最近、いろんな出来事のなかで「傾聴」についていろいろと考える。
その根底にあるのは、隔週で行なっている「新しい傾聴を生み出す会」の活動。
そして、5月から始まった真宗カウンセリング研究会のミニカウンセリング。
これまで、カウンセリングの学びの軸足は真宗カウンセリング研究会で、「傾聴」に関してはとてもベーシックな「傾聴」をすすめてきた。
聴き手の思いは交えず、ひたすら話し手が話したいようにすることを大事にし、こちらから何かを促すことなく、話し手が自分で話す言葉のなかで気付きを得ていく。
いや、言葉にするととても難しくなるのだが。
そこに、「新しい傾聴を生み出す会」ではそのベーシックなものを大事にしながらも、「ケースによっては少し逸脱することもあって良いのでは?」という視点でいろいろと試している。
一例としては、なにか「答え・指針」を欲しがってカウンセリングを受ける方に、なんらかの「お土産」を持って帰ってもらうことは果たしてダメなのだろうか?という感じ。
このことを改めて意識したのは、最近あったやり取りのなかで、「ただ『傾聴』してもらうのではなく、情報交換や聞かせてもらうことを望んでいたかもしれない」といわれた言葉。
私としては、やはりまだベーシックなところを大事にしていて、詮索やアドバイスをすることには抵抗があることに気付いた。
相手の方のことをしっかりわからない状態で、自分の想像の範囲の答えを返すことが適しているのだろうかという疑問。
いや、もしかしたら、ただ単に自信が無いだけなのかもしれない。
そんなときに、ネットで知人が話している言葉に出会った。
「今までも当然みんなには聴いてもらってたはずなんだけど はじめてほんまに聴いてもらえた嬉しさがあって びっくりして 『聴くというのはこういうことなんだ』という衝撃があった」
(純聞学 ホームページ)
あぁ、こういうことだな、と。
何かを与えることではなくて、聞いてもらうことで「聴いてもらえた」と感じる体験。
いろんな情報を得ることよりも、まず先に「聴いてもらえた」という嬉しさ、そしてそこから始まる、自分自身を聴いていく事であり、そこからの気付き。
答えをもらうんじゃなくて、自分のなかにある答えに至るプロセス。
「傾聴」はテクニックや手法ではなくて、話し手がそう感じられることへのお手伝いなんだなと。
ミニカンで実践していくなかで、いろんな方が質問してくださることもこのあたりが絡んでくる。
そういう場面にご一緒させていただくことで、私も実感的に深めてもらえる。
いまだに、この「傾聴」のことをうまく言葉にして表わせられないでいる。
が、私のなかには確たるものが生まれてきている気もする。
まぁ、「傾聴」出来ていない場面に遭遇することで気付くことは多いんだけれど。
と、ここまで書いてみて、あらためて「傾聴」は「傾聴」として、その上でニーズに応えていくことも模索できればな、と。
「新しい傾聴」そういうものがあるのかないのか(笑)
そして、この探求はまだまだ続いていく。