ちょっと立ち止まらざるを得ないような言葉をいただいた。
私にとって、最終的な目的はなんだろうか?ということである。私は学ぶことが好きだし、学ぼうという意欲のある方も好きである。ただ、自分の学ぶ理由と聞かれると、困ってしまうことも事実。
学ぶことに理由はいらないと私は常々考えている。なぜなら、人間は学ぶことによってのみ進化することを許された存在であると思っているからだ。故に、学ばないことは罪悪とすら感じてしまうわけだ。
文明の英知を享受する以上、その文明を更に進化させる「努力」ぐらいはしておかねばならぬ。人類としての「知」を、1つでも後世に伝えることが、自分がこの世に生を受けた「役割期待」だと考える。
そのために、私は「無用」の学問を、人生というエネルギーを投下して自分のものにしている。それが、いつの日か、「有用」になることを信じて。それが「無用の用」というものだと思っている。
学位なんぞ、取ってしまえばただの「紙切れ」である。しかし、その「紙切れ」には、自分が投下した人生という時間が凝縮されている。「紙切れ」がすばらしいのではなく、その「紙切れ」を取得するまでに経験した「苦悩」「努力」等が、自分にとって非常に尊い経験となるわけだ。
何かしら学位を取得するためには、大きさはともかく、必ず「壁」にぶつかる。それを克服する際に、人は大きく成長すると信じている。自分にとって未知の分野を研究し、教授クラスの第三者に評価していただくためには、それ相応の努力が必要となる。無論、学位じゃなくても、資格でも、何でもいいのだが、人は目標を定めないと、易きに流れるため、無理にでも、何か、目標設定すべきと私は思っている。
たくさん集まった資格や学位は、あくまでも「学習の抜け殻」であり、その成長した本体は、私の頭の中にとどまっている。
そして、その本体は、人生のワンチャンス、一瞬、花開くタイミングを虎視眈々と待っている。そう、私が生きていたという証として、後世の「誰か」に、「何か」を伝えることができれば、それで、私の人生は十分なのである。
誰かに何かを伝えるためには、その伝えるべきものを、常に身に着けておかなければならない。しかし、知識は、1日1日、陳腐化していく。だからこそ、私は、何か新しいことを毎日学ばなければと自分を追い詰めている。
そのための目標を探して、今も私は漂流している。
私にとって、最終的な目的はなんだろうか?ということである。私は学ぶことが好きだし、学ぼうという意欲のある方も好きである。ただ、自分の学ぶ理由と聞かれると、困ってしまうことも事実。
学ぶことに理由はいらないと私は常々考えている。なぜなら、人間は学ぶことによってのみ進化することを許された存在であると思っているからだ。故に、学ばないことは罪悪とすら感じてしまうわけだ。
文明の英知を享受する以上、その文明を更に進化させる「努力」ぐらいはしておかねばならぬ。人類としての「知」を、1つでも後世に伝えることが、自分がこの世に生を受けた「役割期待」だと考える。
そのために、私は「無用」の学問を、人生というエネルギーを投下して自分のものにしている。それが、いつの日か、「有用」になることを信じて。それが「無用の用」というものだと思っている。
学位なんぞ、取ってしまえばただの「紙切れ」である。しかし、その「紙切れ」には、自分が投下した人生という時間が凝縮されている。「紙切れ」がすばらしいのではなく、その「紙切れ」を取得するまでに経験した「苦悩」「努力」等が、自分にとって非常に尊い経験となるわけだ。
何かしら学位を取得するためには、大きさはともかく、必ず「壁」にぶつかる。それを克服する際に、人は大きく成長すると信じている。自分にとって未知の分野を研究し、教授クラスの第三者に評価していただくためには、それ相応の努力が必要となる。無論、学位じゃなくても、資格でも、何でもいいのだが、人は目標を定めないと、易きに流れるため、無理にでも、何か、目標設定すべきと私は思っている。
たくさん集まった資格や学位は、あくまでも「学習の抜け殻」であり、その成長した本体は、私の頭の中にとどまっている。
そして、その本体は、人生のワンチャンス、一瞬、花開くタイミングを虎視眈々と待っている。そう、私が生きていたという証として、後世の「誰か」に、「何か」を伝えることができれば、それで、私の人生は十分なのである。
誰かに何かを伝えるためには、その伝えるべきものを、常に身に着けておかなければならない。しかし、知識は、1日1日、陳腐化していく。だからこそ、私は、何か新しいことを毎日学ばなければと自分を追い詰めている。
そのための目標を探して、今も私は漂流している。