ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

外来語の話

2013年08月30日 08時35分08秒 | 社会・経済

 NHKの番組で外来語が濫用(乱用)されている、として慰謝料を請求する裁判が提起された、という話がありました。6月のことです。昨日、その裁判の第1回口頭弁論が名古屋地方裁判所で行われたのですが、このことに関する記事が今日の朝日新聞朝刊37面14版に掲載されています。「(ニュースQ3)『NHKの外来語乱用で苦痛』訴えた男性の危機感」です。

 私も論文などを書きますので、言葉の問題を扱うことになります。私の場合は、可能な限り、外来語をそのままの形で使わないようにしていますが、難しい場合もあります。

 記事に書かれていることを少しばかり取り上げておきますと、NHKの場合、放送用語委員会という場所で原則や方針を決めているとのことです。この委員会には外部の有識者も入っており、そこで、様々な言葉をどう扱うかを審議するのでしょう。実際に番組を制作する際には、『ことばのハンドブック』という、これまた外来語が入っている本に準拠しつつ、編集責任者(番組ごとにいます)やプロデューサーが判断しているようです。

 (ハンドブックは「入門書」、「便覧」、「旅行案内」などを意味する言葉ですから、『ことばのハンドブック』は『ことばの入門書』とか『ことばの案内書』などとしてもよいでしょう。最もわかりやすいのは『ことばのてびき(手引き)』かもしれません。ちなみに、ドイツで刊行されているHandbuchの中にはかなり分厚いものも少なくありません。)

 外来語は、元々が外国語で、それが日本に入ってきた訳ですが、わかりにくいものもあります。仕方がないことですが、そのようなものには日本語で説明を加えたり、言い換えたりするように、という注意が促されています。もっとも、それがどこまで徹底しているかは別の問題です。

 記事によると、今回の裁判の原告が外来語の使用に疑問を抱いたのは3年ほど前からで、その例として「ファンド」、「コンテンツ」、「ネットナビゲータ」があげられています。たしかに、これらは意味がわかりにくいものでしょう。私も、何故敢えて外来語のまま使用されるのかがわかりません。

 たとえば、「ファンド」はfund(複数形はfunds)で、英和辞典をひくと「基金」、「資金」、「所持金」、「財源」、「資源」、「公債」などと書かれており、a fund of ~で「~の蓄え」という意味も書かれています。そのため、文脈によって「基金」、「資金」などと訳し分ければよいはずです。また、「コンテンツ」(content。複数形はcontents)とは要するに内容のことですから、「内容」と表現して何ら問題はないのです(他に「趣旨」、「実質」、「意味内容」、「含有量」、「容積」などとあるのですが、やはり訳し分ければ問題はありません)。

 「ネットナビゲータ」に至っては、こんな言葉を使うのに果たしてどれだけの意味があるのかわかりません。和製英語なのかどうか、よくわからない言葉です。ネットはともあれ、ナビゲータはNavigatorで、「航海士」、「飛行士」、「進路自動操縦機」などの意味があります。放送でなら、単純に司会とか案内人、案内役などと言えば済む話ではないか、とも思うのです。

 (余計なことを書くならば、先程、GoogleでNet Navigatorと入力してみたら、懐かしいNetscape Navigatorがトップのほうに検索されて出てきました。とくにりんご印のパソコンを使用していた人にはおなじみのインターネット用ソフトです。)

 他に記事では、NHKの『ことばのハンドブック』からの例として、「アウトソーシング」、「キャッチアップ」、「バーチャル」、「ポジティブ」が登場します。「アウトソーシング」は外部委託のことであり、外注と言い換えてもよいかもしれません。キャッチアップは追い上げること、バーチャルは「仮想的な」という意味で、ポジティブは「積極的な」という意味です。但し、最後の「ポジティブ」、その反対語の「ネガティブ」は、単純に「積極的な」、「消極的な」と訳せない場合もありますが、これも文脈に応じて適切な言葉に言い換えればよいだけのことです。

 濫用(乱用)と言うべきか、それとも単に日本語に変えるのが面倒なだけなのかどうかわかりませんが、外来語で表現する必要もないだろうというものまで表現しているという場合があることは否定できません。これはどうにかならないのか、と考えて欲しいものです。勿論、無理に日本語に変えることができない場合もあることは理解できます(かえって訳のわからない表現になります)。しかし、おおよそのところがわかればよい、と割り切ることも必要でしょう。大意を捉えて日本語化することは、そう難しくない場合が多いでしょう。漢字を上手く使えばよいのです。アルファベットなどの表音文字ではなく、漢字という表意文字を使用していることが、造語力の強さの由来でもあります。

 記事に登場しない言葉で、私がだいぶ前から気になっているのが、クライアントという言葉です。福祉の現場などでも使われているようで、大分大学教育福祉科学部に勤務していた時代によく耳にしましたが、違和感ばかり覚えました。clientは「依頼人」、「顧客」、「(社会福祉団体から)世話を受ける人」などを意味する言葉です。日常的な場面では単純に「お客さん」などと言ってもよいのですが、何故か「クライアント」と言うのです。これは、医療業界で使われたという「クランケ」(ドイツ語のKrankeに由来。患者のこと)のようなものでしょうか。

 言葉の問題は、かなり主観に影響される部分もあり、判断などが難しくなるのですが、日本語に置き換えられる単語は、なるべく置き換えるのがよいのではないでしょうか。勿論、日本語の中には様々な外来語が既に存在しておりますから、むやみに否定できません。しかし、多用すればよいというものでもありません。「むやみに外来語を使うと読み手に意味が伝わらないことが多いので避けるべし」というのが、昔からの文章作法の一つです。「誰にこのことを伝えるか」を常に考えながら言葉を使う必要がある、という訳です。

 ※※※※※

 また、上の朝日新聞の記事から離れた話になってしまいますが、いわゆるカタカナ言葉には別の意味で厄介なものも少なくありません。外来語だと思っていたら実は和製英語などであって、例えば英語話者には通じないという面倒な話もあるのです。

 その代表がフリーターで、元々は英語のfree(「自由な」、「独立した」、「自発的な」、などの意味の形容詞)とドイツ語のArbeiter(労働者を意味する)との、日本における合成語で、それを短縮してできた言葉です。英語圏でfree workerと表現して通じるかどうか、あるいはドイツ語圏でfreier Arbeiterと表現して通じるかどうか、疑問はあります。ドイツ語圏でWas sind Sie von Beruf? (あなたの職業は?)と尋ねられて、「私はフリーターです」と答えるつもりでIch bin ein freier Arbeiter.と言っても、おそらくはWie bitte?(何ですって?)とかIch verstehe nicht.(理解できません)と言われるのがオチであるような気がします(日本の事情を知っている人なら別でしょうが)。ついでに記すならば、アルバイトは、戦前の学生言葉か何かから一般的な日本語にまでなった言葉ですが、元々、ドイツ語では労働全般、研究、作品などを意味する一般的な言葉です。面白いことに、日本流に言うアルバイトのことを、ドイツ語ではjobbenという、英語から来た言葉で表します。

