ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2011年3月11日、高島平からの帰宅記

2011年10月24日 19時26分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

  〔私のホームページ「川崎高津公法研究室」(http://kraft.cside3.jp/)に、2011年4月20日に掲載した雑文(同年4月28日修正/同年5月22日再修正)を、ここに転載します。〕

 2011年3月11日(金)の東日本大震災では、東北地方、関東地方など、多くの地域に甚大な被害が生じました。マグニチュード9.0は、日本の観測史上で最大でしょう。被災地域の範囲についても、これだけ広大であったのは歴史に例がないかもしれません。

 しかも、東京電力福島第一原子力発電所で重大な事故が発生しました。こちらは完全な回復までに長い時間がかかることが予想されます。仮に事故が発生しなかったとしても、廃炉とするには何年もの期間を必要とするのです。

 この場を借りて、改めて、被災された方にお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方にお悔やみを申し上げます。

 さて、3月11日、私は勤務先の研究室にいました。毎日、日記をつけておりまして、この日についても長く書いております。そこで、日記を基にして、当日の私の行動を再現しておきます。首都圏の場合は「帰宅難民」という厄介な問題がありますが、私もその一人となってもおかしくないところでした。

 私の勤務先は大東文化大学法学部で、研究室は板橋区高島平1丁目9番1号にある板橋キャンパスの2号館10階にあります。板橋キャンパスで最も高い建物が2号館で、その最上階に研究室があるのです。

 当日は講義も会議もなかったのですが、雑務などのために研究室にいました。14時46分までは、とくにこれということもない、普段と変わらない日です。机の上にあるデスクトップ型パソコンに向かい、仕事をしていました。

 最初、建物が少し揺れているな、と感じました。一昨日(3月9日)にも地震があったのですが、その時は大きな揺れではなかったのです。しかし、それから間もなくのことです。突然、という表現がピッタリでしょう。大きく揺れました。すぐにパソコンの電源を切り、机の下に体を隠しました。研究室の中にある本や書類が散乱しました。建物は大きな音を立てて揺れています。研究室には、私が体を隠している机の他に2つの机があり、それも音を立てて動きました。

 机の下で、私は腕時計を見ました。14時50分になっています。小学生の頃、川崎市立の小学校でよく行われていた防災訓練で、地震の揺れは1分程度と習った記憶があります。もう1分、それどころか3分か4分揺れていますが、まだ続いています。ずいぶん長い揺れです。終息したのは14時52分頃でしょうか。

 これまで、何度となく地震を体験してはいます。しかし、少なくとも私にとって、これだけ大きな揺れは初めてでした。少し経ってから、私は研究室を出ました。扉も無事に開きました。廊下の防火扉は閉まっていましたが、開けることはできます。後で知ったのですが、この時、2号館10階にいたのは私だけでした。よく無事でいられたものです。

 しかも、私の研究室の書棚は倒れませんでした。地震対策用の金具が外れましたが、その程度で済みました。他の研究室では書棚が倒れたりしていますから、私の研究室にほとんど被害らしい被害がなかったのは奇跡的でした。書棚は事務用の棚のような構造で、1列について本を手前と奥の2列にして入れており、普段は扉を閉めています。揺れで開くこともなければ本が飛び出すこともありません。入れるところがなくて書棚の上に積んでおいた本のうちの何冊かが落下しました。多くの研究室にある書棚(図書館にある開放式の書架と同じような構造)が私の研究室にはないのですが、これがかえってよかったのかもしれません。

 停電していなかったので、パソコンのスイッチを再度入れてみました。インターネットもつながります。板橋区の震度は5強でしたが、2号館10階はもっと揺れていたかもしれません。或る人の話によると、2号館の上のほうが左右に揺れるのが下からよく見えたそうです。当初、気象庁はマグニチュード7.9と発表しましたが、その日のうちに8.8か8.9と修正し、最終的には9.0となりました。道理で、東京でも大きく揺れた訳です。震源は三陸沖と発表されました(実は3箇所あり、連続して発生したことが後日に判明しました)。私が住んでいる川崎市高津区の震度は4です。宮城県栗原市では震度7を記録したようです。また、地震直後の報道で、東北地方では4メートルを超える津波が観測された、ということでした。勿論、警報が出ていました。10メートルを超える津波に襲われた地域があったと報じられたのは、地震から数日経った時のことです。

