ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

5月の溝口緑地

2015年05月31日 23時09分16秒 | まち歩き

 昨日(2015年5月30日)の20時23分頃に発生した地震には驚きました。当初はマグニチュード8.5と発表され、今日、8.1に修正されましたが、日本全国47都道府県の全てにおいて震度1以上を観測しました。私が住んでいる川崎市高津区では震度3であったようです(おそらく高津区役所に設置されている地震計のデータによります)。

 震源地は小笠原諸島近海であったようですが、震源がもう少し浅ければどうなっていたか、と不安になります。昨日の夜は自宅で仕事をしていましたが、2011年3月11日の14時46分には研究室で仕事をしていました。10階建ての建物の10階に研究室があるので、かなり激しく揺れ、建物が倒壊するのではないかと思ったほどです。おそらく、高層建築物では長い時間にわたって強く揺れたことでしょう。

 さて、そのような地震が発生する前、30日の午後、私が東洋大学大学院法学研究科での仕事を終えて帰宅する途中、高津図書館の前にある(同じ敷地にある、と表現するほうがよいかもしれません)溝口緑地の様子を撮影しました。濃く深い緑です。

 「高津図書館(溝口緑地)の桜」(2015年3月31日15時34分24秒付)では3月下旬に咲いた桜の花を撮影しましたが、周囲には緑の葉が付いてきていたとは言え、まだ冬の面影が少し残されていました。それから2カ月で、ここまで変わりました。早いものです。

 この緑地はそれほど広くなく、周囲にある児童公園よりは広いという程度ですが、散歩などをするには十分なところです。また、中原図書館などと異なって周囲が静かな住宅地であるため、くつろげる場所でもあります。

 高津図書館には、曜日と時間帯によってはかなり多くの人が訪れます。私も、時折入っては本を借りたりすることがあります。市立図書館では本の寄付も受け入れてくれます。惜しむらくは蔵書数に難があり、とくに社会科学系に弱いことでしょう。

 建物の手前には岡本かの子文学碑が置かれています。 

 高津図書館の裏に高津小学校があります。高津区では最古の歴史を誇る学校です。国道409号線側には経緯に関する説明板も設置されています。

 ところで、高津図書館と溝口緑地の敷地に、かつて文教大学付属小学校があったことを御存知の方は多いのでしょうか。

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第6回 行政立法(2)

2015年05月30日 16時33分28秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 4.行政規則(行政命令)

 (1)定義など

 行政規則とは、行政機関が定立する、私人の権利義務に直接関係しない行政立法のことである。従って、法規命令と異なり、行政規則は外部的効果を有せず、行政内部における効果のみを有し、法律などの解釈の基準を示す(解釈基準)、行政庁の裁量権行使の基準を示す(裁量基準)、などの機能を有する。

 ▲ここで、外部的効果と内部的効果について説明を加えておく。

 外部的効果とは、或る行為などの効果のうち、行政の外部に対して働く何らかの法的効果のことである。法規命令の場合は、施行によって国民一般に対する拘束力を有する(法規命令は「法規」としての性格を有する)。また、行政行為は、特定の私人に対する法的拘束力を有する。

 内部的効果とは、或る行為などの効果のうち、行政の内部に対してのみ働く法的効果のことである。行政規則の場合、上級行政機関が下級行政機関に何かを命じるなどして効果を生じるのであるが、一般国民または特定の個人に対する法的拘束をなすものではない(法的には無関係である。つまり行政規則は「法規」でないということなのである)。

 行政規則は、通常、次のような形式として存在する。

 ①訓令・通達(国家行政組織法第14条第2項、内閣府設置法第7条第6項):上級行政機関が下級行政機関に対し、その権限の行使を指図するために発する命令のことである。論者によって用語法が異なるが、一般的には区別がなされていない。あえて言うなら、文書による命令が通達であるということになろうか(そのように定義する例もある)。

 ②要綱(地方公共団体の場合):条例を施行するためのものなど、様々な目的を有する。

 ③告示(国家行政組織法第14条第1項、内閣府設置法第7条第5項):但し、外部に対する法的拘束力を有する場合、すなわち法規としての性格を有する場合がある(国立公園などの指定の告示。なお、文部科学省は、学習指導要領を告示の形式で示しながら、法的拘束力があると主張しており、最一小判平成2年1月18日民集44巻1号1頁も法的拘束力を認める)。

(2)訓令・通達の法的拘束力に関する問題(重要)

 訓令・通達は行政規則としての法的性質を有するが、法規としての性質を有しない。このことから、従来の学説・判例は、内部行為的性質を重視しつつ次のような法理を示してきた。

 ①通達は、国民の法的地位に直接影響を及ぼすものではない。単に下級機関の権限行使を制約するにすぎない。そのため、上級行政機関は、その有する包括的な行政監督権限に基づき、下級機関の所掌事務について、とくに法律の根拠を必要とせずに通達を発することができる。

 ②行政庁が国民に対して通達に反する処分を行っても、その処分は通達違反の故に直ちに違法とは認められない。国民は、通達に違反した不利益な処分を被っても、処分が通達に違反することのみを以て処分の違法を主張することはできない。行政庁側も、処分が通達に違反しないことを理由として、処分の違法性が争われているときにその処分の適法性を根拠づけることは許されない。また、裁判所も、法令の解釈運用の際に訓令・通達の拘束を受けることはない。従って、通達に定められた取扱いが法の趣旨に反している場合には、裁判所は、その取扱いの違法も判断できる。

 ③通達は、国民と直接関係しない。従って、違法な通達が発せられ、そのために事実上国民に対し不利益な効果が及んでも、国民は通達自体を争うことはできない。もし違法な通達が発せられた場合には、国民は具体的な不利益処分が行われるのを待ち、行政処分がなされた段階で、この行政処分に対して行政訴訟などを提起して、違法な通達を執行した具体的処分の違法性を争えばよい。

 ●最三小判昭和43年12月24日民集22巻13号3147頁(Ⅰ―57)

 墓地、埋葬等に関する法律第13条に定められた「正当な理由」(埋葬の拒否に関する)について厚生省環境衛生課長が通達を発していたが、宗教団体間の対立から埋葬拒否事件が多発するに至り、同省公衆衛生局環境衛生部長が新たに通達を発した。これに対し、原告寺院が異宗徒の埋葬の受忍が刑罰によって強制されるなどとして、新たな通達の取消しを求めて出訴した。最高裁判所は、上に示したような通達の性格を述べた上で、通達が直接的に原告寺院の埋葬受忍義務を課したり墓地の経営管理権を侵害したりするようなものではなく、通達は行政処分ではないとして、上告を棄却した。

 しかし、現実において、通達は行政機構に対して強い指導力(ないし拘束力)を有し、国民の地位に大きな影響を及ぼすことが多い。状況によって、通達に何らかの法的意味を認めることも必要となろう、具体的には次のような論点がある。

 a.通達によって慣習法化した場合(例、法解釈):通達が変更されるときなどに問題となる。

 ●最二小判昭和33年3月28日民集12巻4号624頁(Ⅰ―56)

 旧物品税法において「遊戯具」は課税対象物品とされたが、パチンコ球遊器は10年間ほど課税の対象となっていなかった。しかし、東京国税局長は、パチンコ球遊器が「遊戯具」に該当するという趣旨の通達を発し、これに基づいて税務署長がパチンコ球遊器製造業者に対して物品税賦課処分を行った。判決は、「本件の課税がたまたま所論通達を機縁として行われたものであっても、通達の内容が法の正しい解釈に合致するものである以上、本件課税処分は法の根拠に基く処分と解するに妨げがな」いと述べた。

 b.通達によって処分への審査基準が設定された場合(例、平等原則違反)。また、大量一律に許認可の可否を決定する場合。

 c.国民が通達の影響で直接的に重大な不利益を被り、しかも通達そのものを争わなければ、救済を全うしえないような特段の事情がある場合。

 (3)要綱の問題

 補助金給付要綱(これは、実際上、裁量基準として機能する。また、法律の委任を受けていない場合が多い)や指導要綱(宅地開発指導要綱など、地方公共団体において制定された、行政指導の基準)などの形式で存在する。とくに指導要綱が問題とされうる。

 ●最一小判平成5年2月18日民集47巻2号574頁(Ⅰ―103)

 武蔵野市は、中高層建築物建設事業を行う業者に対して開発負担金を納付することを求める行政指導をするため、指導要綱を制定した。原告業者は、賃貸マンションを建設する際に開発負担金を納付したが、これが強迫(行政指導のことを指している)によるものとして返還請求訴訟を起こし、控訴審では国家賠償請求を追加した。最高裁判所は、強迫の主張は認めなかったが、行政指導の限度を超え、違法な公権力の行使があったとして、原審判決を破棄し、差し戻した。

 (4)裁量基準の公表

 裁量基準として行政規則が定められることが多い。裁判所はこれに拘束されない(前掲最三小判昭和43年12月24日)。しかし、裁量基準が公表されると、国民に予測可能性を与え、行政庁の恣意的な判断を抑制する効果がある。逆に、行政庁の意図を知らしめることによってそのとおりの目的を達成しうる。

 行政手続法第5条は、申請に対する処分についての審査基準を可能な限り具体的に定めた上で公開することを義務付ける。また、同第12条は、不利益処分についての処分基準を可能な限り具体的に定めた上で公開することを努力義務としている。

 ●最一小判昭和46年10月28日民集25巻7号1037頁(個人タクシー事件、Ⅰ―125)

 事案:Xは新規の個人タクシー営業免許を申請した。陸運局長Yはこれを受理し、聴聞を行ったが、道路運送法第6条に規定された要件に該当しないとして申請を却下する処分を行った。Xは、聴聞において自己の主張と証拠を十分に提出する機会を与えられなかったなどとして出訴した。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、手続が行政庁の独断を疑わせるような不公正なものであってはならず、法律の趣旨を具体化した審査基準の設定および公正かつ合理的な適用が必要であり、そして申請人に主張と証拠の提出の機会を与えなければならないと述べ、申請人には公正な手続を受ける法的利益があるとした上で、本件の審査手続に瑕疵があるとして、申請却下処分を違法と判断した。

 (5)意見公募手続

 意見公募手続とは、命令等制定機関が命令等を定めようとする場合に、あらかじめ、当該命令等の案および関連する資料を公示し、意見の提出先および提出期間を定めて広く一般の意見を求めることである(行政手続法第39条第1項)。

 ここで「命令等制定機関」とは、命令等を定める機関のことであり、政令のように「閣議の決定により命令等が定められる場合」は「当該命令等の立案をする各大臣」をいう(行政手続法第38条第1項)。

 また、「命令等」は、行政手続法第2条第8号により、次のものとされる(同イ~ニ)

  法律に基づく命令(処分の要件を定める告示を含む)または規則

  審査基準

  処分基準

  行政指導指針

 なお、行政指導指針に関連して、最一小判平成5年2月18日民集47巻2号574頁(Ⅰ-103)および最三小判昭和60年7月16日民集39巻5号989頁(Ⅰ-132)に注意すること(両判決とも別の機会に扱う)。また、行政手続法第32条以下を必ず参照すること。

 さらに、平成26年改正により、第35条が改正されたこと、および、「行政指導の中止等の求め」として第36条の2が、「処分又は行政指導」を求めうることを定める規定として第36条の3が追加されたことにも注意を要する。 

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第6回 行政立法(1)

2015年05月30日 04時00分01秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 1.行政立法とは

 憲法第41条には、国会が「国の唯一の立法機関である」と定められている。ここにいう立法は実質的意味の立法を意味するものとされているから、原則として、実質的意義の立法(権)は立法機関たる議会(国会)によって担われるべきものと考えられる

 しかし、現実の問題として、全ての事項について詳細にわたって立法機関が実質的意義の立法(権)を行使することは不可能である。そこで、法律を執行するための細則などを行政機関が定める必要が出てくる。また、法律は、或る事項についての要件の決定などを行政に委任することが多くなっている。そこで、行政権実質的意味の立法権を行使することになる。

 憲法第73条第6号も、内閣による実質的意味の立法の行使(政令の制定)を認める。但し、実質的意味の立法ということで、国民の権利や自由などに直接の影響を与えることが予定されることになるため、一定の要件を必要とする。

 それでは、何故、行政立法が必要とされるのであろうか。ここで、よく指摘される点に私自身が考えていることを交えて掲げておく。いずれも深く結びついている。

 第一に、福祉国家理念の実現のため、行政需要の拡大と、迅速な対応の必要性が生じたことである。

 第二に、科学技術などの発展と、それに対する専門技術的知識の必要性が高まったことである。

 第三に、法律の改正には時間がかかり、事態の推移などに迅速に対応しにくいが、行政立法の場合は、法律の改正ほど時間がかからないので、より的確な対応を速くとりうることである。

 第四に、現実に見られる一般的な傾向として、専門技術などについては国会(議員)より行政(職員)のほうが熟達している、という事実を否定することはできないであろう。このためもあって、法律で詳細な規制基準を設けることが難しくなっている。仮に法律に盛り込むとすると、今度は法律の規定がわかりにくいものになりかねない。