 ※※※※※

 何気なく使う言葉ですが、探っていけば奥が深いものです。その一つが外来語ではないでしょうか。調べていけば、英語由来のものは勿論、フランス語由来のもの(最近ではあまり使われない「アベック」が代表的で、もとは前置詞のavecです。また、英語由来だと思っていたら、実はさらにフランス語にまで行き着く言葉もあります)、ドイツ語由来のものも多いし、他にあげればオランダ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ロシア語、中国語、ハングル、などなど。アイヌ語由来のものもあります。クズリという動物がいますが、実は日本国内の少数言語であるニヴフ語に由来するという話を聞いたことがあります。辞書などを読みながら由来を探るのも楽しいことです。

 (今回、私が愛用している電子辞書に入っている「ジーニアス英和大辞典」を参照しています。)

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近鉄内部線・八王子線は存続の方向へ/名鉄の赤字支線、JR西日本三江線についても少しばかり

2013年08月28日 10時34分18秒 | 社会・経済

 今回は三題噺のような構成(?)です。

 ※※※※※

 昨日(8月27日)の21時5分付で、中日新聞社が「近鉄内部・八王子線、公有民営で存続方向」として報じています(http://www.chunichi.co.jp/s/article/2013082790210522.html)。

 これは、昨日、定例記者会見の席で四日市市長が明らかにしたことです。まだ完全に交渉がまとまった訳でもないようですが、基本線は決まったということでしょう。近鉄は、当初、両線のBRT化を提案していましたが、鉄道として存続するなら公有民営方式が妥当であると主張していました。8月9日付の「近鉄内部線・八王子線は存続の方向に進むか」においても「近鉄は線路などの施設や車両を四日市市に無償で譲渡するという姿勢を見せているようです」と記しましたが、結局、この方向が四日市市にも受け入れられた、ということになります。

 四日市市は、土地についても無償譲渡を求めています。しかし、これは難しいでしょう。施設や車両であれば、減価償却などの関係で、近鉄側に法人税の負担が生じませんが(または、生じても大した額にはなりませんが)、土地となるとそうはいかないからです。法人税法第22条第2項は、益金について「別段の定めがあるものを除き、資産の販売、有償又は無償による資産の譲渡又は役務の提供、無償による資産の譲受けその他の取引で資本等取引以外のものに係る当該事業年度の収益の額」と定義しており、無償で資産の譲渡等を行っても「当該事業年度の収益」は生じるものとしているからです〈このあたりのことは、私の「租税法講義ノート」〔第2版〕の「16    法人所得その1」(http://kraft.cside3.jp/steuerrecht16-2.html)を御覧ください〕。過去には、全廃を決めた高千穂鉄道の例(別の会社に土地や施設などを無償譲渡しようとしたところ、法人税の負担が発生することがわかったという事例)もあります。もとより、譲渡先が四日市市という地方公共団体であるため、この辺りについては特例があるかもしれません。租税特別措置法などをよく調べなければならないので、この辺りのことは、今回、これ以上踏み込んで記しません。

 もう一つは、やはり赤字の負担割合です。中日新聞社の記事にも、この10年間では毎年3億円ほどの赤字が出ていると書かれています。営業係数がどの程度なのかわかりませんが、三重県以外には(黒部峡谷鉄道を除いて)類例がない特殊な鉄道だけに、相当の企業努力がなければ存続が難しいと思われます。

 何せ、近鉄が廃止を急ぐ理由の一つが車両の問題であり、4月28日付の「やはり、近鉄内部線・八王子線はBRT化されるのか」でも述べたように、2015年8月28日に予定されている定期点検の際に1両が廃車になる、と言われています。14両もあって予備の車両がないのか、など、突っ込もうと思えばいくらでもできそうな話ではありますが(電動車が廃車されるのでなければ、3両編成を2両編成に減らしてもよい訳です)、代わりとなる車両を製造するまでにかなりの時間がかかることも事実です。他の鉄道から購入する訳にもいかないのがつらいところでもあります。

 車両以外にも難関はあります。中日新聞社の記事の表現を借りるならば「老朽化が目立つ安全設備の更新に20億円が、保守点検に年間3千万円が必要」であるとのことです。馬鹿にならない額で、これでは四日市市が三重県に支援を求めるのも理解できるというものです。

 公共交通機関に安全性が求められるのは当然で、そのためには「安全設備」(これは信号機やATSなどのことを指しているのでしょう)の更新や保守点検が必要です。しかし、私が昨年の11月に両線を利用して感じたことを記すならば、現在の施設ではスピードアップを望めないし、最高時速45キロメートルでは厳しいでしょう。大量・定点輸送の観点からすれば、内部線・八王子線の存続を図るのであれば、単に現在の水準を維持するというレベルでは足りないでしょう。かつて近鉄の路線であった北勢線は、三岐鉄道に譲渡されてからスピードアップが図られており、駅の統廃合なども実施されています。スピードアップのほうはまだ完全に実現していないのですが、存続のためにそれなりの投資はなされているのです。

 四日市市が施設などを譲り受けた場合には、どのような戦略を立てるかが重要です。一つは車両で、思い切って1編成くらいは新車を入れる必要があるかもしれません。技術的にも可能であるならばVVVF制御車でしょう。また、これはあくまでも私見ですが、塗装は見直す必要があると思います。車両によって色が違うのは、金ばかりかかるでしょうし、統一性がないので見苦しささえ感じられます。せめて編成ごとの統一を求めたいところです。そして、このように書いておいてどうかとは思うのですが、広告車両を導入する手もあります。

 また、予算、財政の面からは難しいと思うのですが、やはりスピードアップでしょう。たしか日永駅の近くの橋梁の辺りに急カーブがあるのですが、ここで減速を強いられるのは厳しいところです。軌間762ミリメートルで最高速度をどの程度にまで設定できるのか、技術的なところはわかりませんが、時速60キロメートルは欲しいところです。

 少しばかり余計なことを書いたかもしれませんが、とりあえずは存続の方向が採られたことは喜ばしいというところでしょう。

 ※※※※※

 さて、大手私鉄の支線の存廃問題ということでは、名鉄を忘れてはなりません。現在の懸案は西尾線の西尾~吉良吉田、蒲郡線の全線(吉良吉田~蒲郡)、広見線の新可児~御嵩です。

