食堂にさえ・かん(冠)された、「百姓」という文字・・。
さいきん見かけない
この文字が、
ほくりく(北陸)にくると、がぜん・いみ(意味)をもってくる
今回の旅で、
クリンは、そのことを 知りました。
それは、このあたりが、日本有数の米どころだから、
というばかりでは
ありません。
このあたりが、戦国時代の1世紀、「百姓たちの国」
だったことに
かんけい(関係)しています
(今日は、長文です)
クリンたちが、今いる「福井県北部」は、昔、「越前国」と
よばれていました。
ある日、都から、一人のえらい・お坊さんが 布教にやってきます
れんにょ(かんじ:蓮如)っていう・お坊さんです。
れんにょ(蓮如)は、当時「一向宗」と呼ばれた「浄土真宗」の
リーダーで、
武士やきぞく(貴族)でなく、
庶民を すくうべく、この地に やってきました
れんにょ(蓮如)は、
村のお百姓さんたちに
むかって
言いました。
「 心から『南無阿弥陀仏』と唱えれば、必ず極楽に行けるよ。」
戦や、ねんぐ(年貢)、圧政、ききん(飢饉)などで 苦しみぬいてきた
人々にとって、
これは、まさに
「救いの言葉」・・
しかも、れんにょ(蓮如)は、見た目かっこよく、あたまがよく
気さくで
しんせつ(親切)な
とおとい・高そう(僧)
百姓たちは、われさきに その手に すがりました
(←本当は このような方です。)
れんにょ(蓮如)の 布教方法は、
おふみ(御文)という、百姓にもわかる やさしい言葉で
書いた、きょうてん(教典)を
くばり、
みんなをあつめて、「講」という、仏教サークルをつくらせる、
というもの。
かが(加賀)、のと(能登)、えっちゅう(越中)
と、
れんにょ(蓮如)の行く先々で、おふみ(御文)が配られ、
こう(講)ができ、
信者のわ(輪)が
広がりました
おふみ(御文)には、かかれているのは、たとえば
こんなことです。
「朝に紅顔あって 世路に誇れども、暮に白骨となって郊原に朽ちぬ」
<意味>
「朝、元気でも、夕方には 死んでるかもしれないから、
しっかり生きな」 みたいなやつです。
そぼく(素朴)にして、じゅんすい(純粋)な 教えは、
きびしくて
汚い世界で
生きるしかなかった
百姓の心を、
がっちり・とらえました
一大・ブームとなった「一向宗」は、やがて
大きく
まとまりはじめ、
れんにょ(蓮如)の予想以上の
巨大せい(勢)力となって、
しだいに、けん(権)力者に ていこう(抵抗)
信者たちは、地元の大名を はいじょ(排除)するための
いっき(一揆)を
おこしはじめます
とくに、「加賀国」(石川県)では、信者が大名をたおし 国をのっとる
「加賀の一向一揆」
が
おこりましたが、
そのあとが、すごくて、
百姓たちは、
「ここは、一向宗の国だ ここには、大名なんかいらねえ
俺たちゃ、平和に暮らすぜ」
と
宣言し、
100年間の間、自分たちだけの国を、守りぬいたのです
(こんなような状態→) (赤が加賀国)
戦国大名たちも、これには、おどろき・手をやき、
おそれましたが、
さいごは、のぶなが(織田信長)が出てきて、一向宗は つぶされて
しまったのでした。。
が
それでも
「信長は、どんな戦国武将よりも 一向宗の制圧に 骨を折ったはず。」
と
れきし(歴史)にくわしい、
うちのチットは
言ってます。
「あの、うるわしの文化都市・金沢の前身が、百姓の
宗教王国だなんて
めちゃ・すごすぎる」
と、
チットは、かんしん(感心)しきり・・
ところで、「北陸宗教王国」のきてん(起点)となった
ここ
よしざき(吉崎)には、
げんざい(現在)、「蓮如を顕彰する施設」が いくつか・たっています
「蓮如像」がある・おやま(御山、「吉崎御坊跡」)には、
おどう(堂)こそ・もう、ありませんが、
「蓮如上人・お腰掛の石」っていうのがあったり、
その山自体が、吉崎の地形が見わたせる 「展望台」に
なってますし、
ふもとには、「蓮如上人記念館」があり、
だれでも入れて、カフェもあり・・
その向かいには、お庭あり、
はくぶつかん(蓮如館)あり、
あんない(案内)人のおじさんの、かいせつ(解説)あり、
と
見るとこ・いっぱい
てんじ(展示)室とかもていねいに見る人は、
全部あわせて
2~3時間
かくご(覚悟)したほうが いいと思います
クリンたちの
旅行初日は、
この、よしざきごぼう(吉崎御坊)めぐりで、
くれていったくらいですから。
(その6、「火消しの蟹の話」につづく)