神様の話といっても、キリスト教でもなければ、神道でもない。
本日の卒業研究ガイダンスの際、先生が自己の体験の中で、「1月8日提出期限の修士論文を、紅白歌合戦を見ながら書いていたとき(神が)降りてきたんです」という話をされていた。
私も以前、「論文の神様」や「レポートの神様」といった類の話をしてきたので、先生の話に非常に共感を覚えたのでした。武蔵野大学大学院の同期で、人生の先輩のゆずさんも、同じような神様の降臨体験をされているし、他大学院の友人達も、多かれ少なかれ同様の体験を述べている。
真宗大谷派で、根っからの仏教人であるが、このような九十九神的な神様はいるのではないか・・・と思っている。論文の神様、レポートの神様、読書の神様、、、色々な神様の見えざる手に導かれ、偶然の装いの中に、必然が生まれているのではないのでしょうか?
それこそ、我々が、我々として、個々の人格を持って、この世に存在していることこそ、神話レベルの、非常に尊いことなのですから。先祖の誰かが欠落しても自分はこの世に存在するはずはない・・・しかし、今、この瞬間に、自分が存在していることは必然としかいいようがないのですから。
奇跡としかいいようのない可能性の中をかいくぐって、自分はこの世に存在している。このことは、私だけではなく、すべてのこの世に生ける人々に共通して言えることなのです。だから、奇跡的に与えられた、今、この瞬間を生かされていることに感謝し、出来るだけ、充実した生き様を演じる必要があるのではないか・・・それは、この世に一瞬たりとも存在することすら許されなかった対象への責務であると思っています。
だからこそ、命を大切にしなくてはならないし、その命が尽きるまで、自分に与えられた責務を、自分なりに勤め上げなければならないと思っています。
本日の卒業研究ガイダンスの際、先生が自己の体験の中で、「1月8日提出期限の修士論文を、紅白歌合戦を見ながら書いていたとき(神が)降りてきたんです」という話をされていた。
私も以前、「論文の神様」や「レポートの神様」といった類の話をしてきたので、先生の話に非常に共感を覚えたのでした。武蔵野大学大学院の同期で、人生の先輩のゆずさんも、同じような神様の降臨体験をされているし、他大学院の友人達も、多かれ少なかれ同様の体験を述べている。
真宗大谷派で、根っからの仏教人であるが、このような九十九神的な神様はいるのではないか・・・と思っている。論文の神様、レポートの神様、読書の神様、、、色々な神様の見えざる手に導かれ、偶然の装いの中に、必然が生まれているのではないのでしょうか?
それこそ、我々が、我々として、個々の人格を持って、この世に存在していることこそ、神話レベルの、非常に尊いことなのですから。先祖の誰かが欠落しても自分はこの世に存在するはずはない・・・しかし、今、この瞬間に、自分が存在していることは必然としかいいようがないのですから。
奇跡としかいいようのない可能性の中をかいくぐって、自分はこの世に存在している。このことは、私だけではなく、すべてのこの世に生ける人々に共通して言えることなのです。だから、奇跡的に与えられた、今、この瞬間を生かされていることに感謝し、出来るだけ、充実した生き様を演じる必要があるのではないか・・・それは、この世に一瞬たりとも存在することすら許されなかった対象への責務であると思っています。
だからこそ、命を大切にしなくてはならないし、その命が尽きるまで、自分に与えられた責務を、自分なりに勤め上げなければならないと思っています。