遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

敗戦特集。 2.灯火管制

2019年08月14日 | 敗戦特集

 

灯火管制とは、戦時中、夜間の空爆時、爆撃機の目標にならないよう、灯りを消したり、覆って減光したりして、光が外へ漏れないようにすることです。日本だけでなく、戦時、各国で行われましたが、レーダーの発達とともに、意味がなくなりました。

今回は、日本で使われた、灯火管制用の小物です。

レザーのように見えますが、丈夫な蝋ひき紙でできた品物です。

口には、紐がついています。

 

 

折り畳んであるのを広げると

 

 

灯火管制用のカバーです。

 

 

折り畳まれたものをさらに開いて、筒状にします。

 

空襲警報発令! 

 

いでカバーを取り付けて、外へ明かりが漏れないようにします。

 

 

もう一種類ありました。

灯火管制用の電球です。明暗切替用、というのがポイントです。

 

 

マツダ(東京電機株式会社)製、特許をとっています。

 

 

大仰なコピーで、東部防衛司令部認定済。関東方面で使用か?

東部防衛司令部:昭和10年8月1日に防空のため新設された陸軍の役所、東日本を担当。

 

いろいろな明るさの品が売られていたようです。

今回の品は、10W ←→ 0.5W、10W←→ 0.15W の2種類、2~3畳用です。

いずれも、明←→暗、20分の1以下に、明るさを切り替えて、減光することができます。

 

元々、電球の側面には遮光剤が塗られており、下方だけに光が出る灯火管制電球です。

 

ポイントは、口金。バネになっていて、動きます。

電球をねじ込む回数によって、スイッチが切り替わるようになっています。

 

いっぱいに回して奥まで入れると・・・・明るく灯ります。

 

電球を2回ほど回しゆるめると・・・・・暗くなります。

空襲警報がなったら、ゆるめる。

 

これらの小物を実際に使ってみると、電灯カバーの付け替えはかなり手間のかかる方法であることがわかりました。しかも、口を締める紐が細すぎて、何度も使うのには向いていません。消耗品だったのかもしれません。

それに対して、灯火管制用電球の方は、スグレ物です。電球をひねるだけで減光ができます。電球の内には、2種類のフィラメントが入っていて、口金の押され具合によって、切り替わるようになっているのです。

この品を作ったのは、東京電機株式会社、後の東芝です。

東芝の始まりは、からくり義衛門こと、田中久重が、明治8年、東京銀座に設立した電信機工場です。弓曳童子や万年時計の開発で知られる彼は、独創的な技術で日本を代表する電気メーカーの基礎を築いたのです。以来、そのフロンティア精神は受け継がれ、世界的な電気メーカーになりました。戦時中の灯火管制用ランプも、ささやかな品ですが、東芝らしさがみられて微笑ましい。

しかし、現在、東芝は、瀕死の状態にあります。もはや、電機メーカーの体をなしていません。

そんな状態になってしまったのは、原発事業に手を出したからです。原子力発電は欠陥技術であり、今後も、技術的進展の可能性はありません。放射性廃棄物を合理的に処理する方法は存在しないのです。

創業以来の技術主義を捨て、政府の原発政策にのってしまった結果がこれです。

創業者・田中久重は、お盆にもどってきているかもしれません。会社の惨状を目の当たりにして、彼は何と言うでしょうか。

 

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敗戦特集。1.慰問袋

2019年08月13日 | 敗戦特集

今年も、8月15日が来ます。日本が焦土と化し、悲惨な戦争が終わった日です。

第二次世界大戦ほど、日本を大きく変えた出来事はないと思います。有史以来、はじめて、外国によって、国が焦土となったのです。しかし、その戦争に対して、その政治的責任と思想的責任が十分に検討されたとは言えないまま、かつての敵国のやり方にすべて追従し、アメリカナイズされたのが今の日本です。そして、もはや戦後ではない、との甘言をまき散らしながら、夢(利益)よもう一度と、きな臭い道を歩ませようとの動きがあからさまになってきています。

どんな戦争でも、利益を得るのは為政者と一部の取巻きたち、散々な目に合うのは一般庶民です。

ブログでは、第二次世界大戦の戦争前、戦争中の息詰まる世相のなかで、人々がどのように暮らしていたかを、いくつかのモノを紹介しながら、戦争と一般庶民との関係を見ていきたいと思います。

今回は、次の慰問袋、2個です。

 

          大、29x19㎝。小、28x18.5㎝

 

慰問袋は、戦場の兵士を見舞うための袋です。

日用品や娯楽用品、雑誌、御守り、手紙などを入れて送りました。

日露開戦直後の1904年(明治37)に始まり、満州事変以降、日中戦争では大量の慰問袋が送られました。最初は、木綿の手ぬぐいを二つ折りにして縫った、手作りの袋でした。その後商品化され、できあいの慰問袋が売られるようになりました。さらに戦争が拡大し、物資が欠乏すると、慰問袋も下火になりました。

 

サル蟹合戦の猿に扮したルーズベルトを、臼が退治しています。 

右下には、「宇知弖斯夜麻牟」(ウチテシヤマム)の文字が。

このスローガン、「敵を撃ち砕くぞ」が登場したのは、昭和18年の陸軍記念日です。以来、商品の広告をはじめ、日常のあらゆるところに、このスローガンが登場したのです。

しかし、昭和18年といえば、戦局がかなり怪しくなって来たころです。

戦局が危うくなる中でのスローガン、「うちてしやまむ」は、裏を返せば、「うたずばやまじ」、つまり、殲滅しなければ止まないという意味となります。まともな戦略も打ちだせず、盲目的に精神の昂揚だけをはかるこのスローガンは、すでに、その後の破滅への道を表していたのです。

 

「宇知弖斯夜麻牟」の出典は、古事記(中巻 神武天皇 四)です。久米歌としてしられています。

   美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 

   久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

みつみつし 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植えし椒(はじかみ) 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ

 勇ましい久米の兵たちが、垣に植えた山椒の実は、口がヒリヒリするほど辛い。敵から受けた痛みを我々はわすれない。敵を撃ち砕くぞ。

 

 日本書紀などにも、類似の歌が出てきます。

 

もう一つの袋には、王(サル?)とカッパ、桜の花びらが書かれています。

意味は不明です。

コメント (10)
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