 勿論、行政立法の有用性を認めるとしても、日本国憲法が三権分立主義を採用する限り、行政立法は例外的な存在である。また、行政立法は国民主権の原理に照らしても例外的な存在と言わざるをえず、むやみな拡大は望ましくない。行政立法の問題点としては、さしあたり、次の点を指摘しうる。

 まず、行政立法については、国会が行政に対して行う統制(コントロール)を働きにくくするという点を指摘しうる

 ※もっとも、それならば法律や条例はどうなのかという問題もある。現実には、法律や条例の大部分が行政の担当部局の職員により、案として作成されているからである。最近でこそ少なくなったが、オール与党化が指摘された地方議会の議員には、議会の役割が執行機関(地方公共団体の長以下の機関)による予算を成立させることこそ議会の役割であると公言する者が多かった。これでは大日本帝国憲法下において天皇の翼賛機関とされた帝国議会と変わりがなく、まともな議会活動を期待できないし、行政の独走などを許すだけである。

 次に、法律の改正と異なり、行政立法の改正は国民の目に触れにくい。とくに、行政規則とされるものがそうであり、行政権の裁量による新設・改正・廃止が実質的に我々の生活に影響を及ぼす可能性がある。

 そして、現在の裁判制度においては、たとえ行政立法が憲法や法律に違反しているとしても、行政立法自体の違憲性や違法性を争う手段がない。何か具体的な事件が発生しなければ、行政立法の違憲性や違法性を問うことができないのである。これでは、仮に行政立法が憲法や法律に違反しているとしても、その状態が放置され、固定化されることになるのである。

 

 2.行政立法の種類

 従来の学説は、行政立法を二つに大別していた。これについては、全く性質の違う手段を一つにしているということで批判がありうるが、ここでは便宜上、従来通りに説明をする。

 法規命令:これは委任命令と執行命令とに分かれる。名称のとおり、私人の権利や自由などに直接の影響を及ぼすことが予定されている。

 行政規則:これは私人の権利や自由などに直接の影響を及ぼさないとされるものである。基本的に行政内部における一般的・抽象的規範である。

 

 3.法規命令

 (1)定義など

 法規命令とは、行政機関が制定する、行政と私人との権利義務関係に関する一般的規律のことである。名称のとおり、狭義の「法規」としての性質を有する。内閣が発する政令(憲法第73条第6号、内閣法第11条)、内閣府令(内閣府設置法第7条第3項)、各国務大臣が発する省令(国家行政組織法第12条第1項)が法規命令に該当する。

 法律の留保の原則によると、狭義の「法規」を作りうるのは、国民の代表機関である議会によって定立される法律(狭義の法律)のみである。法規命令は、この原則に対する例外をなすのであるから、この原則を可能な限り貫徹するためには、行政機関が単独で実質的な意味における立法の権限を行使することを許してはならない。従って、狭義の法律とは異なり、法律の委任がなければ、国民に義務を課し、または権利を制約する規定を設けることはできない(憲法第73条第6号、内閣法第11条、内閣府設置法第7条第4項、国家行政組織法第12条第3項を参照)。

 日本国憲法の下において、法規命令は、委任命令執行命令とに区別される。なお、大日本帝国憲法第9条は、法律の委任を受けることなく天皇(行政)が発する独立命令も認めていたが、日本国憲法において独立命令を認める余地はない。

 委任命令とは、法律の委任により、新たに私人の権利・義務を創設するなど、私人の権利や自由などに直接的・具体的な影響を与えるもので、実体的な条文を定める。学説は、実体性に着目して、個別的かつ具体的な授権規定の必要性を主張する。

 これに対し、執行命令とは、上位の法令の執行を目的とし、上位の法令において定められている私人の権利や義務を詳細に説明する命令、または、私人の権利や義務を実現するための手続に関する命令をいう。執行命令については一般的な授権で足りるとされる(新たな権利義務の設定を伴わないためである)。

 (2)法律による委任の問題点

 委任命令については、法律における授権規定の性質が問題とされる。抽象的・包括的な委任では、法律に何らの要件をも定めないことと同じであり、行政が実質的な意味の立法権を自由に行使することを許容することになりかねないためである。

 私が、個別的かつ具体的な委任の例として、よく講義で委任命令の例として利用するのが、所得税法第27条第1項と所得税法施行令第63条である。まず、所得税法第27条第1項の規定をみよう。

 「事業所得とは、農業、漁業、製造業、卸売業、小売業、サービス業その他の事業で政令で定めるものから生ずる所得(山林所得又は譲渡所得に該当するものを除く。)をいう。」

 この規定は、事業所得とされる所得についての詳細な定義を政令としての施行令に委任する旨を示すが、「農業、漁業、製造業、卸売業、小売業、サービス業」と具体的な例を自ら示している。これにより、施行令に委任されるべき事柄は明確であり、範囲も限定されることとなる。「その他の事業で政令で定めるもの」が、法律に例示された事業から遠くかけ離れたようなものであったり、そもそも事業とは言えないものであったりすることは許されない。そこで所得税法施行令第63条をみよう。次のような規定である。

 「法第二十七条(事業所得)に規定する政令で定める事業は、次に掲げる事業(不動産の貸付業又は船舶若しくは航空機の貸付業に該当するものを除く。)とする。

 一 農業

 二 林業及び狩猟業

 三 漁業及び水産養殖業

 四 鉱業(土石採取業を含む。)

 五 建設業

 六 製造業

 七 卸売業及び小売業(飲食店業及び料理店業を含む。)

 八 金融業及び保険業

 九 不動産業

 十 運輸通信業(倉庫業を含む。)

 十一 医療保険業、著述業その他のサービス業

 十二 前各号に掲げるもののほか、対価を得て継続的に行なう事業」

 基本的に、法律第27条第1項の例示に即しつつ、より詳細に事業の内容を示していることがわかる。施行令第63条第2号は第1号(法律に示された例)に近いものであるし、施行令のほうの第3号にある水産養殖業は、当然、漁業に結びつく。第11号および第12号は少々具体性を欠くが、事業とされるものの範囲が広範であり、時代の変遷とともに拡大することからして、やむをえないものである。また、施行令第63条柱書きでは不動産の貸付業、船舶の貸付業および航空機の貸付業が除外されているが、これらは所得税法第26条において不動産所得とされていることによる。租税法に求められる要請が基因となっているのかもしれないが、所得税法施行令第63条は、委任立法として望ましい形に仕上がっている例と評価することもできるであろう。

 行政法学、さらには憲法学において問題とされるのは、国家公務員法第102条第1項である。同項は、国家公務員に対し、選挙権の行使を除いて人事院規則14-7に定められる「政治的行為」を禁止している。これは、法律そのものが、禁止すべき「政治的行為」の性質について全く例示をしないまま、具体的な中身を人事院規則に委任していることを意味する。選挙権の行使は憲法第15条により保障される基本的人権であるから、これを「政治的行為」から除外するのは当然であり、除外したところで何が「政治的行為」であるかを法律そのものから了知しうる訳ではない。そもそも「政治的行為」はあまりに漠然としている概念であるから、国家公務員法第102条第1項については、法律の授権が包括的にすぎる、白紙委任であるとして、批判も強い。しかも、同項に違反した場合には同第110条第1項第19号という罰則が適用されうるので、一般的・包括的な委任では罪刑法定主義を逸脱することになりかねないのである。

 ※白紙委任の代表例として、刑法第94条がある(現在に至るまで適用例はない)。これは中立命令違反罪を規定するものであるが、犯罪の構成要件が完全に「局外中立に関する命令」に委任されており、法律は刑罰のみを明らかにしている。

 国家公務員法第102条第1項については、裁判でも合憲性が問題とされた。しかし、判例は合憲としている。次の二つの判決を紹介しておこう。

 ●最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁(猿払事件):「政治的行為の定めを人事院規則に委任する国公法102条1項が、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を具体的に定めることを委任するものであることは、同条項の合理的な解釈により理解しうるところである。そして、そのような政治的行為」は「公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであ」り、同項が「同法82条による懲戒処分及び同法110条1項19号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものであるからといって、そのことの故に、憲法の許容する委任の限度を超えることになるものではない。」

 ●最二小判平成24年12月7日刑集66巻12号1722頁:国家公務員法第102条第1項が「同法110条1項19号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものであるからといって、そのこと故に、憲法の許容する委任の限度を超えることにはならない。処理すべき問題は何か、その問題をどのような方向で解決するかが決定された上で、委任がされるときは、一見規定上は白紙委任のようであっても、違憲となるものではないと解される。/本件の場合、人事院規則に政治的行為の定めを委任する目的が、公務員の政治的中立性を維持することにより行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するためであることは、規定の文言及び趣旨からみて明らかであるから、問題の特定は十分にされているということができる。また、上記委任が、公務員の政治的中立性を損なうおそれのある政治的行動の定めを予定するものであることも、規定の文言及び趣旨から合理的に理解することができる。したがって、その委任は、白紙委任ではなく、それ自体において違憲とすべきものではない。」(/は、原文における改行箇所)

 (3)法規命令の違法性

 委任する法律の側ではなく、委任を受けた側(法規命令)の違法性が問題となることがある。以下、若干の例を概観しておく。

 ●最大判昭和46年1月20日民集25巻1号1頁(Ⅰ―51)

 農地法第80条(当時)は、国が強制買収で取得した農地について農林大臣が農地としての性格が認められないとして相当と認めた場合に旧所有者又はその一般承継人に売り払わなければならないと規定していた。法律の規定では対象の土地について限定を加えていなかったが、農地法施行令旧第16条は「公用、公共用又は国民生活の安定上必要な施設の用に供する緊急の必要があり、且つ、そのように供されることが確実な土地等」に限定していた。判決は、施行令旧第16条が農地法の委任の範囲を超えて無効であると述べた。この判決は妥当であり、とくに問題はないものと思われる。

 ●最一小判平成2年2月1日民集44巻2号369頁

 銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)第14条は、現在、次のような規定である。

 第1項:「都道府県の教育委員会は、美術品若しくは骨とう品として価値のある火縄式銃砲等の古式銃砲又は美術品として価値のある刀剣類の登録をするものとする。」

 第2項:「銃砲又は刀剣類の所有者(所有者が明らかでない場合にあつては、現に所持する者。以下同じ。)で前項の登録を受けようとするものは、文部科学省令で定める手続により、その住所の所在する都道府県の教育委員会に登録の申請をしなければならない。」

 第3項:「第一項の登録は、登録審査委員の鑑定に基いてしなければならない。」

 第4項:「都道府県の教育委員会は、第一項の規定による登録をした場合においては、速やかにその旨を登録を受けた銃砲又は刀剣類の所有者の住所地を管轄する都道府県公安委員会に通知しなければならない。」

 第5項:「第一項の登録の方法、第三項の登録審査委員の任命及び職務、同項の鑑定の基準及び手続その他登録に関し必要な細目は、文部科学省令で定める。」

 訴訟が提起された当時の規定によれば、銃砲刀剣類のうちで美術品や骨董品としての価値があるものについては、文化庁長官への登録によって所持できるとされていた。訴訟で問題とされたのは、銃砲刀剣類のうち、どのようなものが登録の対象になるかということである。

 銃砲刀剣類登録規則第3条は、第1項において「登録審査委員は、都道府県の教育委員会の指示を受けて、火縄式銃砲等の古式銃砲及び刀剣類の鑑定の職務に従事する」と定め、第2項において「登録審査委員は、鑑定にあたつては、次条の鑑定の基準に従つて公正に行なわなければならない」と定める。この鑑定を受けなければ登録をすることができない訳であるが、第4条第1項は鑑定の対象を「日本製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に製造されたもの、外国製銃砲にあつてはおおむね同年以前に我が国に伝来したもの」としているのに対し、第4条第2項は、刀剣類の鑑定の対象を日本刀に限定している。外国刀剣(サーベル)は、それが美術品や骨董品としての価値がある物であるとしても登録の対象とならない訳である。

 ※元々は文化財保護委員会規則であったが、昭和43年から文部省令となった。現在は文部科学省令である。

 最高裁判所第一小法廷は、法律が登録基準の設定自体を省令に委任しており、省令においてどのような基準を定めるかについては行政庁の専門技術的な裁量が認められるとした上で、登録の対象を日本刀のみとする登録規則第4条第2項は法律の委任の趣旨を逸脱するものではないと述べた。

 省令における基準設定について、行政庁の専門的な裁量が認められることはやむをえないであろう。しかし、この事件の場合、立法の経緯はともあれ、法律の規定のみからでは登録の対象が日本刀のみに限られるという趣旨を読み取ることはできず、判旨には疑問が残る。

 ●最三小判平成3年7月9日民集45巻6号1049頁(Ⅰ―52)

