コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 41

2009-07-06 23:58:00 | 親子コミュニケーション

最近、結構更新しているが、このテーマで書くのは久しぶりだったりする。
タイトルをこのカテゴリーにしないだけで、関連する話題は書いてきたつもりはあるが。

外出時にちょっと携帯でニュース検索してたときに、ピピッっと意識に触れた話題。
「本の読み聞かせよりも、大人との会話をすることのほうが圧倒的に言語発達への効果が高い」
というもの。

その後、家でそのニュースを検索したがどうも見つからず、そのことを話題にしているニュースサイトを見つけたのでそちらを参考に。

小学校受験も盛んな昨今、胎教や幼児期の英語学習といった、幼いうちからの教育も注目を集めている。子供が少しでも早く言葉を覚えるようにと、絵本を読み聞かせる親も多いのではないだろうか。ところが、本を読み聞かせるだけでは効果が薄いという研究結果が米研究グループによって発表された。同研究によると、本の読み聞かせよりも、大人との会話をすることのほうが圧倒的に言語発達への効果が高いという。


この研究は、米カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)公衆衛生学のフレデリック・ジマーマン准教授らが、米医学誌ペディアトリックスの7月号に発表したもの。同准教授らは、米国勢調査のデータから抽出した2か月~4歳の子供を持つ275家族(白人82%、黒人3%、ヒスパニック8%、その他7%)を対象に、6か月間のうちランダムに選んだ5日間について子供の生活内容を丸一日記録。71家族については18か月間まで調査を継続し、子供の言語能力を確かめるテストを行った。

その結果、大人から1日1,000語を聞くことと、1日100回の大人との会話を行うことが言語発達に有意に関係し、テレビ視聴は言語発達に関連していないことが明らかになった。特に大人との会話が子供の言語発達により強く関連しており、同准教授らは、親子の会話を頻繁に行っている子供は文法や語彙の間違いが少なく、大人の会話を聞いているだけの子供は言語能力が上達しているものの、その効果は薄いとされている。

この結果を受け、同准教授らは「大人の言葉を聞かせるのは子供の言語発達の助けになるが、もっと重要なのはお互い通じ合うこと」と結論。一方的に子供へ言葉を流し込むのではなく、会話を通じて子供の考えを理解して言葉や認識の間違いを是正していくことが、子供の言語発達に最も良いと述べている。また、子供があまり言葉を習得していなくても大人が話しかけることも重要で、子供が自分の気持ちを伝えるために会話をしようとすることが、のちの言語発達に影響するという。

結局、子供の言語能力を発達させるのは与える知識の量ではなく、子供と多くのコミュニケーションを取る“愛情の量”が重要なようだ。
          「ナリナリ ドットコム

絵本の読み聞かせなどが親子コミュニケーションにとって重要なことだと認識していたし、結構いろんなとこで勧められ、また勧めても来た。
同時に、お風呂やちょっとした時間に、目線を合わせてお話を聞いてあげるということも。
このニュースは、そこからさらに一歩進んで、「会話」が大事だということを検証しているので、とてもうれしい。

たしかに、こちらから話しかけることは「知識を与える」ということに比重があることを否定できない。
なにか「教えてあげよう」と言う態度だ。
対して、話を聴くときはそういう「教えてあげる」色を排して、間違っていようがなんでも「聞いてあげる」という、子どもの話題を大事にしてあげる「尊重」に重きを置いていた。
もちろん、いまでもそのことを大事に思っているし、「知識や言語発達」よりも、「関係」を大事にする手段だと思っている。

その一方で、「言語発達」のためには「会話を通じて子供の考えを理解して言葉や認識の間違いを是正していく」ということらしい。
たしかに、これも大事なことだ。
肝要なのは、押し付けたり怒るように「是正」するのではなく、子どものことを大事に感じ、受け止めながら、出来れば「私メッセージ」で伝えていくことなんじゃないかなと。

このニュースは「発達」ということからスタートしているが、私が親子コミュニケーションのテーマにしている「共に育つ」ということからいくと、やはり大事なのは「子どもと多くのコミュニケーションを取る」と言う部分なんだろうなと。
それが、結局は「発達」につながっていくと言うのなら、会話するのも楽しいんじゃないだろうか。

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はちす よいはな きれいなおはな

2009-07-05 23:42:54 | 真宗

蓮の花がきれいな季節です。
毎年、お盆の帰省時に新潟の高田城で咲き誇る蓮を見るのですが、京都だと今頃からが見ごろ。
ほんの近所の東寺の中に蓮池がありますので、時々散歩時に見かけます。
でも、ほとんどが散歩したときに「あぁ、咲いてるんだ」って気がつく程度なので、今年は意識して「蓮を見に、散歩をしよう」ときめて、午前中から子どもらをつれて出かけました。(いつも休日の散歩は午後から夕方が多いですから)
さすがに、昼前後は暑かったです。
ピークには少し早いようで、ほとんどはつぼみでしたが、何本かはきれいに咲いていました。

