ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2011年8月8日、熊本駅

2017年05月31日 00時00分00秒 | 写真

 〔今回は、「待合室」の第476回として、2012年5月1日から同月8日まで掲載したものです。写真撮影日は2011年8月8日です。なお、今回は内容の関係で、文章には大幅に修正を加えております。〕

 私は、2004年から2012年まで、福岡市早良区にある西南学院大学で集中講義を担当しておりました。つまり、9年もの間、大学の夏休みの後半を福岡で過ごしていた訳です(勿論、ホテルに宿泊していただけですが)。よく、同僚などから「毎年、大変だね」などと言われたりしたのですが、担当している本人は、あまりそのようなことを思っていません。むしろ、福岡市を初めとして、太宰府天満宮などを訪れることもできたので、楽しみにしていました。「今年はどこを回ろうか」などと考え、計画を立てていたのです。長崎県に行って宿泊したこともありましたし、九州新幹線で鹿児島へ行って宿泊し、宮崎空港から帰ったこともあります。大分県の日田市、さらに大分市に行ったこともあります。集中講義を担当して最初の数年は大分大学時代のゼミ生たちと会いました。また、このような場で書くことではないかもしれませんが、私が結婚するきっかけも集中講義でした(誤解の無いように記しておきますが、集中講義で出会った訳ではありません)。

 また、2007年、2009年および2011年には、福岡大学でも集中講義を担当しました。いずれも8月の前半のことです。これも全く苦にならなかったのでした。大分大学時代から何度となく福岡に行っていたこと、私にとって福岡が興味深い都市であること、などが理由です。今でも、時折、天神に行きたいと思うことがあるのです。

 2011年は、8月9日から12日まで、福岡大学法学部での集中講義「財政法」を担当しました。この日程を利用する形で、同月8日、私が集中講義を初めて担当した場所、熊本市へ行ってみることとしました。

 福岡市から熊本市へ行く場合、現在であれば博多駅から九州新幹線に乗るのが最も速く、また、常識的なルートでしょう。しかし、私は、西鉄福岡駅から天神大牟田線の特急に乗り、大牟田で鹿児島本線のワンマン列車に乗り換えました。2時間ほどかかったでしょうか。

 熊本駅を利用したのは、初めて集中講義を担当した2003年8月以来、ちょうど8年ぶりでした。当時、大分大学教育福祉科学部の助教授であった私は、熊本県立大学総合管理学部の集中講義「財政法」を担当するため、大分駅から特急「あそ」6号に乗り、熊本駅を降りて、市電で辛島町へ向かい、熊本東急インに宿泊しました。そして、集中講義を終えて、熊本駅から特急「あそ」5号に乗って帰ったのです。その後、2004年2月にも熊本市を訪れていますが、当時の愛車である日産ウイングロードXを運転したので、鉄道を利用していません。

 2011年3月12日、九州新幹線の博多~新八代が開業し、熊本駅も九州新幹線の駅となりました。8年ぶりに熊本駅を利用して、大きく変わったことを実感しました。もっとも、在来線のほうにはそれほど変化がないようにも思われます。

 

 熊本駅の前を市電が通ります。二つ先の田崎橋電停から健軍町電停までの路線で、熊本駅前電停も大きく様変わりしています。

 2012年から熊本市は政令指定都市となりました。九州では北九州市、福岡市に次いで三番目です。北九州市と福岡市には、西鉄が運行する路面電車がありましたが、既に廃止されています。

 意外なことと思われるかもしれませんが、今でも市電が活躍しているのは、政令指定都市では札幌市とここだけです。このように書くと「違う!」という声が飛んできそうですが、広島市内の路面電車は広島電鉄、岡山市内の路面電車は岡山電気軌道、大阪市内および堺市内の路面電車は阪堺電気軌道、京都市内の路面電車は京福電鉄が運行しています。都電が走っている区域は政令指定都市ではありません。また、政令指定都市という枠を外しても、現在、市営の路面電車は札幌市、函館市、熊本市、そして鹿児島市だけです。

 上の写真の車両は9700形で、日本で最初の超低床路面電車です。1997年に製造されており、翌年にローレル賞を受賞しました。

 電停から熊本駅を見ています。8年前はどうであったか、思い出そうとするのですが、思い出せません。電停の位置そのものはそれほど大きく変わっていないと記憶しているのですが、どうなのでしょうか。

 熊本駅前電停から南のほうを撮影してみました。この先には二本木口、田崎橋の順に電停があります。但し、熊本駅前電停で運転が打ち切られることもあります。

 九州新幹線の開業によって熊本駅は随分と立派な駅になりました。それ以前から、国鉄・JR九州では熊本市の代表駅は熊本駅です。しかし、熊本市の中心部や繁華街は、この駅の近くにありません。この点は、大分市を除く九州島内の県庁所在都市と同様です。熊本駅から熊本市の繁華街へ向かうには、市電に乗り、辛島町から通町筋までの間で降りることとなります。辛島町電停を降りれば新市街は目の前ですし、通町筋電停を降りれば上通および下通は目の前です。

 また、辛島町電停の近くには、日本最大級とも言われる熊本交通センターがあり、高速バスを中心として数多くの路線バスが発着しています。熊本市の公共交通機関網は交通センターを中心に組み立てられているというところが大きく、鉄道よりも高速バスの利用者が多いということもあって、熊本駅の利用客は少なかったのです。熊本市およびJR九州の統計によると、2010(平成22)年度における熊本駅の一日あたりの平均乗降客数は20700人、平均乗車人員は10307人でした。この数字は田園都市線の急行・準急通過駅である高津駅などより低いのです。JR東日本の首都圏の駅であれば、熊本駅よりも乗降客数の多い駅はいくらでも見つかるでしょう。九州新幹線が開通して、このあたりの事情がどのように変わるのか、興味深いところです。

 1090形が停車しています。これは1両だけのワンマン運転で、路面電車では今でも多い吊り架け駆動の車両です。そのため、昔懐かしいような低い唸り声をあげます。前面にあるAの札は田崎橋~健軍町の系統を示しています(Bであれば上熊本駅前~健軍町の系統です)。

 私が大分市に住み、熊本県立大学で集中講義を担当していた時は区間制の運賃でしたが、現在、熊本市電は均一料金を採用しています。都電や東急世田谷線であれば乗車時に運賃を払うのですが、熊本市電の場合は降車時に運賃を払います。

 田崎橋電停に向かって1350形が走ります。これも吊り掛け駆動です。

 1960年代から自家用車が急速に普及し、日本各地では路面電車が急速に衰え、姿を消していきます。日本最大であった都電の場合は、かろうじて荒川線が残りましたが、関東地方では川崎市電、横浜市電が全廃されました。順不同であげれば、大阪市電、神戸市電、京都市電、名古屋市電、仙台市電などが全廃されています。九州でも、西鉄の福岡市内線、大分交通別大線が全廃されています。熊本市電も、次々に路線が廃止され、全廃寸前まで行きました。しかし、結局は残り、現在の路線網となっています。

