放送大学は卒業研究を履修しなくても卒業することができる。
多くの通信制大学でも、卒論なしで卒業することができるのだが、可能であるなら、やはり学生の本分として卒論は履修すべきだと考えている。これはあくまで私の考えであり、制度として卒論抜きで卒業できる大学なら、あえて卒論を履修する必要はないのかもしれない。
とはいえ、今、修士論文と並行して卒業論文を作成できるか・・・というところで履修を躊躇しているのも事実である。中途半端な成果物を2つ作るより、徹底的に修士論文に全エネルギーを傾斜した方がいいのではないかとう考え方である。
しかし、今まで15の学位を得てきたのだが、論文抜きで取得したものは全くない。あえて苦難の道を避け、安易に学位を授与されることが、自分にとっての正解といえるのだろうか?後に、「あの時、卒業研究を履修しておけばよかった・・・」と後悔してしまわないだろうか。
修士全科生として徹底的に学習するなら、全科履修生として二重学籍を申請することはしてはいけなかった。にもかかわらず、放送大学本部が二重学籍を許可したということは、やはり2つの論文を並行して書けるということではないのか。
そもそも、過去6年間において、修士論文相当を3本、卒業論文相当を11本(うち1本は不合格)を書いているのだから、2年間で修士論文1本、卒業論文1本は書けそうな気もする。
常々思っているのだが、放送大学で卒業論文を書く人には、本当に頭が下がる。なんせ、放送大学は卒論抜きでも卒業できる大学である。また、卒論を履修すると、多くの場合、先生の指定する結構な遠隔地まで出向いていく必要がある。幸運なら近場で指導を受けれる場合もあるが、そう、うまくいくとは限らない。卒業研究の登録費用より、交通費が高くなるケースはざらにある。
それにもかかわらず、少なからぬ方々が卒業研究を履修するのは、無論、大学院への足がかりとするケースもあるのだが、やはり、大学生として、先生について研究を進めたいという思いからなのだろうか。
無くても問題ない卒論を、あえて履修する人を、やはり私は尊敬してしまうのである。
多くの通信制大学でも、卒論なしで卒業することができるのだが、可能であるなら、やはり学生の本分として卒論は履修すべきだと考えている。これはあくまで私の考えであり、制度として卒論抜きで卒業できる大学なら、あえて卒論を履修する必要はないのかもしれない。
とはいえ、今、修士論文と並行して卒業論文を作成できるか・・・というところで履修を躊躇しているのも事実である。中途半端な成果物を2つ作るより、徹底的に修士論文に全エネルギーを傾斜した方がいいのではないかとう考え方である。
しかし、今まで15の学位を得てきたのだが、論文抜きで取得したものは全くない。あえて苦難の道を避け、安易に学位を授与されることが、自分にとっての正解といえるのだろうか?後に、「あの時、卒業研究を履修しておけばよかった・・・」と後悔してしまわないだろうか。
修士全科生として徹底的に学習するなら、全科履修生として二重学籍を申請することはしてはいけなかった。にもかかわらず、放送大学本部が二重学籍を許可したということは、やはり2つの論文を並行して書けるということではないのか。
そもそも、過去6年間において、修士論文相当を3本、卒業論文相当を11本(うち1本は不合格)を書いているのだから、2年間で修士論文1本、卒業論文1本は書けそうな気もする。
常々思っているのだが、放送大学で卒業論文を書く人には、本当に頭が下がる。なんせ、放送大学は卒論抜きでも卒業できる大学である。また、卒論を履修すると、多くの場合、先生の指定する結構な遠隔地まで出向いていく必要がある。幸運なら近場で指導を受けれる場合もあるが、そう、うまくいくとは限らない。卒業研究の登録費用より、交通費が高くなるケースはざらにある。
それにもかかわらず、少なからぬ方々が卒業研究を履修するのは、無論、大学院への足がかりとするケースもあるのだが、やはり、大学生として、先生について研究を進めたいという思いからなのだろうか。
無くても問題ない卒論を、あえて履修する人を、やはり私は尊敬してしまうのである。