蓮の花というと、朝方にポンッと咲いて、昼ごろにはもう閉じる言われてますね。

そして、仏教では蓮はいろいろな意味に使われています。

よく見るところでは、お釈迦様が乗っておられるのが蓮の花。
蓮台と呼ばれていますね。
瞑想される絵でも蓮の花の上に乗っておられます。

お正信偈では「得至蓮華蔵世界」と使われ、阿弥陀仏のお浄土のことをことを「蓮華蔵世界」としていますね。

また「白蓮華」=「分陀利華」(ぶんだりけ)として「観無量寿経」の中で「若し念仏する者は当に知るべし、此の人はこれ人中の分陀利華なり」と書かれ、汚い泥の中から清らかに咲く「白蓮華」をたとえに、念仏者を表されています。
でもこの「人中の分陀利華」ってことは、念仏者になれない人々を汚泥としてるってことですかね。
いや、これはそういう人を批判していることではなく、自分自身を振り返ったときに、ドロドロの清らかなものが何も無いこの私の中から、念仏の白い蓮が咲く様を言い表していると味わっています。
決して自分で種をまくことなんか無いですよね。
仏願の「種」によって、汚泥の中から華が咲く。
私の出来ることは悪因悪果でしかないんですが、そんな私がお浄土に参らせていただくのは自分の力では決して無く、仏願という「他因」によって成立してもらっていると言うことですね。
ここを取り違えて、いつまでも「どうすれば」と方法論を求めることが、ますます泥を深めている姿なんだと…

余談ですが、この「人中の分陀利華」をめぐってネットでいろいろなお話を読ませていただいていると「世間の汚れに穢れず、お念仏を称えて泥に咲く白蓮華のように清らかな人生をすごしたい」的なものにいくつか出会ったりしました。
いや、別にいいんですが…

あと、妙好人のことを「人中の分陀利華」と言われていますね。
「妙好人」のことは、増井信先生の「妙好人の信心」というご法話が判りやすく話してくださってますので、ぜひ一度お読みになってください。
「妙好人の信心」


と、蓮の華を見に行ったことで、いろいろなことに思いが馳せることになりました。
うん、これがご縁でしょうね。

(知ってる人はご存知でしょうが、そりゃあもう、私は「蓮の華」とは切っても切れないものがありますから…笑)

お池に はちすのお花がさいた
はちす よい花 きれいなお花
どのこにあげよ だれにやろ
はちすのお花を
もらうこは もらうこは
みほとけさまの かわいいこ
   「はちす」


法話「わるいこと」

2009-07-04 01:22:55 | 真宗カウンセリング

先日書いていた通り、日曜礼拝の法話で話したことをホームページのコラム欄にアップしました。

http://homepage1.nifty.com/MANU/korams/k090626.htm

あらためて、長い説明になっちゃってるなぁと。
子どもたちは、よくついてきてくれたと思います。
華光の同人の方は、その模様がホームページから音声データとしてダウンロードできます。(ダウンロードページ
期間限定ですので、取りそこなった方は私にメールくださればなんらかの方法でデーターをお渡ししますね。

で、このブログにはもともとの原稿をアップしちゃいます。
話したものがかなり変わってしまっているということがお分かりいただけるのでは。


今日は「わるいこと」のお話をします。

みんな、どういうことが悪いことだと思うかな?
(ゆっくり時間をとってみんなの声を聞き、黒板に書く)

先生はいくつか書いてきました。
(紙に印字したものを黒板に貼る)

「ぬすむ」「ころす」「けんか」「うそ」「わるぐち」「おこる」・・・

ほかにも、ちょっと難しいことばだけど、こういう悪いこともあります。
「えっちなこと」「おべっか」「にまいじた」「よくばり」「まちがったかんがえ」

このうち、「けんか」は「ころす」といっしょにしておいて、全部で10個あります。


じゃあ悪いことをするとどうなるかな?
「おこられる」「おまわりさんにつかまる」(「地獄に落ちる」)←この時点で出なくてもOK

じゃあ、この中でおまわりさんに捕まるのはどれ?
「けんか」「ぬすむ」「ころす」 「うそ」
(「うそ」もつかまる「うそ」があります)
からだをつかって、相手の人に何かすることですよね。
(黒板に線を引き、「からだ」の範囲に入れる)

じゃあ、つかまらないけどおこられるのは?
「わるぐち」「おこる」
これはこの口でやっちゃうこと。
(もう一本線を引き、「くち」の範囲に入れる)

じゃあ次に、これらを心で思うだけだったら…
さっきの「おこる」っていうのは、口に出して「おこる」こともあるけど、心の中だけで「おこる」こともあるからこっち。
「相手を憎たらしい」と思ったり、「お母さんなんか死んだら良いのに」って思ったり、「あのおもちゃ欲しいからお友達から取っちゃおう」って思ったり。
憎いと思ってけんかしちゃったら捕まったり怒られたりするし、死んだら良いって殺しちゃったら捕まる、おもちゃも盗んじゃったら捕まるよね。
でも、心で思うだけでやらなかったら…おまわりさんは捕まえに来ないし、お母さんも心の中までは判らないから怒らないかもしれない。
(でも、お母さんはみんなの顔を見て「悪いこと考えてるな」ってわかるから、ばれることもあるけどね)
そこまできついことじゃなくても、「今日のおかず嫌いだなぁ」とか「あれ、ほしいなぁ」なんて思うことはないかな。

