クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

「喫茶店にて」~萩原朔太郎・銀座エッセイ

2016-08-27 | 文芸

 昨日、ぎんざ(銀座)のしにせ(老舗)カフェで、午後のひとときを

すごした・チットが、

かえってきて

こんなことを 言いました。


 「カフェーパウリスタのお客さん、ほとんどが『お一人様」だったよ~。

平日の午後に、

何するでもなく 一人でお茶してるの 

 なんだか、不思議な感じだったわ。まあ~私も、端から見れば

同じなんだけど。。」



 それについては、クリン、「カフェのお一人様が何しに来てるか

答えをズバリ 知ってます。


 

昭和しょき(初期)に

かつやくした・しじん(詩人)

はぎわらさくたろう(かんじ:萩原朔太郎)

という人が、

エッセイに 

かいているのです


 せっかくなので、ここに しょうかい(紹介)します。


パウリスタが

メジャーだったのと

同じころの作品ですので、

ちょうど

同じころにたった、

「銀座・奥野ビル」のシャシンも、つけてみます 

 

 

 <「喫茶店にて」 by萩原朔太郎 >

 「先日 大阪の知人が訪ねて来たので、銀座の相当な喫茶店に案内した。

学生が少ない大阪には

本格的の喫茶店がなく、

珍しい土産話と 思ったからである。

 はたして知人は珍しがり、次のやうな 感想を述べた。

先ほどから観察していると、

僅か一杯の紅茶を飲んで、

半時間もぼんやり坐ってる人が

沢山いる。

いったい彼らは 何を考へているのだらう

と。

 一分間の閑も惜しく、タイムイズマネーで忙しく市中を駆け廻ってる 大阪人が、

かうした東京の喫茶店風景 

を見て、

いかにも閑人の寄り集りのやうに思ひ、

むしろ不可思議に思ふのは

当然である。

 私も さう言はれて、初めて喫茶店の客が「何を考へているのだらう」

と 考へてみた。

おそらく彼等は、何も考へてはいないのだらう。

 と言って 疲労を休める為に、休息しているといふわけでもない。

つまり彼等は、

綺麗な小娘や 

善い音楽を背景にして、

都会生活の気分や閑散を

楽しんでいるのだ。


 これが即ち文化の余裕といふものであり、昔の日本の江戸や、

今の仏蘭西の巴里などで、

この種の閑人倶楽部が

市中の至る所に設備されてるのは、

文化が長い伝統によって、

余裕姓を多分にもってる

証左である。


(中略)


ニイチェの説によると、


絶えず働く と言ふことは、賤しく俗悪の趣味であり、

 人に文化的情操のない証左であるが、今の日本のような新開国では、

絶えず働くことが強要され、

 到底閑散の気分などは楽しめない。

 巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、

一杯の葡萄酒で 半日も暮らしているなんてことは、

 話に聞くだけでも 贅沢至極のことである。

 ・・・文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生まれ、生活がのんびりとして 暮らしよくなる。

それが即ち

「太平の世」といふものである。

今の日本は、太平の世を去る事あまりに遠い。 

 昔の江戸時代には帰らないでも、せめて巴里かロンドン位の程度にまで、

余裕のある閑散の生活環境を

作りたい。」



萩原朔太郎の

 江戸時代認識については

 首をかしげるところもあるけど・・

 『余裕のある閑散の生活環境』は、つくりたいね~

あの、

パウリスタのお客さんたちみたいに!」



 今、よゆうのない・生活かんきょう(環境)にいる、チットがいいました。


・・・・・


(久しぶりの「お一人様」が

 よっぽど・しんせん(新鮮)だったんだな・・。)



「たまには、

 一人でカフェ行くのも いいもんなんだね

 「昨日は、ミニクリンも チットちゃんと一緒にいたんだけど














コメント
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