 旧監獄法第50条は、在監者への接見の制限について「命令」(法務省令)で定めるとしており、同法施行規則第120条は14歳未満の者が在監者と接見することを許さないとする規定であった。判決は、この制限が法律によらないで被勾留者の接見の自由を著しく制約するものであるとして、施行規則第120条が法律の第50条による委任の範囲を超え、無効であると述べた。

 ●最一小判平成14年1月31日民集56巻1号246頁

 事案:児童扶養手当法第4条第1項は、児童扶養手当の支給要件を次のように定めている。

 「都道府県知事、市長(特別区の区長を含む。以下同じ。)及び福祉事務所(社会福祉法(昭和二十六年法律第四十五号)に定める福祉に関する事務所をいう。以下同じ。)を管理する町村長(以下「都道府県知事等」という。)は、次の各号のいずれかに該当する児童の母がその児童を監護するとき、又は母がないか若しくは母が監護をしない場合において、当該児童の母以外の者がその児童を養育する(その児童と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その母又はその養育者に対し、児童扶養手当(以下「手当」という。)を支給する。

 一 父母が婚姻を解消した児童

 二 父が死亡した児童

 三 父が政令で定める程度の障害の状態にある児童

 四 父の生死が明らかでない児童

 五 その他前各号に準ずる状態にある児童で政令で定めるもの」

 この第5号を受けて児童扶養手当法施行令第1条の2が定められるが、その第3号は「母が婚姻(婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含む。)によらないで懐胎した児童(父から認知された児童を除く。)」と定められていた。すなわち、子が父から認知されなければ、母は児童扶養手当を受給するが、子が父から認知されると児童扶養手当を受給できないこととなる。

 X(原告・被控訴人・上告人)は、A(子)が同施行令第1条の2第3号に定められる児童に該当するとして児童扶養手当を受給していた。しかし、B(父)がAを認知したため、Y(県知事。被告・控訴人・被上告人)は、同号括弧書きに該当するとしてXの受給資格を喪失させる処分を行った。そこで、Xは同号括弧書きが憲法第14条に違反するなどとして処分の取消を求めた。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、同号括弧書きが法律の趣旨、目的に照らして均衡を欠く結果となり、法律の委任の趣旨に反すると述べ、本件受給資格喪失処分を取り消した(反対意見がある)。判決理由中においては、法律第4条第1項ないし第4項が「法律上の父の存否のみによって支給対象児童の類型化をする趣旨でないことは明らかであるし、認知によって当然に母との婚姻関係が形成されるなどして世帯の生計維持者としての父が存在する状態になるわけでもない。また、父から認知されれば通常父による現実の扶養を期待することができるともいえない。したがって、婚姻外懐胎児童が認知により法律上の父がいる状態になったとしても、依然として法4条1項1号ないし4号に準ずる状態が続いているものというべきである」。

 なお、この判決を受けて、児童扶養手当法施行令第1条の2第3号の括弧書きの部分は削除されている。

 ●最大判平成21年11月18日民集63巻9号2033頁(Ⅰ-53)

 事案:高知県安芸郡東洋町に居住する原告ら(このうちのX5が公務員としての農業委員会委員であった)は、地方自治法第80条第1項に基づき、同町選挙管理委員会に対し、同町議会議員のAについて解職請求を行った。原告らは、この解職請求に係る署名簿を平成20年4月14日に同町選挙管理委員会に提出し、17日に受理されたが、5月2日、署名簿にある全員の署名を無効とする旨の決定を行った。そのため、原告らは異議を申し立てたが、同調選挙管理委員会は異議申立てを棄却したため、出訴した。高知地判平成20年12月5日民集63巻9号2117頁は原告らの請求を棄却したため、地方自治法第80条第4項(第74条の2第5項および第8項を準用する)により、最高裁判所へ上告した。

 問題とされたのは、地方自治法第85条第1項が公職選挙法第89条第1項を準用し、これを受ける形で当時の地方自治法施行令第115条・第113条・第108条第2項・第109条が公職選挙法第89条第1項を準用することによって、農業委員会委員が(公職候補者となることができる場合と否とを問わずに)在職中に議会議員の解職請求代表者となることができない旨を定めていたことである。

 最高裁判所大法廷は、前掲高知地判を破棄し、次のように述べて同町選挙管理委員会による異議申立棄却決定を取り消した(最二小判昭和29年5月28日民集8巻5号1014頁を変更したこととなる)。

 判旨:地方自治法は「議員の解職請求について、解職の請求と解職の投票という二つの段階に区分して規定しているところ、同法85条1項は、公選法中の普通地方公共団体の選挙に関する規定(以下「選挙関係規定」という。)を地自法80条3項による解職の投票に準用する旨定めているのであるから、その準用がされるのも、請求手続とは区分された投票手続についてであると解される」から、地方自治法第85条第1項は「専ら解職の投票に関する規定であり、これに基づき政令で定めることができるのもその範囲に限られるものであって、解職の請求についてまで政令で規定することを許容するものということはできない」。しかし、前記の地方自治法施行令の各規定は、地方自治法第85条第1項に基づいて公職選挙法第89条第1項本文を「議員の解職請求代表者の資格について準用し、公務員について解職請求代表者となることを禁止して」おり、これは地方自治法第85条第1項に「基づく政令の定めとして許される範囲を超えたものであって、その資格制限が請求手続にまで及ぼされる限りで無効と解するのが相当である」。

 (4)法規命令に対する手続的な統制の手段

 上述のような問題点を抱える法規命令であるが、手続面において民主的な統制を加えることにより、実体面にも民主的な色彩を高めることが可能である。その手法としては、現在、次のような例がある。

 第一に、国会による事後承認である。日本においては少ないが、災害対策基本法第109条の例がある。

 第二に、審議会などへの諮問である。電波法第99条の11に義務づけの例がある。なお、審議会などは諮問機関の一種とされるが、手続の点などにおいて問題があり、透明化が必要とされている。現在、中央省庁等改革基本法第30条第4号が、会議や議事録の公開を原則とする旨を規定している。

 第三に、公聴会やパブリック・コメント手続である。国民一般、あるいは利害関係人に意見陳述の機会を与えるもので、独占禁止法第71条、不当表示防止法第5条第1項などに例がある。

 なお、最近ではパブリック・コメント手続がとられることが多くなっており、重要性も増している。これは、まず、政策などの趣旨や省令などの原案を公表し、これに対する国民からの意見を聴取するというものである(インターネットが活用されることになる)。そして、意見を集約した上で結果を公表するというものである。場合によっては、さらに公聴会や討論会を開催することもありうる。

 法規命令を含め、行政立法の制定手続については、行政手続法に盛り込むべきであるという議論があり、検討が重ねられたが見送られたという経緯があった。

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中央大学大学院公共政策研究科が募集停止

2015年05月30日 03時09分06秒 | 受験・学校

 29日の夜に知ったことですが、私も今年(2015年)の4月から兼任講師となったので、複雑な気分です。

 東京都新宿区市谷田町に、中央大学の大学院公共政策研究科があります。ちょうど10年前の2005年4月に開設されたのですが、2016年度から学生の募集を停止することとなりました。従って、今年度には入学試験などが行われないということになります。

 今後、新たな教育指導体制などが検討されるようですが、どのような形になるのでしょうか。

 

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法科大学院の強制閉校が行われるか?

2015年05月29日 09時59分47秒 | 受験・学校

 法科大学院の低迷が叫ばれて久しく、法科大学院の受験者・入学者が減少しています。当然のことです。最初の段階では74もあった法科大学院ですが、私が勤務している大東文化大学を含め、既に25の法科大学院が募集を停止しています。昨年末までに愛知学院大学、東洋大学、静岡大学などの法科大学院が募集停止となることが発表されましたが、今年に入ってからは熊本大学法科大学院の募集停止が報じられたくらいで、「これでは国側から何かの動きがあるだろうな」と思っていました。

 今日の朝日新聞朝刊1面14版に「法科大学院 強制閉校も 政府案 司法試験 低迷校を対象」、38面14版に「法科大学院 サバイバル」という記事が掲載されています。まだ、今後の対応について検討を開始する方向という程度なのですが、再編などが強く主張される割には進んでいない現状を強制的にでも打開しようということでしょう。

 既に、「熊本大学の法科大学院も募集停止に向けて調整か」(2015年02月01日21時47分33秒付)において記したように、補助金の削減およびランク付けが行われています。これにより、淘汰を進めようという意思が透けて見えますが、それでも足りないということでしょう。

 そして、昨日、つまり5月28日、政府に置かれている法曹養成制度改革顧問会議が方針を示しました。強制的閉校も含める形での対応です。学校教育法第15条を適用するのでしょう。ただ、設置基準の見直しなどが必要ともなるので、今すぐに措置がとられるという訳ではなく、2018年度までに改革を行う、とのことです。なお、予備試験の見直しについても検討を進めるそうですが、これは不要でないかと思われます(少なくとも、予備試験の制限という方向での見直しなら不要です。相変わらず、予備試験が「抜け道」となっているとして「本末転倒」という批判があるのですが、その批判のほうが「本末転倒」です。予備試験そのものの合格率が低いことを無視する暴論が今も大学を席巻しているとすれば、情けない話です)。

 強制的閉校の判断基準ですが、最も有力なのは合格率でしょう。合格者数ですと、在籍者が多い法科大学院なら合格率が低くとも大丈夫ということになりますし、教育効果を「測る」には実に不十分な基準となってしまうからです。たとえば、某資格試験について、A校在籍中の100人が受験し、合格者が50人であったとします。他方、B校在籍中の受験者は50人で、そのうちの35人が合格したとします。合格者数はA校のほうが多いのですが、合格率はA校が50%であるのに対し、B校が70%となります。どのようにして教育効果を「測る」のかという根本的な問題が残るとしても、とりあえずわかりやすい基準が合格率であることは一目瞭然です。「結果だけで全てを判断するな」と言われそうですし、私自身も教育に携わる人間として、このような思いはあるのですが、資格試験に直結する学校であるために、結果が大きな意味を持つことは否定できません。合格率が低ければ、何のために法科大学院で教育を行っているのか、意味がわからなくなります。

 その意味で、合格率が低い法科大学院は、早めの対策を採ることを迫られます。上記朝日新聞朝刊38面記事には10%未満の法科大学院(既に募集停止を発表しているところを除く)が明示されています。ウルトラCでもあればよいのですが。

 

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新水前寺駅前電停(2011年8月8日撮影)

2015年05月27日 22時52分03秒 | 写真

 〔今回は、「待合室」の第539回(2013年9月5日から13日まで)として掲載した記事の再掲載です。一部を修正しています。〕

 2011年8月、私は、福岡大学法学部での集中講義「財政法」(2007年、2009年に続いて3度目)を担当するため、福岡市中央区のホテルに宿泊していました。

 この時期の日記が、SDカードのトラブルのために消失していることもあって、具体的に覚えていない部分もあるのですが、8日の朝、西鉄福岡駅から天神大牟田線の特急に乗り、終点の大牟田で鹿児島本線の普通電車に乗り換え、熊本駅で降りました。午前中に35度を超えており、猛烈に暑かったことを覚えています。天気予報などを見ていると、九州の県庁所在都市では熊本市が最も気温の高い所であったりしますが、いやと言うほどに実感しました。

 午前中に三角線に乗り、午後に熊本駅に戻り、豊肥本線の普通電車に乗り、新水前寺で降りました。ここでも熊本市電に乗り換えることができ、水前寺公園、健軍町へ向かうことができます。水前寺公園の裏のほうに熊本県庁があるため、JRならばこの新水前寺駅が最寄となります。また、熊本駅前ではA系統(田崎橋~健軍町)しか利用できませんが、新水前寺ではB系統(上熊本駅前~健軍町)も利用することができます。

 新水前寺駅は熊本市の中央区にある高架駅です。1面1線しかなく、列車交換(九州ではよく離合と言います)もできませんが、「九州横断特急」の停車駅でもあります。その前身である特急「あそ」、そして一時期は博多から光の森または肥後大津まで走っていた特急「有明」の停車駅でもありました。

 駅名に「新」と付けられているところから、新しい駅であると推測できます。隣の水前寺駅までは、JRでは珍しく、600メートルくらいしか離れていませんので、豊肥本線の開通後、かなり経ってから設置された駅であろうと思われる訳です。実はその通りでして、新水前寺駅が開業したのは1988年3月13日です。

 この辺りには、大正時代から熊本市電が通っており、電停もありました。上の写真に登場する電停がまさにそれです。しかし、豊肥本線には駅がなく、電停を降りて水前寺駅まで歩かなければならなかったのです。これでは乗り換えに不便なために設置されたと言われています。

 国鉄の分割民営化の前後、まさにその分割民営化を見据えてということなのか、九州各地で新駅が次々に設置されました。いわゆる三島会社(JR北海道、JR四国およびJR九州)の経営基盤を強化するための一環であったかもしれません。豊肥本線で1980年代以降に設置された駅は、新水前寺の他、平成(1992年)、東海学園前(1986年)、武蔵塚(1981年)、光の森(2006年)、いこいの村(1989年)、大分大学前(2002年)、敷戸(1987年)です。 

