ここのところブログで、日本美術を愛した実業家、原三渓の春景山水画と三渓が大きな影響を受けた母方祖父、南画家、高橋杏村の花鳥画を紹介してきました。
高橋杏村は、江戸後期、美濃國神戸(ごうど)村(現、岐阜県安八郡神戸町)で活躍した画人です。
実は、神戸町は、故玩館からは数㎞程西の隣町です。しかし、子供の頃はほとんど馴染みがありませんでした。というのも、大河、揖斐川とその支流、根尾川を越えなければ、そこへは行けなかったからです。昔は橋が無く(渡船はあった)、向こう岸へ行くには、上流か下流へぐるっと迂回せねばなりませんでした。近年は、何本も橋が架かり、あっという間に向こう岸(^.^)
そこで、高橋杏村ゆかりの場所を訪れました。
まず、善学院というお寺です。ここには、高橋杏村顕彰碑があります。この碑は、忘れられつつある祖父を顕彰しようと、原三渓が中心となって、大正10年に建てられました。
善学院は約1200年前の天平年間に創建されました。最澄ゆかりの古刹です。
文化財も多く残されています。
けっこう、面白い物もあります。
これはもう、大仏ではなく、小仏ですね(^^;
高橋杏村の顕彰碑は、広い境内の一角にあります。
高橋杏村顕彰碑。
森鴎外が撰を、揮毫は宮島詠士の手になるものです。
碑面の題は「高橋景羽墓表」、景羽は、高橋杏村の字です。
何とか碑文を読もうと思いましたが、蚊の猛襲を受け、やむなく撤退しました(^^;
草が茂り、地元でもそれほど注目されることなく、訪れる人はまばらです。
原三渓は、どんな気持ちでしょうか。
修学院から少し北西には、日吉神社があります。
ここも、最澄ゆかりの場所。
神仏習合の名残をとどめるこの神社は、1200年前、最澄が善学院建立を機に、地元の有力者安八氏に神社を建立するよう要請したのです。以後、親善院は日吉神社の神護寺となりました。
神仏習合を今に伝えているのは、本殿横の三重塔です。
日吉神社、三重塔(国、重文)。高 24.6m。
平安時代の創建でしたがその後毀損しました。現在の三重塔は、永正年間に、文武両道の戦国武将で歌人でもあった斎藤利綱が再建したものです。なお、明智光秀の軍師、斎藤利三(以前は、稲葉一鉄の家臣)は、利綱の甥にあたります。そして、再建された三重塔を70年後の天正十三(1585)年、現在の形に修造したのが稲葉一鉄です。稲葉一鉄の居城、曽根城は、ここから南へ3㎞ほど南の所ですから、ここ、日吉神社辺りも彼の支配域であったわけです。
さて、日吉神社の三重塔と非常によく似た建造物が横浜にあります。
原三渓が造った名勝三渓園の三重塔です。庭園に入ると、まずの目に入るのがこの塔です。大池の向こうの小高い丘の上に、すっくと立っているからです。
三渓園、三重塔(国、重文)。高 23.9m。
この建物は、京都の燈明寺にあった室町時代の三重塔を、原三渓が移築したものです。三渓園の数ある建造物の中で最も古い建築物です。
実は、原三渓は少年時代(当時の名は、青木富太郎)、母の実家がある神戸町の日吉神社を度々訪れていました。上京し、実業家として成功した後も、小さい頃に見た日吉神社の三重塔がずっと記憶から離れなかったのでしょう。
原三渓は、富岡製紙工場などで技術革新や従業員の労働環境改善に取り組むなど、当時としては画期的な経営を行った実業家です。しかし、実業はどこまでいっても俗であることに変わりはありません。そんな中、彼の心の糧になっていたのは、敬愛する祖父や母の里の光景など少年の日の想い出だったのではないでしょうか。名勝三渓園は、実業の世界に身を置きながらも、少年のこころを失わなかった三渓が、自分の美意識のすべてをそそぎ込んで造り上げた理想郷だったのだと思います。