 名鉄といえば、かつては近鉄の次に営業キロ数が長く、愛知県と岐阜県に大きな路線網を抱えていることで知られていました。現在も営業キロ数では近鉄、東武に続いて第3位ですが、輸送密度が大手私鉄では最も低いと言われています。モータリゼイションの影響をまともに受ける地域で、1960年代以降を見るならば、名鉄の歴史は支線の廃止の歴史と言えるほどに多くの路線が廃止されています。厳密に比較したことはないのですが、路線の廃止を重ねたという点では、北九州線、福岡市内線などを次々に廃止して最長の時期からすると実に半分ほどの営業キロ数となった西鉄の歴史と似ているとも言えるでしょう。

 様々な原因があるのですが、とくに西尾線・蒲郡線との関係で記すならば、JR東海の攻勢が重要でしょう。所要時間と運賃の両方で、JR東海の東海道本線のほうが名鉄の名古屋本線に勝るという状況になっています。これでは乗客もJR東海に流れます。近畿地方でも、JR西日本が攻勢をかけて阪急、阪神などから利用客を奪っています(福知山線の事故で、阪急宝塚線の凋落を思い知らされた方も少なくないでしょう)。中京圏と京阪神地区で同じような現象が起こっている訳です。

 御多聞に洩れず、名鉄も合併を繰り返して巨大化した会社です。名古屋本線や犬山線のようなドル箱路線もあれば、過疎地域を走る支線もあります。収益を生み出す路線があるから支線を維持できる訳でして、主要路線の収益力が下がれば、支線を維持する体力も下がります。名鉄の支線については、機会を見て改めて記したいと思っています。

 ※※※※※

 先に京阪神地区におけるJR西日本の攻勢を記しました。南海本線のことを考慮に入れるならば和歌山県を入れてもよいでしょう。しかし、JR西日本にも赤字路線はたくさんあります。とくに中国地方の状況がよくありません。2003年に可部線の可部~三段峡が廃止されていますし、木次線などについても存廃が議論されてしまいます。利用したことがないのでよくわからないのですが、保線管理の状態も悪く、「合理化」のために最高速度が時速15キロメートルに制限されている区間もいくつかあるそうです。おそらく本数も少ないでしょうから、バス(とくに高速バス)や自家用車に負けてしまうのも当然というところです。

 そのような赤字路線の代表格は三江線(江津~三次)でしょう。2007年度の輸送密度が1日あたり94人、2008年度については1日あたり83人と、岩手県の岩泉線に次いで低いのです。そもそも、三江北線、三江南線と分断されていた時期に赤字83線に選ばれており、1980年代の国鉄改革では特定地方交通線に指定されて廃止とされてもおかしくなかったほどです(代替道路の未整備が理由で存続となりました)。陰陽連絡線の一つであるものの、どう考えても山陰と山陽を連絡するには疑問だらけとなるルートで、江津から三次まで3時間以上もかかります。

 さて、この三江線は、現在まで何度となく災害に遭っていますが、最近では2006年7月の豪雨で実に38箇所の土砂崩れによって全線が不通となっています。これは1年ほど続きました。その時点で廃止という意見もあったようです。2012年秋からは社会実験としてバスの増便が行われています。そして今年、今月です。1日、豪雨による土砂流入と道床流出のために石見川本~浜原が運休となりました。12日に復旧となったのですが、24日、やはり豪雨のために井原川橋梁の橋脚1本が流出し、三江線の全線が運休となっています。JR西日本がどのような方針を出すのかが注目されます。

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アークヒルズのカラヤン広場

2013年08月27日 09時16分00秒 | まち歩き

 8月14日、六本木一丁目にあるホテルオークラ東京別館に初めて行きました。地下2階にあるアスコットホールで「モネ ユトリロ 佐伯と日仏絵画の巨匠たち フランスの美しき街と村の中で」という展覧会が開かれていたからです。きっかけは、11日の夜、NHKで放送されている「日曜美術館」の「アートシーン」を見たことです。モネの絵に好きなものがあるので、「これは見なければ!」と思いました。それで、妻とともに、少なくとも私には縁も所縁もなかった所へ行ったのです。

 このホテルオークラ東京ですが、公式には港区虎ノ門二丁目にあり、本館の場所もそこです。しかし、このあたりは虎ノ門二丁目、赤坂一丁目、六本木一丁目が交わるところで、大倉集古館の真向かいにあるアメリカ大使館公邸は赤坂一丁目、ホテルの別館は六本木一丁目で、近くにスペイン大使館があります。我々は虎ノ門駅から歩いたのですが、実際には六本木一丁目駅のほうが近いようです。

 今でこそ港区でまとめられていますが、虎ノ門は旧芝区、赤坂は旧赤坂区、六本木は旧麻布区ですので、ホテルオークラの辺りは旧区の境界があったということになるのかもしれません。

Arkhills01

 ホテルオークラからアークヒルズまでは、歩いて1分か2分くらいです。少し道がわかりにくいかもしれませんが、脇道を上手く利用すれば、アークヒルズの裏側から入ることができます。

 六本木六丁目の六本木ヒルズが完成してから、すっかり影も薄くなったような感もあります。事実、ここは赤坂一丁目と六本木一丁目にまたがりますが(これがアークの語源で、Aは赤坂、Rは六本木、Kはつなぎ目を意味するKnotです)、オープンしてから長らくの間、鉄道駅からは遠く、六本木駅からでも徒歩で10分以上を要しました。あまり利便性の高いところではなかったのです。それでも、日本教育テレビ(NET)時代から六本木六丁目に本社を構えていたテレビ朝日が、1986年、アークヒルズのオープンとともにここに本社を移したこともあり、全国的に有名となりました。

 それにしても、何故ここに「カラヤン広場」なのでしょうか。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)と言えば、20世紀を代表する指揮者の一人で、私も幼少時からその演奏をレコードなどで聴いていましたが、理由がよくわからなかったのです。実は、カラヤンがアークヒルズ内にあるサントリーホールの設計の一部に携わったそうで、彼の生誕90周年である1998年に「アーク・カラヤン広場」と名付けられたそうです。ちなみに、カラヤンは1989年に亡くなっています。

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 右側にはテレビ朝日アーク放送センターがあります。2003年、テレビ朝日は本社を六本木ヒルズに移します。六丁目に戻ったという訳です。現在は、同社の一部の機能が残る他、テレビ朝日映像、テイクシステムズ(どちらもテレビ朝日の子会社)の本社が置かれています。

