考える会」との関わり

2009-06-26 00:02:11 | 真宗カウンセリング

昨日話題にした「別離の悲しみを考える会」ですが、そこに参加するまでに至るところで、なかなか面白い心の動きがあったのでそれを書いてみます。

まず最初のきっかけとしては新聞の記事なんですが、私は基本的に「新聞を隅から隅まで読む」と言うタイプではありません。
時間のあるときに、ちょっと休憩がてら眺めると言う感じで、一切読まない日もあれば、2・3日前の新聞でも他にすることが無ければ読んだりします。
普段、仕事の合間にネットでニュースサイトを見たりしてますから、速報性はそこで情報を得ますし、興味を持った見出しがあれば、検索していくつかのサイドからその話題を深めていくことも出来ます。
そうすると、新聞で話題になる”事件性”のもので興味のあるものは、すでに古い情報となっていますから。

ですから、新聞を見ているとき、目では文字を追っていますがほとんどは「頭に入っていない」状態ですね。
しかし、ふとしたときに「気になる」ものに出会います。
それは本当に偶然の産物で、同じ記事でもこちらの心の居所が違えば見逃していることでしょう。

今回の「別離の悲しみを考える会」はまさにそういう出逢いでした。
何かが心に触れた…
今思い返すと、そこに説明をつけることは出来ますが、その時点では「意識しないなにか」でしかなかったんですね。

ただ、これだけで終わっていれば「ちょっと興味を持った話題」で終わっていたかもしれません。
次に重なった偶然は、その記事を読んだ次の日に「真宗カウンセリング研究会 月例会」があったこと。
会のはじめに、チェックインをかねてそれぞれが気になる話題や、心境を語る時間があるのですが、私はその記事を読んだことを口にしていました。
そこには無理に「真宗カウンセリングに関係する話題を」という意識は無く、その時点で心に留まっているいくつかの話題のひとつを言語化してみるという単純なものです。
実際、他の方が話されているときに「自分の番が来たらこの話題を…」と言う候補がいくつか浮かんだり消えたりしていました。
タイミングや、他の人の話題に心動かされることがあれば、まったく違ったものを口にしていた可能性もあります。

そうやって、心の隅に残っていた話題を言語化してみる…すると、その話題が私の中で深まってきます。
それまでの意識より、「話題にした責任」を勝手に自分のなかに作り上げていきます。
その責任は、別に負担になったり脅迫的に感じたりするものではないんです。
気になる異性を意識するというか…勝手にドキドキしてる感じに近いでしょうか。

月例会から帰ってくると、ネットでもう一度その話題を検索するに至って、「参加したいな」というところまで気持ちが固まってきます。
でも、そういう場合でも、ちょっと別の予定が入ったり、事情が出来れば他を優先する程度のものです。

当日、子どもに「帰宅する頃、お父さんは外出してるかもしれんから、鍵だけは忘れないように」という念押しをし、出かけられない理由をひとつつぶしておきます。
しかし、「ちょっとパソコン関連の調子が悪い」という連絡が入ってきたりします。
「どうしても参加したい」と言うものなら、「別の予定が終わってから、夕方にお邪魔します」という選択もあったでしょうが、私の中の優先順位によりトラブルのケアのほうに向かいました。
2時過ぎから作業を始めて、30分くらいでなんとか解決しました。
ここから会場の本願寺までは車で10分ほど。
最初は自転車で向かうつもりでしたが、それでは間に合わないので車を出して会場へ。
この時点で「もう留めるものはないから、参加しよう」と言う気持ちが盛り上がってきます。

そうして会が始まり、前回書いたような話を聞かせてもらったのですが…
最初に持っていたイメージは「自死を防ぐために」という話題だろうと言うものでしたが、「残された遺族への関わり方」ということでちょっと気持ちが引いた感じがありました。
しかし、講師の方のお話は、学者や周辺の関係者の話ではなく、話し方や言葉は丁寧なものの「当事者」「経験者」の「心の叫び」として届いてきました。

対策を考えたり、応対することではなく、「聞いて欲しい」「知って欲しい」という声を聞かせていただくこと。
これは、私が今大事にしている「尊重」のまさに第一歩の部分です。

もしかしたら、その次なる「行動」を求められているのかもしれませんが、まずは「聞く」ということで、講師の方の気持ちに寄り添うことができれば…。
終わる頃にはそういう気持ちが中心になっていました。

 

ふと目にした新聞の記事…そこから1週間の間にいろいろな心の動きがあります。
まったくもって不思議なことです。
偶然の出会いにして、必然があったと。
それを”ご縁”と思いますし、出逢いであったと思います。
今後、どう動くかは別として、今回の出逢いも取り込んだところで、今の私が”在る”ということはハッキリしています。