でも、心で思うだけでも「わるいこと」は「わるいこと」だよね。
ばれなかったら「いい子」と思ってもらえるかもしれないけど、実は全部判ってる人が居ます。
○○くんは、殺したり、盗んだりしてなくても、「殺したい」とか「盗みたい」って思ったね…それは悪いことだよって。

(横線を二本引いて、つかまる・おこられる・地獄の種に分けて貼りなおす)

おまわりさんに捕まらなくても、お母さんに怒られなくても、こういう悪いことをした人は「地獄」に行きます。
いやだよね。
「じゃあ、もう悪いことはしません」って思って、これから「悪いことをしないようにする」・・・そのことは大切です。
でも、やらずに済むかな?
そして、いままでやってきたことが無かったことになるかな?
この「わるいこと」を一個もやったことがないひと手を挙げてください。

殺そうと思わなくても、ご飯のときにいろんな命をいただいてるでしょ。
それは漁師さんやお店の人が代わりに殺してくれてるだけで、みんなのために命をもらってるの。

先生も最初は「そんなに悪いことはしてないよなぁ」って思ってたの。
でも、ここでお話を聞かせてもらってるうちに、いっぱいいっぱい悪いことしてるって教えてもらった。
仏様がそれを全部知ってるよって教えてもらって、それが「うそ」とは思えなかったし、なにより仏様が見ていなくても自分で「わるいこと」してるのを、他の人には隠せても自分では隠せないから。

みんなも、一度「自分はどんな悪いことしてるか」をこの後の分級で考えてみてください。
自分で思う「わるいこと」じゃなくて、仏様が見てる「わるいこと」をしてるかどうか。

そして、「わるいこと」をしたらどうなるのか、これからの日曜礼拝でしっかりお話を聞いてください。



春期研修会 8回目

2009-07-01 23:40:18 | ミニカウンセリング
いよいよ春のミニカンも終わりが近づいてきました。

逐語録検討は、先週のペアが役割交代。
こちらもカウンセラーさんは始めての逐語録録音でした。
やはり緊張があるのか、序盤はレスが少なめ。
しかし、中盤で一言二言レスが付けられると、あとは結構上手くされてましたね。
クライエントの方も徐々に乗ってきて、話の調子が上がってきているのがわかります。
声の調子、スピード、使われる表現なんかが変化してきます。
一転、ちょっと間があいて落ち着いた感じになる時、その前の段階で言いたいことに思いが到達した瞬間がありますね。
実際にカウンセリングしていると、そうやって次の話題に移ると、その話題についていこうとしてしまいますが、こうやって逐語録で見るとその変わり目の前に「大事なこと」があるのがよくわかります。


後半はペアを組んでのミニカウンセリング。
今回の参加者の中では、経験を積んでおられる方の方です。
先に私がクライエント役で話をします。
最初は今話したいことを探りながら、浮かんでくる思いを意識的に言葉にしていきます。
私の心得として、出来るだけ感情の言葉が出てきたら、それを最優先に表に出そうと。
今回のカウンセラーさんは、うまくそれを拾ってくださいます。
そうすると、あとは井戸の呼び水のごとく(って、いまどきの人は井戸を知らないだろうなぁ…)意識化の作業抜きで言葉が出てきます。
今度は、私自身がその言葉を頼りに、自分の今の気持ちを確認していけるという。
最初は”負の感情”も出していたのですが、その言葉が負のものであっても、言葉がどんどん湧き上がってくるところに楽しみを感じ出します。
話している出来事は”負”であっても、今は話していることを楽しめる…なかなかこういう体験はありません。
「いま・ここ・わたし」で居られるという、とてもよい関係を作ってもらえたんだなと。

交代して私がカウンセラー役になりますが、私が楽しい時間を過ごせたことが伝わって、クラエントさんもリラックスして話が出来たと言ってくださいました。
話の中身にはちょっと”しんどさ”の話題も話されているのですが、表情は穏やかな感じ。
そうすると、「あぁ、今はしんどいことの話だけど、クライエントさんの中には”穏やかになれる”ものにつながっているからこういう表情なんだな」というものを味わっていました。
実際、後半はそういう話題につながっていきました。

そのときは「相手のそこに流れるものを読み取る」ということが出来ているのかな、と思っていましたが…
もしかすると、そこにこちらの「想像」が混じっていたかもしれません。
だとすると、いまここで話されている相手の方を尊重することから逸脱して、「他のものを付け足して聞いている」ということになります。
ちょっと、このあたりは課題として、心に留めておこうと思います。

声のトーンや、表情など、そういうものも含めて「そこにながれるもの」を感じていく。
これができれば、言葉の中に現れる感情を丁寧に拾うことでとどまらず、言葉に現れない感情にも寄り添っていけることになるのか…大事なテーマですね。
あまりこれを試して先走ると、どんどん想像が付きまとい、レスが操作的になってしまうかもしれませんから。

いやぁ、まあまだ奥が深いです。