先程と同じ1090形です。

塗装は全く異なりますが、1090形です。熊本市電も全面広告車の多い路線で、2両編成でなければ車体そのものが何らかの広告になっているようです。

 

 新型の路面電車が到着しました。0800形で、2008年に登場しました。9700形と同様、超低床路面電車です。2両編成で、車体が台車でつながっている連接車となっています。また、9700形、0800形のいずれもVVVF制御です。熊本市電は、日本で最初にVVVF制御の営業用車両を導入したことでも知られています。今回は、その栄光をもつ8200形を見ることができなかったのですが、仕方のないことではあります。

 

9700形や0800形に乗ると、車掌が乗務しています。女性であることが多いのですが、この列車では男性の車掌であったようです。

 0800形を前から撮影してみました。この電停では停車時間が長いので、あわてる必要はありません。

 上の写真では、電車の床と電停のホームとを比べてみてください。ほとんど同じ高さにあることがおわかりになるはずです。これがまさに超低床路面電車であり、乗降口にステップがありません。そのため、車椅子を利用する方も楽に乗降できます。高齢者や幼児にとっても楽です。

 本当のことかどうかわかりませんが、日本の鉄道技術は世界でもトップクラスと言われます。しかし、こと路面電車に関してはかなり遅れています。次々に廃止され、市場としても縮小の一途であったためですが、このような超低床路面電車はドイツやフランスが先進国であり、日本で最初に広島電鉄が導入した超低床路面電車はドイツのジーメンス社が製造したものです。しばらくして、国産の技術が成長し、国内でも製造できるようになったのです。

 もっとも、日本にも可能性が全くなかった訳ではありません。1955年に東急車輛製造(2012年4月からJR東日本の子会社である総合車両製作所)が製造したデハ200形は、現代の超低床路面電車の先駆とも言える車両でした。玉電の愛称で有名な東急玉川線と世田谷線を走り、「ペコちゃん」などの通称で親しまれたこの車両は、車輪が小さく、床は完全にフラットで、2両編成の連接車でした。当時の技術では運行や保守などが難しかったようで、玉川線の全廃時にデハ200形も廃止されてしまいました。現在は田園都市線宮崎台駅のすぐそばにある電車とバスの博物館に保存されていますので、御覧になることも可能です。

 さて、健軍町行きはそろそろ発車でしょうか。私は、もう少し熊本駅前にいて、そこからどう動こうかと考えることとします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方法人税を廃止するための法律案(国会で成立しないと思われますが)

2017年05月30日 00時00分00秒 | 国際・政治

 今から2年半程前になりますが、「税源の偏在と地域間格差〜地方法人税法(平成26年3月31日法律第11号)」が、私の論文として初めて自治総研(地方自治総合研究所発行)に掲載されました。

 地方法人税という名称ですが、これは地方税ではなく、国税です。地方法人税法第1条および地方交付税法第6条第1項に定められるところから明らかであるように、地方交付税の財源となるものです。同じように地方の財源になるべきものとして地方特別法人税がありますが、こちらは地方特別法人譲与税として法人事業税の一部を国税化したものです。従って、税収は地方交付税不交付団体にも配分されることとなります。これに対し、地方法人税は法人住民税の一部を国税化したもので、税収は地方交付税交付団体にのみ配分されることとなります。

 しかし、地方交付税の財源にするとは言え、地方税の一部を国税化したという点においては、地方創生には相応しいかもしれませんが地方分権には相応しくないとも言えます。また、法人課税の制度が非常に複雑なものとなりました。税源配分という観点からすれば、地方特別法人税は妥協の産物としか言いようがありませんし、地方法人税についても抜本的な改革から程遠いとしか言えません。

 さて、現在の第193回国会に、参議院議員提出法律案第98号として「地方法人税の廃止に関する法律案」が提出されています。次のようなものです。

 「(趣旨)

第一条 この法律は、地方公共団体の自主財源を適切に確保する観点から、国と地方公共団体の税源配分を見直す必要があることに鑑み、地方法人税を廃止すること等について定めるものとする。

(地方法人税の廃止)

第二条 地方法人税は、廃止するものとし、政府は、このために必要な法制上の措置を講ずるものとする。

(地方公共団体の財政状況に影響を及ぼさないための措置)

第三条 政府は、前条の法制上の措置を講ずるに当たっては、地方法人税の廃止によりこれを財源とする地方交付税の総額が減少することを踏まえ、地方公共団体の財政状況に影響を及ぼすことのないよう、法人の道府県民税及び市町村民税の法人税割の税率の引上げその他の法制上の措置を講ずるものとする。

  附 則

 この法律は、公布の日から施行する。

  理 由

 地方公共団体の自主財源を適切に確保する観点から、国と地方公共団体の税源配分を見直す必要があることに鑑み、地方法人税を廃止すること等について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」

 議員立法の性格とも言えるのかもしれませんが、第2条を見れば明らかであるように、地方法人税の廃止だけを明文で定め、その他の措置については政府に委任する形をとっています。本来であれば、地方法人税を廃止して法人住民税を従前のものに復元し(これは第3条の内容と言えるでしょう)、その上で、例えば地方交付税における法人税の割合を変更する、税源の偏在を是正するために地方交付税における測定単位や補正について改正を行う、などの方針を定めるべきですが、仕方のないところでしょうか。

 また、地方特別法人税・地方特別法人譲与税という制度を廃止しないのか、という疑問も残ります。実は消費税・地方消費税の税率引き上げ(8%→10%)が行われる段階での廃止は決まっているのですが、そのこととは関係なく、地方特別法人税・地方特別法人譲与税の廃止を提案することは考えられなかったのでしょうか。今回の法律案を読んで、結局のところ何を目的としているのか、よく見通せないようなものであると思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会を廃止して町村総会を設けることを検討する動き

2017年05月29日 00時19分13秒 | 国際・政治

 今月1日、すなわち2017年5月1日23時45分00秒付で「町村総会が復活か」という記事を掲載しました。日本国憲法施行下において、僅か8年程しか存在しなかった宇津木村でしか設置されなかった町村総会が、或る意味ではようやく日の目を見るという皮肉な話なのですが、そうも言っていられなくなりつつあります。既に朝日新聞社が5月9日13時32分付で「議会廃止検討の過疎地『相談があれば助言』 高市総務相」(http://www.asahi.com/articles/ASK593TW2K59ULFA005.html)として報じていますが、総務省も(どの程度かは不明ですが)備えている、または備える用意があるようです。