真宗カウンセリングが正しいこと、大事なこと、必要なこと。
まずは私個人にとってであり、そこから様々な関わりの方に広がっていければ。
西光先生と今話が出来れば、先生の目指されていたものをお聞きできるのですが、その歩まれた道を、先に歩む先達を訪ねながら、私なりの動きを。
(ちょっと意気込んじゃってるかな)

 


「別離の悲しみを考える会」

2009-06-25 02:21:00 | 真宗カウンセリング

西本願寺の聞法会館で行われた「別離の悲しみを考える会」に参加してきました。
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/next/pdf/pos2.pdf

これに参加するに至るまで、また参加しての気持ちと言う部分と、内容に関しての部分と、二つ大きな「書きたいこと」があります。

まずは中身についての思いを書いて見ることにします。

 宗派が昨年、約1万カ寺の僧侶を対象に行った自死問題に関する調査では、「僧侶がかかわることができると思うが、何もできていない」との回答が最も多い45%を占めた。宗派の教学伝道センターは「調査の実態を踏まえ、遺族の方に寄り添い、ともに歩んでいくことができるのかを考える機会にしたい」と話している。京都新聞


この集まりがあることを知ったのは新聞の記事でしたが、その時点での興味は「浄土真宗(僧侶)が自死に対して、なにかしらの行動を起こせるんだろうか」という部分が大きかったですね。
しかし、実際に今回講師として話された方の視点は「自死で家族を亡くしたものへのケア」と言う部分でした。
ある意味、私にとっては「僧侶の問題」よりも、より「私の関わりの問題」に近くなりました。
結論から言っちゃうと、やはり「カウンセリング」を通じて課題にしている「尊重」ということに大きく関わる話題だからです。

西本願寺が企画していることでもあり、また講師の鷹見さんがすでに別の講習などで僧侶の方と交流をもたれているからでしょう、話の視点が「僧侶の方にはこういう配慮を持って欲しい」ということが底辺に流れていた気がします。

まずは、家族を亡くした遺族がどういう気持ちでいるか、どういう行動を起こすか(起こせないか)ということを概論として聞かせていただき、その中でも「自死」という突然の別離をしなければならなかった人にとっての問題を聞かせていただきました。
資料を基に、細かく書いても良いのですが、興味があればそのあたりは直接見聞きされたほうが良いでしょうから、やめておきます。
こちらにホームページがあります。
リメンバー名古屋自死遺族の会

僧侶に関わるところで行けば「理解する力が無い状態」なので、いきなり「仏教とは…」などという壮大な話をされてもついていけないし、「命の尊厳」などを言われると「自死という選択をした家族が責められている」ということがあるようです。
あと、「難しい言葉は理解できない」ということもありましたし、だからといって優しく「たとえ話」をされても「その意味するところを考える力が無い」と。
これらは、実際に集まられた声と言うことですから、重みがあります。

逆に言うと、そういう話をされる方が多いと言うことなのでしょう。
「伝えたい」という側と、受け取る側のギャップ…
こういう声を聞かせてもらえる機会は少ないと思います。

そうすると「真宗カウンセリング」が大事だなということに思いがつのります。
仏法と言うことを表に出すのではなく、「仏法が根底に流れている」者として、相手に寄り添っていく。

遺族の方は励ますよりも「しっかりと悲しむ」行動をとらせてあげることが大事だと聞かせてもらいました。
物理的には時間に追われゆっくりすることが出来ないのが現実の葬儀事情ですし、その胸のうちを吐き出す相手がいなければ「悲しむ」ことすら出来ません。
話したいことを話したいように話できる環境。
アドバイスや心理操作以前の部分です。
私が真宗カウンセリングで学ばしてもらっていることが、ずばり当てはまる気がします。

また、具体的に「こういう言葉は言って欲しくない」ということも聞かせていただきましたが、相手の方を尊重するということが身についていれば避けられる言葉ばかりです。
逆に言うと、尊重せずに投げつける言葉に、家族を亡くした悲しみに上乗せする形で傷つけられている…
その多くは、その他大勢の方ですが、「法話」の言葉にもその可能性があるということは、教えてもらう必要があると思います。

 

講義を聴かれたのは150名ほどでしょうか。
おそらく大半が僧侶の方だと思います。
今日の話を聞かれて「じゃあ、どうすれば」というところで途方にくれて居られるかもしれません。
(ある意味、一般的におこなわれている法話はほとんど否定されましたから)
ひとつの答えが「真宗カウンセリング」にあるのは確かですね。
私自身は僧侶じゃないですから、私が知らないだけでみなさん「カウンセリングマインド」を何らかの形で勉強されているかもしれませんが、もしひろまっていないのならば、「接する機会がある遺族の方のため」に一度真宗カウンセリングに触れてもらえれば…
そんなことを考えていました。