 新水前寺駅から新水前寺駅前電停までは、通路によって直結しています。この通路は歩道橋にもなっていますが、かなり新しいものであることが、写真からでもおわかりになるのではないでしょうか。2011年に竣工し、供用開始となったばかりでした。

 ちょうど市電のA系統田崎橋行きが到着しました。通町筋、辛島町、熊本駅前を経由して田崎橋まで走ります。全線150円均一(当時の大人料金)です。車両は1350形で、1960年代に登場しました。この後、自動車社会の到来によって熊本市電は全廃の危機に陥り、しばらくの間は車両の新造もなされなくなります。

 新水前寺駅前電停には、16という番号が付されています。最近では各地で駅番号が付されるようになっており、熊本市電でも2011年から採用されています。A系統の田崎橋電停が1で、そこから健軍町に向かって数字が増えていきます。辛島町が8、通町筋が11、水前寺公園が18、健軍町が26です。なお、上熊本駅前はB1、西辛島町はB9となっています。

 先程、新水前寺駅が1988年に開業したことを記しました。市電はそれよりもはるかに前からここを通っていましたので、当然、名称も異なっていました。長らく「水前寺駅通」と名乗っていたのです。何故か、新水前寺駅が開業しても改称されなかったのですが、2011年になってようやく現在の名称に改められたのです。

 さて、新水前寺から市電に乗り、中心部に出ます。やって来たのは2両編成の低床連接車です。ただ、0800形、9700形のどちらであったかは覚えていません。後の車両に乗ったので、運転席を撮影しておきました。勿論、私が座っていたのは乗客用の席です。

 熊本市電はA系統、B系統に分けられて運行されていますが、正式の路線は次のようになっています。

 幹線:熊本駅前~水道町

 水前寺線:水道町~水前寺公園

 健軍線:水前寺公園~健軍町

 上熊本線:辛島町~上熊本駅前

 田崎線:熊本駅前~田崎橋

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久しぶりに世田谷線を撮影

2015年05月27日 01時21分23秒 | 写真

 このブログでは「合間に行きたくなって…… 西太子堂」(2014年06月21日11時27分57秒付)以来、約11か月ぶりに世田谷線の写真を掲載することになります。今回は300系304F、アップルグリーンの編成です。

300系は2両編成10本ですが、全て塗装が異なります。

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講義の参考書として〔三木義一『日本の納税者』(岩波新書、2015年)〕

2015年05月25日 13時02分59秒 | 本と雑誌

 今月、岩波新書として三木義一『日本の納税者』が刊行されました。

 まだ途中までなのですが、日本国憲法第30条の制定経緯など、かなり興味深い問題点が示されており、参考になります。

 この本では「納税者」を納税義務者および担税者の意味で用いていますが、どちらにも「法的にはどうなのか」というところがありますし、税制について考えさせられるところがあります。そのため、講義の参考書として推薦いたします。

 なお、末筆ながら、御恵送いただいたことにつきまして、三木義一先生、岩波書店の方々に、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第4回 法律による行政の原理

2015年05月25日 00時06分30秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 1.法治主義(Rechtsstaatsprinzip)と法律による行政の原理(Der Grundsatz der Gesetzmäßigkeit der Verwaltung)

 今回の題目に掲げられている「法律による行政の原理」(法治行政の原理ともいう)は、ドイツ公法学、とくにオットー・マイヤー(Otto Mayer. 1846-1924)によって確立された法治主義理論に由来するものである。そこで、まず、法治主義の内容をみることとしよう。

 法治主義は、法治国家ともいうことがある。ドイツ語ではRechtsstaatという。この言葉自体に、法治主義の本来の意味が隠れている。Rechtは、法を意味すると同時に権利をも意味し、正義をも意味する。権利という場合にはSubjektives Recht、法という場合にはObjektives Rechtと区別することもある※※。また、Staatは国家を意味する。このことから、Rechtsstaatは、やろうと思えば権利国家とも訳せるのである。

 ※最近では「主観的権利」という言葉が氾濫しているが、権利そのものが主観的なものであるし、客観的権利というものは想定されていないから、誤訳、もっと言えば悪訳である。

 ※※権利が主観的な正義であるとするならば、法は客観的な正義ということになるのであろうか。

 日本国憲法の下における法治主義は、基本的に二つの内容を前提としている。

 第一に、公権力によって国民の権利・自由を制約する場合には、必ず、立法府たる国会(議会)の制定した法律の根拠が必要である。

 第二に、法律の根拠があるからといって国民の権利・自由をどのように制約してもよいという訳ではない。立法府(国民の代表からなる)による法律であっても制約できない権利・自由が存在する。すなわち、基本的人権が尊重されなければならないのである。

 このうち、本来の法治主義の内容は第一のものであるが、これはイギリス法の「法の支配」(Rule of Law)と土台を同じくする。しかし、法の支配と異なる点は、法治主義の場合、立法作用などが行われるための手続を示すものであり、形式的な概念であるということである。法の支配の場合は、元々が王権に対する封建貴族の権利を擁護するためのものであったが、それが一般的に発展し、国民(とくに市民階級)が立法過程に関与し、自らの権利や自由を可能な限り防衛しようとすることに資する原理である。これに対し、法治主義の場合は、ドイツにおいて市民階級の発達が十分でなかったという社会的背景が存在したため、法の支配にみられるような契機は皆無でなかったものの、弱かったのである。また、法の支配の場合は、市民階級の権利や自由の防衛という目的のために法の実質的内容と合理性を問うものであったのに対し、法治主義の場合は、法の実質的内容と合理性はそれほど強く問われなかったのである

 ※もっとも、法規(Rechtssatz)の概念には注意しなければならない。第1回において説明したので、参照されたい。

 しかし、第一の内容のみでは、結局、法律さえあれば如何様にも権利や自由を制約しうるということになる。これでは国家による不法な行為を防ぐことが十分にできなくなる。そこで、第二次世界大戦後のドイツ公法学においては、法治主義に第二の内容が加わり、憲法裁判所制度の設置および発達によって法治主義の概念が豊かなものになっている。これを日本において高く評価するのが長尾一紘教授であり、現在のドイツ公法学における法治主義の内容を「①権力分立原則、②憲法の優位、③基本権の保障、④法律適合性の原則、⑤法的安全性の原則、⑥比例の原則、⑦裁判による権利保護」とまとめている。いずれも、行政法との関連において重要なものである。

 ※長尾一紘『日本国憲法』〔第3版〕(1997年、世界思想社)25頁。

 以上のような法治主義を行政法に当てはめる際に、法律による行政の原理が導き出されることとなる。オットー・マイヤー以来、この原理は次の三点を主な内容とするものである。

 第一に、前述の狭義の法規を作りうるのは法律のみであるという原則を生み出す。これは「法律の法規創造力の原則」とも言われる。ここでは法治主義の元来の内容がそのまま導入され、国民の権利や自由を直接的に制限し、あるいは国民に義務を課する法規範(法規)は、国民の代表機関である議会によって定立される法律によらなければならないとされる。日本国憲法第41条における立法とはこの意味であり、行政機関が単独で実質的な意味における立法の権限を行使することは許されないのである。

 ※もっとも、実際には例外もある。行政立法がそれに該当するが、この場合であっても、日本国憲法においては、法律の委任なくして法規を定めることはできないとされている。詳細は第6回において扱う。

 第二に、行政の様々な活動が法律に反してはならないという原則を生む。これは「法律の優位の原則」(Der Grundsatz des Vorrangs des Gesetzes)とも言われる。従って、行政決定や行政慣例が法律の内容と矛盾する場合には、その範囲において行政決定や行政慣例が違法となる。なお、憲法に違反してはならないことは当然のことである。

 第三に、行政が何らかの活動を行う際に、その活動を行う権限が法律によって行政機関に授権されていなければならない(すなわち、与えられていなければならない)という原則を生む。これは「法律の留保の原理」(Der Grundsatz des Vorbehalts des Gesetzes)と言われている。第一の内容から導き出されるものであり、少なくとも、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課するような活動を、法律の根拠なくして行政権が単独でなすことは許されないということになる。

 

 2.法治主義の射程距離―侵害留保説、全部留保説など―

 但し、法律の留保の原則については、適用される範囲という問題がある。

 まず、既に述べたように、少なくとも国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課する行政活動については、法律の根拠を必要とする。この考え方については一致がみられる。自由主義を前提とする限り、当然のことである。

 問題は、その他の行政活動にも法律の根拠が必要であるのかということである。上述の考え方に留まる考え方が侵害留保説であり、日本国憲法の下においても支持されてきた。通説であり、判例も、この考え方を前提としているものと思われる。ちなみに、侵害留保説を採りつつも、法律の根拠を必要とする範囲を拡大することは可能であるし、望ましい。

 しかし、民主主義の原則は、国民主権を前提とするから、行政権の発動も国民の意思に従うべきである、という考え方も、当然成り立ちうる。そこで、(少なくとも国民に対する)全ての行政活動に法律の根拠を必要とするという考え方がある。これを全部留保説という。しかし、この考え方に対しては、現実的でない、行政が硬直化して臨機応変に需要の変化に対応できないなどの問題がある。

 侵害留保説と全部留保説との間に、様々な説が展開されている。そのうちの代表的なもののみを取り上げておく。

 まず、権力留保説は、侵害留保説を拡張し、行政がおよそ権力的な行為形式によって活動をなす際には法律の根拠を必要とするという考え方である。国民に権利を与えたり義務を免ずるものであっても、法律の根拠が必要とされることになる。

 つぎに、社会留保説がある。これは福祉国家理念から発生したもので、国民の社会権を確保するために行われる生活配慮行政についても法律の根拠を必要とするという考え方である。給付行政にも法律の根拠が必要であるということになる。

 また、近年、ドイツにおいて「本質性理論」(Wesentlichkeitstheorie.以下、本質留保説とする)が有力になり、連邦行政裁判所の判例において形成・採用されている。この内容は必ずしも明確でないが、基本権(基本的人権)に関する憲法上の条項を基準として、「基本権実現にとって本質的」である領域については、必ず法律の根拠を必要とする、ということである。問題は、本質的か本質的でないかの判断に関する基準であろう

 ※本質留保説に関する日本語の文献として、大橋洋一『行政規則の法理と実態』(1989年、有斐閣)93頁、同「法律の留保学説の現代的課題―本質性理論(Wesentlichkeitstheorie)を中心として―」『現代行政の行為形式論』(1993年、弘文堂)1頁が参考になる。

 現在のところ、この他にも様々な説があるが、なお侵害留保説の妥当性が大きい。

 なお、以上は行政作用法の根拠に関する議論である。行政組織法の根拠は全行政領域に要求される。また、権力的手段に関しては行政作用法・行政組織法・行政手続法の根拠を必要とするのであり、非権力的手段に関しては行政組織法・行政手続法の根拠を必要とすると考えるべきであろう

 ※行政手続法の根拠については、以前ならば不要と考えられていた。新井隆一編『行政法』(1992年、青林書院)20頁。

 

 3.法律による行政の原理、とくに「法律の留保」との関係が問題になる事例

 日本において、行政活動は法律による行政の原理に服すべきであり、少なくとも侵害留保説が妥当すべきである。しかし、実際には法律の留保の要請を充たしていないのではないかと考えられる事例が存在する。ここで若干の裁判例を概観する。

 (1)自動車の一斉検問

 交通取締の一環として行われる自動車の一斉検問であるが、実のところ、そもそも、法的根拠は何かという問題がある。

 判例は警察法第2条第1項説に立つ。行政実務も同じであり、学説においても多数説ではないかと思われる。しかし、警察法は行政作用法ではなく、行政組織法に属する。しかも、同第2条第1項は「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする」と定めている。「交通の取締」が明示されているからであろうが、このような規定が自動車の一斉検問の法的根拠になりうるのであれば、犯罪の捜査についても法的根拠となりうるから、刑事訴訟法の第2編第1章にある規定の一部が不要になるはずである。しかし、そのような説を述べる者は存在しない。警察法第2条第1項説は論旨が一貫せず、妥当性を欠く。

 判例の立場を採りえず、しかも行政作用法に根拠を求めるとすれば、警察官職務執行法第2条説が浮かび上がる。かつて、私はこの説を採っていた。しかし、同条は職務質問、すなわち特定の者に対する質問に関する規定であるから、犯罪の嫌疑の有無を問わない一斉検問を文言解釈によって導きうるはずもなく、類推解釈の許容範囲を超えていることも否定できない。そうなると残るのは、法的根拠がないので違法であるとする説である。

 ●最三小決昭和55年9月22日刑集34巻5号272頁(Ⅰ―113)

 事案:警察官が、飲酒運転の多発地帯である場所で交通違反取締りを目的とする自動車検問を行った。X運転の車は、外観からは不審な点が存在しなかったが、警察官の合図に従い停車した。警察官はXに運転免許証の提示を求めた際、酒の臭いを感じたので降車を求め、派出所で飲酒検知を行ったところ、酒気帯び運転の事実が確認された。Xは自動車検問が何の法的根拠もなく行われたなどとして争ったが、第一審および第二審は、自動車検問の法的根拠を警察法第2条第1項とした上でXの主張を退けた。最高裁第三小法廷も、次のように述べてXの上告を棄却した。