 そのような中で、毎日新聞社が、議員定数10名未満である154町村(高知県大川村は除外。以下も同じ)に対してアンケート調査を行い、結果として150の議会議長から回答を得たようです。同社のサイトに、今日の20時12分付で「町村議会廃止 議員定数10未満の154町村 毎日新聞調査に回答」という記事(https://mainichi.jp/articles/20170529/k00/00m/040/055000c)が掲載されています。

 現在のところは検討中である町村がないようですが、高知県にある馬路村は過去に検討したことがあるようです。また、65町村は、将来の検討の可能性があると答えており、82町村は検討の可能性がない旨を答えています。

 上に示した記事は短いものであるため、あまり引用ばかりしていると全文引用になりかねないので控えますが、やはり議員になろうとする人が少なくなっていることが如実になっています。

 もうかなり前のことになりますが、地方分権改革推進委員会で「西尾私案」が出されました。当時はかなり多くの批判が寄せられましたが、少なくとも部分的にはこの私案の正しさが証明されたと言えるのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その3)

2017年05月28日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第438回として、2011年8月27日から同年9月8日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 旗の台駅の南口に着こうとしています。これから大井町線に乗ろうと考えていますが、その前にもう少し撮影を続けます。ちょうど、池上線の踏切が鳴りました。

 池上線と東急多摩川線の車両である2代目7000系です。日本最初のオールステンレスカーである名車が初代7000系で、こちら2代目は新5000系をベースとして18メートル車として開発され、2007年にデビューしました。全編成が3両編成です。池上線と東急多摩川線には、初代7000系の改造車である7700系、7200系の改造車である7600系、そして1000系が走っていますが、2代目7000系はこれらの代替車として登場しました。そのために、平成になってからデビューした1000系の一部も廃車となり、上田交通や伊賀鉄道に譲渡されています。また、7700系は、初代7000系から数えると50年近く走っている車両もあるのですが、一部が十和田観光電鉄に譲渡されています。

 旗の台駅の南口です。以前はこんなにきれいではなかったのですが、大井町線の急行運転に合わせて改築されました。これで大井町線の下りと池上線との乗り換えも楽になりました。以前は階段を上がったり下ったりを繰り返さなければならなかったのです。

 大井町線の急行の停車駅は、大井町、旗の台、大岡山、自由が丘、二子玉川、溝の口です。その中で最も乗降客が少ないのが、この旗の台ではないでしょうか。駅前商店街の小ささでは旗の台が突出しています。大岡山駅前の商店街も小さいほうですが、東京工業大学があるためか、人通りは多いのです。旗の台駅の場合は、池上線と大井町線のそれぞれに改札口があり、池上線の改札口のほうがにぎわっていると感じられます。

 南口の改札の前です。節電対策ということで、自動改札機の一つは電源を切られており、ロープを張られています。3月11日の大地震の後、首都圏の各駅では日中、何台かの自動改札機の使用を中止しており、この駅でも同様である、ということです。

 大井町線は使い勝手のよい路線で、2000年8月5日までは東急の鉄道線の全てと接続していました。翌日からは、目蒲線の分割により、東急多摩川線との乗換駅がなくなったのですが、この旗の台で池上線と、大岡山で目黒線と、自由が丘で東横線と、二子玉川および溝の口で田園都市線に乗り換えることができますので、渋谷、目黒、五反田、蒲田、横浜へ向かうには非常に便利なのです。なお、線内に車庫がないため、一部の列車が田園都市線の鷺沼か長津田まで走ります。

 また、1980年代まで、大井町線には様々な車両が走っており、我々を楽しませてくれました。初代5000系、5200系、初代6000系、初代7000系、7200系、8000系も走っていました。営業で走っていないのは1000系と2000系と2代目7000系くらいでしょう(これらも回送としては走っています)。VVVF車が東急で最初に走ったのも大井町線でして、初代6000系の一部が改造され、6両で運用されました。また、現在は池上線と東急多摩川線で運用されている7600系と7700系も、当初は大井町線で6両編成として運用されていました。

 現在は、急行専用として新6000系が6両編成で、各停専用として8500系、8090系、8590系、そして9000系が5両編成で運用されており、とくにここ数年は9000系が多くなっています。

 大井町線の旗の台駅は、急行運転開始前は2面2線でしたが、現在は2面4線となっており、急行は必ずこの駅で各駅停車と連絡をするようになっています。大井町線が溝の口まで運行されるようになった2009年7月11日からは、平日の日中、下りは青各停(B各停。二子新地と高津に停車する)が急行の待ち合わせを行い、上りは緑各停(G各停、高津と二子新地を通過する)が急行の待ち合わせを行うようになっていました。

 しかし、地震の影響により、2011年3月12日から、上記のパターンが維持されていません。東急で節電対策の影響を最も強く受けているのがこの大井町線で、早朝の上りと夜の下り(いずれも田園都市線との直通運転)を除き、青各停が走らなくなりました。また、平日の日中と土休日は緑各停が大井町~二子玉川の運転となっています。さらに、急行の運転区間が度々変わっており、旗の台駅を訪れた4月7日は日中に急行が運転されておらず、その後は大井町~二子玉川になったり大井町~長津田になったりしています。7月1日からは、平日の日中、急行が大井町~長津田、各停が大井町~二子玉川となっており、土休日は急行、各停ともに大井町~二子玉川となっています(但し、一部は鷺沼か長津田まで走ります)。

 奥に見えるのは荏原町駅です。駅間距離の短さを象徴するような光景です。荏原町でいったん地上に降り、再び高架となって中延に着き、再び地上に降りて戸越公園、再び高架となって下神明と、忙しいような路線となっています。

 こちらは北千束側で、少し走ると中原街道を越える橋があります。東洗足駅は、その橋の辺りにあったようです。起点の大井町駅から旗の台駅まで品川区にありましたが、次の北千束駅と大岡山駅は大田区です。東急線で品川区を所在地とする駅は、この旗の台の他、大井町線の大井町、下神明、戸越公園、中延、荏原町、池上線の五反田、大崎広小路、戸越銀座、荏原中延、目黒線の目黒、不動前、武蔵小山、西小山です。そのほとんどが旧荏原区の領域にあります。

 急行運転前は、上り線のホーム(当時は4番線)に北口改札口がありました。今は、その痕跡をたどるのが難しくなっています。

 おまけのようなものですが、二子玉川駅の2番線に到着した大井町線緑各停の8500系と、3番線に停車中の緑各停8090系です。8090系は、日本最初の軽量ステンレスカーであった8000系のデハ8400形(後にデハ8200形に編入)を基礎とした初の量産車です。この系列はブルーリボン賞もローレル賞も受賞していませんが、後の鉄道史に与えた影響は(初代7000系や8000系ほどではないとしても)大きなものと言うべきでしょう。これまでステンレス車を導入してこなかった鉄道会社も、国鉄→JRグループを筆頭に、軽量化がきっかけとなってスレンレスカーを導入していくのです。まさに全国へのステンレスカーの本格的な普及の先鞭をつけたとも言える8090系は、元々、東横線の急行用として登場したものですが、今や大井町線の主力となっています。なお、一部が秩父鉄道に譲渡されています。