今、このタイミングで、こういう場に行こうと思ったのは不思議な感じがします。
この話を聴く…ご縁ですね。


真カ研 月例会 6月

2009-06-19 06:52:34 | 真宗カウンセリング
今日は真カ研月例会。

ちょっと遅れての参加だったが、輪読には間に合った。

いつもと違う会場で、部屋に入ると、広い空間。
机は「ロ」の字型になっているのだが、人数は部屋がいっぱいになるほどでもなく、「ロ」の字の半分が埋まっている「く」の形。
その一番端に私が座ったもんだから、もう反対の端の方は対角線の先…とても遠く感じた。

コミュニケーションに、こういう距離感って影響あるんだなと思った。
人数がいっぱいで、このサイズが仕方ないのならまだしも、半分の人数ならば半分の輪で十分。
そういえばミニカンの一対一のときでも、距離を気にする人がいたなぁ、と。

前回から始まった新しいロジャース氏の論文輪読。
今回は短い章だったが、話し合いの中身はとても濃かった気がする。
部分的な言葉へのこだわりや、文面の受け取り方だけでも、それぞれの思いがある。
「いや、自分はこう思う」と言うことを邪魔されない時間…とても貴重だ。

論文の中身も、カウンセラー(セラピスト)とクライエントの関係と、極限に効果があった状態の話だったのだが、クライエントがそのパーソナリティのすべての部分で「ありのままでいられる」状態であることを邪魔されない関係が出来上がったとき…そこに建設的な変化(成長)が現れる。
うーん、ロジャースさんが実体験し確信したことなんだろうが、やはりまだそういう場面を経験していない私にとっては想像の域でしかない。

クライエントがその瞬間瞬間に起こってくる感情を素直にだせる…それにはカウンセラーの作り出す関係が大事になってくる…しかしそれをクライエントが受け取れるかどうか…素直に受け取っても安心できる場を作れるか…
結局はカウンセラーが主導するでもなく、クライエントの力量が問われるでもなく、共に成長していく関係。

今日の話題の中で、「カウンセリング」を日本語にするには何が適切か?という話があったが、私の頭の中には「育ちあう人間関係」と言う言葉があった。
厳密には「カウンセリング」の訳にはならないが、意訳としては離れていないと思う。
と、こういう風に考えるのは、私の目指すものがそこにしっくり来るからなんだろうな。
万人に受け入れることではなく、私に響く言葉として。
そこには私のなかの歴史・経験があり、それを意識化したときにしっくり来るもの。

今日の感覚を、理屈でとどめるのか、今後の実践で体感していくのか。
ここ数日、いろんな出来事が流れを作っている気がする。

真カ研 月例会 5月

2009-05-21 00:01:00 | 真宗カウンセリング
昨晩のミニカンに引き続き、今日は月例会でした。

めずらしく早い目に家を出ることが出来、自転車で会場の龍谷大学深草校舎へ向かいます。
車で行くときは職員らの門を通るのですが、今日は自転車なので体育館横の自転車置き場へ。
そこの向かいはサークルの部室がある建物です。
思い起こせば、龍谷大学へ通っていた頃の半分以上の時間はそこの部室で過ごしていた私です。
(今から思えば、とてももったいないことをしてましたね)
その後、正門から入り、図書館のほうへ向かいます。
私が学生だった頃の学舎とは全然違う風景です。
ただ、図書館前の池はまだあり、ライブをしては池に飛び込んでいた記憶が…

などと述懐しながら会場へ入りました。
いつもより多目の参加者。
今月から新しいテキストになるので、ちょうどいい機会だったのもあるでしょう。
最近会員になった方が参加して下さってます。

久しぶりに最初の分かち合いから参加することができました。
その後、新しいテキストの説明。
今年は「人間論」ロジャース著より、「第3章 十分に機能している人間」の部分を輪読していきます。

今日は「はしがき」と「問題」という部分まで進みましたが、今までになく”挑発的”なロジャース氏の言葉が現れていました。
そこには「権力や、人間を大事にすることに否定的な人には、断固した態度をとる」人だったということがあるようです。
自分のもっている「人間観」に断固たる芯があり、そこがぶれないんですね。
そういう力強さを感じました。

私はどうしてもカウンセリングに対して「テクニック」という部分を入り口にしていますが、その元に「条件」があり、「人間観」があるということを改めて教えていただき、今後輪読が進むにつれてその「人間観」が浮き彫りになってくるだろうなという予感をいただきました。