 判旨:まず、自動車の一斉検問については、基本的に警察法第2条第1項を根拠とする説に立ち、「交通の安全及び交通秩序の維持などに必要な警察の諸活動は、強制力を伴わない任意手段による限り、一般的に許容されるべきものである」としつつ、「国民の権利、自由の干渉にわたるおそれのある事項にかかわる場合には、任意手段によるからといって無制限に許されるものではない」としている。しかし、自動車を運転するものは「公道において自動車を利用することを許されていることに伴う当然の負担として、合理的に必要な限度で行われる交通の取締に協力すべき」であるなどのことを考慮すると、一斉検問で「運転者などに対し必要な事項についての質問などをすることは、「それが相手方の任意の協力を求める形で行われ、自動車の利用者の自由を不当に制約することにならない方法、態様で行われる限り、適法なものと解すべきである」と述べている。

 (2)緊急措置と法律による行政の原理との関係

 既に述べたように、法律による行政の原理は、最低限度として、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課する行政活動について妥当すべきものである。しかし、現実には、目前に公共の安全や秩序に対する危害が存在し、これに緊急に対処しなければならない場合が存在する。このような事態が発生しているのに、対処方法を規定する法律の規定が存在しないならば、行政は何らの予防策などをとることもできず、危害を放置して安全や秩序が崩れるまで待たなければならないのであろうか。これでは、行政が国民の安全を確保することができず、ひいては生命、身体、財産などを保護することができないということになる。緊急措置として、例外的ではあれ、法律の根拠がなくとも何らかの措置をとることができると考えなければならない場合があるのではなかろうか。 

 ●最二小判平成3年3月8日民集45巻3号164頁(Ⅰ-106)

 事案:千葉県浦安町(現在は浦安市)を流れる某河川に、河川法および漁港法による占用許可を受けずにヨット係留施設が設置された。そのため、船舶の航行にとって危険な状態が続いた。浦安町長は、千葉県葛南土木事務所長に撤去を要請したが、撤去はなされなかった。そこで、浦安町長は、本来の河川の管理者である千葉県知事の措置を待たず、このヨット係留施設の鉄杭を独自に撤去した。本来、このような場合には、漁港法に基づいて漁港管理規程(条例)が制定されるべきであったが、浦安町は(漁港管理者であるが)漁港管理規程を制定していなかった。そのため、千葉県知事は河川法に違反する施設の撤去命令を発する権限を有するが、浦安町長はその権限を有していなかった。

 この事件について、原告住民は、撤去に従事した町の職員に時間外勤務手当が支払われたこと、および撤去工事請負契約の代金が支払われたことを問題として、住民訴訟を提起した。ここでの争点は、町(長)が不法に設置されたヨット係留施設を撤去する権限を有するのか、有しないとすれば公金支出が違法であるのかというものである。

 千葉地判昭和62年3月25日民集45巻3号180頁は原告住民の主張を全面的に認めて請求を認容する判決を下し、東京高判平成元年5月30日民集45巻3号189頁は撤去工事請負契約についてのみ原告住民の請求を認容する判決を下した。最高裁判所第二小法廷は、次のように述べて浦安町長の主張を認め、原告住民の請求を棄却した。

 判旨:「本件鉄杭は、本件設置場所、その規模等に照らし、浦安漁港の区域内の境川水域の利用を著しく阻害するものと認められ、同法三九条一項の規定による設置許可の到底あり得ない、したがってその存置の許されないことの明白なものであるから、同条六項の規定の適用をまつまでもなく、漁港管理者の右管理権限に基づき漁港管理規程によって撤去することができるものと解すべきである」が「当時、浦安町においては漁港管理規程が制定されていなかったのであるから、上告人(注:浦安町長のこと)が浦安漁港の管理者たる同町の町長として本件鉄杭撤去を強行したことは、漁港法の規定に違反しており、これにつき行政代執行法に基づく代執行としての適法性を肯定する余地はない」。しかし、「浦安町は、浦安漁港の区域内の水域における障害を除去してその利用を確保し、さらに地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全を保持する(地方自治法二条三項一号参照)という任務を負っているところ、同町の町長として右事務を処理すべき責任を有する上告人は、右のような状況下において、船舶航行の安全を図り、住民の危難を防止するため、その存置の許されないことが明白であって、撤去の強行によってもその財産的価値がほとんど損なわれないものと解される本件鉄杭をその責任において強行的に撤去したものであり、本件鉄杭撤去が強行されなかったとすれば、千葉県知事による除却が同月九日以降になされたとしても、それまでの間に本件鉄杭による航行船舶の事故及びそれによる住民の危難が生じないとは必ずしも保障し難い状況にあったこと、その事故及び危難が生じた場合の不都合、損失を考慮すれば、むしろ上告人の本件鉄杭撤去の強行はやむを得ない適切な措置であったと評価すべきである」。従って、「上告人が浦安町の町長として本件鉄杭撤去を強行したことは、漁港法及び行政代執行法上適法と認めることのできないものであるが、右の緊急の事態に対処するためにとられたやむを得ない措置であり、民法七二〇条の法意に照らしても、浦安町としては、上告人が右撤去に直接要した費用を同町の経費として支出したことを容認すべきものであって、本件請負契約に基づく公金支出については、その違法性を肯認することはでき」ない。(下線は引用者による強調箇所)

 この判決に対する評価は分かれており、法律による行政の原理に対する例外を認容した判決とする評価と、町(長)とヨットクラブ代表者との関係について撤去を適法としたものではないとする評価が存在する。この訴訟の原告はヨットクラブ代表者でなく住民であったため、直接、法律による行政の原理が争われていたと言い難い部分もある。また、ヨット係留施設の存在による危害と撤去措置とが比例関係にあるか否かも問われうるであろう。

 その点を承知した上で、一般論として述べるならば、本来、私人の意思に反して私人の財産たる工作物を撤去するには、撤去命令を定めた法律の根拠が必要である。その根拠が欠けているならば、民事執行によらざるをえない。これが原則であることを認めない訳にはいかない。しかし、国民・住民(私人)の生命や身体を保護しなければならないような場合など、緊急を要するような場合にまで、法律の根拠がなければ活動をなしえないのか。緊急措置(緊急避難措置)が必要ではないのか。極めて限定的に解さざるをえないとはいえ、民法第720条に定められた正当防衛および緊急避難のいずれかが、行政法においても適用される余地はあるものと解される。

 

 4.行政法の一般原則(条理)

 行政法の一般原則というのであれば、先の法律による行政の原理が例であるが、ここでは、不文法の一種としての条理をあげておく。

 条理とは、社会生活において相当多数の人が一般的に承認する道理である。但し、実際には、条理は、裁判官が具体的な事件に即して適切な裁判規準を形成するための手がかりであり、または心構えである。その意味において、慣習法のように、一般的規準として存在するものではない。

 なお、少数説ではあるが、条理の法源性を否定する見解もある。

 刑事裁判においては罪刑法定主義が支配するため、不文法たる条理が援用されてはならない。これに対し、民事裁判の場合、成文法にも慣習法にも判例法の中にも適切な裁判規準がない場合には、条理に従うものとされる。

 (1)比例原則

 国民の権利や自由を制約する際に、その制約の程度に見合うように公権力の行使がなされなければならない、という原則である。換言すれば、国民の権利や自由を制約する際には、必要かつ最小限の手段が用いられなければならない、ということである(必要性の原則過剰禁止の原則)。警察官職務執行法第1条第2項は、この原則を確認した規定であると言われる。「警察は、大砲を使って雀を撃ってはならない」という名言がある

 ※Fritz Fleiner, Institutionen des Deutschen Verwaltungsrecht, 8. Auflage, 1928, S. 412.

 (2)平等原則

 憲法第14条に根拠を求めることができる。法律による行政の原理に適合しているとしても、平等原則に違反する場合には行政活動などが違法となることもありうる(スコッチライト事件として有名な大阪高判昭和44年9月30日判時606号19頁を参照)。

 (3)信義誠実の原則

 民法第1条第2項に規定されている信義誠実の原則は、元々、ドイツの債権法に由来する考え方である。これが民法全体の原則に、さらに法の一般原則にもなり、行政法の分野にも妥当するようになった。なお、日本の判例は「禁反言の原則」という、英米法に由来する語も用いる。ほぼ同義であるが、信義誠実の原則のほうが若干広範囲であるといわれる。

 しかし、行政法において、信義誠実の原則をそのまま援用すると問題が生ずる場合がある。それは、この原則が法律による行政の原理と抵触し、違法な行政活動を確定的に有効としてしまう場合があるためである。信義誠実の原則は、行政活動によって何らかの損害を受けた私人を救済するための手段であるが、これを無条件かつ安直に用いるとすると、他者にとって不公平な結果を招く危険性もある。従って、具体的な事案への適用の妥当性が問題となる。以下、判例の状況を概観しつつ、検討する。

 ▲租税法律主義と信義誠実の原則との抵触

 憲法第30条および第84条(とくに後者)は、租税法律主義を規定する。これが妥当すべき租税関係(さらに言えば租税法)に信義誠実の原則をそのまま援用すれば、当然、租税法律主義との抵触が生じることとなる。具体的な事件に関し、法律に定められた課税要件を行政が勝手に変更することになるからである。一方、結果的には法律が定める課税要件に適合するとしても、手続の面において何らかの問題があった場合には私人の権利や利益が侵害され、納得のできないものとなる可能性もあるから、可能な限りこれを避けなければならない。法律に従った課税を選択するか、私人の権利や利益の擁護を選択するか、難しい判断を迫られるのである

 ※「租税法講義ノート」〔第2版〕の「07 租税法と信義誠実の原則」も参照されたい。

 租税法において信義誠実の原則の適用があるか否かという問題が、初めて本格的に扱われたのが、次に示す判決である。

 ●東京高判昭和41年6月6日行裁例集17巻6号607頁(文化学院非課税通知事件)

 事案:原告Xは民法上の財団法人である(私立学校法による学校法人ではないことに注意!)。Xは、自らが保有し、直接教育の用に供している土地および建物について固定資産税を非課税とするように求める文書を東京都千代田税務事務所長に提出した。同事務所長は、本件土地および建物が地方税法第348条第2項第9号に該当するものと誤認し、本件土地および建物については非課税とする趣旨の決定を行い、通知した。しかし、それから8年ほど経ち、同事務所が調査したところ、Xの土地および建物は非課税物件ではなく、課税物件であることが判明した。そこで、同事務所長は本件土地および建物について固定資産税を賦課徴収するという趣旨の決定をし、Xに送付した。Xは固定資産税を納めなかったので、Y(東京都知事)が土地について差押処分を行った。Xは、この差押処分の取消を求める訴訟を提起し、固定資産税賦課処分の無効も主張した。

 東京地判昭和40年5月26日行裁例集16巻6号1033頁は、本件について信義誠実の原則(同判決では禁反言の原則)の適用を認め、差押処分を取り消したが、Yが控訴した。

 判旨:東京高等裁判所はYの主張を認め、一審判決を取り消した。詳細は「租税法講義ノート」の「07 租税法と信義誠実の原則」を参照。

 この事件において、Xは、かつてなされたYの決定内容を信頼していた訳である。この場合、Xの信頼を保護する必要性があったのであろうか。Xは学校法人でないため、地方税法第348条第2項第9号の適用を受けないという前提事実を基にして考えてみていただきたい。

 そして、次の判決において、最高裁判所が租税法の領域に関する信義誠実の原則の適用に関する原則らしきものを提示している。

 ●最三小判昭和62年10月30日訟務月報34巻4号853頁(Ⅰ-26)

 事案:Xは、Aが経営する酒屋に勤めており、しばらくしてからは実質的に経営をなすようになった。Aは青色申告について所轄税務署長Yの承認を受けており、昭和29年分から昭和45年分まで、事業所得に関する青色申告はAの名義で行われていた。しかし、昭和47年3月に行われた昭和46年分の青色申告はAの名義ではなく、Xの名義で行われている。Xは青色申告についてYの承認を受けていなかった(そもそもそのための申請を行っていなかったようである)が、どういう訳かYはX名義の青色申告書を受理し、その後、昭和47年分から昭和49年分についても青色申告用紙をXに送付し、Xの青色申告を受理していた。なお、Aは昭和47年秋に死亡している。

 或る日、YはAの相続人について相続税の調査を行った。その際にXが青色申告の承認を受けていないことを知った。そこで、Yは昭和48年分および昭和49年分の青色申告の効力を否認し、白色申告とみなして更正処分を行った。Xは、この更正処分が信義誠実の原則に違反するとして処分の取消訴訟を提起した。福岡地判昭和56年7月20日訟務月報27巻12号2351頁および福岡高判昭和60年3月29日訟務月報31巻11号2906頁がXの主張を認めたために、Yが上告した。