 さて、今回は東急池上線途中下車シリーズの第4回目、東急大井町線途中下車シリーズの第2回目として、旗の台駅を取り上げました。田園都市線もありますし、東急多摩川線も残していますので、次はどこを取り上げようかと悩むところです。とくに難しいのは池上線です。ここで、池上線、大井町線の全部の駅を、所在区とともに記しておきましょう。赤字は急行停車駅です。また、駅名の後にある( )と数字は、それぞれのシリーズで取り上げた順番などを示します。

 1.池上線

 品川区:五反田、大崎広小路(3)、戸越銀座、荏原中延、旗の台(4)

 大田区:長原、洗足池(1)、石川台、雪が谷大塚、御嶽山、久が原、千鳥町、池上(2)、蓮沼、蒲田

 2.大井町線(二子玉川~溝の口は田園都市線途中下車シリーズで取り上げました)

 品川区:大井町、下神明、戸越公園、中延、荏原町、旗の台(2)

 大田区:北千束、大岡山(東急目黒線途中下車シリーズで取り上げました)

 目黒区:緑が丘、自由が丘(4の予定)

 世田谷区:九品仏、尾山台(3の予定)、等々力、上野毛、二子玉川(1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに、法科大学院募集停止のニュース

2017年05月27日 08時59分29秒 | 受験・学校

 立教大学、桐蔭横浜大学が、法科大学院の募集停止を発表しました。2018年度からです。今日(2017年5月27日)の朝刊で報じられていましたが、日経朝刊は両方について報じており、朝日朝刊は立教のみ報じています。いずれも小さい記事で、ベタ記事と言ってよいでしょう。

 御多分に漏れず、大幅な定員割れが続いていました。今年度、立教大学法科大学院の入学者は19人、桐蔭横浜大学法科大学院の入学者は10人でした。定員は、立教大学法科大学院が40人、桐蔭横浜大学法科大学院は30人です。

 これにより、最大時で74であった法科大学院は、34が募集停止(さらに廃止)となり、40が残ることとなります。

 以前、「熊本大学の法科大学院も募集停止に向けて調整か」(2015年2月1日21時47分33秒付)、「法科大学院への裁判官・検察官派遣停止」(2015年3月29日13時7分1秒付)、「神奈川大学の法科大学院も募集停止へ」(2015年6月3日21時52分52秒付)および「成蹊大学法科大学院が募集停止へ」(2015年12月25日22時30分15秒付)に登場した、補助金の「基礎額算定率」を、再び掲げておきます(なお、既に募集停止を公表している大学については除外しました。また、この算定率は2015年度のものであり、その後の年度に改訂されているはずですが、入手していないため、2015年度のものをそのままあげます)。

 【基礎額算定率】

 A(90%)

 早稲田大学(45%加算)、一橋大学(40%加算)、東京大学(35%加算)、京都大学(30%加算)、慶應義塾大学(30%加算)、北海道大学(15%加算)、大阪大学(15%加算)、上智大学(10%加算)、名古屋大学(5%加算)、学習院大学(5%加算)、中央大学(3%加算)、東北大学(1%加算)、筑波大学(加算無し)

 B(80%)

 神戸大学(20%加算)、創価大学(15%加算)、愛知大学(5%加算)、千葉大学(5%加算)、九州大学(加算無し)、横浜国立大学(加算無し)

 C(70%)

 同志社大学(35%加算)、岡山大学(24%加算)、琉球大学(15%加算)、立教大学(10%加算)、甲南大学(5%加算)

 D(60%)

 立命館大学(7.5%加算)、明治大学(5%加算)、広島大学(5%加算)、関西大学(5%加算)、関西学院大学(5%加算)、西南学院大学(5%加算)、青山学院大学(4%加算)、法政大学(加算無し)、南山大学(加算無し)、近畿大学(加算無し)、日本大学(改革案提案無し/加算無し)、福岡大学(改革案提案無し/加算無し)

 E(50%)

 駒澤大学(改革案提案無し/加算無し)、専修大学(改革案提案無し/加算無し)、桐蔭横浜大学(改革案提案無し/加算無し)

 上に示したところからわかるように、立教大学法科大学院はCランク、桐蔭横浜大学はEランクです。昨年に行われた司法試験の合格者数は、立教大学法科大学院が10名(出願者150名、受験者125名)、桐蔭横浜大学法科大学院が3名(出願者93名、受験者69名)です。合格率は、立教大学法科大学院が7.87%、桐蔭横浜大学法科大学院が4.35%です。このような状況では……というところでしょう。

 立教大学法科大学院は、東京六大学の中では初めての募集停止となります。また、桐蔭横浜大学法科大学院は、姫路獨協大学法科大学院に続く2番目の撤退例となった大宮法科大学院大学(2015年9月に閉学)と統合し、初の統合例となりました(実際には大宮法科大学院の事業を桐蔭横浜大学が継承したと考えてよいでしょうか)。しかし、当時もその効果に疑念が持たれていたはずです。

 法科大学院淘汰の波は、まだ収まっていないものと思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これは妥当な内容の法律案か

2017年05月27日 00時00分00秒 | 国際・政治

 第193回国会に、参議院議員提出法律案(参法)第79号として「当せん金付証票法の一部を改正する法律案」が提出されています。非常に短い法律案ですが、果たして、中身は妥当なものでしょうか。

 「当せん金付証票法(昭和二十三年法律第百四十四号)の一部を次のように改正する。

 第六条に次の一項を加える。

 8 生活保護法(昭和二十五年法律第百四十四号)第六条第一項に規定する被保護者は、当せん金付証票を購入してはならない。

 附則

 この法律は、生活保護法の一部を改正する法律(平成二十九年法律第▼▼▼号)の施行の日から施行する。

 理由

 生活保護法上の被保護者は、当せん金付証票を購入してはならないこととする必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」

 簡単に言えば、生活保護を受ける者は宝くじを買ってはいけない、ということです。

 提出理由が非常に短く、何故に「生活保護法上の被保護者」が宝くじを買ってはいけないのかが説明されていません。それに、宝くじを購入した人が「生活保護法上の被保護者」であるか否かを売場の係員が判断する必要が出てくるはずですが、どのようにするのでしょうか。