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 カラヤン広場の前にあるのがサントリーホールです。テレビ朝日アーク放送センターが六本木一丁目にあるのに対し、サントリーホールは赤坂一丁目にあります。現在は公益財団法人サントリー芸術財団が運営しています。元々、サントリーは大阪市に本拠を置く会社ですが、大阪にはクラシック音楽の本格的会場が似合わないという判断があったのでしょうか。何しろ、大阪には芸術音楽やオーケストラは要らない、などと府知事から言われるような土地柄です。

 クラシック音楽専門のホールで、日本でも有数の演奏会場なのですが、私は一度も入ったことがありません。ここと、渋谷の文化村オーチャード・ホールには、一度だけでも行ってみなければ、とは思っています。

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 カラヤン広場です。サントリーホールは右側にあります。左側はアークヒルズのアーク森ビルで、奥へ進むとANAインターコンチネンタルホテル東京です。

 現在、ここに最も近い駅は南北線の六本木一丁目駅で、六本木通りの谷町交差点から飯倉、麻布十番に向けて坂を少しばかり登るとすぐに見えます。ホテルオークラ東京へ行くにも、一番わかりやすいのは六本木一丁目駅から、ということになるかもしれません(日比谷線の神谷町駅からも行けますが、実際に行ってみたことがありません)。

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 私は、大学院博士後期課程に入学したばかりの1995年5月、アークヒルズに来たことがあります。当時、ここに留学生関係の特殊法人か公益法人が入居しており、28階にあるその事業所へ行ったのです。今回訪れたのは、実に18年3ヶ月ぶりのことです。

 お盆休暇のシーズンの平日とはいえ、異様な程に人が少ないのには驚かされました。先日訪れた、赤坂九丁目の東京ミッドタウンも、意外に人が少ない場所ではありますが、それ以上の閑散ぶりです。何度か、平日昼間の六本木ヒルズを訪れていますが、曜日に関係なく、いつも人が多いことに驚きました。大好きな店だった六本木WAVEがあった頃と比べても、六本木六丁目を歩く人は多いのです。六本木駅に直結しているという利便性の高さもあるでしょう。また、かつては渋谷駅からアークヒルズ行きのバスが多数出ていましたが、今はほとんどが六本木ヒルズ行きです。渋谷駅東口から東京ミッドタウン行きのバスもあるのですが、本数が多くありません。アークヒルズ行きに至っては、往時から比較にならないほどに減らされてしまいました。

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 アークヒルズ内にある店にも何軒か入りましたが、実に中途半端な感じでした。同じことは六本木ヒルズにも東京ミッドタウンにも、そして六本木全体にも言えるかもしれませんが、「また行ってみよう!」と思うようなところがないのです。何所にでもあるような大型チェーンの支店で、しかも大した規模でもなく個性的でもなければ、入る気にもなれません。

 私が六本木を初めて訪れたのは、高校1年生の夏休み最終日、1984年8月31日で、その日に初めて六本木WAVEに入りました。というより、この店に行くことが目的であったのです。それから、一時的な中断はあっても、少なくとも毎月1回は六本木に行っていましたし、必ずこの店に寄りました。1997年に大分大学に就職してからは、さすがに頻度は落ちましたが、川崎に帰る度に六本木へ行き、WAVEでCDを購入しました。最後に六本木WAVEに行ったのは1999年9月24日で、同年12月25日をもって閉店したのを知ったのは大晦日でした。

 2000年1月9日、六本木へ行き、閉店となった六本木WAVEの建物へ行きました。入口に閉店の挨拶が出ています。ミニシアターのシネ・ヴィヴァンも閉鎖されました。1983年に開店し、1999年に閉店していますから、16年とは短いものです。再開発地域となっていることは知っていましたので、そのための閉店であったこともわかっていましたが、復活して欲しかったのです。

 それから10年以上、私は六本木に足を向けなくなりました。2010年5月1日、結婚してまもない頃、妻と初めて六本木ヒルズに、ボストン美術館展を見に行って、再び六本木に行くようになりましたが、頻度はかなり落ちています。

 1999年12月25日を最後に六本木WAVEがなくなったことは、この街にとって大きな損失であったといえるかもしれません。そして、WAVEという会社自体にとっても計り知れない損失にして大誤算だったでしょう(詳しいことは記しませんが、ついに2011年8月6日、倒産してしまいました)。

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京都・高台寺月真院の紅葉

2013年08月21日 20時31分03秒 | 旅行記

 この夏休みは、何所か遠くへ行く訳でもなく、川崎市高津区を中心に動き回っていますが、時には近畿地方にでも行ってみたい、などと思っています。とくに行きたいのは大阪と和歌山なのですが、私の手元には大阪の写真がほとんどなく、和歌山に至っては足を踏み入れたことすらないため、今回は京都の写真を載せておくことにします。

 2002年11月22日の夜、大分駅から寝台特急彗星号に乗り、京都へ行きました。目的は、京都府職員の方々が中心となっている21世紀型行政スタイル研究会の「第4回リアル研究会」に出席することです。時間まで、地下鉄全線を乗り回し、三条京阪から新京極および寺町京極へ出て、河原町四条(阪急河原町駅周辺)界隈に出た時、あまりの人の多さに驚きました。考えてみれば、紅葉を楽しめる絶好の日だったのです。

 祇園まで市バスに乗り、八坂神社から高台寺へ出ます。実は、今回、研究会の会場が高台寺月真院でした。高台寺といえば、豊臣秀吉の妻であるねね(北政所)にゆかりの深いお寺です。こんな所で研究会を行うとは、さすが、京都ならでは、というところでしょうか。

Gesshinin1

 変な写真ですが、ここが入口です。反対側は八坂神社から続く狭い通りで、溢れんばかりの人通りでした。観光用の人力車も通っています。

 ここには、普段、観光客が入ることはできません。しかし、入口からわずかに中を覗くことができます。すると、下の写真のような光景を楽しめます。

Gesshinin2

 紅葉と言いますが、ここまで鮮やかな色彩の紅葉を久しぶりに見ました。高台寺などの周辺も歩きましたが、ここが一番美しかったと思います。

 この写真を撮影した後、月真院の中に入り、研究会を行いました。外の人通りが嘘のような静けさです。研究会のテーマは都道府県合併でした。色々と濃い議論を行いました。その後、皆さんとともに、ライトアップされた知恩院、祇園を通り、五条大橋のすぐそばでの懇親会に出ました。そして、私は、23時過ぎ、寝台特急富士号に乗って大分に帰りました。

 それにしても、11月15日夕方から18日の午前中までは、日本租税理論学会第14回大会で「個別報告」をするために東京に行き(当時の私にとっては「帰り」という表現が合っていました)、次の週末に京都に行き、お土産代などが大変でした。

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これぞ大学生の必読書(少なくとも私が大東文化大学および国学院大学で担当する講義・演習について)