 判旨:最高裁判所第三小法廷は破棄差戻判決を下した。この判決において、租税関係に対する信義誠実の原則の適用を完全に否定していない。しかし、適用に際しては、少なくとも次の3つの要件を充足しなければならないという趣旨を述べている。

 ①信頼の対象適格性:行政庁が、納税者(例.青色申告者)に対して信頼の対象となる公の見解を、通達の公表など一般に対し、あるいは申告指導のように個別に示したこと。

 ②信頼保護の正当性。行政庁の表示を納税者が信頼し、その信頼に基づいて行動したことについて、納税者に帰責事由があるか否か(あれば保護されない)。

 ③信頼保護の必要性。②で納税者に帰責事由がなく、後に行政庁の表示と異なる行為(処分)が行われたために、納税者が経済的不利益を被ったか否か。

 (なお、原文は上記要件を一つの文章で表現しており、とくに「いくつの」というように数をあげている訳ではない。そのため、教科書によっては要件が4つまたは5つというように理解されていることがある。私は、判決文において使われている接続詞などから判断して3つに分けた。)

 上の例からわかるように、信義誠実の原則は、多くの場合、相手方の信頼保護と関わる。厳密に言うならば、信義誠実の原則と相手方の信頼保護(の原則)は等号で結ばれない場合があるが、基本的には同じものと考えてよいであろう。

 さて、上記最高裁判所第三小法廷判決は、どの要件に照らして信義誠実の原則の適用を否定したのであろうか。これを試験やレポートの問題として出すと、②、あるいは③の要件を満たさないものと考えられる、という答案が少なくない。

 既に述べたように、判決文では上のようには書かれておらず、ただ一つの文章で表現しているだけであるから、どの要件に該当するかを答えることは難しいかもしれない。しかし、事案をよく読み、さらに、判決文を丁寧に読み返してみると、次に示す文章が続いていることがわかる。

 「納税申告は、納税者が所轄税務署長に納税申告書を提出することによって完了する行為であり(国税通則法一七条ないし二二条参照)、税務署長による申告書の受理及び申告税額の収納は、当該申告書の申告内容を是認することを何ら意味するものではない(同法二四条参照)。また、納税者が青色申告書により納税申告したからといって、これをもって青色申告の承認申請をしたものと解しうるものでないことはいうまでもなく、税務署長が納税者の青色申告書による確定申告につきその承認があるかどうかの確認を怠り、翌年分以降青色申告の用紙を当該納税者に送付したとしても、それをもって当該納税者が税務署長により青色申告書の提出を承認されたものと受け取りうべきものでないことも明らかである。そうすると、原審の確定した前記事実関係をもってしては、本件更正処分が上告人の被上告人に対して与えた公的見解の表示に反する処分であるということはできないものというべく、本件更正処分について信義則の法理の適用を考える余地はないものといわなければならない。」

 すなわち、①の段階で適用がないものと判断されていることが理解されるであろう。①の要件に適合してこそ、②ないし③を論じる意味がある。従って、①の要件は他の要件の前提となっている訳である。

 所轄税務署長の承認を受けずに青色納税申告書を提出したからといって、これが青色申告をなすことと言えないことは当然であろう。また、このように提出された申告書を税務署長が受理し、申告納税額を収納したからといって、これが直ちに青色申告納税の承諾を意味するものではなければ、納税者が青色申告者であることを公的な見解として表示したことにもならない。しかし、本件の場合、誤った扱いであるとはいえ、受理ないし収納という手続を税務署長が行い、しかも数年続いていたということになれば、これはもはや、黙示的であるとはいえ、公的見解を示したと理解してもよいのではないか、という意見も成り立ちうる。納税義務者の立場からすれば、たとえ税務署長の誤りによるとはいえ、一度は青色申告を受けつけ、その申告書に示された税額を収納しているのであるから、自らの誤りを棚に上げて青色申告を否認して更正処分をなすというのは背信的行為であると言わざるをえない。

 ▲信義誠実の原則については、行政行為の撤回などについても問題となる場合が存在する。判例などで問題となったのは、計画や政策の変更に伴う損害である。このような場合には信義誠実の原則が適用されやすいとも言える。下級審判決において、信義誠実の原則の適用を認めた例として、次のものがある。

 ●熊本地玉名支判昭和44年4月30日判時574号60頁

 熊本県荒尾市は、昭和30年代に住宅難を解消するため、公営住宅団地の建設計画を立てた。この計画による公営住宅には浴室設備の計画がなかったので、荒尾市は公衆浴場の建設設置者を募集し、甲を選んだ。荒尾市と甲は協議の末、公営住宅の建設、およびその公営住宅の所在地における公衆浴場の建設を内容とする契約を結んだ。この契約を履行するため、甲は公衆浴場の建設に着手し、翌年に99パーセントほどを完成させ、営業許可も得た。ところが、荒尾市長が死亡したことによって交代し、新市長は突然この建設計画を縮小したため、公衆浴場は経営が不可能な状態に陥った。そこで甲は荒尾市に対して損害賠償を請求した。判決は、荒尾市の行為が不法行為を構成するとして、甲の請求を一部認めた。

 逆に、信義誠実の原則の適用を認めなかったものとしては、札幌高判昭和44年4月17日行集20巻4号486頁、仙台高判平成6年10月17日判時1521号53頁などがある。

 最高裁判所の判例のうち、信義誠実の原則または信頼保護の原則の適用を認めたものの代表例として、次の判決がある。

 ●最三小判昭和56年1月27日民集35巻1号35頁(Ⅰ-27)

 事案:Xは、沖縄県のY村に製紙工場を建設する計画を立てた。Y村の当時の村長であったAは、Xからの陳情を受け、工場を誘致してY村所有の土地をXに譲渡する旨の議案を村議会に提出した。これが可決されてから、AはXの工場建設に全面的に協力する旨を言明し、さらに手続を進めた。Xも、村有地の耕作者に対する補償料の支払い、機械設備の発注の準備などを進め、工場敷地の整地工事も完了させた。ところが、ちょうどその頃に村長選挙が行われて工場誘致反対派のBが村長に当選し、就任した。BはXに対し、工場の建設確認申請に同意しない旨を伝えた。Xは、工場の建設や操業ができなくなったとして、Y村を相手取って損害賠償を請求する訴訟を起こした。第一審判決および第二審判決はXの請求を棄却したが、最高裁判所第三小法廷は破棄差戻判決を下した。

 判旨:地方公共団体の施策が変更されること自体に、何ら違法性は存在しない。しかし、施策が特定の者に対する具体的な勧告や勧誘を伴い、「その活動が相当長期にわたる当該施策の継続を前提としてはじめてこれに投入する資金又は労力に相応する効果を生じうる性質のものである場合には」この施策が活動の基盤として維持されることを信頼するのが通常であり、そのような場合の信頼は法的に保護されるべきである、と述べられている。そして、施策の変更によって「社会観念上看過することのできない程度の積極的損害を被る場合に、地方公共団体において右損害を補償するなどの代償的措置を講ずることなく施策を変更することは、それがやむをえない客観的事情によるのでない限り、当事者間に形成された信頼関係を不当に破壊するものとして違法性を帯び、地方公共団体の不法行為責任を生ぜしめるものといわなければならない」。

 (4)権利濫用禁止の原則

 民法第1条第3項に規定される権利濫用禁止の原則も、民法に限らず、あらゆる法領域に適用されるべき法の一般原則である。

 そもそも、民法が明治時代に制定されてから長らくの間、信義誠実の原則および権利濫用禁止の原則に関する明文の規定は民法に存在しなかった。信義誠実の原則が日本の学説や判例において肯定されるようになったのは大正期である。また、権利濫用禁止の原則は明治期から判例において登場していたが、本格的に定着したのは宇奈月温泉事件として有名な大判昭和10年10月5日民集14-1965によると言われる。両原則が民法第1条として明文化されたのは第二次世界大戦後の昭和22年であり、親族編・相続編の大改正と同時に第1条が追加されたのである。以上につき、四宮和夫・能見善久『民法総則』〔第八版〕(2010年、弘文堂)14頁を参照。

 形式的には法律による行政の原理に適合する活動としても、その活動の目的が不当なものであれば、違法と判断されざるをえない。行政法学においては、とくに行政裁量論において裁量権の逸脱・濫用の例として取り上げられることが多かった。

 ●最二小判昭和53年5月26日民集32巻3号689頁(Ⅰ―33)および最二小判昭和53年6月16日刑集32巻4号605頁(Ⅰ―72)

 事案:X社は、某県公安委員会に個室付公衆浴場の営業許可を申請した。しかし、この計画を知った某町は、個室付公衆浴場の予定地である場所から200mも離れていない場所に児童遊園を設置するために県知事に認可を申請し、被告会社への営業許可よりも早い日に認可を得た。X社は個室付公衆浴場を開業したため、県公安委員会から営業停止処分を受け、また、風俗営業等取締法違反に問われて起訴された。そこで、X社は、営業停止処分の取消を求めて出訴するとともに(途中で県に対する国家賠償請求訴訟に変更した)、刑事訴訟においては無罪を主張した。

 判旨:最高裁判所は、いずれについてもX社の請求を認めた。昭和53年5月26日判決において、本件の児童遊園の設置が専ら被告会社の営業を規制(阻止)することを目的としており、これを受け入れた上でなされた県の認可は行政権の濫用にあたる、とされている。

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第2回 行政法とは何か

2015年05月24日 09時32分26秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 現在、私のサイト「川崎高津公法研究室」に「行政法講義ノート〔第5版〕」を掲載しておりますが、様々な事情により、内容を大きく変更する必要が生じてきました。そのために第6版を準備しております。とはいえ、仕事の関係でなかなか進みません。そこで、今回は暫時改訂版として「第2回    行政法とは何か」を掲載します。なお、本文についてはこれまでより少し大きなフォントで公開することといたしました。

 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

 1.公法と私法との区別

 それでは、行政法とは何か。

 行政法を「行政に関する法」、より詳しく言うならば「行政の組織・作用・統制に関する法である」と定義することも可能である。あれこれと難しいことを考えるのでなければ、定義としてはこれで充分かもしれない(それでも「難しい言葉」が入っているが)。

 しかし、例えば県庁において事務用品・備品を購入する際に、(会計法などによる規制は別として)民事法(とくに民法)による規律が妥当すべきである。道路や学校校舎などの建設についても、やはり民事法の請負契約が基本的に妥当すべきである。このような場合にまで、行政法という必要はない。

 そこで、日本の行政法学は、伝統的に、公法と私法の二分論を採用し、行政法を公法に位置づけた上で、行政法は「行政の組織及び作用並びにその統制に関する国内公法」であると定義してきた

 ※田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁。

 まず、行政法は、国内における法であり、条約などの国際法とは区別される。そして「行政の組織及び作用並びにその統制に関する」とされるのは、同じ国内公法である憲法と区別するためである。憲法は、国家を中心にし(従って、立法および司法を含む)、国家の組織および国家の作用に関する根本的な事柄を定めているのである。そして、行政法が公法とされるのは、民法や商法などの私法とは異なる、特殊な、そして固有の法であることを主張するためである。

 もっとも、公法と私法との区別については、何を基準にするかによって見解が分かれ、両者の区別は相対的である。公益・私益を区別の基準とする説(利益説)もあるが、これだけでは区別できない。また、少なくとも一方の当事者が国または(地方)公共団体である法律関係を規律する法が公法であり、私人間の法的関係を規律する法が私法であるとする説(主体説)がある。これは、説明としてはわかりやすいが、国または(地方)公共団体が私人間の法的関係と同じ性質の法的関係を私人と結ぶときには私法であるとしなければならないし、かえって区別の規準が曖昧になるおそれがある。

 そこで、日本の行政法学は、ドイツの行政法学の影響を強く受けて、国家と私人との権力関係を規定する法が公法であり、(私人間の)対等な関係を規定する法が私法であるとする説(権力説)を採用する。

 しかし、実際に、何が公法であり、私法であるかを判断することは難しいし、実益があるかも問題である。公法は基本的に権力関係を規律する法であり、私法は対等関係を規律する法であるというのであるが、実際には、権力関係において私法の規定が適用される場面が存在する。具体的な例をみることとしよう。

 

 2.民法第177条は、行政法関係に適用されるのか

 民法第177条は、不動産の物権変動における対抗要件としての登記に関する規定である。ここでは、基本的に対等の当事者同士が或る不動産の所有権について争っている場合に、自己の所有権を主張し、それを裏付けるようなものとして登記が必要であるとされている。それでは、行政による権力的行為については、やはり登記という対抗要件が必要になるのであろうか。