 また、仮にこの法律案が国会で可決されて法律となり、生活保護法第6条第8項になったとします(ちなみに、現段階において第6条には第5項までしかありません)。「生活保護法上の被保護者」が宝くじを購入すれば、第6条第8項に違反することとなりますから、判明次第、「保護の実施機関は、被保護者が保護を必要としなくなつたときは、速やかに、保護の停止又は廃止を決定し、書面をもつて、これを被保護者に通知しなければならない」(第26条前段)ということになるのでしょう。

 このような法律案が提出されることには様々な背景があるのでしょう。しかし、今回は序の口のようなもので、将来、次々に類似の、つまり、「生活保護法上の被保護者」は◎◎をしてはならないという内容の法律案が提出される危険性があります。実際に、数年前に「生活保護法上の被保護者」がパチンコをしてはならないというような条例を制定しようとした地方公共団体もありました。怖いのは、このような傾向がエスカレートしていくことです。宝くじ購入の禁止が通れば、次はパチンコ、公営競技(競馬など)となるでしょうし、ギャンブルだけに止まることはなく、酒、スマートフォンなど、次々に禁止事項が増える可能性があります。従って、完全に、人にレッテルなりスティグマなりを貼ることとなります。これが何を意味するのかは、おわかりのことと思います。

 しかし、分断の社会とも言われる現在(そう言われていないかもしれませんが)では、人に★★という刻印を押しつけ、その人を叩くことが普通に行われたりしています。いじめの構造と同じです。自分もいつそのようになるかわからないという意味で、誰にでも可能性はあるのですが、自分はそのようにならないと思う人が多いのでしょうか。想像力の欠如としか思えません。

 お断りしておきますが、私は、生活保護制度が適正に運営されることを否定する者ではありません。「生活保護法上の被保護者」の一部が不正受給などの悪用を行っているという事実も知っています。しかし、不正の率が高い(たとえば50%超)というのであれば厳しい対策をとるなどの必要性がありますが、本当に必要とされている場合に生活保護の手が届かないような現状において、上のような法律案を成立させる意味がどれほどあるのかが問われるべきです。

 対策としては様々なものが考えられるでしょう。現金給付では問題が生じるというのであれば、現物給付を増やすという手もあります。国や地方公共団体による管理の色彩は強くなりますが、バウチャー、チケットを使うことも考えてよいかもしれません。

 また、わざわざ宝くじの購入を禁止するような条文を入れなくとも、先に引用した生活保護法第26条前段により、生活保護の停止または廃止を行うことは十分に可能です。裁判例でも、軽自動車を保有していた世帯が保護の停止または廃止を受けたというような事例が散見されます。宝くじだけを明文化する意味があるのでしょうか。

 「生活保護法上の被保護者」については◎◎をしてはならない、という趣旨の法律案は、実に安直なものであり、なすべきこと、処理すべきことの順序が誤っており、賛成できません。不正対策と保護の仕方を十分に検討して(上に記した現物給付の増加、バウチャー、チケットの利用など)、それでも十分でないような場合に初めて禁止事項を定めるべきです。生活保護法の基本は取締法規ではありません。

ーーーーーーーーーー

 最近の改憲論議などを見ていると、改憲賛成派には生活保護制度に否定的な方が少なくないようです。それならば、改憲論者に申し上げたいことがあります。生活保護制度を叩き続けるのであれば、いっそうのこと、日本国憲法のうち、第25条を削除したらいかがでしょうか、ということです。こうすれば、生活保護制度の憲法上の根拠がなくなりますし、この制度を廃止することも簡単になります。何よりも、国が生存権を保障する必要がなくなります。社会保障制度の見直しも、今までよりは簡単にできるかもしれません。

 あるいは、憲法第25条の全文を改正し、自立(自律)を国民の義務にするのです。いや、生活保護制度の最終目的も「自立」であり、その実現のための「保護」ですから、むしろ「自力更生」という言葉のほうが相応しいでしょう。困窮していても国などに保護を求めることなく、自立していけと義務付けるのです。

 但し、憲法第25条を削除するなり全文改正するなりということを行うと、最近急速に話題となっている教育無償化の改正内容とは、少なくとも部分的に矛盾します(生活保護制度バッシングと教育無償化も同様です)。教育の無償化は、国民がその能力(学力)に応じて、資力に関係なく、教育を受ける権利を保障することになるからです。見方を変えるならば、教育面に限定されるとはいえ、無償化は「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長すること」を意味します(生活保護法第1条から引用しました)。憲法に明文化するということは、国が無償化を完全に実現し、維持することを義務付けられることになる訳です。第25条において往々にして見られる、或る意味で得手勝手なプログラム規定説を採ることは許されないでしょう。また、無償化と言っても奨学金の廃止にはつながりません。憲法学界でも通説となっている授業料無償説が採られるでしょうから、教科書(これについては小学校や中学校については法律で無償化が採られています。また、高校については一部が無償化されています)や参考書、文房具などの学用品なども、場合によってはIT機器のようなものを購入することを考え、奨学金は維持されることとなります(勿論、憲法に明文化する趣旨からして、給付制でなければおかしいでしょう)。

 長くなりましたが、教育の無償化は、部分的に生活保護としての要素も含んでいる、とまとめられます。従って、現在の第25条と第26条とを完全に切り離す訳にはいかないのです。

ーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

 全然関係のない話ですが、明治のカールが、今年の8月生産分以降、関東地方などの店頭から消えるというニュースが流れました。こどもの頃から馴染んでいて、今でも時折、スーパーマーケットなどで見かけては買っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松屋書店がなくなっていた

2017年05月26日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 25日の夕方に歩いたことで知ったのですが、高津駅の近く、二子五丁目にあった古本屋の小松屋書店がなくなっていました。

 実は、このことを知るきっかけとなったのが薬局の移転です。数日前、溝口三丁目にある某薬局(移転前の帝京大学医学部附属溝口病院の正門の隣)が8月に溝口三丁目の南のほうに移転するということで、店に案内の紙が貼られていました。それとは別に、やはり8月に新店舗が二子五丁目に開店するということです。地図も書かれていたのですが、どう見ても小松屋書店の場所としか思えません。そこで、今日、うちに帰る際に通ってみた訳です。

 今、建物はそのままながら、中の改装工事をしており、本屋の面影は全くなくなって、いかにも薬屋という感じに仕上がりつつあります。ここから少し歩くと二子五丁目酒場などの前の交差点の所に服屋がありましたが、そこも閉店しており、薬局が開業するための工事が行われています。

 小松屋書店は、文庫や新書は当たり前として、社会科学系や歴史関係の本などがかなり多く扱われており、この点では高津区でもトップクラスの古書店でした(私の知る限りでは川崎市内でも上位に入ります)ので、時々見に行っていました。政治学、経済学、歴史学で欲しくなるような本が多く、ガルブレイスの訳書などをここで買いました。母が入院している間に、頼まれた本をここで探し、購入して届けたこともあります。