2013年08月19日 01時00分22秒 | 本と雑誌

 別に今に限ったことではないのですが、講義でレポート課題を出したりすると、友人のものを丸写ししただけのレポートが提出されることがあります。誰がどう見ても、どこかの解説本か何かの丸写しというレポートもあります(ゼミでの報告レジュメも同様なので、参ることも度々あります)。中身について尋ねると答えられないので、すぐにわかります(変わったところでは「語るに落ちる」型もあります)。

 しかし、最近、何と言っても多いのは、ホームページの、何所の誰が書いたのかわからない記事からのコピペ(コピー&ペースト)です。数年前、レポート課題を出した時には、ホームページ丸ごとコピー&ペーストというレポートが提出されました。そんなものなど、私は採点しません。つまり、評価に値しないということです。御丁寧に出典とアドレスまで書かれていましたが、そうでなくてもすぐにわかります。ひどいものはフォントやサイズや色まで丸ごとコピー&ペーストですから、誰が見ても「パクリ」とわかります。

 そういう中で大学教育に携わり、講師5年、助教授5年、そして教授6年を過ごしてきましたが、文章作成能力、あるいはそれ以前の思考能力に問題があると思えてならないことも少なくありません。夏休み、酷暑の最中でもそのようなことを考え続けていた或る日、朝日新聞の広告で見つけ、「これはよさそうだ!」と思った本がありました。すぐに注文して、18日の午後に青葉台で購入しました。直感は大当たりでした。

 山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室 3つのステップ』(2013年、新曜社)

 この本は大学生にとっても教員にとっても必読書です。強く推薦します。

 コピペ云々は、おそらく、引用というものがわかっていないことに由来します。引用の仕方、注の活用、接続詞の使い方、さらにメールによるレポートの提出の仕方など、基本と言える部分が全て盛り込まれています。欲を言えば段落についても触れていただきたかったのですが、直接的にコピペと関係がないからでしょう。

 この本に書かれていることで、もう一つだけ、納得したことを記しておきます。私は、基本的にメールを送る際には件名をしっかりと書くのですが、学生などから送られてくるメールには件名に何も書かれていないものが少なくありません。本文にも何も書かれていないようなメールもあります。それで添付ファイルが送られてくるのですから、私のパソコンに入っているメールソフトが「迷惑メール」に振り分けてしまいます。このために、学生はレジュメやレポートを提出したと言い張って、私は提出されていないと言ったことが何度かありました。「迷惑メール」など開いたら危険ですから、「最初から読まれたくないのかな?」などと疑ってしまいます。バイトの迷惑行為などとも共通する、想像力、というより思考力、さらに言うなら演繹力のなさが如実に現われます。気をつけて欲しいものです。

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今日は花火大会

2013年08月17日 21時02分45秒 | まち歩き

 今日の19時から、川崎市制記念花火大会と世田谷区たまがわ花火大会が行われました。

 このところ、両大会は同じ日の同じ時間に開催されています。打ち上げ場所も、川崎市のほうは高津区諏訪か北見方、世田谷区のほうは兵庫島で、田園都市線の二子橋をはさんでいますので、実質的に共同開催と言ってよいでしょう。

 私のうちは高津区にありますが、どちらかというと兵庫島のほうに近いため、川崎市よりも世田谷区のほうがよく見えます。規模が大きいのは川崎市のほうですので、少々残念ですが、高い建物も多いため、仕方がありません。それでも、世田谷区のほうも規模としては大きいほうであると思われます。

 2年前には川崎市のほうを見て、写真も動画も撮影しましたが、今回は世田谷区のほうの花火を撮影しました。Canon EOS Kiss X5を使いましたが、気がついたら598枚も撮影していました。今回は、そのうちのほんの一部だけを掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩サークル なかなか興味深いものではないでしょうか?

2013年08月14日 22時57分29秒 | 社会・経済

 今月13日付の朝日新聞夕刊11面4版に掲載されていた記事に関する話です。

 「散歩サークル 増加中 コンパもなし 学生たちは、ただゆるゆる歩く 『実力差なし、誰でも楽に』」という見出しに目が届き、切り抜いておきました。

 この記事を書いた記者さんがどのように思われたのかはわかりませんが、私は、学生時代の風潮を重ね合わせ、「散歩サークル」の存在をうらやましく思いました。コンパだの一気飲みだのというのが当たり前だった私の学生時代に比べれば、はるかに健全ですし、好ましいのではないかと思うのです。

 1988年から1992年までが、私の学部生時代です。すぐにおわかりだと思うのですが、バブル経済期です。あの頃は、金だの酒だのというのが当たり前だったのでした。今思い出しても、軽かったという印象です。当時、反発心ばかりを覚えていました。それほど飲めない私ですし、急に大量のアルコール分を摂取したらどうなるのかということくらい、飲まなくてもわかっていました。しかし、当時、大学祭などでは一気飲みが当たり前で、それをしなければ「和を乱す」などと言われ、嫌われたのです。勿論、私は、命のほうが大事ですので、嫌われるほうを選びました。

 そんな我々の世代が中年になっているのですから、今の20代や30代からすれば「どうしておれらの上司だの先輩だのは、薀蓄ばかり垂れやがって、馬鹿で使えねえ奴らばかりなんだ?」というところではないでしょうか。まあ、これは勝手な推測です。「別に酒は飲めなくてもよい」、「飲むより飲まないほうが偉い」などと、私はゼミ生によく言います。

 酒を飲むこともなく、夜に動くこともなく、街中を歩く。いいではないですか? 記事にはコストパフォーマンスだの、労力云々などと書かれていますが、私が思うに、やはり楽しいから散歩をするのです。そうでなければ、例えばテレビ朝日で好評だった「ちぃ散歩」が長く続いたはずがありません。地井武男さんが亡くなられて、加山雄三さんに変わり、番組名も変わりましたが、続いています。それよりかなり前から、日本テレビでは「途中下車の旅」という番組もやっています。

 たしか、故宮脇俊三氏も、遠くへ行くばかりが旅ではない、という趣旨のことを書かれていました。「時刻表二万キロ」や「最長片道切符の旅」などを遺された鉄道旅行の大家の言葉だけに、重みがあります。

 学部生時代、私は友人と少し長めの散歩を何度かやりました。桜新町駅から自由が丘駅まで、などというようなことです。おそらく今の「散歩サークル」と違うのは、目的地を全く決めなかったことでした。歩いているうちにどこか知っている所に着けばよいのです。同じようなことを一人でもやりました。大阪の難波、心斎橋筋、船場、谷町筋あたりを歩いたり、福岡市の天神から警固、六本松、鳥飼を経由して西新まで歩いたりもしています。