 とりあえず、9階にある法律学科事務室に行ってみたら、机や棚などが動き、文房具などが散乱していました。同じ階に資料室があるのですが、ここでは本棚が倒れ、雑誌の合本などが散乱し、扉も開けられない状態になっています。9階と10階に法律学科教員の研究室がありますが、当日来ていた教員(全員無事でした)から、早速、書棚が傾いた、扉が開けられない、というような声が飛んできました。扉が開けられないというのは、扉が外ではなく、内側に開くようになっている上に、研究室の入口付近に書棚などが置かれていたからです。私の研究室は入口を広く開けていますので、扉が変形したりしなければ開けられます。会議を終えて研究室に戻ってきた教員の部屋の扉を開けられないということで、管理課の人に来てもらい、ガラスを割ってもらいましたが、これが大変でした。防犯性能の面では優れたガラスだったからです。しかし、大地震の場面では課題を残しました。なかなか割れないのです。これでは脱出できないかもしれません。ついでに、資料室の扉のガラスも割ってもらいました。書棚は傾いたり倒れたりしています。壁に固定するための金具が外れていました。書棚も使い物になりません。

 余震が続いているのか、建物は断続的に揺れています。地震発生直後、板橋キャンパスのすぐそばを通る首都高速5号池袋線には車の列ができていました。動こうともしません。しかし、いつの間にか一台もいなくなりました。すぐに通行止めとしたからです。この後、首都高速道路の全線の通行止めは続き、そのために一般道路で大渋滞の箇所が多く発生しました。首都圏の鉄道も、全て運転を見合わせています。10階から南のほうに板橋区西台、徳丸の街並みが見えますが、火災が発生していました。

 15時24分、今度は茨城県沖を震源とする地震がありました。マグニチュードは7.6で、これもかなり揺れました。この時は法律学科事務室におり、私はすぐに身を机の下に隠しました。ただ、14時46分の地震よりは大きくなく、おそらく震度4ではなかったでしょうか。

 揺れが収まってから、まずは仕事の関係で中野区に行っている妻に電話などを入れてみました。しかし、つながりません。次に、私の実家に電話してみました。こちらはうまくつながりました。今考えても、何故つながったのかが不思議です。その後、22時過ぎまでつながらなかったのです。携帯電話はつながりにくいという状況が長く続きました。

 法律学科事務室の片付けを手伝い、管理課の人が回ってきたのに立ち会い、それからしばらく、研究室にいました。散乱した書籍や書類を片付け、インターネットで情報を入れたりしていました。だんだん、今回の地震の状況がわかってきました。しかし、鉄道各線が全く動いていません。研究室に備蓄をしてあればよいのかもしれませんが、それでも10階の研究室では余震があった時に危険ですから何にもならないかもしれません。

 17時になる前に、学内放送がありました。2号館には3基のエレベーターがありますが、この日は全く使えなかったので、階段を下り、3号館1階の部屋に行きました。英米文学科の特別授業があったということで、意外に多くの学生がいました。学長のあいさつなどがあり、今日は3号館を開ける、ここで夜を過ごしてもよい、ということでした。しかし、私には仕事などがありました。ここに泊まるとしても、電気などに不安がありました。それに、10階の研究室に戻っても余震の危険に巻き込まれる可能性があります。研究室の窓から外を見ていると、路線バスは走っています。そのため、東武東上線も都営三田線も動いていないとはいえ、何とかなるだろうと思っていました。一か八かで、帰ることとしました。

 私は、平常時でも複数の通勤ルートを想定しています。結婚してからは、基本の通勤ルートが東急田園都市線⇔JR山手線⇔東武東上線⇔大学のスクールバスとなっていますが、それまではJR南武線⇔東急目黒線⇔都営三田線でした。また、3月は春休み期間中で、私は東急田園都市線⇔東京メトロ半蔵門線⇔都営三田線のルートも使っていました。都営三田線の西台駅が、大東文化大学板橋キャンパスから最も近い駅で、この駅のそばを池袋駅西口行の国際興業バスが通ることを知っていました。また、この路線バスが、板橋キャンパスに近い西台中学校バス停を通ることも知っていました(別の系統ではありますが、上板橋駅付近からバスを使って西台中学校バス停で降りたことがあるのです)。そこで、17時半頃に板橋キャンパスを出て西台中学校前バス停まで歩きました。乗れるかどうかわからなかったのですが、賭けてみました。

