日本に、コーヒーブレイクが 定ちゃく(着)したのは
明治時代
文明開化のころがはじまりだと いいます
「最初のカフェ」といわれる、あさくさ(浅草)の「珈琲茶館」は、
油絵のパノラマ画
を
かんしょう(鑑賞)するためのお店だったそうですが、
ろくめいかん(鹿鳴館)のころになると、モダンなカフェが つぎつぎに
オープン
その波にのって、ぎんざ(銀座)に出店したのが、「カフェーパウリスタ」
です。
パウリスタのそうぎょう(創業)者は、みずのりょう(かんじ:水野龍)
という
実ぎょう(業)家で、
この・みずのさんは、
「日露戦争」後、
たいえき(退役)軍人の しょくぎょうなん(職業難)が
モンダイになった
さい、
国がおしすすめた、「ブラジル移民政策」に きょう(協)力した人です
みずのさんたちの
こうしょう(交渉)により、
日本人3000人が、いみん(移民)として ブラジルにわたるという話が
まとまったおり、
ブラジル政府は
みずのさんに、毎年・1千ひょう(俵)のコーヒー豆を
あげることに
決めました
東洋でのはんばいけん(販売権)をえた・みずのさんは、
ブラジルから
送ってくる豆を
しょうひ(消費)するのと
同時に、
コーヒーのう(農)場の「労働者」となった、日本人移民に
むくいるため、
「カフェーパウリスタ」を ひらきました (※サンパウロのカフェの意)
そもそも、豆は「無償提供」なので、コーヒーも ほかより安く
売ることができ、
そこに、若いお客がついて、パウリスタは人気店になります
「銀座・パウリスタで、
ブラジルコーヒー飲んでく?」
を
けいおうぎじゅく(慶応義塾)の学生が、「銀ブラ」と、りゃく(略)したのが、
「銀ブラ」のごげん(語源)だとする・せつ(説)を
お店のほうでも
きょうちょう(強調)してますが、
今は、そういういみ(意味)でつかっている人は あまり
いなさそうです。。
(ふつう、「銀座ブラブラ」)
でも そのくらい、当時は ぎんざ(銀座)にその名をとどろかせる
コーヒーの
でんどう(殿堂)的 お店だった
らしい。
大正~昭和のパウリスタは、
やはり、しんさい(関東大震災)や せんさい(東京大空襲)の
えいきょう(影響)で、
一時、
閉店したそうです・・
しかし!
せん(戦)後
リニューアルオープンしてからは、
この地で
ずっと
がんばっています
今、
パウリスタは、
コーヒーカップやスプーンを、ふく(復)元し、
昔を
しのべるような、
フンイキを サービスしています
このように・・・ 「ん!?」
「チットちゃん なんで、コーヒーたのんでないの
それ、お酒でしょ」
「だって~、
カイピリーニャがあったから飲みたくて。」 「・・・・。」