コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン3回目

2013-05-23 23:47:39 | ミニカウンセリング

最近は、ブログにする前にミニカンでクライエント役として話をして、言葉にすることでこの身から放して、そおっと眺めてみてる気がします。
そしてミニカンの報告を兼ねてブログの話題にしている感じ。


この日話をしたのは、先週にあった出来事。
PTA会長を務めさせてもらっている息子の学校のスクールカウンセラーさんが保護者向けにお手紙をくださり、私自身もカウンセリングに関わっていることや、またPTA会長として、一度お話をさせていただきたいと思った。
カウンセラーさんが学校にこられる日に連絡を取り、空いている時間にお会いすることに。
1時間ほど、いろんなお話を聞かせていただき、こちらも話させていただきました。
なんとなく、カウンセラーの暗黙のお約束って感じで、そこで話した内容はミニカン実習でも話しないし、ブログにもしない感じです。
ただ、私のカウンセリング感を素直に話させていただき、またその所で聞かせてもらえる素敵な時間でしたってことを、ミニカン実践で[感じを伝える」だけで深まってきました。
あぁ、本当にいい時間だったんだなぁと。

じつはそのことは、その日の午後にあった事と対比的に連動していきます。
その日の午後は、今度は娘が通う高校で「進路説明会」がありました。
もちろん、「理想の進路に向かうためには」という、目的のはっきりした話ですから、目的に「適う・適わない」というはっきりした到達点があります。
しかし、私にはその伝え方が気に食わず、「しんどい」感じしか残らなかった。

まずは近年の進学状況を説明されるのですが「短大卒が”当たり前”」[無遅刻・無欠席が”当たり前”」「評定平均○○点が”当たり前”」という具合です。
もちろん、叱咤を含めて[できていないものは今からでも頑張れ」ということでしょう。
しかし私には、それは[できていないものは切り捨てていく」という風にしか聞こえません。
”当たり前”というラインを出して、それに満たないものは「ダメ」というレッテルを貼る。
今、その当たり前の状況になれない子らを、ますます追い込んでいく言葉…
もしかしたら発奮して”頑張る”ことができるのかもしれません。
しかし、外圧で「頑張る」ことができたとしても、それが息切れしてできなくなったときの落差は…

思えば、午前中に話してきたことは、いかに「ゆっくりとその子の気づきを待つ」事が大事かという話でした。
それに対して、できるものを基準にしたものさしで測っていく姿は、しんどさしか感じられません。

義務教育ではなく、ましてや私学であるならば、子どもも”商品”として、進学率を高めるものとするのは、商売をやっている私にも理解できます。
それが次の子ども(商品)らを受け入れるす術ですし、職員が給与をもらう糧となるのですから。


と、カウンセリングの集まりに出るとどうも自己防衛の敷居が低くなって、感覚の認識がナイーブに成りすぎるのかもしれません。
ラベル付けで語るのはまずいですね。
しっかり子どもに向き合って教育のことを考えてくださる先生も、高校や私学にも一杯居られるはずです。

こうやって放してみて気づくことは、やはりカウンセリング的な「相手を尊重する」関わり方がとても大事なことと、外圧で何かを変えることではなく、そこに居るパーソンには自分で「成長」していけるパワー・エネルギーがあることを信じさせてもらえることなんだなと。

いろいろな出来事を経験し、放してみる事で、気づきがもらえます。