 散歩と言えば思い出すのが、映画評論家にしてジャズ評論家、英米文学やフランス文学にも詳しかった、故植草甚一氏です。1960年代から70年代にかけて、植草氏の散歩と雑学というスタイルは、当時の若者を魅了しました。実は私もその影響を受けた一人です。高校時代、六本木の書店で、晶文社から刊行された全集「植草甚一スクラップ・ブック」の存在を知り、ジャズ系だけは全て買い集めました。その月報には、「植草甚一日記」が掲載されていました。また、同名の書籍もあります。こういうものを読んで、世田谷区の三軒茶屋、三宿、池尻、上町、経堂などへ行ったりしましたし、古本屋周りなども本格化したのです。

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豊肥本線竹中駅の夏

2013年08月12日 17時01分59秒 | まち歩き

 厳しい残暑が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。今回は、大分市の南部から、市内で最ものどかな駅の、夏の風景をお届けします。

 ここは豊肥本線の無人駅、竹中駅です。大分から上り列車に乗ると大分市内で最後の駅になります。所在地は大字竹中ではなく、少し南に離れた大字端登にあります。竹中中学校などは、駅からかなり離れています。

 なお、以前「待合室」で紹介した河原内も、この駅からが一番近いのですが、相当の距離を歩くことだけは覚悟して下さい。おそらく、1時間以上かかります。この駅前にはバスも通りません。

 同じ無人駅でも、滝尾駅(大分の次)であれば自動券売機が置かれていますが、竹中駅にはありません。写真に登場するようなワンマンカーに乗る時、整理券を取ります。そして、着駅で清算します。無人駅、または時間帯によっては駅員がいない駅(敷戸、大分大学前、中判田など)で降りる場合には、車内で運賃を払います。

 撮影したのは土曜日の午後です。駅舎内に人はおらず、ホームにもお客さんらしい人はいなかったのでした。降りる人もあまりいないようです。1両編成のディーゼルカー、キハ125は、特急あそ4号の通過を待っていました。ちなみに、この日、私は車を運転していました。

 この写真の反対側には大野川が流れており、その向こうに国道10号線が通っています。以前、自宅からこの駅まで歩いたことがありまして、国道10号線経由で敷戸、判田、中戸次、大塔、上戸次小学校経由で周ったため、15kmほど、3時間弱でした。この駅から敷戸まで列車に乗ったのですが、夜だったこともあって、ホームで列車を待っていたのは私だけ、乗客も2人か3人しかいません。わびしさを覚えましたが、時々、無人駅のこうした雰囲気を求めたくなります。別の日、土曜日の昼下がりにもこの駅まで歩き、ホームで山を見ながら考え事をしたことがあります。孤独が好きなのかもしれません。まして、実家の辺りには、こういう風景もなく、無人駅もないのですから。

 竹中駅前です。御覧のように、県道中判田犬飼線が通っていますが、商店などはなく、民家もほとんどありません。大字竹中は手前(大分駅方向)へ歩きます。奥のほうへ進むと上戸次小学校、その辺りから急に道が狭くなって、天面山、犬飼方面に行きます(但し、上戸次小学校まで1キロメートルほど離れています)。大分市に住んでいた頃、私は中戸次あたりをよくまわりました。

 大分市の場合、新しい住宅地、あるいは商業施設というと、鉄道路線からかなり離れた所に作られることが多いようです。わさだタウンやパークプレイス大分が代表です。この他、にじが丘、青葉台、豊栄梅が丘ニュータウン、けやき台、宮河内ハイランド、松が丘、富士見が丘、田尻グリーンハイツなどがあげられるでしょう。大分大学の近所にある高江ニュータウンも、大分大学前駅や中判田駅に比較的近いとは言え、急な坂を登らなければなりませんし、美し野も、敷戸駅からであれば西寒多神社付近を経由して30分以上、大分大学前駅からでも20分以上かかります。

 ともあれ、大分市、とくに郊外に住むのであれば、車は必需品です。私が大分市に住み始めたばかりの時、運転免許証の関係で大分南警察署へ行ったのですが、敷戸交番で道を尋ねた際に、警察官の方から「ここから遠いですよ」と言われたほどです。実際に車で走ってみたら、本当に遠かったので驚きました。最寄り駅はどこなのでしょうか。久大本線の向之原(大分市ではなく、由布市にあります)かもしれません。

 そう言えば、2002年3月23日に大分大学前駅が開業するまで、大分大学の最寄り駅は敷戸でした。歩いて20分ほどかかります。その敷戸駅も昭和62年に開業しました。そうすると、昭和40年代に大分大学が現在地の大字旦野原に移転してから敷戸駅が開業するまで、最寄り駅はどこだったのでしょうか。中判田でしょうか。

 由布市(大分市との境界のそば)にある大分大学医学部も、駅から遠い所にあります。学生に最寄り駅を尋ねたのですが、わからないという答えが返ってきました。久大本線の賀来からも豊後国分からも、かなりの時間を、しかも山道を歩かなければならないからです。もっとも、大分駅付近から何本もバスが出ていますから、それほど不便ではありません。

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日田市の淡窓・中城町・豆田町界隈を歩く

2013年08月11日 13時11分05秒 | 旅行記

既に暦の上では秋です。今日も35度を超える猛暑ですが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、今回は、およそ11年前、2002年8月19日に、天領時代の面影を所々に残す日田市の淡窓・中城町・豆田町界隈を歩いた時の様子を紹介します。

 8月19日、大分駅から特急ゆふ2号に乗って、日田市へ行きました。サテライト日田裁判の関係で、日田市の方々とは大分地方裁判所でお会いしたりするのですが、よく考えると、日田市に行くのは今年初めてのことでした。

 目的は、市町村合併関係の資料を収集することでした。日田駅を降りて、市役所へ行きました。この日の午後には湯布院町で講演の仕事が入っていたのですが、特急ゆふいんの森3号の到着時刻まで間が空いたので、駅からも、市役所などのある田島からも近い淡窓から豆田町までを歩いてみました。

 私は川崎市の出身ですが、この街並みには或る種の懐かしさを覚えます。少しばかり、高津区溝口(みぞのくち)に雰囲気が似ているからです(溝口のほうがもう少しにぎやかですし、道路の幅も広いのですが)。溝口は大山街道の宿場町でした。今ではその面影もほとんどないのですが、最近まで、溝口から二子(ふたご)までの旧大山街道には、古い店、そして建物がたくさん立ち並んでいました。少し脇に入ると細い路地に静かな住宅地という点でも、この淡窓・中城町・豆田町界隈と、少し前までの溝口・二子あたりは似ています。

 ちなみに、この通りには古道具屋があり、そこに古本が並べられていました。岡嶋二人のSF小説「クラインの壷」が文庫本で売られていました。この小説の舞台が溝口です(小説では「溝の口」となっています)。

