先ほど、「相談援助演習Ⅰ」の科目修了試験を提出しました。
課題は1000文字程度のレポート。わずか1000文字なのですが、モチベーションが低下しているようで、もう、打鍵するのが面倒になってしまい、書き綴ったものを「エイヤ!」と送ってしまいました。
見直すのも億劫で、もう、現状から逃れたいという一心で、早く手放したいという思いから、送信してしまったのですが、少々、内容に難があったようで。今、レポートの「設問と提出方法」を読んでいて、その点に気が付きました。まあ、この単位がなくても卒業できるし、自分の感じたことを書けばいいかな~と思った次第でして・・・
提出期限が「11月3日の24時」となっており、あと25時間なのか、1時間なのかも、分からなくなってしまい、そのまま出してしまったのですが、あと25時間あったとしても、明日はバスツアーで旅行に行くし。
ということで、合格でも不合格でも、すべてが終了したこととなります。もう、提出する課題も無ければ、受験する科目もありません。日本福祉大学での学習は完了してしまい、あとは学位記が到着するのを待つだけです。
4年次入学で、わずか半年で卒業が確定してしまう現状に、「自分の大学生生活はなんだったのか?」と自問自答したくもなってしまいます。無論、それまでに、山のように積み上げた学習や単位があってこそできる技なのですが、こんなことで、学位を積み上げていって、一体、何になるのかと悲しくなってしまうわけで。
当然のことながら、ディグリー・ミルでない限り、学位を1つ得るためには、それに匹敵する学習が対価として求められます。そう、等価交換なのです。例え通信制であったとしても、替え玉受験で単位を積み上げたのでなければ、その与えられた単位分の学習はしたこととなります。それこそが、我々が唱えるところの「生涯学習」の一つの形態と言えます。
故に、私は学位一つ分の生涯学習を15万円ほど投下してやってみようと思ったのですが、あまりに駆け足でカリキュラムをクリアしてしまったため、茫然かつ無気力に陥っているにすぎません。
資格は232取得したところで一旦振り返ることができましたが、学位は22取得したところで何か考えなければならないような自責の念を感じている状況です。数はそれだけで、無言の力を持っています。その圧倒的な力の前では、持っていない場合、何を言っても言い訳にしか聞こえません。
しかし、公的資格にしろ、学位にしろ、例え、それが法令に則った根拠のあるものであったとしても、たくさん取得したからといって、素晴らしい人生が拓ける訳でもなく、幸運の女神さまがほほ笑むわけでもなく、なんら、幸せのパスポートとなるわけではないことを、次々と実証してきたわけでして。
「こういう生き方ができる」ということは証明してきたのですが、「こういう生き方が幸せである」ことは何一つ実証できず。むしろ、名古屋に単身赴任した後は、「10年間も大学院生をやらずに、もっと家族と一緒に過ごした方がよかったのでは?」と疑心暗鬼に苛まれているくらいです。
とはいえ、私のような生き方を志すことが必要なのか、必要でないのか検証するためには、誰かが、人生を13年間投下しないと不可能なわけで。あるいは、機構の制度が変わってしまったため、22の学位を取得するためには、13年では不可能な時代となりました。この人生が不毛であることを実証するためには、誰かが20年、あるは30年ほどかけないことには、検証すらできない時代なのです。
ゆえに、「無用の用」なのですが、自分の人生で実証してしまったことが、果たして正解だったのか不正解だったのか・・・そんなことを、日本福祉大学での学修が終了した日に思ってしまうのは、人間の器が小さい証拠ですね。