 (1)最三小判昭和31年4月24日民集10巻4号417頁

 事案:原告が訴外A社から土地を購入し、代金を支払った上に、土地を自己の所有物とする財産税の申告をU税務署長に行ったが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。A社が租税を滞納していたことがきっかけで、Y1(税務署長)はこの土地をA社名義のものとして差し押さえ、登記名義も変更した上で、Y2を競落人とする公売処分を執行した。そして土地の登記名義もY2になった。Xは、Y1に対しては一連の処分の無効確認を求め、Y2に対しては所有権移転登記の抹消登記手続を求める訴えを提起した。一審ではXが敗訴したが二審ではXが勝訴したため、Y1およびY2が上告した。最高裁判所第三小法廷は、以下のように述べて破棄差戻しの判断を示した。

 判旨:「国税滞納処分においては、国は、その有する租税債権につき、自ら執行機関として、強制執行の方法により、その満足を得ようとするものであつて、滞納者の財産を差し押えた国の地位は、あたかも、民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位に類するものであり、租税債権がたまたま公法上のものであることは、この関係において、国が一般私法上の債権者より不利益の取扱を受ける理由となるものではない。それ故、滞納処分による差押の関係においても、民法一七七条の適用があるものと解するのが相当である」。その上で、「国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当るかどうかが問題となるが、ここに、第三者が登記の欠缺を主張するにつき正当な利益を有しない場合とは、当該第三者に、不動産登記法四条、五条により登記の欠缺を主張することの許されない事由がある場合、その他これに類するような、登記の欠缺を主張することが信義に反すると認められる事由がある場合に限るものと解すべきである」(強調は引用者による)。

 なお、この判決には小林俊三裁判官の反対意見が付されている。同裁判官は「国といえども、ひと度租税債権者として納税人と私法の支配する関係に入つた以上、その特殊の性質から出て来る事項を除いては、法律の解釈適用についてすべて他の当事者と同等の地位に立つべきものである」と述べている。

 民法第177条の適用という点からすれば、民法において先取特権が規定されており、国税徴収法第19条ないし第21条、同第23条、同第26条などにおいて先取特権や質権などとの調整に関する規定が存在すること、地方税法第14条の13、同第14条の14、同第14条の17などにも国税徴収法と同種の規定が存在することから考えてみても、前掲最判昭和31年4月24日の論旨は妥当である。

 (2)最一小判昭和35年3月31日民集14巻4号663頁(Ⅰ-10)

 事案:前掲最三小判昭和31年4月24日により差し戻された事件である。名古屋高判昭和32年6月8日民集14巻4号708頁でXが敗訴したため、Xが上告した。最高裁判所第一小法廷はXの上告を認容し、前掲名古屋高判昭和32年6月8日を破棄した。

 判旨:「本件のような場合国が上告人の本件土地所有権の取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないという為めには財産税の徴収に際し前控訴審判決の認定したような経緯、詳言すれば、上告人は前示差押登記前である昭和二一年二月一五日魚津税務署長に対し本件土地を自己の所有として申告し、同署長は該申告を受理して、上告人から財産税を徴税したという事実だけでは足りず、更に上告人において本件土地が所轄税務署長から上告人の所有として取り扱わるべきことを強く期待することがもっともと思われるような特段な事情がなければならない」。本件において認定された事実などを勘案すれば、所轄税務署長が本件土地をXの所有物として取り扱うべきであることをXが「強く期待することが、もっともと思われる事情があったものと認めるを相当と考え」られるのであり、Y1はXの「本件土地の所有権取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないものと認むべき」である(強調は引用者による)。

 (3)最大判昭和28年2月18日民集7巻2号157頁(Ⅰ-9)

 事案:Xは訴外Aから農地を購入していたが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。農地改革の折、地区の農地委員会は、農地の所有者は登記名義人であり、かつ不在地主のAであるとする認定を行い、買収計画を定めた。Xは、地区の農地委員会に対する異議申立て、および県農地委員会への訴願を行った。Xは、県農地委員会の裁決の取消しを求めて訴えを提起した。一審判決および二審判決はXの請求を認容したので、県農地委員会が上告した。

 判旨:最高裁判所大法廷は、農地買収処分が権力的な手段による強制的な買い上げであり、民法上の売買とは本質を異にするから、自作農創設特別措置法による農地買収処分に民法第177条の適用は認められないという旨を述べ、上告を棄却した。これに対しては、真野裁判官の補足意見、霜山裁判官の少数意見、および井上裁判官・岩松裁判官の少数意見がある。

 ※なお、最二小判昭和41年12月23日民集20巻10号2186頁などは反対の趣旨を述べている。

 ここで、公法と私法との区別が念頭に置かれていたのか否かについて疑問が生じるが、少なくとも、最高裁判所の判例においては、権力関係であるから公法の分野の事件であり、私法は適用されない、というような思考方法を採っていないことは明らかである。結局は、事案の性質、法律の趣旨などに照らし合わせて考えなければならないであろう。

 

 3.消滅時効(会計法第30条と民法第167条第1項など)

(1)最三小判昭和50年2月25日民集29巻2号143頁(Ⅰ-37)

 事案:訴外Aは陸上自衛隊員として某駐屯地に勤務していたが、昭和40年の某日、駐屯地内の武器隊車両整備工場において、訴外Bが運転していた大型自動車に轢かれ、即死した。Aの両親であるXらは、国家公務員災害補償法第15条による補償金として76万円を受領していたが、自動車損害賠償責任保険法による強制保険金と比較して補償額が低いことなどから、同法第3条に基づく損害賠償請求訴訟を提起した。東京地判昭和46年10月30日民集29巻2号160頁はXらの請求を棄却したため、XらはY(国)の安全配慮義務違反による債務不履行責任の主張を追加して控訴したが、東京高判昭和48年1月31日訟務月報19巻3号37頁は控訴を棄却した。Xらが上告し、最高裁判所第三小法廷は控訴審判決を破棄し、東京高等裁判所に事件を差し戻した。

 判旨:「会計法三〇条が金銭の給付を目的とする国の権利及び国に対する権利につき五年の消滅時効期間を定めたのは、国の権利義務を早期に決済する必要があるなど主として行政上の便宜を考慮したことに基づくものであるから、同条の五年の消滅時効期間の定めは、右のような行政上の便宜を考慮する必要がある金銭債権であつて他に時効期間につき特別の規定のないものについて適用されるものと解すべきである。そして、国が、公務員に対する安全配慮義務を懈怠し違法に公務員の生命、健康等を侵害して損害を受けた公務員に対し損害賠償の義務を負う事態は、その発生が偶発的であつて多発するものとはいえないから、右義務につき前記のような行政上の便宜を考慮する必要はなく、また、国が義務者であつても、被害者に損害を賠償すべき関係は、公平の理念に基づき被害者に生じた損害の公正な填補を目的とする点において、私人相互間における損害賠償の関係とその目的性質を異にするものではないから、国に対する右損害賠償請求権の消滅時効期間は、会計法三〇条所定の五年と解すべきではなく、民法一六七条一項により一〇年と解すべきである。」(強調は引用者による)

 (2)最二小判平成17年11月21日民集59巻9号2611頁

 事案:平成11年の某日、Yの次男Aは自動車を運転していたが、松戸市内で赤信号を見落として某交差点に進入した結果、横断中のBに衝突して転倒させ、重傷を負わせるという事故を起こした。Bは松戸市立病院に搬送され、入院治療を受けた。Bの診療費等の負担に関してX(松戸市)に交付された入院証書の連帯保証人の欄には、Yの実印による印影が示されていた。Yは、診療費等の負担についてXとの間で連帯保証契約を結んでいないと主張し、また、仮に連帯保証契約を結んでいたとしても、本件の訴状がYに送達されたのが平成15年8月30日であるから、それより3年以上前に発生した診療費請求権は時効消滅するとして、消滅時効の援用を主張した。これに対し、Xは、松戸市立病院が地方自治法第244条第1項にいう公の施設に該当することなどから、消滅時効期間は同法第236条第1項に規定される5年と解すべきであると主張した。千葉地松戸支部平成16年8月19日民集59巻9号2614頁はXの主張を認めたが、東京高判平成17年1月19日民集59巻9号2620頁は、前掲最一小判昭和59年12月13日を参照しつつ「公立病院の施設自体は,中核をなす診療行為に付随する利用関係にすぎないのであって,公立病院と病院利用者との間の法律関係は,基本的には私立病院と利用者の間の法律関係と異なるところはないから,その使用料は私法上の債権と解すべきである」として、Xの請求の大部分を棄却する判決を下した(3年の消滅時効にかからない部分のみ請求を認容した)。Xが上告したが、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却した。

 判旨:「公立病院において行われる診療は、私立病院において行われる診療と本質的な差異はなく、その診療に関する法律関係は本質上私法関係」であり、「公立病院の診療に関する債権の消滅時効期間は、地方自治法236条1項所定の5年ではなく、民法170条1号により3年と解すべきである」。

 

 4.公営住宅の利用関係

 (1)最一小判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁

 事案:被告Yは昭和30年代から某都営住宅に居住していた。公営住宅法第21条の2、同施行令第6条の2など、および東京都営住宅条例第19条の3(いずれも当時)によれば、都営住宅を引き続き3年以上使用しており、かつ、一定の月額収入を超える者は割増賃料を支払う義務を負っており、Yはこれに該当していたが、割増賃料を一切支払わなかった。また、Yは、東京都の許可を得ることなく増築を行った。東京都は、これらが住宅の明渡事由に該当するとして、使用許可を取り消し(実際には撤回である)、割増賃料相当額の支払、増築した建物の収去、および土地の明渡を求めて出訴した。

 東京地判昭和54年5月30日下民集30巻5~8号275頁は、東京都の請求のうち、割増賃料相当分の支払に関する請求のみを認容した。東京都が控訴し(請求の一部を変更している)、東京高判昭和57年6月28日高民集35巻2号159頁は東京都の敗訴部分を取消し、Yに土地の明渡を命じた。Yが上告したが、最高裁判所第一小法廷は、Yの上告を棄却した。

 判旨:まず、最高裁判所第一小法廷は、公営住宅法および東京都営住宅条例の規定の趣旨から「公営住宅の使用関係には、公の営造物の利用関係として公法的な一面があることは否定しえない」としつつも、「入居者が右使用許可を受けて事業主体と入居者との間に公営住宅の使用関係が設定されたのちにおいては、前示のような法及び条例による規制はあつても、事業主体と入居者との間の法律関係は、基本的には私人間の家屋賃貸借関係と異なるところはなく、(中略)公営住宅の使用関係については、公営住宅法及びこれに基づく条例が特別法として民法及び借家法に優先して適用されるが、法及び条例に特別の定めがない限り、原則として一般法である民法及び借家法の適用があり、その契約関係を規律するについては、信頼関係の法理の適用があるものと解すべきである」と述べる(強調は引用者による)。その上で、Yによる増築に関して前記東京高判が信頼関係の法理が適用されないとした点を誤りとしつつも、増築の規模が大きかったなどの理由により、結論として前掲東京高判を支持した。

 (2)最一小判平成2年10月18日民集44巻7号1021頁

 事案:訴外Aは、昭和20年代に某都営住宅に入居し、原告の東京都に賃料を払っていたが、某日に死亡した。その日以降、Aの孫であるY1は、Aから代襲相続によってこの都営住宅の使用権を相続したとして、占有を続けていた。また、Y1の甥であるY2は、Y1から承諾を受けたとしてこの都営住宅に同居していた。東京都は、Y1が東京都営住宅条例第14条の2(現在は削除されている)に規定される使用権の承継の許可を得ていないとして、建物の明渡を請求した。

 東京地判昭和63年12月22日民集44巻7号1026頁は東京都の請求を認めたのでY1およびY2が控訴したが、東京高判平成元年9月18日民集44巻7号1033頁は控訴を棄却した。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、次のように述べて、Y1およびY2の上告を棄却した。

 「公営住宅法は、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で住宅を賃貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とするものであって(一条)、そのために、公営住宅の入居者を一定の条件を具備するものに限定し(一七条)、政令の定める選考基準に従い、条例で定めるところにより、公正な方法で選考して、入居者を決定しなければならないものとした上(一八条)、さらに入居者の収入が政令で定める基準を超えることになった場合には、その入居年数に応じて、入居者については、当該公営住宅を明け渡すように努めなければならない旨(二一条の二第一項)、事業主体の長については、当該公営住宅の明渡しを請求することができる旨(二一条の三第一項)を規定しているのである」から、「入居者が死亡した場合には、その相続人が公営住宅を使用する権利を当然に承継すると解する余地はないというべきである」。

 ▲既に、公法は国家と私人との権力関係を規定する法であると記したが、実は、公法は管理関係というものをも規律する(この場合は伝来的公法関係とも称される)。権力的な関係ではないが、契約締結の自由などが存在しない、または著しい制約を受けているという点において私法とは異なる関係のことで、主に国民の生存権の確保などを目的とするものである。

 

 5.契約の当事者の一方が行政法規に違反している場合の、私法上の効力の有無

 公法と私法との関係ということでは、「行政法規に違反する行為は、私法上、効力を有するのか?」という問題も重要である。よく引き合いに出される例として白タクの話がある。或る駅でタクシーを待っていたら、無許可のタクシー(白タク)がやってきて、それに乗ったところ、通常のタクシーより高い料金を支払わされた、とする。ここで、権利濫用(民法第1条第3項)や公序良俗(同第90条)などを問わないとすると、白タクに乗車して目的地まで行ってもらうという契約は有効なのであろうか。

