コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

冬期研修会 8回目

2006-03-02 18:43:45 | エンカウンターグループ


最初のチェックイン時に「スケジュール帳をみたら今日が8回目。早いですねぇ」とおっしゃる方がいた。ほんとうにそう思う。私もこういう形でタイトルに回数をつけてブログにしてるから、残りが少ないことを痛感する。

今回は、前のブログに書いた「思っていることを話してみた」ということをまず投げ出し、あとは場の流れに任せていた気がする。

流れの中心は、ある参加者の最近の心境。自身と仏法の関わりを通じて「変わってきている自分」というところを話してくださった。いつもなら一緒に法座に参加している仲間が半分いるのだが、今回はそのうち3人お休み。そのことが逆に「専門用語を使わずに伝えたい」という発言者の思いになり、私としては”面白い”展開になった。

他の方が発言者に質問をし、それに答えていくという展開なのだが、もし法座で同じやり取りになったら私が説明したり言い換えたりして整理しようとしたり、質問者の質問の内容ではなく”なぜその質問をしようと思ったのか”に気持ちの重点がいっていたと思う。(逆にいつもそう思って動きすぎていることが見えてきた)

今回は、「言葉に出来ないところを伝えたい」ということで発言者が奮戦していたが、発言者の言いたいことが上手く伝わらなかったかもしれない。でも、「何か伝えたいと思っていることが伝わってくる」という質問者の言葉にあるように、言葉ではなく発言者の”熱(エネルギー)”がその場にあふれ、皆に伝わっていた気がする。

「説明でなく、体験のところで」というアドバイスもあり、話が徐々に具体的になり、聞いた人がまたたとえなどをだして「私にはこう聞こえるのですが」と返していかれる。すごく動いている場だと感じた。

私自身はほっとくとどんどん説明したり整理したりするのから「ちょっと控えておこう」と言う思いに捉われ少し不自由さを感じていた。一方で、動いている場に任せていることの心地よさも感じていた。その辺は今後の課題として心にとどめておこうと思う。

話の内容のことになるのでここに書くのが適切かどうか迷うところではあるのだが…
話題の一つに「(自身のこだわりを)手放した」という言葉があった。流れは「どう手放した?」「何か力があった?」という質問になるのだが「何がとかどうとかじゃなく、手放していたと言う感じ」
このことが私にはすごく共感できて、そう感じている彼にうれしさを感じた。
手放すことが大事と教えられ、手放そうと頑張ったり、どうすれば良いかと悩んだり、手放した人を疎んだりする人を多く知っている。「手放すことが大事」と本当に聴いたら、その刹那手放している…これが本当に響いたってこと。頭で聞く・理解するのではなく、心で応えていくところ。ここは、体験の世界で、言葉にはできんのよねぇ。