遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

原三渓『七絶 帰郷詩』

2025年01月23日 | 文人書画

実業家、原三渓の漢詩です。

 

全体:44.9㎝x202.6㎝、本紙(紙本):31.2㎝x129.7㎝。大正―昭和。

 

 

金華山下路
回首欲帰遅
白髪慈親在
寒風且勿吹

金華山の下路
首(こうべ)を回(めぐら)して帰らんと欲すれど遅し
白髪の慈親在り
寒風且(しばら)く吹く勿(なか)れ

金華山下の道を、頭をまわして帰ろうと思ったが、つい遅くなってしまった。里には、白髪の優しい両親が待っている。寒風よ、しばらくは吹いてくれるな。

 

親思いであった三渓は、実業家として成功をおさめた後も、しばしば、実家の両親のもとを訪れています。

この詩は、その時、詠んだものです。しかし、三渓は、どうして夜遅く、金華山下の道を実家へと急いだのでしょうか。その謎を解く鍵は金華山にあります。

金華山(稲葉山)は、東海道線の北2㎞ほどの所にあります。当然、岐阜駅からも北に2㎞。ところが、三渓(富太郎)の両親が待つ実家は、駅から南へ3㎞ほど、反対方向なのです。親孝行の三渓がまっすぐに実家に帰らず、夜遅くまで何をしていたのでしょうか?

金華山はよく知られているように、山頂には岐阜城(稲葉城)があります。戦国時代、国盗りの中心になった所です。ここを拠点として、山麓に街づくりをおこなったのが斎藤道三、織田信長はそれを引き継ぎました。街は、金華山の西麓、長良川との間の比較的狭い地域で、岐阜市で最も古い場所です。

このあたりは、幸いにも、空襲での焼失をまぬがれ、古い家屋が残っています。そのうちの一つが水琴亭(元治元年創業)です。昭和4年、原三渓らによって今の場所に移築され、現在も料亭として営業しています。三渓は、横浜の三溪園にある臨春閣を模した部屋を造り、壁画や襖絵などにも自ら筆をとりました。彼は帰郷時、思い入れの強いこの水琴亭で過ごすことが多かったのです。

旧知の人々との宴が盛り上がり、気がつけばすっかり夜もふけてしまった。あわてて冬の夜道を、両親の待つ実家へと急ぐ三渓。今回の漢詩は、年老いた両親を慈しむ彼のこころのうちを良く表していると思います。

コメント (6)
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