今回、言葉にしてみたことを細かく掘り起こしても、文章だけだとなかなか伝わらないだろうなって思いもありますが…
私自身のところで言葉にしてみましょう
まず、私は
間違いなく浄土真宗とのご縁で「阿弥陀仏」との直接的な関係を築いています
これは私と阿弥陀様「1対1」のことであり、それを他人に置き換えたり、標準化するものではありません
ただ、そのことを”味わう”のは、人間として生きる中での多くの方との出会いであり、その関わりで起こる”こころのひだ”のうごめきです
だから、引きこもって一人でいると、言葉にすると”ズレ”につながってきます
その上で
私の大問題は”死”であり、それはそこで終わりではなく「迷い続ける」というところにあります
それは祈りや行ではいかんともしがたく、ただ阿弥陀様の「お前を救わずにはおかない」という誓願を受け入れること
それは”信”であり、そこで起こる「南無阿弥陀佛」という称名です
「南無」とは、こちらから阿弥陀様に頼む「一念」であり、阿弥陀様からの”頼む”の叫びです
「阿弥陀仏」とは、その誓願が成就した証であり、「必ず救うぞ」に誓いが成立した証です
ということで、私の「迷い続ける」ことを断ち切るのは、私と阿弥陀様の「1対1」の問題です
だから、その他のものは必要ありません
たまたまそれが私に届いたのが、人間の時であり、仏教であり、浄土真宗であり、様々な善智識との出会いによるものだった
阿弥陀仏の思念を人間の言葉にしたお釈迦さまがおられ
インドの言葉から中国の言葉を経て日本語として伝わってきた
そのさなかで、この私に合っているのは修行ではなく、より簡単な方法であり、ただ「誓願を成就」した阿弥陀様の名前を呼ぶだけで良いと
ただ、漫然と呼ぶのではなく、そこに「救うぞ」という願いを受け入れる「信」を問うことは大事だと
それが私にとって、仏教であり、浄土教であり、浄土真宗だった由縁ですね
と、浄土真宗から阿弥陀様を尋ねるとあきらかになります
救われるのは「そうでしかない」と
ここで、カウンセリングが身に染みてくるともう一つの視点が表れます
相手を尊重するということ
私自身は「そうと思えない」ということも尊重します
そこに引っかかるのは、かつての私が「そう思えない」という人に対して否定・批判の態度で接していたことにあります
「阿弥陀様の救い」を純粋に突き詰めると、そこに対する「疑い」は一切認められません
私に対して「信」を示してくれた「善智識」のように、「親鸞聖人」のように「法然上人」のように
そう、生き様のほうに目が行ってしまい、そうなれない人をさげすんでしまいます
そのことがしんどくなってきて、「そうは思えない」という人も尊重したいという思い
私に対してお救い示してくださった阿弥陀仏は、「すべての生きとし生けるもの」に願いを立てておられます
ならば、浄土真宗じゃなくとも、浄土教じゃなくとも、仏教じゃなくとも、あるいは人間じゃなくとも
阿弥陀仏の願いは無条件ですから
まぁ、このことに対する落とし穴も明確になっているのですが
そのあたりが、前回の旅で
神様を畏れ大事にする人たちや
幽霊など怖れる心境の人たちや
パワースポットなどに頼る人たち
に触れて、こういう人たちにも「願い」はかかっていることを感じるにつながりましたし
それが
「信」ということに対して、「そう思えない目の前の人も尊重したい」ということにつながります
むしろ今は、そういう人たちが愛おしく、押し付けではなく「わたしはこう信じさせていただいています」と語り合いたい気持ちがあります
そのとき、私の中で「真宗 と カウンセリング」として、そこにいる存在が「真宗」と「カウンセリング」をつなぐものにあるんだな、と。
来月、真宗カウンセリングについて語る機会がもらえるかもしれないので、このことをひと月かけてもうちょっと深めてみたいと考えてます
K君、S君とのほんの数時間でこういうことが言語化されてきました
期待以上の時間でした