2回にわたって、故玩館の縮緬細工の背守りを紹介してきましたが、はたしてこれらは、本当に背守りなのでしょうか?
背守りとは、子供を邪悪なものから守るために幼児衣服の背に縫いつけた模様のことです。詳しくは、また、後日、ブログで。
いろいろ調べましたが、資料は多くありません。そのうちで、興味深いものを見つけました。
エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)のコレクションです。モースは、明治の初め、お雇い外国人として滞日したアメリカの学者で、大森貝塚の発見者として有名です。明治10年代に、三度来日し、膨大な量の日本の民具、陶磁器などを収集し、アメリカへ持ち帰りました。
そのコレクションは、アメリカ東部の街セイラムにあるピーボディ博物館に所蔵、展示されました。
国立民俗博物館編『モース・コレクション』 小学館、1990年
これは、モースコレクションを紹介した本です。その中に、このブログで紹介してきた縮緬細工の背守りに非常によく似た品が載っています。
モースコレクションの特徴は、収集品が明治10年代に日本で使われていた品であることです。ですから、この本の縮緬細工は、明治初期の物です。
縮緬細工は、江戸後期から昭和初期にかけて、盛んにつくられたと言われています。が、個々の品の年代を特定することは非常に難しい。その点で、モースコレクションは大変貴重です。
さて、この資料でもう一つ注目されるのは、「迷子札」と記されたページに縮緬細工が載っていることです。確かに、6個の縮緬細工のひとつの裏面に、迷子札(紙?)がはさんであります。
ということは、この縮緬細工は、幼児が迷子になった時、住所、氏名がわかるようにするための品だったのでしょうか。
しかし、他の品は、板状の物を挟めるようになっているようには見えません。故玩館の縮緬細工の背守りにも、裏側に物を挟めるようになっている品はありません。
また、他の資料には、縮緬細工の裏側に、直接、子供の住所、氏名などを書き込んだとありますが、故玩館の縮緬細工にはそれらしき物は全くありません。
これらを総合するなら、縮緬細工の背守りは、本来の子供の守りというより、装飾品、あるいは、子守りをする女性の楽しみのために作られたと考えるのが妥当でしょう。
先の迷子札をよく見ると、板に穴があけてあります。穴の大きさからすると、糸ではなく丈夫な紐を通したと思われます。おそらく、帯紐に結わえて用いたのでしょう。
縮緬細工の背守りも、同様にして用いられたとも言われています。
ただ、縮緬細工についている紐は、いずれも細く、縫い糸をそのまま輪状にしているものも多いです。これでは、細めの帯紐に結わえつけたとしても、あまりにもバランスがわるいし、華奢ですぐに切れてしまうような気がします。
むしろ、赤児の産着やねんねこ半纏の後部に背守りのように付けて、ゆらゆら動く縮緬細工を子守りの女性が楽しんだのではないでしょうか。
これらの縮緬細工を見ていると、泣く子を寝かしつけながら、次は何を作ろうかと思いをめぐらす少女の顔が浮かんできます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます