ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

違う駅名ですが

2025年01月12日 12時00分00秒 | まち歩き

まずは東京都中央区東日本橋3丁目先にある、都営浅草線の駅です。

次に、東京都中央区日本橋横山町にある、都営新宿線の駅です。

 地図で見ると、両駅は、設置場所が異なるもののかなり近い場所にあります。中央区東日本橋3丁目と同区日本橋横山町は隣接しているので、当然です。

 御存知の方も多いと思うのですが、両駅は、名称が異なるものの、乗り換え駅であり、運賃計算などでは同一駅として扱われます。ただ、改札口は別であり、乗り換えには多少の時間を要します。ちなみに、馬喰横山駅の名称は、日本橋馬喰町と日本橋横山町とを合わせたものです。

 東京の地下鉄には、同一駅として扱われるのに路線によって名称が違う駅が他にもあります。一体どこがそうであるのか、また、実際に乗り換えるとなればどのようなことになるのかは、皆さんで味わってみてください。私は、まだ全てを体験していませんし、そのつもりもありません。

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史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹歴史公園

2025年01月06日 00時36分35秒 | まち歩き

今回は、川崎市高津区千年(ちとせ)にある、次の写真の場所です。

 川崎市の大部分は武蔵国橘樹(たちばな)郡でした〔都筑(つづき)郡に属していた麻生(あさお)区の一部を除きます〕。その橘樹郡の中心地であったのが、この橘樹官衙(かんが)遺跡群の辺りなのです。

 中原街道(神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線)にある影向寺バス停から細い脇道に入り、北のほうに進むと、御覧のような真新しい案内板を見ることができます。ここが橘樹官衙遺跡群で、実は2024年5月18日にオープンしたばかりの公園です。

 別の案内板には千年伊勢山台遺跡と書かれています。縄文時代から中世までの遺跡が集まっているということです。縄文時代の石器や土器などが見つかったかどうかはこの案内板にも書かれていませんが、飛鳥時代にはこの地に郡家(「ぐうけ」と読みます。郡衙と呼ばれることもあります)が設置されたのでした。つまり、当時の郡の役所が置かれた訳です。飛鳥時代の後半に律令制が始められ、郡も設置されました。現在は丘の上となっているこの千年伊勢山台の地に郡家が置かれたのは、当時の多摩川の流路とも関係があったのかもしれません。また、当時の海岸線も考慮する必要があるでしょう。

 橘樹官衙遺跡群はこの千年伊勢山台遺跡の他、西に少しばかり離れた宮前区野川本町3丁目にある影向寺(ようごうじ)遺跡も含みます。影向寺は、奈良時代に開創されたと伝えられてきましたが、実際には飛鳥時代の後半(白鳳時代)、西暦に直すと7世紀後半にまで遡ると、川崎市教育委員会による影向寺の記事に書かれています。そして、影向寺は橘樹郡の郡寺と位置づけられることとなります。律令制度が廃れていき、いつしか官衙もなくなりましたが、影向寺は現在に至るまで野川本町3丁目(現在の住居表示によります)に続いているのです。

 公園の中には、御覧のように一棟だけ、郡家の正倉、つまり倉庫が復元されています。手前などに柱の一部が復元されていますが、かつては4棟の正倉が建てられていたということなのでしょう。郡庁などが何処に置かれていたのかはわかりません。周囲は住宅地ですから、工事などで掘り起こされたのかもしれません。

 

公園の北側にはこのような石碑があります。いつから設置されていたのかはわかりません。

 ここが国史跡に指定されたのは、意外に思われるかもしれませんが最近のことです。しかも、川崎市では初の出来事でした。やはり川崎市教育委員会による「橘樹官衙遺跡群の第1期整備が始まりました!!」という記事には、次のように書かれています。

 「平成27年3月10日に、『7世紀後葉から10世紀にかけての古代地方官衙の成立から廃絶までの推移を知る上で、全国的にも貴重な遺跡である』と評価され、川崎市初の国史跡に指定されました。

 平成29年度に『国史跡橘樹官衙遺跡群保存活用計画』、平成30年度には『国史跡橘樹官衙遺跡群整備基本計画』(以下、「整備基本計画」)を策定し、保存管理・整備・活用等の基本方針等について定めました。

 その後、令和元年度から「整備基本計画」短期計画第1期に基づく取組みを進め、この度、『たちばな古代の丘緑地』及びその隣接地の史跡公園整備工事に着手しました。」

 なお、「たちばな古代の丘緑地」が橘樹歴史公園のことです。

 橘樹官衙遺跡群から細い道を南の方に歩くと、神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線に出ます。我々地元民は中原街道と呼んでいます。この中原街道も歴史のある道路で、後に東海道が整備されるまでは主要な街道でした。起源はわかりませんが、橘樹官衙があったということからすれば、現在とは多少とも違うルートであった可能性が高いとはいえ、飛鳥時代には存在していたはずです。なお、中原街道は中原区小杉御殿町および小杉陣屋町を通っています。徳川将軍家に縁のある所に伸びていた訳です。

 御覧のように、周囲は住宅地です。ただ、道路の幅が狭いので、自動車を使うとなると少々面倒かもしれません。また、鉄道の駅から離れています。最寄り駅はJR南武線の武蔵新城駅ですが、1キロメートル以上離れています。バスを使うのが現実的ですが、そうとなればJR南武線の武蔵中原駅か武蔵小杉駅、東急田園都市線の宮前平駅か鷺沼駅でしょう。また、本数は少なくなりますが横浜市営地下鉄グリーンラインの東山田駅から行くことも可能です。 

 なお、川崎市は「たちばなの散歩道」を設定しています。詳細はサイトにある絵図を御覧いただきたいのですが、ここでコースだけを記しておきましょう。スタートは東急田園都市線の梶が谷駅で、梶ヶ谷第一公園、梶ヶ谷第三公園、市民プラザ、野川神明社、影向寺、能満寺、橘樹神社、子母口貝塚、子母口バス停、富士見台古墳(たちばなふれあいの森、たちばな古代の丘緑地)が経由地となっています。距離は約5キロメートルで、高津区末長、同区梶が谷、同区新作、宮前区野川本町、高津区千年、高津区子母口,高津区北野川を歩くこととなります。

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桜新町一丁目公園

2025年01月04日 11時30分00秒 | まち歩き

 東京都世田谷区の桜新町といえば、日本を代表する漫画の一つであるサザエさん、そしてそのサザエさんを作った長谷川町子が思い浮かぶという人も多いでしょう。また、漫画家のやくみつる、歌手の水前寺清子を思い起こす人も少なくないはずです。

 東急田園都市線の桜新町駅から南へ、サザエさん通りを歩いて行き、桜新町交番前交差点を右に曲がり、さらに歩くと、左に長谷川町子美術館、右に長谷川町子記念館が見えます。長谷川町子美術館のそばの交差点を左折すると、美術館の裏に桜新町一丁目公園があります。

 長谷川町子美術館の休館日に訪れたためなのか、公園には我々夫婦以外に誰もいません。奥の右側に写っているのが長谷川町子美術館です。かつて、サザエさんの単行本を刊行していた姉妹社の倉庫であった所に開館しました。一度だけ入ったことがあります。

 御覧のように磯野家のうちの5人の銅像が置かれています。何故かフネさんとマスオさんがいません。桜新町駅周辺などには、所々に磯野家の銅像がありますので、探してみると楽しいかもしれません。なお、銅像はいずれもアニメ版をモデルとしているようです。街を歩くとわかりますが、アニメ版と新聞連載版とでは顔つきも違いますし、登場人物の性格もかなり違っています。

 公園の半分弱は立ち入り禁止となっており、庭園のようになっています。すぐそばに首都高速3号渋谷線と国道246号が通っているのですが、そうとは思えないほど静かです。

 すぐ後に知ったのですが、この公園の裏、写真では左側に長谷川家があります。立派な門構えで、家屋も大きいようでしたが、その割には敷地が狭いようにも感じられました。もしかしたら、この公園もかつては長谷川家の敷地であったのかもしれません。この辺りの事情はよくわかりませんが、また歩いてみようと思っています。

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世田谷美術館に展示されている模型

2024年12月28日 01時30分00秒 | まち歩き

 2024年11月30日から2025年2月2日まで、世田谷区は砧公園内にある世田谷美術館にて「東急 暮らしと街の文化――100年の時を拓く」という企画展が開かれています。或る事情によって招待券を入手したので、妻とともに12月某日に訪れました。

 一部だけ撮影可能であったため、私のiPhone15 Proで撮影しました。

 幼い頃から東横線や田園都市線を使い続けている私にとって、非常に興味深い内容でした。もう一度行こうかと思っているくらいです。勿論、世田谷美術館を訪れた日には、用賀駅まで田園都市線の電車に乗り、用賀駅から歩きました。やはり幼い頃から何度となく行った砧公園を歩くのは心地よいものです。すぐそばに東名高速道路と環状8号線が通っていますが、そんなことを忘れてしまうかのようです。

 

 展示の中に、何故か目黒駅、蒲田駅および溝の口駅の模型がありました。手前の建物が何なのかわからないのですが、おそらく、田園都市線溝の口駅から長津田駅までの区間の開業を前にした時期の模型なのでしょう。模型では「溝ノ口駅」となっていますが、1966年1月20日に現在の「溝の口」に改名されているからです。また、同年4月1日、溝の口駅から長津田駅までが開業し、あざみ野駅以外の駅が開業しています。

 模型が何処まで忠実かはわかりません。私が子どもの頃、東急の駅には「東京急行電鉄」か「東京急行」という表示がなされていたと記憶しているからです。ただ、小学校中学年時まで、溝口の街に行くことがあまりなかったので、実のところはよくわかりません。高津駅がまだ高架化されていなかった頃のことは覚えていますが、それも断片的なものです。

 溝口によく行くようになってから、駅の周囲も歩いたりするようになりました。私の大学院生時代まで、基本的な構造は変わっていなかったので、次のようなことを思い出しました。その場で妻に言ったかもしれません。

 「そうそう、国民相互銀行(後に国民銀行になり、経営破綻)があったよ。でも、大学院生時代(1992年4月から1997年3月までです)にあったかな?」

 「小学生時代(1970年代後半です)に東急ストア(模型では「東光ストア」)は長崎屋(現在はドン・キホーテ)の地下1階にあったよ。」

 「一時期、島崎文教堂の本店もあった。ぼくが小学生の時には商店街の交差点のそば、マルエツB館の真向かいにあったけどさ。しょっちゅう移転してた。」(どうでもよい話ですが、私が最後に、ヴァイオリンのレッスンのために通ったカワイ音楽教室は、島崎文教堂の本店があったビルの4階に、現在もあります。)

 「溝の口駅前にあったヤストモの珍来軒の弁当は美味しかった。だから大学院生時代にはよく買っていた。」

 今回は完全に地元ネタでした。

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上用賀にて(2)

2024年12月23日 00時00分00秒 | まち歩き

上用賀5丁目、環状8号線の内回りのそばに上用賀五丁目いらか道市民緑地があります。紅葉があまりに美しかったので、久しぶりにCANON EOS R50を使って撮影してみました。

 環状8号線がすぐそばにあるのに、上用賀5丁目は閑静な住宅街となっています。バス通りともなっている西用賀通りには、春ともなると見事なまでのトンネルを作ってくれる桜並木があり、その中を車で通るのが、季節における楽しみの一つでもあります。

 西用賀通りから用賀三条通りを歩き、環状8号線に出ると上用賀五丁目いらか道市民緑地があります。何度かそばを歩いたことがあるのですが、恥ずかしながらこの緑地のことは今回初めて知りました。環状8号線と東名高速道路・首都高速道路3号渋谷線との交差地点からも近い場所ですし、用賀駅から歩いても10分ほどで着くでしょうか(時間を計ったことなどないのですが)。

 世田谷美術館に行くには、用賀駅から東急バスで行くのが最も楽な方法でしょう。それはそれで楽しいかもしれません。ただ、私は、世田谷美術館に行く度に歩きます。用賀二条通り、西用賀通り、用賀三条通りを歩く訳です。歩く楽しさを演出するように工夫が凝らされており、閑静な住宅街であるだけに、心も落ち着きます。ただ、時々車が通るので、そこだけは惜しいところです。

ちなみに、環状8号線を軸として、この上用賀五丁目いらか道市民緑地の真向かいにあるのが砧緑地とも言われる砧公園であり、世田谷美術館も公園内にあります。

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上用賀にて(1)

2024年12月22日 22時35分00秒 | まち歩き

用賀駅から世田谷美術館まで歩きました。その途中、上用賀5丁目で撮影した写真です。

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高津小学校の近くで

2024年12月05日 21時25分00秒 | まち歩き

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高島平遊歩道にて

2024年12月03日 21時20分00秒 | まち歩き

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二子玉川ライズのクリスマスツリー(2024年版)

2024年11月16日 00時00分00秒 | まち歩き

「今年は何時までも暑い」と思っていたのですが、11月に入ってから急に涼しくなったような気がします。そうなると、こういう時期になったのだな、と……

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少しばかり懐かしい Snoopy Museum Tokyoが六本木5丁目にあった時(2)

2024年11月11日 00時00分00秒 | まち歩き

 Snoopy Museum Tokyoが六本木5丁目にあった時の続篇です。

 日本ではスヌーピーばかりが目立ちますし、Snoopy Museum Tokyo、Snoopy Townなどという名称が一般化しているのですが、本来の主人公は飼い主のチャーリー・ブラウンです。おそらく日本の著名人の中で最も初期の読者の一人であると思われる植草甚一氏の日記などを読むとスヌーピーという言葉は登場せず、チャーリー・ブラウンだけが書かれていて、スクラップにはペパーミント・パティが切り抜かれていたりしていました。さすが! J.J.氏はわかっておられました。

 チャーリー・ブラウンと言えば、スヌーピーには何時までも名前を覚えてもらえず、ルーシーなどの女の子たちからは馬鹿にされ、凧を揚げてもまともに揚げられないか凧食いの木の厄介になり、野球をやれば万年敗戦投手、というような登場人物です。しかし、実はペパーミント・パティが密かに恋心を寄せていたり(電話で「抱きしめ中にしといて、チャック!」なんていう台詞を口にしたりします)、ペパーミント・パティの親友でもあるマーシーも交えた三角関係になったり(マーシーはチャーリー・ブラウンをチャールズと呼ぶただ一人のキャラクターで、かなりの好意を抱いていることがわかります)、ペギー・ジーンとかなりいい雰囲気になったりします(残念ながらダメになってしまいますが)。やはり、この丸頭の男の子がいるから漫画が成り立っている訳です。

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