 幸いにして、バスに乗ることはできました。しかし、大混雑です。次のバス停からでは乗れなかったのでした。このバスは、志村三丁目駅、志村坂上駅、本蓮沼駅、板橋本町駅を通りますが、何しろ定員を超過して乗せていますから、降りる客がいなければ新たな客を乗せられません。立ったまま、時々移動しながら、1時間以上もかかって池袋駅西口に到着しました。東上線が動いていれば20分か30分程度です。しかし、東上線は動いていません。運行中止を決めていたはずです。

 さて池袋に着きました。空腹感を覚えました。意外に思われたのですが、人通りが多いうえに、飲食店の多くが営業していました。ここから先、夕食をとることができるかどうかわかりません。そこで、吉野家に入り、夕食を済ませました。これは大正解でした。もし、池袋駅西口の吉野家に入らなかったら、この後、夕食をとることができなかったかもしれないからです。

 夕食を済ませ、池袋駅に入ろうとしました。しかし、西口の多くの出入口のシャッターは閉まっています。池袋駅は改札口が地下にあり、ホームは地上にありますから、出入口が閉まっていたら東口に移動することもできません。開いている所もありましたから、そこから入ります。山手線が動いていることなど、最初から期待していなかったのですが、JRは早々と白旗をあげ、運転を取りやめました。改札口にはロープも貼られています。後で聞いた話では、上野か日暮里かの駅員の態度がぞんざいであったとか。国鉄からJRに変わっても、駅員の態度があまり変わっていないと憤慨していた人がいました。池袋駅では、通路、階段に多くの人が座り込んでいます。西武池袋線、東京メトロ丸ノ内線・副都心線は運転再開見込が未定となっていたので、運転再開を待っていたか、駅に泊まるかのどちらかであったのでしょう。東口を久しぶりに歩いたら、歩道という歩道に人があふれ、カラオケ屋などは若い人でいっぱいでした。確かに、一晩を過ごすには適切な店です。私はバスとタクシーの状況を見るために東口を歩き回りました。都営バスで、池袋駅東口から渋谷駅に行くバスがあります。これに乗りたかったのです。しかし、バス停に長蛇の列ができており、これでは到底帰れないとわかりました。路線によっては空いているバスもあったのですが、練馬区に行ったのでは帰れません。タクシーに乗るにも長蛇の列で無理です。

 そこで、これまた一か八か、という感じで、有楽町線の東池袋駅まで歩きました。先ほどの都営バスは東池袋を通っていたように記憶していたからです。また、この駅の近くに都電荒川線の東池袋四丁目電停があります。東池袋駅の地下通路は開いていました。トイレに行きたくなり、駅員に断ってトイレに行きました。この先のことを考えれば、トイレを済ませておくことが必要でした。バスを乗り継ぐ覚悟であったからです。

 ふと、東池袋四丁目の交差点の様子を見ました。都営荒川線は動いていたのです。もしかしたら、首都圏の鉄道で一番早く、運転を再開したのかもしれません。とにかく、これに乗りました。勿論、終点の早稲田まで乗ったのです。荒川線も大混雑でしたが、仕方がありません。早稲田電停で降りると、大行列ができていました。タクシーに乗れるかどうか、電停の近くで様子を見たのですが、無理だとわかりました。この時、初めて緊急地震速報が鳴りました。私の携帯電話は緊急地震速報を受信するのですが、14時46分にも15時24分にも鳴らなかったのです。

 早稲田電停から早大正門バス停に向かいました。私は1992年4月から1997年3月まで、早稲田大学大学院法学研究科に在籍していました。そのため、早大正門バス停から渋谷へ行くバス路線があるのを知っていました。早81系統です。何度か利用したこともあります。このバス停も行列ができていましたが、乗ることはできました。20時1分に発車しました。板橋キャンパスを出てから、既に2時間半が経過しています。東西線早稲田駅に近い馬場下町バス停から大混雑が始まりました。それでも道路が空いていました。このバスは若松河田駅付近から市谷仲之町へ出て、四谷三丁目駅に出ます。その四谷三丁目で渋滞に巻き込まれました。これは何とか抜けました。四谷四丁目交差点から外苑西通りに入り、内藤町大京町バス停を通過します。この辺りは空いていたので、これなら21時過ぎに渋谷駅か原宿駅に着くと予想しました。しかし、大きく外しました。内藤町大京町から外苑西通りをまっすぐ進めば外苑前駅付近に出られるのですが、早81系統はそうなっていません。国立競技場付近で千駄ヶ谷駅前に出るのです。ここで大渋滞に巻き込まれました。何しろ進みません。信号などに関係なく、10分以上も止まり、走ったと思うとすぐに止まってしまいます。20分か30分で数十メートルも走らなかったのではないでしょうか。

 21時を過ぎました。このままでは、千駄ヶ谷駅前バス停に着いたら22時を過ぎてしまいます。もう、この時点で11日中に帰ることを半ばあきらめていました。「寒いけど神宮外苑か渋谷駅周辺で野宿するか」と本気で考えました。その時、バスの運転手が、都営大江戸線運転再開の情報を放送しました。そして、バス停に着く前に扉が開きました。このバスに乗り続けても意味はありません。そこで、バスを降りて都営大江戸線の国立競技場前駅に向かいます。バス停まで大した距離ではありませんが、バスに乗り続けていたのでは話が進みません。大江戸線のホームにある案内表示機は15時台の電車案内をしています。つまり、6時間ほど遅れているということなのです。都営地下鉄と東京メトロの一部路線の運転再開は早かったのでした。大江戸線は、それほど待たずに乗れました。しかも、あまり混んでいません。車内の様子は通常時と変わりません。次の青山一丁目で降り、やはり運転を再開している東京メトロ銀座線に乗り換えることとしました。この時、半蔵門線も運転を再開していましたが、九段下から押上までだけでした。乗り換える時、半蔵門線のホームを通ります。そこに試運転の東武50050系が止まっていたので「もしかしたら」と思いましたが、銀座線に乗りました。こちらは異常な混み方で、私もやっとの思いで乗りました。しかも、なかなか発車しません。外苑前、表参道に着いた時も同様です。表参道駅の半蔵門線のホームには東急5000系の試運転が止まっていました。田園都市線の運転再開も近いと思い、とりあえず渋谷に出ました。銀座線渋谷駅のホームには人があふれており、電車がなかなか発車できません。これでは青山一丁目でも外苑前でも表参道でも発車できない訳です。

 銀座線の車窓から、東急東横線渋谷駅も無事であることがわかりましたが、田園都市線も東横線もまだ運転を再開していません。そこで、二子玉川行のバスの乗り場に向かいました。しかし、やはり長蛇の列です。通常では考えられない長さで、どう考えても違う乗り場に列の最後尾がありました。しかも、バスに乗ったとしても国道246号線が渋滞しており、三軒茶屋まで1時間以上もかかる、歩いたほうが速いかもしれない、などと東急バスの従業員が言っていました。たしかに大渋滞の様相でした。そこで、渋谷に泊まろうかと思い、東急インに行ってみました。しかし、満室でした。渋谷にある他のホテルも満室だったそうです。野宿するかと本気で考えたとはいえ、寒い中では大変です。幸いに渋谷まで出られました。あと10キロメートルほどです。渋谷駅の歩道には人があふれており、歩いて帰ろうとする人の列ができていました。田園都市線の駅のシャッターは閉まっています。

 そこで、仕方がないということで、田園都市線の運転再開を期待しつつ、とりあえず歩くこととしました。うちまで歩いたら日付が変わります。既に国際興業バス、都電、都バスの中で立ちっぱなしでしたから、疲れていました。22時10分に渋谷から歩き出しました。道玄坂を登り、国道246号線を歩きます。首都高速の通行止めは続いていますが、崩壊しなかったのは幸いでした。たくさんの人が同じ方向に歩いていきます。

 20分以上歩いて池尻大橋駅に着きましたが、まだ運転は再開していません。駅のシャッターが閉まっているからすぐにわかります。ここからまた登り坂です。池尻交差点を過ぎ、三宿交差点を通ります。学部4年生の時から、時折、江口書店へ行きました。懐かしさを覚えるところですが、今はそれどころではありません。

 昭和女子大学の前を通り、三軒茶屋駅に着いた時でした。駅のシャッターが開いていました。運転を再開している可能性があります。もう23時近くになっていましたが、これなら今日中に帰ることができます。果たして、東急全線は運転を再開していました。後になって知りましたが、大手私鉄では西武池袋線と新宿線が最も早く運転を再開し、続いて京王電鉄の京王線、相模原線、井の頭線が再開しました。それに続いたのが東急東横線、田園都市線、目黒線、大井町線、池上線、多摩川線でした。東京メトロと都営地下鉄は路線によって動いているところと動いていないところがありました。そして、相互乗り入れの運転再開で最も早かったのが田園都市線と半蔵門線でした。

 早速、国道246号線の真下にある三軒茶屋駅の改札口から1番線ホームに入ります。2番線には次々に上り電車押上行が来ますが、客はほとんど乗っていません。それはそうで、この時間は下りのほうが混むのです。しかも、いつものラッシュ時と比べられないほど多くの人が1番線ホームにいます。今度は乗れるかどうかが心配になってきました。

 23時過ぎに各駅停車中央林間行の東急5000系が来ました。既に大混雑でした。乗れるかどうかもわからないほどでしたが、乗ることができました。しかし、なかなか発車できません。何度か扉を閉めなおしていました。普通、途中駅であれば停車時間は1分もないでしょう。朝のラッシュ時でも2分もないはずです。大手私鉄では最も混雑が激しいと言われる田園都市線ですが、この時の混雑はそのラッシュ時をはるかに超えていました。「よく動くな」と感心したほどです。

 ようやく動き出しました。余震を警戒してか、速度を落としています。車掌のアナウンスでもこの点は明確に述べられていました。しかし、動いてくれればよいのです。駒沢大学、桜新町、用賀、二子玉川、……と、人がたくさん降りるかと思ったら同じくらいまた人がたくさん乗って来て、何度か扉を閉めなおしていました。

 23時半頃に最寄駅である高津駅に到着し、うちに帰ることができました。普段より10分くらい長くかかりました。最寄駅に着いた時点で、大学を出発してから6時間が経過していました。駅から自宅までは歩いて5分くらいです。3月12日になる前に帰宅できました。川崎市高津区の震度は4くらいであったはずですが、うちは別に何もなかったのでした。実家は22時半頃まで停電していたとのことでしたが、うちには停電の形跡もありません。ただ、停電とはわからないもので、たとえば高津区溝口1丁目(私が住んでいる所ではありません。あしからず)の全域で生ずるという訳ではなく、こちらは停電しているのに真向かいは停電していない、というようなことがあります。

 帰宅して、板橋校舎の研究室に所属する全教員(但し、当日板橋校舎にいた教員を除く)に、研究室の状況についてメールを送りました。その時には日付が変わっていたかもしれません。疲れてしまい、すぐに寝ましたが、翌日、やはり学校に泊まったほうがよかったのであろうか、などと考えていました。しかし、あの日の夜は少し寒かったくらいですし、寝泊まりするとは言っても教室で、布団なり寝袋なりがあったかどうかもわかりません。やはり、帰ることができたのですから帰宅してよかっただろうと思います。勿論、バスも動いていなかったらあきらめて、板橋校舎で一夜を過ごしていたでしょう。帰宅ルートがわからなかったら大学への宿泊を決めていたところです。結局、震度と交通状況に左右されるということでしょうか。

 翌日の昼、大分大学時代のゼミ生(つまり、卒業生です)から電話がかかってきました。被災していないか、心配してくれたのです。私も妻も無事であると伝えました。大分大学を離れてからもう7年も経ったのでした。


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