全国的に分娩取り扱い施設は顕著に減り続けていますし、働き盛りの三十代、四十代の医師がお産からどんどん離れています。
次世代の若い人達が入門を尻込みするような過酷な勤務環境を放置したままでは、離職者が増え続けて医療現場の勤務環境は今後ますます過酷となり、我々の後を誰も継いではくれないでしょう。
産科医療を再生させるためには、若い人達が喜んで入門できるような勤務環境を整えて、次世代の担い手たちにちゃんとバトンタッチをしていく必要があります。
分娩取り扱い施設あたりの産科医数は、アメリカが6.7人、イギリスが7.1人であるのに対し、日本はわずか1.4人にすぎず、きわめて小規模な施設で多くの分娩が行われているのが現状です。小規模施設での分娩管理には限界がありますから、各地域で分娩施設の集約化を進め、施設あたりの産科医数を少なくとも諸外国並みの6~7人程度まで増やしていく必要があります。
****** 東京新聞、2008年7月20日
”お産難民”発生寸前 不足する医師 地方で休止続出 「住民票異動が必要」も
長い間、産婦人科の分娩室だった部屋は、天井の大きな照明器具を残して看護師の詰め所になっていた。今年の3月末で、出産の取り扱いをやめた長野県松川町の下伊那赤十字病院。桜井道郎院長(62)は「お産は無理。もうあきらめた」と視線を落とした。
発端は2年前の春、男性医師(41)が辞めたことだった。当時、産婦人科の常勤医は2人で、年間3百件のお産をこなしていた。
「このまま産婦人科を続ける体力も精神力もない。今のうちに興味のある精神科の医師に変わりたい」。医師は前年の秋、桜井院長にそう打ち明けた。
いつ産気づくか分からないお産。病院の佐藤和仁事務部長は「医師2人でお産をするのは、ほとんど拘束されたような状況。そういうのはたまらんというわけです」と振り返った。
医師は男性の産婦人科部長(54)1人になり、お産は休止に。同病院で出産経験のある母親たちが中心になり、5万人もの署名を集めて大学病院や県などに医師の補充を陳情したが、実現しなかった。残っていた産婦人科部長も今春、お産のできる県外の病院に移り、完全に廃止になった。
「どこの地域も産科医不足で、誰かを(他の病院から)抜いて埋めるというのは、相手が駄目になるからできない」。署名を集めた木下由美子さん(35)は有効策のなさに頭を悩ませる。
2年前に年間約3百件のお産を休止した結果、年に約2億円の減収となり、累積赤字は約6億円へと一気に膨れ上がった。さらに影響は同病院だけにとどまらなかった。
下伊那赤十字病院がお産を休止する少し前、隣接する同県飯田市の産院や診療所でも、医師の高齢化などでお産が休止になり、飯田市と下伊那郡で年間8百件の”お産難民”が出そうになった。慌てた医師や行政の担当者らが協議し、飯田市立病院にお産を集中させる代わりに、妊婦健診は他の病院や診療所で分担することになった。
飯田市立病院のお産件数は年間5百件から一気に倍増。4月からは飯田市か下伊那郡に住所か実家のある人を対象に月70件に予約を制限した。それでも予約外の救急の妊婦も多く、年間千件近いお産を5人の産科医で行う。「ぎりぎり何とか持ちこたえているところ」と山崎輝行・産婦人科部長(55)は言う。
お産を扱わなくなった下伊那赤十字病院。1歳の長女を連れて妊婦健診に訪れた上伊那郡の主婦(21)は「1人目を飯田市立病院で産んだので、2人目も産めると思ったら、『住民票を飯田市に移さないといけない』と言われて驚いた。病院を決めるのはコンサートのチケットを取るみたい。医者がもっといてくれたら・・・」と嘆いた。
(以下略)
(東京新聞、2008年7月20日)