 店の中は雑然としており、床にも何冊もの本が積まれているようなところでしたが、神保町でもそのような古書店はよくありますから、驚くことではありません。また、何時から何時まで開いているのかがよくわからない店で、店に灯りが付いているのに鍵がかかっていて入れなかったことも何度かあります。

 2014年8月末に住吉書房高津店が閉店し(「近所の本屋が今月末で閉店する」で記しました。今年の5月になってアイン薬局が開店しています)、2016年2月にブックセンターいとう高津店が閉店しました(現在はクリエイトの店舗になっています)。高津駅周辺には書店が一軒もない、ということになってしまいました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その2)

2017年05月25日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第437回として、2011年8月21日から同月27日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 池上線の旗の台駅を降り、歩いています。乗換駅ではありますが、商店街の規模はそれほど大きくありません。品川区の商店街といえば、大井町、戸越銀座、中延、武蔵小山というところでしょう。これらの街に比べると、旗の台の知名度は劣ります。しかし、小さいながらも味のある商店街であるともいえます。

 池上線の改札口のそばにある踏切から、中原街道のほうへ向かいます。奥に見える昭和大学病院に向かう通りが商店街となっていて、御覧のように人通りは少なくありません。品川区という場所柄のためか、下町に似た雰囲気が漂います。これは、戸越銀座駅周辺、戸越公園駅周辺、武蔵小山駅周辺にも共通しています(大井町駅周辺はかなり違っていますが)。

 脇に入ってみます。商店街の続きではありますが、路地裏というにはぴったりの所です。道路の脇に鉢植えが置かれているのは、いかにも東京周辺らしい風景です。下町に多そうな風景なのでしょうが、川崎市などでも見られます。そして、道路に置かれた自転車の数の多さも、東京の城南地区や川崎市では当たり前の光景なのです。

 踏切から荏原中延方面を見ます。荏原中延駅が地下にあるので、池上線はしばらく走ると地下へ入ります。現在では痕跡も残っていないようなのでよくわからないのですが、この先に旗ヶ岡という駅がありました。旗ヶ岡駅が開業していた時代、旗の台駅は存在していなかったのです。

 ここで旗の台駅の歴史を取り上げておきましょう。この駅の開業は1951(昭和26)年5月1日です。池上線の桐ヶ谷(廃駅。大崎広小路と戸越銀座との間にあった)~雪ヶ谷(後に調布大塚と統合して雪が谷大塚となる)が開業したのが1927(昭和2年)8月28日、大井町線の大井町~大岡山が開業したのが同年の7月6日です。つまり、およそ24年間、池上線と大井町線は交差していたのにもかかわらず、その交差地点に駅がなかったのでした。現在であれば西武多摩湖線の八坂駅(すぐそばを西武国分寺線が通りますが、駅はありません)のような感じでしょうか。

 現在の目黒線、東急多摩川線および大井町線を開業させた目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の敵対関係については既に述べました。両者の対立は、現在も駅名によく残されています。たとえば、目黒線に洗足駅があり、池上線に洗足池駅があり、大井町線に北千束駅があります。北千束駅は、もともと池月という名前であり、1928(昭和3)年に開業しました。東北地方にも池月という駅があるため、1930(昭和5)年に改称しますが、その名前が洗足公園といい、明らかに池上電気鉄道の洗足池駅を念頭に置いていたのです。現在の北千束に改称されたのは1936(昭和11)年1月1日です。

 また、大井町線に中延駅および荏原町駅があり、池上線に荏原中延駅があります。これらも目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の対立と関係があるのでしょう。

 さて、目黒蒲田電鉄は、1934(昭和9)年10月1日に池上電気鉄道を吸収合併します。沿線に洗足、田園調布という分譲地→高級住宅地を有し、系列として東京横浜電鉄、すなわち現在の東横線を抱え、五島慶太の指揮下で発展を続ける目黒蒲田電鉄に対し、住宅地開発に積極的でなく、迷走を続け、都市間連絡などを考えてもいなかった池上電気鉄道が勝利を収めることができなかったのは、おそらく当時の目からも明らかであったことでしょう。両鉄道が統合されたことにより、大井町線と池上線とが交差する地点に駅ができるのが自然でした。しかし、なかなかできず、1951年に持ち越されてしまいました。

 池上線には旗ヶ岡駅がありました。一方、大井町線の荏原町と北千束との間には東洗足という駅がありました。東洗足駅は、これも現在では痕跡が残っていないようなのですが、中原街道の東側にあったようで、現在の旗の台駅からは170メートルほど離れていたとのことです。

 旗の台駅の開業が第二次世界大戦後までずれ込んだ理由は、結局よくわからないままなのですが、池上線の旗ヶ岡駅と大井町線の東洗足駅をそれぞれ移転し、統合して開業しました。長い間、この駅には定期券売り場もありましたが、現在はありません。もっとも、東急線の場合は自動券売機で通勤定期券などの購入ができるので、定期券売り場がなくともあまり不自由がありません。

 池上線の旗の台駅から東側、大井町線の荏原町駅に向かうような形で、商店街が伸びています。人通りが少ないのですが、飲み屋などが多いので、夕方以降は話が違ってくるのかもしれません。小規模な商店が並びます。この駅の周辺には大規模な店舗がありません。東急ストアがあってもおかしくないのですが、何故かありません。パチンコ屋の看板が昔ながらのものという感じがします。

 奥に大井町線の高架が見えます。旗の台を出発すると、上り電車は坂を下り、荏原町駅に着きます。わずか500メートルしか離れていません。旗の台駅の開業が遅れたのは、この駅間距離にあるのかもしれないと考えているのですが、大井町線、池上線のいずれも駅間距離の短い路線ですから、荏原町駅との距離が近いことが原因ではないのでしょう。尾山台駅と等々力駅との間も500メートルしか離れていません。大井町線で駅間距離が1キロメートル以上であるのは、緑が丘駅と自由が丘駅との間(1キロメートル)、上野毛駅と二子玉川駅との間(1.2キロメートル)だけです。

 旗の台駅の南側から荏原町駅のほうまで伸びる商店街に出ました。ここも人通りの少ない商店街です。池上線も大井町線も、バスターミナルがあるという駅が少なく、近くにバスが通っていないような駅もあります。旗の台もその一つで、駅の周囲にはバス停がありません。

 けだるい午後のひと時という感じのする街並みです。商店街ではあるのですが、普通の住宅なども多い所です。大型店舗などもあまり見当たらない街ですが、夜はどうなのでしょうか。そこそこ、飲み屋などはあるようです。