喫茶店です。入ってみたくなったのですが、あまり時間がなかったので、やめました。

 中心街でも刃物屋の存在は珍しくなりつつあると思われます。郊外であれば、大型ショッピングセンターの中に刃物コーナーがある程度でしょう。私は、よく、父と青葉台(横浜市)や南町田、そして宮前平のDIY店に行き、大工道具などをみていましたが、私が住んでいた大分市の郊外でもDIY店がむしろ当たり前の存在です。刃物屋、金物屋、雑貨屋、履物屋(靴屋ではありません)など、個人営業の形態では難しくなっているのでしょう。溝口には、こうした店がまだあるはずです(旧大山街道沿いなどに金物屋があります)。

 日田は小京都の一つです。祇園山鉾があるとのことで、撮影しました。

 そういえば、当時購入した、宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くⅨ』(JTBキャンブックス)の164頁以下に、久留米から日田の豆田まで走っていた筑後軌道の記事が掲載されています。大正5年に豆田まで延長されたのですが、久大本線の開通などがきっかけで昭和4年3月に廃止されています。街には、何の痕跡も残っていないようです。

 御覧の通り、淡窓・中城町・豆田町界隈は、 道幅が狭く、ちょっとしたことで渋滞が起こりかねないところです。ここを車で走るのは少々面倒です。それに、歩行者にとっても、両方向から車が来た時などには厄介で、危険性は高いと言わざるをえません。サテライト日田問題で独自のまちづくり像を主張している日田市ですが、手始めにこの界隈を何とかしなければならないでしょう。私も取り組んでいるこの問題で、サテライト日田問題が解決してもそれは始まりにすぎないという趣旨を、私は何度も述べています。

 おそらく、ヨーロッパ、とくにドイツあたりの都市であれば、自動車をシャットアウトするでしょう。幼いころの記憶をたどると、木曽路の宿場町で島崎藤村の生家もある馬籠宿(当時は長野県山口村でしたが、岐阜県中津川市と合併する方針が決定され、2005年に実現しました)は、自動車の乗り入れが禁止されていたはずです。しかし、淡窓・中城町・豆田町界隈 は、大型の路線バスも通ります。どうなるかは、御想像にお任せします。仮に自動車の通行禁止という措置を取ったとしても、日本の場合、かえって街の衰退に拍車をかける可能性が高いと思われます。だからと言って、道幅を広くしたら、生活空間の破壊にもつながりますし、観光資源としても台無しになるでしょう。

 さて、僅かな滞在時間の後、日田市を離れ、湯布院町(現在は由布市)へ行かなければなりません。午後、市町村合併に関する講演の仕事が入っていたのです。2002年は、私が大分大学教育福祉科学部の助教授になった年ですが、夏休みをとらず、帰省もしなかったことを思い出しました。

 久大本線の途中主要駅、日田の駅名標です。北九州市小倉北区にある城野駅から日田市夜明までの日田彦山線も、日田駅まで乗り入れています。この写真ではわからないのですが、左側(久留米方面)の「てるおか」を漢字で記すと「光岡」となります。難読駅名と言ってよいでしょう。ちなみに、サテライト日田問題の現場は、光岡駅からのほうが近いのですが、周辺が細い道でわかりにくく、また、普通列車の本数も少ないため、特急停車駅である日田駅からバスかタクシーで行くほうが楽でしょう。

日田駅3番線に停まるキハ125です。JR九州が発足してしばらくしてから登場した気動車で、久大本線、豊肥本線などを走っています。

ちなみに、久大本線が日田を通るようになったのは意外に遅く、昭和初期になってからのことでした。

 2番線から光岡側を撮影したものです。左側は日田市の中心街です。御覧のように、久大本線は非電化路線ですので、架線がなく、すっきりとしています。ただ、気動車のエンジンが鳴り響いていることもあり、ホーム付近は結構な暑さとなります。

 日田市でも中心街の空洞化という問題があります。撮影当時、この写真にある岩田屋日田店は営業していたのですが、2週間ほど後、2002年8月31日を最後に閉店しました。岩田屋の経営建て直しのためで、多少、時期が前後するとは言え、熊本の岩田屋も閉店しました。熊本のほうは「くまもと阪神」となったのですが、日田のほうは、岩田屋が撤退してからの後処理が難航しているようです。たしか、日田市が購入して何らかの施設を作るという話も出ていたはずですが、上手くいっていないようです。2003年8月下旬にも日田市に行ったのですが、岩田屋日田店の建物は、何の利用もないままに残されていました(その後、跡地にはマンションが建てられました)。

 九州では鉄道ファンのみならず、女性にも人気の高い気動車特急、ゆふいんの森号です。私が撮影したのはゆふいんの森3号別府行でした。外見からではわかりにくいのですが、編成によって1世、2世と言われることもあります。これは1世と言われるキハ71系のほうです。実は、国鉄時代に作られたキハ65とキハ58を改造したもので、発車の際に出すディーゼルエンジンの音がとにかく大きいのですが、車体は新たに作られたもので、ビュッフェがあり、床は木材を使用するなど、とにかく凝ったデザインです。

 この列車に乗って、私は、午後の仕事のために湯布院(駅名は由布院)まで行きました。

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近鉄内部線・八王子線は存続の方向に進むか

2013年08月09日 10時26分52秒 | 社会・経済

 私がこのブログに「近鉄内部線・八王子線が廃止される可能性」という記事を載せたのは、昨年の8月22日のことです。それ以来、多くの方々にコメントをいただきました。また、11月1日には実際に両線を利用してみました。その模様は、ホームページのほうの「待合室」を経てこのブログにも3回に分けて載せております〔今年1月27日付の「存廃問題に揺れる近鉄内部線・八王子線に乗る(その1)」など〕。

 長らく気になっていたのですが、先程、朝日新聞名古屋本社版の記事、および毎日新聞三重版の記事に気づきました。朝日新聞名古屋本社版のほうは8月6日7時11分付の「『ナローゲージ』の近鉄内部・八王子線、存続の方向」(http://digital.asahi.com/articles/NGY201308060001.html)という記事で、毎日新聞三重版のほうは8月6日付の「近鉄:内部・八王子線存続問題 近鉄、民有案を拒否 四日市市提案に「譲歩の用意ある」/三重」(http://mainichi.jp/area/mie/news/20130806ddlk24020148000c.html)という記事です。

 両者の記事を読み比べると、かなり角度などが違います。朝日新聞のほうは、内部線・八王子線が鉄道路線として残される方向で近鉄と四日市市が調整に入った、という趣旨なのですが、毎日新聞のほうは、7月8日に四日市市の副市長(二名)が近鉄本社を訪れて市の「民有民営方式」という提案を行い、近鉄側が拒否したという内容です。