 ここで、判例による考え方を示しておくと、公共の安全や秩序の維持を目的とする警察取締法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定されない。これに対し、契約や取引の自由を規制することを目的とする統制法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定される。

 (1)最二小判昭和35年3月18日民集14巻4号483頁(Ⅰ-12)

 X社は、A社(食品衛生法による許可を受けている)の代表取締役であるY(食品衛生法による許可を受けていない)に対して精肉を売り渡した。しかし、Yは内金を支払ってはいたが、代金のうちの残りの部分を払っていなかった。Xは、その残りの部分と遅延損害金の支払いを求めた。これに対し、Yは、自らが食品衛生法による許可を受けていないこと、取引の当事者はXとAであってYではないことなどを理由として、売買契約が無効であると主張したが、判決は、食品衛生法を警察取締法規と理解した上で、この法律による許可を受けていない当事者との取引は、私法上の効力を否定されないと判示した。

 (2)最二小判昭和30年9月30日民集9巻10号1498頁(Ⅰ-13)

 Xは煮干し鰯の売買について、当時の臨時物資需給調整法などによる資格を得ていなかった。XはYに煮干し鰯千貫を売り渡し、引渡しも済ませたが、Yが代金を支払わなかったので、Xが訴えを提起した。判決は、臨時物資需給調整法などを経済統制法規と理解した上で、この法律に定められた登録などを行っていない無資格者の取引は、私法上の契約としても無効である、と述べた。

 しかし、最近では、警察取締法規と統制法規との区別を絶対視しないという傾向がある。すなわち、警察取締法規に違反する行為が常に私法上有効であるとは限らないし、経済統制法規に違反する行為が常に私法上無効であるとも限らない。

 

 6.公法の規定により認められる(または禁止されていない)行為が私法に違反する場合の、私法上の効力の有無

 上記とは逆に、公法の規定において認められる、または禁止されていない行為が私法に違反する場合に、私法上の効力の有無が問題となる。例えば、建築基準法第65条に基づき、準防火地域において耐火構造の外壁による建築物が建てられたが、その建築物が民法第234条に違反する(境界線から外壁まで50cmも離れていなかった)という場合、その効力はどのようになるのであろうか。この問題については、次の二つの考え方が成り立ちうる。

 ①建築基準法第65条は民法第234条に対する特別法であるから、相隣者の同意などがなくとも、建築基準法第65条に規定される要件を満たせば、民法上も建築は許される。民法第234条が木造建築物しかなかった頃に制定されたこと、建築基準法第65条は一定の要件の下で許容する規定の形であり、規制の形をとっていないこと、建築基準法に接境建築を禁止する規定が存在しないことなどが、理由としてあげられている。

 ②建築基準法第65条は民法第234条に対する特別法ではない。従って、建築基準法第65条と民法第234条とは性質が全く異なる。建築基準法は行政法規であり、主に建築主事による建築確認の基準という意味を有するのに対し、民法は私人間の権利関係を調整するための基準という意味を持つ。そのため、前者によって許される建物であっても、後者に違反してはならない。民法第234条の目的は、隣地建物の建築や修繕の便宜、延焼の防止、日照や通風や採光などの環境利益の確保である。また、①の考え方をとると、結局、建物の建築や修繕に際して早い者勝ちということになる。

 この問題については、次の判決が参考になる。

 ■最三小判平成元年9月19日民集43巻8号955頁(Ⅰ-8)

 事案:Yは、大阪市内の商業地域に土地を有していた。この地域は準防火地域(都市計画法第8条第1項第5号)であったため、Yは自己の所有地上において、外壁が耐火構造となっている建造物の建築に着手した。これに対し、隣地を所有するXは、Yの建造物が境界線から50センチメートル以上の距離を置いておらず、民法第234条に違反するとして、建物の一部収去および損害賠償などを求めて出訴した。これに対し、Yは上記①の見解を採って抗弁した。

 大阪地判昭和57年8月30日判時1071号95頁は、Yが「建築基準法六五条との関係においては、本件(一)建物の外壁を隣地境界線に接して建築することができる」としつつ、「民法二三四条一項と建築基準法六五条との関係についてみると、建築基準法六五条は防火という公共的観点から定められたものでありながら、同時に私人間の生活関係の規律に密着するものであり、一方、民法二三四条一項の規定は、接境建築の建物によって、隣地の採光、通風、隣地上の建物の築造、修繕の便宜、その他利用上の障害を与えないという相隣土地所有権者相互の土地利用関係を調整するために定められたものである。そうだとすれば、建築基準法により防火地域又は準防火地域として指定を受けた市街地内にある建築物で、その外壁が耐火構造のものについて、それだけで直ちに民法二三四条一項の適用が排除されるものではなく、土地の高度、効率的利用のため、民法二三四条一項が保護する前記相隣者間の生活利益を犠牲にしても、なお接境建築を許すだけの合理的理由、例えば相隣者間の合意とか、民法二三六条の慣習等がある場合に限ってはじめて、建築基準法六五条が民法二三四条一項に優先適用されるものと解するのが相当である」と述べ、本件については「接境建築を許すだけの合理的理由」がないと判断した。Yは控訴したが、大阪高判昭和58年9月6日民集43巻8号982頁は控訴を棄却した。そのため、Yが上告した。

 判旨:最高裁判所第三小法廷(多数意見)は、次のように述べて上告を認容し、Xの請求を棄却した(上記①の見解を採ったこととなる)。

 「建築基準法六五条は、防火地域又は準防火地域内にある外壁が耐火構造の建築物について、その外壁を隣地境界線に接して設けることができる旨規定しているが、これは、同条所定の建築物に限り、その建築については民法二三四条一項の規定の適用が排除される旨を定めたものと解するのが相当である。けだし、建築基準法六五条は、耐火構造の外壁を設けることが防火上望ましいという見地や、防火地域又は準防火地域における土地の合理的ないし効率的な利用を図るという見地に基づき、相隣関係を規律する趣旨で、右各地域内にある建物で外壁が耐火構造のものについては、その外壁を隣地境界線に接して設けることができることを規定したものと解すべきであって、このことは、次の点からしても明らかである。すなわち、第一に、同条の文言上、それ自体として、同法六条一項に基づく確認申請の審査に際しよるべき基準を定めたものと理解することはできないこと、第二に、建築基準法及びその他の法令において、右確認申請の審査基準として、防火地域又は準防火地域における建築物の外壁と隣地境界線との間の距離につき直接規制している原則的な規定はない(建築基準法において、隣地境界線と建築物の外壁との間の距離につき直接規制しているものとしては、第一種住居専用地域内における外壁の後退距離の限定を定めている五四条の規定があるにとどまる。)から、建築基準法六五条を、何らかの建築確認申請の審査基準を緩和する趣旨の例外規定と理解することはできないことからすると、同条は、建物を建築するには、境界線から五〇センチメートル以上の距離を置くべきものとしている民法二三四条一項の特則を定めたものと解して初めて、その規定の意味を見いだしうるからである。」

 これに対し、伊藤正己裁判官は「建築基準法は、建築物の敷地、構造、設備及び用途について公益の観点から最低の基準を定めているのであり(同法一条)、公法上の見地から規制を加えているのであって、法律全体としてみれば、私人間の権利を調整しているわけではない」と述べ、多数意見に反対した。

 

 7.公法と私法の区別についての小括

 以上のように、公法と私法という分類には、公法の適用範囲とされる事案について私法の適用があるのかという問題があり、適用される場面が少なからず存在するということになると、行政法は公法であるという主張の妥当性が疑わしくなってくる。そのため、最近では、公法と私法との分類を否定する見解が勢力を増しており、とくに、戦後生まれの世代による学説の多くが、こうした説を採るように思われる(定着したという評価も多く見られる)。少なくとも、かつてのように公法・私法二分論が強調されることは少なくなっている。

 例えば、公法上の不当利得というような観念は、無用のものである、公権論についても同様である、というような説明がなされている。行政事件訴訟法には、公法上の当事者訴訟という訴訟類型が規定されているが、制度的・手続的に民事訴訟と大差なく、利用件数も少ない。私も、公法・私法二分論には疑問を抱いているが、それでは行政法の特質とは何かという問題に、公法・私法二分論批判説が十分に答えているとも思えない。

 たしかに、公法・私法二分論によって全てを割り切ることはできない。行政法学においても、従来からの行政行為論などとともに、行政契約論、その他、私法的行為に関する議論がなされざるをえなくなっている。

 しかし、行政法において、民法や商法などと異なる部分が存在することは、否定のしようがないところであろう。少なくとも、行政法は、民法などの私法と異なることが多い。例えば、自動車の運転免許証の交付を、私法における契約などと同じように考えることはできない。対等な当事者間における関係は、運転免許証の交付という場面においては見られない。むしろ、自動車の運転は、本来ならば国民の権利・自由に属する行為とも考えられるが、安全・秩序の維持という観点から、法律によって一般的に禁止し、一定の要件を充たす場合に、その禁止を行政が運転免許証の付与によって解除するのであり、この点において行政側が国民に優越する位置に立っているのである(行政法学における許可)。このように、行政法は、それなりに民法などとは異なる法なのである、と言うことはできる。

 

 8.行政法の基本類型

 この回の最後に、行政法の基本類型をみておく。これは行政法学の体系上のものであり、多くの行政法学の教科書がこれに従っているものである。

 (1)行政組織法(機構法)

 法律制度の枠組自体を規律する法が組織法(機構法)である。例として、国家行政組織法、裁判所法をあげることができる。また、憲法も、国家の基本組織を定めるという意味において、これに含まれる。地方自治法も、組織法の一つである。

 行政組織とは、行政主体が行政を行うために設置した組織である。行政組織法は、国・公共団体などの行政主体の組織(単位たる行政機関の設置・廃止・構成)・権限、機関相互間の関係に関する規律、国・公共団体などの行政主体相互間の規律(行政主体相互間の事務の分担)を内容とする。また、厳密に言うならば行政組織に関する法とは言い難い部分もあるが、公務員に関する法も、行政組織法の一部である。

 なお、行政法学においては、行政活動を行うものと行政活動の相手方との法的関係を中心に据える。その場合の行政活動を行う側が行政主体である(行政体と表現する論者もある)。国、地方公共団体の他、行政事務を行う公法人(日本銀行など)、法律などに基づいて組合員のために特定の事業を行う公法人(土地改良区、土地区画整理組合など)も行政主体である。但し、行政主体であるか否かの判断が困難な場合もある。民生委員や行政相談委員は、公の活動を行うが行政主体でない。逆に、日本放送協会は、放送法などを通じて国の監督権を受ける(予算も国会の決議の対象となる)が公の活動を行うとは言えない。

 (2)行政作用法

 一般的に、社会において行われる個々の行為を規律する法が行為法(作用法)である。行政作用法は、国・公共団体などの行政主体と私人との間の、公法上の法律関係に関する規律を内容とし、行政が私人に対していかなる行為をなしうるか・なすべきか・なさざるべきかを規律する。

 行政作用法は、総論と各論とに分けられる。一般的に言われる行政法総論は、行政作用法総論を中心とする(論者によって、また、大学のカリキュラムによって範囲に違いがあり、行政法総論に行政救済法や行政組織法総論が入ることもある)。この講義ノートは、行政作用法のうち、総論を扱う。

 行政作用法総論は、各行政分野において用いられる作用または手段の共通性に着目し、これらを取り上げて研究をなそうとする分野である。行政裁量、行政行為、行政立法などを扱う。これに対し、行政作用法各論は、各行政分野(警察行政、財務行政、社会保障行政など)毎に行政作用を扱い、研究の対象とするものである。一般には行政法各論と言われる(実際には行政組織法各論というべき部分も入ってくる)。現在では独立した分野として扱われる租税法や教育法なども、元来は行政作用法各論として扱われていた。

 (3)行政救済法

 行政活動は、憲法・法律・条例に従って適切に行われなければならない。しかし、常に適法かつ正当に行われるとは限らない。違法または不当な行政活動によって国民の権利・自由が侵害されたり、侵害されるおそれが存在することもある。そこで、このような行政活動から国民の権利・利益を救済し、行政活動を統制するために作られるのが行政救済法である。行政救済法は、主に行政活動の事後的な統制に関する法である(国家賠償法、行政不服審査法、行政事件訴訟法など)。

 (4)行政手続法

 行政活動の事前的な統制に関する法である。行政行為がなされる段階を基準とすれば、事前的な段階における行政手続と事後的な段階における行政手続とが考えられるが、一般的には事前的な段階における行政手続を指し、行政手続法もその段階を規律するものと理解される。従来、行政法の基本類型の中に行政手続法は含められていなかったが、行政手続法は純粋な行政作用法と言い難いし、行政救済法とも異なる。そのため、ここでは、行政手続法を一つの基本類型としておく。

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