 池上線の踏切に来ました。奥のほうにトンネルが見えます。長原駅です。環状7号線との立体交差のため、1968(昭和43)年に地下化されました。その前年に目蒲線(現在の目黒線と東急多摩川線)の洗足駅が地下化されていますが、どちらも、この後に盛んになる立体交差化(地下化)の先駆例となっています。

 なお、旗の台駅は品川区にありますが、長原駅は大田区にあります。池上線の長原~蒲田が大田区、五反田~旗の台が品川区、ということになります。また、大井町線は、大井町~旗の台が品川区、北千束と大岡山が大田区、緑が丘と自由が丘が目黒区、九品仏~二子玉川が世田谷区、二子新地~溝の口が川崎市高津区です。

 この踏切を渡ると、大井町線の側の改札口があります。さらに歩くと中原街道です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その1)

2017年05月24日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第436回として、2011年8月20日から同月27日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 しばらく、池上線を取り上げていません。洗足池、池上、大崎広小路の各駅周辺を歩いたのですが、私にとっては利用する機会が多くない路線ですので、必然的に利用する駅も少なくなり、取り上げるのも難しいのです。

 そもそも、池上線は、他の東急各線とは全く異なる歴史を持ちます。地図を見ると、池上線と目黒線・東急多摩川線が並行するように通っています。目黒線・東急多摩川線は2000年8月5日まで目蒲線でしたから、その頃の感覚に戻って記すならば、終点は目蒲線も池上線も蒲田ですし、起点は目蒲線が目黒、池上線が五反田で、山手線では一駅違いです。ここに池上線の、或る意味では悲劇的な歴史が隠されています。そして、今回取り上げる駅も、池上線の歴史を象徴する面を持っています。

 なお、今回は東急大井町線途中下車シリーズの第2弾も兼ねています。

 4月の或る日、大崎広小路駅から池上線に乗り、旗の台で降りてみました。池上線と大井町線の乗換駅で、池上線は地上の1番線(下り。雪が谷大塚、蒲田方面)と2番線(上り。荏原中延、五反田方面)、大井町線は高架の3番線・4番線(下り。大岡山、溝の口方面)と5番線・6番線(上り。中延、大井町方面)となっています。改札口は3箇所あり、池上線は1番線と2番線が別の改札口となっています。

 大井町線の急行運転開始のための工事によって改善されましたが、それまでは東急で最も乗り換えに不便な駅でした。池上線と大井町線の上りとの乗り換えはよかったのですが、池上線と大井町線の下りとの乗り換えの場合、いったん階段を上がり、また階段を下りて南のほうへ行ってまた階段を上がるという面倒な構造となっていたのです。

 こちらは1番線の改札口です。池上線の下りと大井町線のための改札口となっています。昔ながらの私鉄の駅という感じです。池上線は3両編成で走っていますので、適度な大きさと言えるのかもしれません。

 何年か前まで、右に写っている踏切とは別に、もう一つ踏切がありました。構内踏切というもので、文字通り、駅の構内にあり、ホーム同士の連絡のために使われるものです。つまり、駅の外には出られませんし、外から自動車や自転車が入ってくることもありません。バリアフリーの観点からすれば跨線橋に勝りますが、電車が接近してから発車するまでの長い時間、踏切の遮断機が降りているために、利便性では跨線橋に劣る所があります。そのため、東京都23区内からはほとんど姿を消しており、現在、東急線で構内踏切が見られるのは池上駅だけとなりました。

 ちょうど蒲田行の1000系が到着しましたので撮影しました。元々は東京メトロ日比谷線直通運転用として東横線にデビューした車両ですが、車両の長さが18メートルで池上線にはうってつけのサイズであったためか、新車として池上線にも投入されました。この時は、池上線で実に64年ぶりの新車として話題になりました。現在は、ワンマン運転仕様のものが池上線と東急多摩川線に走っています。実は、1000系の登場の過程に池上線の、或る意味で悲劇の歴史がよく表れています。

 1922(大正11)年10月、池上電気鉄道が蒲田から池上までを開業させました。現在の池上線の起点は五反田ですから、終点から開業したことになります。こんな路線も珍しいかもしれません。しかも、池上電気鉄道は当初から混乱、迷走という状態を続けました。本来、起点は目黒、終点は大森が想定されていたのですが、大森駅付近での土地買収がうまくいかなかったらしく、蒲田に変更されました。しかし、これでは東急の母体である目黒蒲田電鉄と起点・終点が同じとなり、完全に並行する路線となってしまいます。そこで起点を五反田に変更したのです。また、開業時に新車を走らせるはずであったのに、手配が間に合わず、急遽中古車を購入しています。

 1923(大正12年)、池上から雪ヶ谷(後に調布大塚と統合される)までが開業します。同年、目黒蒲田電鉄の目黒~沼部が開業しており、ここに池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の敵対関係が公然となり、決定化しました。しかし、同年のうちに沼部~蒲田を開業させ、五島慶太という、鉄道史に大きな足跡を残す辣腕の経営者の下、田園調布のために開業したとも言える目黒蒲田電鉄と比べるならば、池上電気鉄道は劣勢に立たされていたことは否定できません。

 1927(昭和2)年、池上電気鉄道は雪ヶ谷から桐ケ谷(大崎広小路と戸越銀座の間にあった駅)までを開業させ、同年に桐ケ谷から大崎広小路まで、そして翌年に五反田までを開業させました。この先の延長も考えられていたため、現在の五反田駅がビルの4階に相当する高さにあるという構造になっているのですが、山手線の内側は公営交通機関が担当するという交通政策のため、五反田で止まりました。駅の構造からして中途半端な印象を受け、池上電気鉄道の運命がよく見える形で示されているように思われます。

 1927年には、目黒蒲田電鉄が大井町線の大井町~大岡山を開業させています。これが池上電気鉄道に止めを刺すことになります。池上電気鉄道は、雪ヶ谷から国分寺までの路線を構想していました。そのほんの一部である雪ヶ谷~新奥沢が、1928(昭和3)年に新奥沢線として開業しました。しかし、既に目黒蒲田電鉄が大井町線のために土地を確保していたこともあって延長はかなわず、盲腸線となってしまいました。ここにも池上電気鉄道の迷走ぶりが如実に表れています。結局、1934(昭和9)年に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に買収されてしまいます。

 以上の、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の歴史が、旗の台駅にも大きく関係するのですが、それについては機会を改めることといたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その5) 

2017年05月23日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第441回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その5)」として、2011年9月15日から同月22日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 砧線中耕地駅跡からさらに西のほうへ歩いています。吉沢駅跡までは少しばかり距離があり、二子玉川駅から離れてしまうのですが、途中まではたどってみようと思っています。現在は静かな住宅地ですが、砧線が通っていたころはどのような所であったのでしょうか。