 朝日新聞の記事によると、今月5日、近鉄と四日市市との間で交渉が行われたようです。そこで、内部線、八王子線の双方が鉄道路線として存続する方向で調整することとなった、とのことです。1年間あたりで3億円ほどの赤字を抱えるとも言われる両路線(一つにまとめられています)ですが、当初、近鉄はBRT化を四日市市に提案していました。これなら経費をかなり抑えることができるからです。しかし、四日市市、そして住民は鉄道路線としての存続を求めていました。

 そこで近鉄は、いわゆる公有民営方式を提案しました。これは上下方式などと言われる方法の一つで、若桜鉄道(鳥取県)や青い森鉄道などで採用されているもので、鉄道の線路などは地方公共団体(など)が保有し、運行は鉄道会社が行います。

 地域公共交通の活性化及び再生に関する法律第25条の2以下に「鉄道事業再構築事業」に関する規定があり、若桜鉄道についてはこの「鉄道事業再構築事業」の認定を受けています。若桜鉄道については、沿線の地方公共団体である若桜町および八頭町が第三種鉄道事業者として鉄道施設(線路、車両など)を保有し、若桜鉄道が第二種鉄道事業者として運行を担当します。若桜町のサイトにある「『若桜谷公共交通活性化総合連携計画』を策定しました」という記事(http://www.town.wakasa.tottori.jp/dd.aspx?itemid=2388#itemid2388)を参照したところ、第二種鉄道事業者が第三種鉄道事業者に支払う線路(施設)使用料のことは記されておらず、若桜鉄道のサイトに掲載されている「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく 鉄道事業再構築実施計画の認定(『公有民営化』第1号)について〔若桜町・八頭町・若桜鉄道㈱〕」(http://www.infosakyu.ne.jp/~wakatetu/oshirase/jyouge.html)にも記されていないのですが、おそらく、無償またはそれに近い額であるということでしょう。

 近鉄内部線・八王子線にもこれを適用するということになると、近鉄は運行のみを担当し、鉄道施設や車両などは四日市市が保有する、ということになります。四日市市は、この点に難色を示したようです。それはそうでしょう。線路、信号、車両などの維持管理にはそれなりのお金がかかる訳です。一方、近鉄は線路(施設)使用料を払わない、あるいは払ったとしても低廉で済みます。若桜鉄道の場合は若桜町、八頭町、鳥取県などが出資する第三セクターの路線でしたので、公有民営方式に移行するのもスムーズであったと推測されますが、内部線・八王子線の場合は違います。

 また、近鉄は、公有民営方式への移行に際しての初期投資、および一定期間にわたっての赤字の穴埋めも四日市市に求めています。初期投資の額は20億円を超えるのでしょうか。決して安い買い物ではありませんし、財政負担としても重いものになるでしょう。交渉が暗礁に乗り上げるのもやむをえない、というところです。実際、近鉄が赤字の穴埋めの全額負担を四日市市に求めているのに対し、四日市市は一部を補助するとしています。毎日新聞の記事によると、近鉄の営業企画部長は、内部線・八王子線を鉄道として残すならコストの増加は「地元が負担するのが筋」であると主張したようです(この主張をどうお考えでしょうか?)。

 しかし、ここへ来て、近鉄は線路などの施設や車両を四日市市に無償で譲渡するという姿勢を見せているようです。その後に維持管理の費用がのしかかるという点に変わりはないのですが、無償ならば移行が楽になる、ということなのでしょう。

 今月末が、近鉄が設定した交渉の期限です。無理にその時点までにまとめる必要もないと思われますが(よくわからないのですが、近鉄が一方的に設定した期限であるようにも見えるからです)、四日市市がどのような態度に出るのか、注目されます。

 ただ、気になる点がいくつかあります。4月28日付の「やはり、近鉄内部線・八王子線はBRT化されるのか」においても記したのですが、再び記しておきましょう(重複するような部分もあります)。

 21世紀に入ってから、近鉄は北勢線、養老線および伊賀線を切り離しました。いずれも三重県内を通る路線です(養老線は岐阜県も通ります)。このうち、北勢線は廃止表明の後に三岐鉄道に譲渡されましたが、養老線と伊賀線については子会社を設立し(養老鉄道、伊賀鉄道)、その子会社が第二種鉄道事業者として運行などを担当するものの、近鉄は第三種鉄道事業者として施設などを保有しています。

 しかし、内部線および八王子線については、養老鉄道および伊賀鉄道とは逆に、近鉄が第二種鉄道事業者となる、というのです。このことは、名目上、内部線・八王子線が近鉄路線として残ることを意味するかもしれませんが、施設保有という点では近鉄の関与が減ります。しかも、内部線・八王子線はナローゲージで、車両なども特殊です。養老鉄道や伊賀鉄道であれば、軌間(レールの幅)がJRなどと同じですので、既存の車両や施設が古くなれば他社から購入するなどの方法があります(現に伊賀鉄道は、東急から1000系を購入し、自社保有の車両として運行しています)。しかし、内部線・八王子線ではこの手が使えません。特殊であるだけに、新車のコストもそれなりに高くつくのではないかと思われます。表現が悪いのですが、公有民営方式により、近鉄は施設などの費用の大部分を四日市市(場合によっては三重県)に押し付けることができる訳です(もっとも、車両の整備などに近鉄が全く関わらなくなるとも思えないのですが)。

 こうなると、「やはり、近鉄内部線・八王子線はBRT化されるのか」で記したように、内部線・八王子線は完全に近鉄の手から切り離すほうが、筋が通ることでしょう。近鉄四日市駅への乗り入れが問題として残るかもしれませんが、そこは調整次第ということです。

 以上に記した点と関わりますが、四日市市は、養老鉄道および伊賀鉄道の実態などを調査したのでしょうか。輸送人員、輸送密度などの点です。養老鉄道の場合は三重県と岐阜県に跨っていますし、沿線市町村も桑名市、海津市、養老町、大垣市、神戸町、池田町、揖斐川町と7市町に跨っていますので、近鉄が子会社を設置したのも理解できます。これに対し、伊賀鉄道の場合は全線が伊賀市内にあります。様々な条件を比較して、伊賀鉄道と同じような方法を採ることができないのか、検討したのでしょうか。

 さらに、公有民営方式にした場合の将来像です。年間あたりの輸送量、経費などの試算が必要になるはずです。維持するためには予算を投入しなければなりません。赤字状態が継続し、累積額が増えるのでは、何のために公費をつぎ込むのかがわからなくなります。まして、完全な公営企業と化する訳ではないのです。費用対効果などの検証が求められることになります。

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