同時に、人間の中でのかかわりのところでは、社会の常識や価値観に左右されてしまうこともありますが、そこに究極の、絶対のものがあれば、それを通して見せられる「我が身」という「人間観」がハッキリしてくるんだろうなと。
「わたしがわたしである」という言葉の前に、どうしても自分を肯定できず、「その”わたし”という事すらわからない」不安がいっぱいある。
しかし、そこに「仏の目から見たわたし」という究極の価値観をいただくとき、自己肯定も自己否定も超えた、「あるがままのわたし」がはっきりとして来るんだなと。

ロジャース氏を通して、また仏願をとおして、それらがこの「わたし」に収束しているのを感じます。

日曜の法座から、ミニカンを通じて、今日の月例会。
”出逢い”ですね。

南無阿弥陀仏

真カ研 月例会 4月 (関わりの振り返り)

2009-04-16 23:51:45 | 真宗カウンセリング

昨晩は真カ研の月例会でした。
4月は総会、じつは総会は初めての参加です。

例によって後れていった私、ちょうど最後の方がチェックインをしていたので、その方が終わるといきなり自分。
あまり気持ちが落ち着かないまま、その日の出来事を通して感じているところと、真宗カウンセリングとのご縁を話しました。
初めてお会いする方も居られたので、「どういういきさつで」という話になったんだと思います。

総会自体は、昨年度のプログラムを追いながらの報告と今年度の予定の確認となっていきます。
ただの連絡会ではなく、ところどころで世話役の方の思いや、それに触発されての様々な話になっていくところが良く、ひとつのエンカウンターとして入り込んでいく感じがあります。


チェックインのときに話をしながら、私の真宗カウンセリングとの関わりを思い返すことがありました。
もしかしたら、今までいろんなところに書いたり、話したりしてきたことと変わらないかもしれませんが、昨晩の時点の「今の私」が感じていたことです。

私は、具体的に真宗に触れたのが華光会に参加してからですが、華光会の法座にはすでに「カウンセリング」を学ばれ、実践されている先生方が居られました。
いや、単に学ばれていただけではなく、「真宗カウンセリング」を立ち上げ、研鑽していかれた先生方なのですから、当たり前のように参加していた法座が「真宗カウンセリング」に触れさせてもらっていたことになります。
ただ、その時点ではカウンセリングということに関心もなく(自分のことで精一杯でしたし)自分では一線を画していたつもりです。

その後、法座の中にカウンセリングのワークを取り入れた物に何度か触れることもありましたが、感覚的に体感しただけです。
逆にカウンセリングのイベントにも参加しましたが、それはワークではなくあくまでイベントでしかありません。

次第に、私の周りの若者たちが積極的にカウンセリングを学びだすに至って、出遅れた感を持ち出し、逆に「自分は法座の立ち位置」と思い込み、カウンセリングと相反しているように思っていた時期もあります。

しかし、そういう意識とは裏腹に、先生方や先達方の背中を見ているうちに、カウンセリングと深く関わってきていることになっていました。
本人は全然気づいていませんが。

やがて、西光先生が逝去され、松岡先生が会長に就任されたのを機に、一歩踏み込んでみようという気持ちが出てきました。
そしてまずは研究会会員になることからはじめ、ミニカンやエンカウンターグループの研修会に参加することで、意識的にカウンセリングのことを考え、また体感的にカウンセリングを味わっていくことになります。
そこにいたって初めて、いままでずっと育てられていたということが判りだしました。

しっかりと体感し、経験していくにつれて、その奥深さが知れることになりますし、月例会で学習(一番苦手な分野です)することで、自分が育てられていたものの正体に触れていくことになります。

そして、昨年のワークショップの世話役に続き、今年のワークショップや研修会の世話役、事務局の手伝いと、気がつけばどっぷりと浸かっています。

何かを目標に積極的に関わっているのかというと、そうではない感じです。
”流れに乗っている”というのが一番近い感じですね。
今までも、知らず知らずに育ててもらい、これからも流れに任せて出来ることをしていく。
とても私らしいと思います。

思い返せば、いくつものターニングポイントとなる出逢いがありました。
強く勧めてくれる人もいましたし、反発することで逆に関心を持たせてくれた人もいました。
それらすべてが関わりとなって、作られた流れの中にいます。

年々、体調などの不安要素が増えてきますが、まぁ、いけるところまで。
まずは、5月からミニカンの連続研修会が始まります。
平日夜、10週連続なんで、会場の京都近郊の方でないと難しいかもしれませんが、ぜひご参加ください。

ミニカン研修会案内

その後、7月の京都のワークショップ、8月の金沢のワークショップと続きます。

自分の力では、とてもこんなムーブメントは起こせませんね。
ほんと、乗っけてもらって大きな得をしています。