 砧線は、この道路(線路跡ですが)を真っ直ぐ進み、吉沢に向かっていました。おそらく、上の写真の車道が線路跡でしょう。ここは歩道の幅が広いので、歩きやすいのですが、自動車を利用する立場の者にとっては、何とも勿体無い使い方とも思えます。この車道では一方通行であり、歩道のほうまで幅を広げれば両側通行になるからです。

 一方通行は不便なものです。但し、住宅地にとっては望ましいものかもしれません。自動車の交通量が少なくなるでしょうし、それによって静寂が保たれやすくなるからです。狭い道路で両方から車が来たら、車同士も歩行者もたまりません。

 時々、ホームセンターに行くと、庭先に置くオブジェが売られています。おそらく、この蛙達もそのようなものでしょう。置き方によるのかもしれませんが、かわいらしく、粋でもあります。

 歩道にあるマンホールの蓋です。ここに砧線が通っていたことを示す絵が書かれています。廃止直前のものではなく、開通当時の車両がモデルになっているようです。玉川電気鉄道時代の車両でしょうか。砧線も玉川線も、多摩川の砂利を運搬するための路線でした。首都圏の鉄道路線には、砂利運搬を目的としていた路線が少なくないようです。

 これも歩道で見つけました。かなりデフォルメなどがなされていますが、砧線をモデルにしたことは明らかです。玉川線および砧線が廃止された後も残った世田谷線を、2000年まで走り続けたデハ70形、デハ80形、あるいは砧線で最後まで使用されたデハ60形がモデルでしょうか。集電装置がパンタグラフではなく、ビューゲルになっています。玉川線用に登場した車両で最初からパンタグラフを備えていたのは、現在は宮崎台駅の電車とバスの博物館に保存されている「ペコちゃん」ことデハ200形、および、玉川線最後の新車にして、世田谷線に残って長らく活躍し続け、最後までつりかけ駆動のまま残ったデハ150形だけでした。

 吉沢駅跡はまだ先です。しかし、もう二子玉川駅からかなり離れてしまいましたので、引き返すこととしました。閑静な住宅街が続きますが、砧線が現役であった頃は田園地帯だったのでしょうか。それにしても、廃止とは勿体無いことでした。単線のままでは発展性がありませんし、さりとて複線化も難しかったかもしれません。それに二子玉川から砧本村まで2キロメートルほどと短い路線でした。存続には厳しい条件ばかりが揃っていましたが、残されていればそれなりに意義のある路線であったかもしれません。玉川線は廃止された後に地下路線の新玉川線として1977年に復活し、現在では田園都市線の一部となっています。世田谷線は残されています。砧線は純粋な廃止路線で、これは東急で数少ない例となります(他には新奥沢線があるだけです)。

 

 さて、砧線の跡を歩き続けましたが、そろそろ二子玉川駅に戻ろうと思います。まだ寄りたい所があるからです。ただ、同じ道を戻っても面白くありません。駅から少し離れた所に以前からある商店街を歩き、最近は人通りが多くなった柳小路のそばを通っていきます。

 二子玉川商店街を歩きます。駅から少し離れていること、玉川高島屋の裏にあることから、二子玉川によく行く人であってもこの商店街を歩く人は少ないかもしれません。完全に地元の商店街という感じもします。奥に見える高架橋は国道246号線で、右側に進めば新二子橋、そして溝口へ行きます。左側に進むと瀬田、三軒茶屋、渋谷方面です。

 新二子橋の下に来ました。元々、ここで下の道路と直結する予定があったようで、車道がこちらのほうに下っています。しかし、開通以来、自動車は通れません。歩行者と自転車のための通路となっています。

 御覧のように、ここから新二子橋に上がることができるのは歩行者と自転車だけです。奥に柳屋のビルがあります。懐石料理屋なのですが、このビルは目立ちます。何年も前からあります。どうやら、このビルが駐車場になっているようなのです。私は一度も入ったことがないのでよくわかりません。

 

 玉川高島屋の本館(左側)と南館(右側)を結ぶ連絡通路が見えてきました。はるか奥のほうには田園都市線も見えます。

 日本最初の郊外型百貨店ですが、私はそれほど利用していません。南館が専門店街になっており、その3階と4階にある伊東屋にはよく行きますが、それ以外の店のことはあまり知りません。紀伊国屋書店もあるのですが、一時期、品揃えが悪くなったこともありました。最近はまたよくなってきています。

 柳小路と言われる通りです。横丁というには道幅が少し広いでしょうか。このあたりが有名になったのは1990年代くらいからでしょうか。大学院生時代にも柳小路の周辺を歩いたりしていますが、現在ほど店が多くなかったことを覚えています。結婚してまもなく、妻とここを歩き、夕食をとったことがありました。

 

 柳小路から二子玉川駅に戻ってきました。ドッグウッドプラザが見えます。右側のツタヤとケンタッキーが入居している建物はかなり前からあり、とくにケンタッキーは、少なくとも私が高校生であった頃から営業を続けています。

 二子玉川駅に戻ってきました。こちらは西口で、改札口を出るとすぐにライズです。この駅も再開発によって大きく姿を変えたのですが、改札口の位置などに大きな変更はありません。現在はどうかわかりませんが、私の高校生時代、夏恒例の花火大会(川崎市と世田谷区)が行われる時は、自動改札機を全て停止させ、臨時の切符売り場も置かれました。屋台で乗車券などが売られていたようなものです。JR東日本が自動改札機を次々に設置する時期よりもはるかに前から、この駅では自動改札機が運用されていたのです。

 ここから東口に出ますが、道路から何からが変わってしまいました。バスターミナルも移動しています。

 ライズです。右側がオフィスビルのような位置づけで、左側がショッピングモールのような位置づけです。我々も、時々ですが利用しています。曜日によっては、少し奥のほうでイベントが行われたり、自動車販売店が見本の自動車を置いたりしています。

 大井町線の各駅停車が3番線に停車しています。1977年に新玉川線が開通した時は、内側の2番線と3番線が新玉川線で、外側の1番線と4番線が大井町線(当時は田園都市線)でした。1979年に田園都市線の大井町~二子玉川が旧称の大井町線に変わり、1番線発着と4番線発着とがありましたので、方向幕の色まで変えていました。1番線着が黄緑の地、4番線着が黒の地でした。二子玉川~溝の口の複々線化事業が進行し、田園都市線が1番線と4番線、大井町線が2番線と3番線になりました。

 新玉川線用としてデビューした8500系のうち、8638F(上の写真の編成。上り側がデハ8600形8638番で、下り側がデハ8500形8538番)から8641Fまでは5両編成で、当初から大井町線用と位置づけられていました。もっとも、登場したばかりの頃は田園都市線で運用されており、10両編成でした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする