ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2009年12月17日、田園都市線溝の口駅

2020年05月31日 00時00分00秒 | 写真

 最初にお断りです。今回は、「待合室」の第349回「溝の口駅で大井町線を(その1)」(2010年2月13日〜19日掲載)、第352回「溝の口駅で大井町線を(その2)」(2010年3月5日〜11日掲載)および第354回「溝の口駅で大井町線を(その3)」(2010年3月18日〜24日掲載)の再掲載です。内容などには一切修正を加えていません。

 

 (1)

 2009年7月11日(土曜日)、大井町線が溝の口まで走るようになりました。正確には田園都市線の複々線区間に乗り入れるということなのですが、大井町線の運転区間は、1979年8月12日、田園都市線~新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)~営団(現在の東京メトロ)半蔵門線直通運転開始とともに田園都市線の大井町~二子玉川園が大井町線に改称されてからおよそ30年ぶりに、1963年10月11日に大井町線大井町~溝ノ口 (当時の表記)が田園都市線に改称されてからであればおよそ46年ぶりに、再び大井町~溝の口となりました。但し、一部の電車は以前から大井町~鷺沼の運転でしたし、土休日には、上りは田園都市線の中央林間から大井町まで、下りは大井町から鷺沼または長津田までの直通急行も走っていました 。

 溝の口駅の南方、梶が谷駅方面にある引き上げ線から3番線に、緑各停の大井町行が入線してきました。8590系の5両編成です。大井町線は、急行が6000系6両編成、各停が8090系、8500系、8590系または9000系の5両編成です。

 大井町線には各駅停車が2種類あり、電車の種別表示機や駅の案内表示に表示される色で識別できます。緑各停は大井町線の一般的な各停で、田園都市線の二子新地駅および高津駅には停車しません。青各停は田園都市線の二子新地駅および高津駅に停車しますが、本数が少なく、走る時間帯が限られます(もっとも、大井町線の各駅から二子新地駅または高津駅に向かうには、二子玉川駅の同一ホームで乗り換えればよいので、不便ではありません)。

 8590系は、元々が東横線の急行用として登場した車両です。電動制御車しかなく、中間車は先に登場した、日本最初の量産型軽量ステンレスカーである8090系をそのまま組み込んでいます。8090系も東横線の急行用として登場したのですが、東横線と横浜高速鉄道みなとみらい21線との相互直通運転が決まると、先頭車に貫通扉がない8090系では問題が生じるため、8090系の先頭車などは大井町線に転属させ、編成を組み替えて先頭車を8590系としたのでした。長らく東横線で活躍しましたが、一部は10両編成となって田園都市線でも走りました。再び東横線に集結したのですが、8000系引退の前に東横線から姿を消し、大幅な編成替えの上で大井町線に転属しました。なお、一部の編成は再び10両編成となって田園都市線を走っています。

 正確なことは覚えていませんが、21世紀になってから、大井町線を走る車両には赤とオレンジのグラデーションという独自の色彩の帯が巻かれ、「大井町線」と書かれたステッカーを正面および側面に貼るようになりました。東急と言えば、ステンレスカーは長らく無塗装でして、帯も巻いていなかったのですが、8500系が正面に赤帯を巻き、1980年代に8090系を筆頭に正面にも側面にも赤帯を巻くようになりました。現在、5000系シリーズが路線毎に異なる色の帯を側面上部に巻いており(田園都市線がライトグリーン、東横線がピンク、目黒線が濃いブルー)、池上線と多摩川線を走る7000系は濃い緑の大胆なデザインとなっています。

 

 (2)

 再び溝の口駅の3番線です。大井町線の上り、大井町行の電車が発車します。同じホームの反対側にある4番線には田園都市線の上り、東京メトロ半蔵門線・東武伊勢崎線・東武日光線直通電車が発着します(行先は色々なのですが、多いのは清澄白河行、押上行、久喜行、南栗橋行です)。私が大学院生として田園都市線を利用していた頃、4番線 には朝のラッシュ時に各駅停車が発着していました。

 溝の口駅の南方、梶が谷駅方面にある引き上げ線から3番線に、急行の大井町行が入線してきました。6000系の6両編成です。6000系は大井町線の急行専用車です。各停には使用されません。このような専用車は東急ではほとんど存在しません。8090系や8590系も東横線の急行用として登場したことになっていますが、各停にも使用されていました。

 ちなみに、東急には1980年代まで、東急初の両開き扉車でドラムブレーキなどを採用し、VVVFの営業試験車ともなった6000系が走っていましたので、現在の6000系は2代目となります。初代の6000系は独特の甲高いモーター音を発していましたので、御記憶の方も多いでしょう。 東急線からの引退の後、一部が弘南鉄道大鰐線を走っていましたが、今はどうでしょうか。

 この6000系は、池上線・多摩川線用の7000系より少し遅れて登場しました。6000系、7000系のどちらも、デザインは5000系が基本となっています。また、7000系は3両編成で18メートルの3扉車で緑を基調としたデザインですが、6000系は20メートルの4扉車で赤とオレンジを基調にしています。

 大井町線と言えばドアカットです。戸越公園では大井町側の2両の扉が開きません。九品仏では二子玉川側の1両の扉が開きません。ホームが短いためです(踏切の上に停車したりするので驚く方もおられるようです)。そのため、大井町線を走る8090系、8500系、8590系および9000系にはドアカットのための自動装置が設けられています。しかし、この6000系には設けられていません。急行は戸越公園にも九品仏にも停まりませんので、ドアカットは不要なのです。ちなみに、急行運転を開始するために自由が丘駅のホームが延長され、それに伴って自由が丘の電留線(元々は検車区でした)が廃止されています。

 今では大井町線の2駅だけしかありませんが、東急にはドアカット実施駅が他にもありました。東横線の代官山が有名でしたが、1980年代には解消されました。また、菊名でもドアカットが行われていました(急行停車駅ではここだけでしょう)。また、目蒲線が目黒線と東急多摩川線とに分割される前、4両編成だった時期に鵜の木駅でドアカットが行われましたが、現在は3両編成に戻ったためにドアカットは行われていません。

 田園都市線の主力として長らく活躍してきた8500系です。8000系が引退してから東急では (旧7000系からの改造車である7700系、および7200系からの改造車である7600系を除いて)最古参の営業用車両となってしまいましたが、10年ほどの間に400両が製造されたので、様々な形態があります。1975年にデビューし、翌年にローレル賞を受賞しています。デビュー時から長らく東横線でも活躍していましたが、私の大学院生時代には田園都市線に集結していました。但し、一部は5両編成として大井町線で運用されています。

 デビュー当時から黒地の自動方向幕および種別表示幕を備えていましたが、大部分はLED式の表示機に交換されています。

 新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)用として登場した8500系は、当初は4両編成でした。1977年の新玉川線開業時には6両編成であったはずです。その後、田園都市線・新玉川線は8両、次いで10両となりました(但し、中間には8000系が組み込まれていたこともあります)。半蔵門線直通運転用として製造されたため、当初からCS-ATCを備えており、新玉川線ではCS-ATCが使われていました。また、半蔵門線開業時は当時の帝都高速度交通営団が半蔵門線用の車両を所有しておらず、この8500系のみが半蔵門線を走っていました。現在は東武伊勢崎線の押上~久喜、日光線の東武動物公園~南栗橋でも走ります。

 1990年代に2000系がデビューしたものの、3編成しか製造されなかったこともあって(2000系は輸送力増強のためのものです)、8500系は主力の座を維持しましたが、新5000系がデビューしてからは少なくなっています。既に一部は伊豆急行、長野電鉄、秩父鉄道 、そしてインドネシアに譲渡されています。しかし、私が小学校に入学したばかりの頃に登場し、大学院生時代には通学のためによく乗っただけに、東急の車両の中でもとくに愛着を感じる車両です。

 溝の口駅の南側、梶が谷側に電留線があります。かつては上のポイントの辺りまで下りホームがありました。今、電留線に6000系が停まっています。奥にトンネルが見えます。そのトンネルを抜けると梶が谷駅で、以前から電留線があり、大井町~梶が谷という電車も走っていました。現在は大井町線用の電留線があります。ちなみに、上の写真では見えませんが、右側のほうに高津区役所があります。

 ここから先は1966年に延長された区間です。それまで、田園都市線は大井町~溝の口(当時は溝ノ口)でした。

 大井町線と田園都市線の歴史はかなり複雑でして、年表で整理する必要があるくらいですが、元々、二子玉川~溝の口は玉川電気鉄道の路線であり、1943年に工場勤務者の輸送を増強するために改軌して大井町線に編入したのです。1963年には大井町線が田園都市線に改称されます。1966年に溝の口~長津田が開業してから田園都市線は延長を続けますが、1977年に新玉川線が開業し、1978年に半蔵門線との直通運転を開始し、1979年には田園都市線・新玉川線・半蔵門線の直通運転が開始されると同時に大井町~二子玉川が大井町線に改称されます。これにより、新玉川線と田園都市線は実質的に同一の路線となりました。1984年には中央林間まで全通します。そして、2000年8月、新玉川線は田園都市線に編入されます。

 田園都市線の下り線を東京メトロ08系が走ります。半蔵門線用の車両で、東京メトロ8000系(帝都高速度交通営団では最初のワンハンドルマスコン採用車両)の後継車両と言えます。半蔵門線のラインカラーである紫の帯を巻いていますので、すぐに識別できます。

 現在、田園都市線には東急、東京メトロ、東武の車両が走っています。東急は8500系、8590系、2000系および5000系で、5000系には6扉車が組み込まれています(その関係で一部が改番され、8両編成 3本が東横線を走っています)。また、8590系と2000系、および8500系の一部は東武線に乗り入れることができません。東京メトロは8000系および08系です。東武は30000系と50050系ですが、30000系を見かけることは少なくなりました(原則として東武線内のみの運用に限定されるようになったのです)。また、長津田車両工場への回送の関係で、世田谷線を除く東急全線の車両を見かけることも少なくありません。

 

 (3)

 私の本務校である大東文化大学の板橋校舎は高島平一丁目にあります。都営地下鉄三田線西台駅が最寄りとなるので、通勤には東急目黒線を利用します。その関係もあって、国学院大学渋谷校舎に向かう時は東横線を利用します。

  しかし、時折、田園都市線や大井町線を利用することがあります。半蔵門線の半蔵門~三越前が開業して溝の口から神保町まで乗り換えをせずに行けるようになってから、田園都市線の利用頻度が高くなり、院生時代は田園都市線で通学していました。また、大井町線は 、2000年8月の目蒲線分割までは東急の鉄道線全線に、分割後は東急多摩川線を除く鉄道線全線(世田谷線は軌道線です)に乗り換えられるために利便性が高いのです。2009年7月11日から溝の口まで運転されているため、利便性がさらに高まりました。各停が5両、急行が6両と短い編成ですが、東横線、田園都市線とともに車掌が乗務していることから、乗客が多いことがうかがわれます〔目黒線、池上線、多摩川線、こどもの国線(正式には横浜高速鉄道)はワンマン運転です〕。

 田園都市線の主力を長らく務めてきた8500系のうち、最後期に製造された2編成は5両編成であり、大井町線で運用されています。そのうちの1編成が上の写真の車両です。8500系は1975年から10年ほどにわたって製造されているため、製造年によってかなりの違いがあります。最も大きな違いは軽量車体か否かという点でしょう。なお、前面下部の排障器(スカート)は、半蔵門線の水天宮前~押上の開業、および東武線との直通運転開始に際して取り付けられたものです。

 緑各停の8090系が2番線に到着しました。元々は東横線用ですが、みなとみらい線との直通運転が決まったことにより、前面非貫通の形態では地下線の走行に問題があるとして大井町線に転用され、今では大井町線の主力になっています。日本で最初の量産軽量ステンレスカーで、現在のところは東急最後の前面非貫通型でもあります。前期型は前照燈が帯の下にあるのに対し、中後期型は前照燈が帯の位置にあります。また、前面の窓も改造されています。

 前面非貫通といえば、JRの通勤型では当たり前のような存在ですが、東急では少なく、世田谷線用の車両を除くと、旧3000系の一部、1954(昭和29)年に登場した旧5000系、1958(昭和33)年に登場した5200系、そして8090系しかありません。

 なお、2010年3月、東急から秩父鉄道に譲渡された8090系3両が7500系として登場するという話です。

 こちらは緑各停の8590系です。もっとも、8590系は先頭車だけで、中間車は8090系です。こちらは貫通扉が付けられています。8090系、8590系の種別表示および行先表示には幕式とLED式の両方がありますが、大井町線の場合は幕式のほうが見易いと思います。LED式の場合、とくに 「各停」の表示が少々わかりにくいのです。

 先ほどの緑各停が発車した後、急行の6000系が入線しました。大井町線の急行は、途中、東急の他線との乗換駅(旗の台、大岡山、自由が丘、二子玉川)しか停まりません。また、急行は上りも下りも旗の台で各停に接続します。時間帯によっては、上りのみですが上野毛での追い抜きもあります。

 1番線に田園都市線下りの8500系が停車しています。現在、東急で側面に帯を巻いていないのは8500系のみです(但し、一部の編成は巻いています)。

 行先表示を見ていると、何秒か毎に日本語、ローマ字表記が入れ替わります。これは目黒線用の3000系からです。現在ではJRなどでも当たり前のようになっていますが、東急3000系はその早い例でした。

 

 〔補記〕この記事を最初に書いた時には、大井町線の戸越公園駅と九品仏駅においてドアカットが行われていましたが、現在は九品仏駅のみです。

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2010年6月8日、六本木交差点

2020年05月30日 01時15分00秒 | まち歩き

 久しぶりに六本木のサテンドールに行って、ジャズのライヴでも楽しみたいと思っています。そこで、今回は、「待合室」の第376回「六本木交差点」(2010年8月3日〜20日掲載)の再掲載です。撮影は2010年6月4日です。なお、文章を一部修正しましたが、内容に変更はありません。従って、現在の六本木の街とは違う所も多いことに御注意ください。

 

 六本木と聞いて、思い浮かべるものは何か。

 「くだらない」と言われるかもしれませんが、このような問いを立てるとすると、今ならテレビ朝日、六本木ヒルズ、国立新西洋美術館などというところでしょうか(ミッドタウンは赤坂九丁目にあります)。

 私にとって、一つは六本木六丁目にあったWAVEです。1983年に開店したレコード店で、1999年12月25日の閉店まで、音楽家を初めとして多くの文化人に支持されました。今でも閉店が惜しまれるところです。私は、2010年7月号を最後に休刊となったスイングジャーナルの広告を、高校1年生の時に初めて見て興味を持ち、1984年8月31日に初めて訪れました。それ以降、1990年秋から1991年秋までのほぼ1年間を除き、私が大分大学に就職するまで、少なくとも毎月1回は六本木WAVEに行き、LPやCDを探していました。大分大学に就職してからも、帰省する度に行きました。私が大分市内のCDショップに行くようになったのは、六本木WAVEが閉店してしばらく経ってからのことです。

 今でも、六本木WAVEほど、私にジャズ、クラシック、ロックなど、音楽鑑賞の面白さ、LPやCDを探すことの面白さを最上の形で教えてくれた店はないと思っています。それだけに、閉店にはショックを受けました。六本木WAVEが閉店してから、タワーレコード、HMVなどに行くのですが、やはり何かが違います。六本木WAVEに初めて行った日、私は、購入するかしないかに関係なく、4階の南側にあったジャズのコーナーにあるLPやCDの棚を全て見回しました。3時間以上、店内にいたはずです。配置などに強いメッセージのようなものを感じました。あれこれと頭の中に浮かびすぎて上手く表現できませんが、10代の後半であった私にとって、六本木WAVEは、建物の外装、内装、流れている音楽、店の構造など、色彩や服装、音楽など、趣味の要素で強い影響を受けました。

 そして、街の雰囲気にも影響を受けました。1980年代後半の六本木は、現在と違い、口頭でも文章でも表現しにくいけれど東京でも他に例を見ないほど独特の雰囲気に包まれており、あたかも六本木が異国の街であるかのような空気を持っていました。六本木WAVEは、そのような六本木を感じさせてくれる最後のものであったとも言えます。そのためなのかどうか、私は、10年以上、六本木の街を歩いたことがなかったのです。今年の4月に結婚し、5月に妻と六本木ヒルズに初めて行き、10年ぶりに街を歩いた時も、六本木の街がつまらなくなっていることを強く感じました。妻も同様のことを思ったらしく、何度も私に「都町とあんまり変わらない」と言っていました。

 六本木という地名で私が思い浮かべるもののもう一つが、ジャズです。私が本格的にジャズを聴き始めたのは中学校1年生の時で、渡辺香津美さんの「トチカ」と「トーク・ユー・オール・タイト」を聴いたのがきっかけでした。そして、1981年の晩秋に「ドガタナ」を聴いて、それまで好きだったイエロー・マジック・オーケストラなどのテクノポップから離れたのでした。ほどなく、六本木ピットインの名前を知ります(この辺りは曖昧で、イエロー・マジック・オーケストラを聴き始めたのが1979年、小学校5年生の時なので、その年に六本木ピットインを知ったのかもしれません)。1982年、中学校2年生の時、新宿の厚生年金会館でのコンサートに行きました。私がエルヴィン・ジョーンズのライヴを六本木ピットインで聞いたのは高校2年生の時で、1985年7月31日であったと記憶しています。その後、大学生になってから、ピットイン、サテンドールなどに何度か行きました。しかし、大学院生になってジャズから離れ、ライヴに行くことはなくなりました。

 上の写真は六本木交差点です。首都高速3号渋谷線が通っており、その橋に「ROPPONGI」と書かれています。手前から奥へ伸びるのが外苑東通りで、六本木ピットインは奥のほう、飯倉交差点の近くにありました。また、左右に伸びるのが六本木通りで、右のほうへ進むと 六本木ヒルズ(その入口の所に六本木WAVEがありました)、西麻布、渋谷駅、左のほうへ進むと溜池、霞が関です。六本木通りを溜池方面に進むとすぐ、坂を下る前に俳優座劇場があります。その裏にサテンドールがあって、私は大学生時代に何度か行きました。現在は移転しています。

 この交差点を渡ると俳優座劇場がありますが、首都高速道路の向こう側に古本屋の誠志堂があります。ジャズ評論家の草分け的存在で、最近になってまた作品集が出されている故植草甚一氏もよく通われた古本屋でした。また、私たちが立っている場所の後に、現在はノジマの支店があるのですが、そこがかつては新刊書を売っているほうの誠志堂の本店でした。現在も誠志堂のビルなのですが、書店のほうは既に閉店しています。私は、この本店よりも東日ビルの地下にあった支店のほうによく行きましたが、そちらも既になくなっているようです。

 大分大学に勤めてしばらくしてから、再びジャズを聴き始めるようになりました。そして、21世紀になってから、また渡辺香津美さんのアルバムを集めるようになりました。ギター・ルネッサンスのシリーズを聴いていると、50代に入ってからの香津美さんの凄さを実感します。17歳で「インフィニット」というアルバムでデビューしてから、日本でトップのギタリストとしての地位を築き上げていますが、ヒルトップスタジオを立ち上げ、イーストワークスから発売されているアルバムを聴いて、1981年までの日本コロムビア時代、その後に僅か数年しかなかったトリオレコード時代(「MOBO」という2枚組大傑作が発売されました)以来、今が円熟期であり、しかも発展を続けているということなのです。これからも、どのような音楽活動が展開されるのか、楽しみです。

 或る日、たまたま自宅でインターネットをやり、6月4日、六本木のサテンドールに渡辺香津美さんが出演することを知りました。私は、すぐに予約を入れました。妻は香津美さんの演奏を聴くのが初めてでしたが、私は、今はない東急文化会館地下の映画館、パンテオンで、中学生時代に生演奏を聴いていますので、それ以来、実に20何年ぶりということになったのでした。渋谷で仕事をしたので、妻と渋谷で待ち合わせ、バスに乗って六本木へやってきました。

 後のほうに東京ミッドタウンが見えます。六本木駅から近い場所にありますが、実は赤坂九丁目にあります。私が六本木によく行っていた頃には防衛庁がありました。目指すサテンドールはこのミッドタウンより手前の場所にあります。

 それにしても、六本木にはカラオケ屋や普通の飲み屋や飲食店が増えました。1980年代後半と1990年代の六本木と比べても、まるで違う街のようになっています。私は、今、自分が六本木、渋谷、新橋、新宿、池袋のいずれの街を歩いているのか、わからなくなりかけていました。

 サテンドールに入り、19時30分から23時頃まで、セカンドステージまで通しで渡辺香津美さんの生演奏を堪能しました。ベースの井野信義さんとのデュオが基本で、最初の曲は1981年、私が中学生の時に発売されたアルバム「ドガタナ」に収録されている「プリーズ・ドント・バンドル・ミー」でした。香津美さんの声が、1980年代、FM東京のラジオ番組の時とほとんど変わっていなかったことにも驚かされました。ステージには、この10年くらいはトレードマークのようにもなっているエイブ・リヴェラなど3本のギターが置かれていました。最初から、ジャズ、ロックなどが消化されたスピード感のある演奏が繰り広げられました。

 途中、ゲストという形で、香津美さんの師匠、中牟礼貞則さんも入ったトリオとなりました(井野さんが抜けた曲もあります)。中牟礼さんの演奏を初めて聴いたのですが、切れ味鋭い、昔ながらのジャズ・ギターという感じでした。ギブソンのフルアコというのも大きいかもしれません。しかし、実際のお歳よりも若々しいという印象も強く受けました。1933年生まれということなので、今年は喜寿、77歳ですが、私には10歳くらいは若く見えました。

 ソニー・ロリンズの名曲「オレオ」、コルトレーンの名曲「インプレッションズ」なども演奏され、最後は香津美さんがよく取り上げている「星影のステラ」で、香津美さん、井野さん、中牟礼さんのトリオで演奏されました。このメンバーでの「星影のステラ」がCDにならないかと思ったくらいです。

 サテンドールを出たら、雨が降っていました。その中を、妻とともに千代田線の乃木坂駅まで歩きました。上の写真は、ミッドタウン付近の交差点から六本木ヒルズを撮影してみたものです。

 〔以上は、あくまでも2010年における記述内容であることを、重ねて記しておきます。〕

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あの事件から1年

2020年05月29日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 2019年5月28日の朝、多摩区登戸新町で発生した通り魔事件には驚きました。

 ちょうど、その日に中央大学経済学部での講義があるためにうちを出ようとした時、上空を何台ものヘリコプターが飛んでいたので、溝口で大きな事件があったのかと思ったのです。国道409号や南武沿線道路を何台かの救急車が通りました。

 テレビをつけたら速報が流れており、登戸新町の様子が映っていました。現場の様子は南武線の電車からも見えました。僅かな時間ですが、大変な事件が起こってしまったということがわかります。

 2人の命が奪われ、多くの子どもたちが傷つきました。

 被疑者も自殺してしまったので、結局、動機も何もわからないのでした。それだけに、何処に怒りをぶつければよいのか……。

 あれから早いもので1年が経ちました。

 

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どういう配り方か

2020年05月28日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 うちには未だに届いていませんが、私の実家には18日にアベノマスク2枚が届いていました。4月頃に写真で見たよりも大きいようには感じられましたが、不織布マスクに比べれば小さいことは一目瞭然です。不良品続出騒ぎがあったので、最近配布されているものは少し大きくなったのでしょうか。

 うちも実家も川崎市の同一区内にありますが、どういう配り方をしているのでしょうか。町丁毎なのか、高齢者世帯優先なのか。マスクは郵便で送られていることが明らかですが、宛名も住所も書かれていません(実家で確認しました)。そのため、町丁毎でないと郵送作業が混乱しそうです。

 特別定額給付金の申請書もまだ届いていません(川崎市は5月下旬に送付を開始するという趣旨をホームページで発表しています)。

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こんなシールが売られていた

2020年05月27日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 二子玉川駅の売店で、こんなものが売られていました。

 東急で最初のカルダン駆動車、初代5000系の正面が描かれたシールです。

 「東急旧5000系ステッカー」が商品名です。

 うちにあるメインのパソコンに貼りました。

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東急池上線途中下車(3) 大崎広小路駅

2020年05月26日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、「待合室」に第380回「東急池上線途中下車(3) 大崎広小路駅(その1)」(2010年9月16日〜23日掲載)、第383回「東急池上線途中下車(3) 大崎広小路駅(その2)」(2010年10月8日〜15日掲載)および第384回「東急池上線途中下車(3) 大崎広小路駅(その3)」(2010年10月15日〜21日掲載)の再掲載です。写真撮影日は2010年7月15日です。内容を修正しておりませんので御注意ください

 

 (その1)

 2007年3月30日、第209回として東急池上線の池上駅を取り上げました。池上線を取り上げるのは、それ以来、およそ3年半ぶりにして3回目のこととなります。これだけ間が空いたのは、池上線を利用する機会が少ないからです。東横線や田園都市線を利用される方にとっても、池上線は利用しにくい線と言えるでしょう。

 また、世田谷線のような話題性に溢れる路線とも言えません。その名もズバリ「池上線」という歌もありますが、その程度でしょうか。あとは、1993年、池上線に1000系が入線した時、実に60余年ぶりの新車と騒がれたくらいで、支線中の支線というような扱い方をされてきました。東急最初の新性能車である青ガエルこと旧5000系は、東横線を皮切りに大井町線、田園都市線、目蒲線を走りました(いずれも、元をたどれば東急の母体である目黒蒲田電鉄系の路線です)が、車両限界の関係もあって池上線を走ることなく引退しました。また、日本最初のステンレスカーである5200系以来、東急の鉄道線には多くのステンレスカーが入線しましたが、池上線にはなかなか入線せず、 ようやく1984年になってから7200系が走り始めました(鉄道線では最後となります)。8000系以降の20メートル車は入線できず、旧6000系および旧7000系も入線できなかったために7200系となったようです。ちなみに、池上線と同様に最後まで旧型電車(旧3000系)が走った目蒲線には、1972年に7200系が投入されています。

 そんな池上線ですが、嵌まると抜けられなくなるほどの独特の味わいがあります。 戸越銀座、旗の台、長原、洗足池、雪が谷大塚といった所を記しておけばよいでしょうか。

 これまで、大田区内にある洗足池駅と池上駅を取り上げましたので、引き続いてどこを取り上げようかと考えてきました。荏原中延、旗の台、長原も 候補にあがったのですが、手元によい写真がありません。そこで、大崎広小路といたしました。五反田の手前ですが、池上電気鉄道の一時期、起終点でもあった駅ですし、意外に思われるかもしれませんが私にとっては利用頻度の高い駅でもあります。

 仕事の関係で、JR大崎駅の近くにある日本税務研究センターの図書室を利用することがあります。山手線を使うのが常道でしょうが、池上線や大井町線の沿線に居住する人であれば、山手線に乗り換えるより池上線の大崎広小路駅から歩くほうが速いでしょう。 私も、時折、大崎広小路駅から大崎駅付近まで歩くことがあります。

 池上線の起点は五反田で、その五反田を出るとゆっくり走ってもすぐに大崎広小路に着きます。わずか300メートルしか離れていないのです。 ちなみに、大崎広小路と戸越銀座の間は1.1キロメートルです。この駅間距離の違いに、池上線の歴史がよく現われています。池上電気鉄道は、終点の蒲田から池上までを最初に開業させ、山手線のほうに路線を伸ばしていったのです。しかも、当初は五反田ではなく、目黒を目指していたという話があります(ついでに記すと、当初の終点としては大森が予定されていました)。大崎広小路と戸越銀座の間にあった桐ヶ谷駅から大崎広小路までが開業したのは1928(昭和3)年、五反田まで開業したのも同年のことですが、さらに白金方面に延長することも考えられていました。このために、五反田駅では山手線とほぼ直角に、しかも山手線を乗り越えるような構造になっているのです。

 それにしても、五反田駅との間が非常に近いにもかかわらず、大崎広小路駅が廃止されずに残ったのは不思議なことでもあります。隣にあった桐ヶ谷駅は1950年代に廃止されています。

 大崎広小路駅の高架下に通る道路は山手通りです。渋谷駅から大井町駅までの東急バス渋41系統が通っています。手前のほうへ歩いていくと立正大学、JR大崎駅に行くことができます。逆に奥のほうへ歩いていくとすぐに中原街道との交差点に着き、さらに真直ぐ進むと、かつての敵対路線でもあった目蒲線、現在は目黒線の不動前駅の近くを通り、東横線の中目黒駅に行くことができます。

 車両の近代化などが遅かった池上線ですが、東急の鉄道線で最初にワンマン運転を開始したのは池上線で、1996(平成8)年のことです。

 このように記すと、1989(平成元)年にこどもの国線でワンマン運転が開始されたという御指摘を受けることでしょう。実は、こどもの国線は純粋な東急の鉄道線と言えません。元々はこどもの国協会が東急に運行を委託していた路線で、鉄道事業法の施行後にこどもの国協会が第三種鉄道事業者(施設などを保有する事業者)、東急が第二種鉄道事業者(施設などを自ら保有せず、他者が所有する施設を利用して運送を行う事業者)となりました。現在は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者です。

 駅前にある大崎広小路バス停から、五反田側を撮影しました。高架橋の工事をしています。この区間は最初から高架線でした。

 下り電車が大崎広小路駅に到着します。最新の7000系です。日本最初のオールステンレスカーである旧7000系と区別するため、2代目7000系、新7000系とも言われています。池上線および東急多摩川線向けの18メートル車で、全て3両編成です。基本的な設計は新5000系と同じなのですが、かつての標準色であった緑の濃淡を使用しており、前面スタイルもかなり異なっています。

 

 (その2)

 品川区にある、東急池上線の大崎広小路駅は山手通りを横切る高架線の上にある駅です。所在地は大崎4丁目で、駅の西側は西五反田8丁目です。まずはそちらのほうへ歩いてみます。

 大崎広小路交差点は、山手通りと都道317号線が交差する場所です。ここを左折すると国道1号線の中原口交差点に出ます。つまり、中原街道へ向かうことができます。池上線は、五反田から雪が谷大塚まで、中原街道に沿うように走っており、洗足池駅と雪が谷大塚駅で中原街道に最接近します。雪が谷大塚駅を出ると、池上線は左に曲がって池上、蒲田へ向かいますが、中原街道は田園調布の南側を通って丸子橋を渡り、すぐに綱島街道を分岐して武蔵中原駅付近を経由して港北ニュータウンへ向かいます。丸子橋付近から東急東横線が綱島街道と沿うように走っています。

 大崎広小路駅 と言えば、以前から簡易保険ホールが有名でした。長らく郵政関係の省庁、公社が設置し、運営しており、東京簡易保険会館という名称でしたが、現在は民営化され、ゆうぽうとが正式の名称となっています。なお、日本郵政株式会社は現在も土地と建物を保有しているとのことです。

 都道317号線のほうに出ると、大崎広小路駅交差点から山手線の五反田駅が見えます。ビルに囲まれているので見えませんが、右側のほうに池上線の五反田駅があります。山手線と池上線の連絡口が写っています。五反田には都営浅草線も通っていますが、駅は国道1号線のほうにあります。ちなみに、五反田駅は東五反田にあります。

 山手通りで、大崎広小路交差点から西へ進むと西五反田一丁目交差点があります。国道1号線は西五反田一丁目交差点のほうを通ります。都営浅草線は、高輪台駅から五反田駅を経由して西馬込駅まで、国道1号線の下を通ります。なお、地域と世代によっては、国道1号線と言っても話が通じません。第二京浜という俗称のほうがよいかもしれません。

 私が用事で行かなければならないのはJR大崎駅のほうです。そこで西五反田ではなく、大崎駅のほうへ向かいます。山手通りは、大崎広小路駅から立正大学(右側に大崎キャンパスの看板が見えます)の前を通り、大崎駅で山手線の上を通り、もう一度山手線と交差して(下を通ります)、京浜急行の新馬場駅付近に向かいます。北品川二丁目交差点で国道15号線と交差するのですが、この国道15号線こそかつての国道1号線であり、現在も第一京浜と言われています。

 

 (その3)

 東急池上線の大崎広小路駅から大崎駅(JR東日本、東京臨海高速鉄道)へ向かっています。 案内によって所要時間が異なるかもしれませんが、歩く速度に個人差があるのは当然のことです。それに、初めてか慣れているかという違いもあります。私の場合は5、6分というところでしょうか。

 大崎広小路駅から歩いて数分の所に、仏教系(日蓮宗系)の大学の一つである立正大学があります。短期間ながら内閣総理大臣を務めた石橋湛山がこの大学の学長を務めていたことがあります。

 立正大学は、埼玉県熊谷市にもキャンパスがありますが、こちらの大崎キャンパスのほうに本部があります。学部によってキャンパスが異なるようです。

 首都圏の大学には、東京都の23区地域に本拠を置きつつも郊外に広大なキャンパスを展開する大学が少なくありませんが、近年、都心回帰とも言うべき現象が見られます。一度、郊外のキャンパスに移った学部が再び都心部のキャンパスに移ることがあります。また、大東文化大学を典型としてあげられるように、1年次、2年次を郊外のキャンパスで、3年次以上を都心のキャンパスで過ごすというパターンは多かったのですが、1年次から卒業時まで同一のキャンパスで過ごせるようにする大学も見られるようになってきています。国学院大学がその典型で、人間開発学部は横浜たまプラーザキャンパス、その他の学部は全て渋谷キャンパスとなったようです。立正大学も、私の記憶に誤りがなければ都心回帰というような意味合いのある言葉による宣伝がなされていたように記憶しております。入学から卒業まで同じキャンパスで過ごせるように配分などを行ったのでしょう。私自身は、1年次から卒業時まで同一のキャンパスで過ごせるような大学のほうが、学生にとって好ましいと思うのですが、いかがでしょうか。

 このページを作成している時に気がついたのですが、立正大学のすぐそばに銭湯があります。写真の手前右側です。都内にあるだけに、昔ながらの建物ではなく、ビルの中にあります。都内のみならず、全国的に銭湯は少なくなっていますが、探すと意外に見つかるものです。あるいは、都心のほうが、郊外よりも銭湯が残っているのかもしれません(よく調べてみないとわかりませんが)。

 立正大学大崎キャンパスを過ぎてすぐに、峰原通りとの交差点に出ます。この日まで知らなかったのですが、今歩いている所はかつて峰原という地名で、この通りにある坂を峰原坂といったようです。品川区のサイトにも峰原通りが紹介されています。かなり短い通りです。

 都内には●●通りが多いのですが、わかりにくいという印象をもたれる方が多いでしょう。私もその一人です。川崎市に生まれ育った私ですが、何かと言えば世田谷区、大田区、目黒区、渋谷区、品川区、港区、千代田区、中央区、新宿区(山手線の南半分という言い方も可能でしょうか)へ行ったりしたので、主な場所への行き方はわかりますし、カーナビがなくともここにあげた区であれば大筋でわかりますが、やはり●●通りはわかりにくいのです。

 このことを改めて感じたのは、高校生時代に初めて京都市へ行った時でしたが、さらに実感したのは大阪市へ行った時でした。日本で一番道路がわかりやすいのは大阪市と札幌市ではないかと感じたくらいです。

 大阪市の場合は、御堂筋、堺筋、谷町筋のように南北に伸びる道路を「筋」と呼び、長堀通、土佐堀通などのように東西に伸びる道路を「通」と呼びます(神戸市中央区の三宮周辺などでも同じような例が見られます)。京都市と異なり、筋、通の名称が必ずしも町名などに結びつきませんが、結びつけばよいというものでもないし、たとえばフランクフルト・アム・マインやミュンヘンなどのようにどの道路でも●●通り(Strasse)であるよりも合理的でわかりやすいのです。以前、どこの新聞であったか忘れましたが、日本でもヨーロッパのように●●通り××番地という表示にすべきであるという馬鹿な意見が読者のページに掲載されていましたが、よくこんな戯言を新聞が載せたものです。

 札幌市の場合は、少なくとも札幌駅周辺やすすきのなどの辺りでは北■条西▲丁目などと呼ばれます。これが住居表示とされている点で大阪市と異なります。交差点にある信号には「北■西▲」という表示板がありますから、今、自分がどこを歩いているのか、走っているのかが明瞭です。京都市や奈良市でも◆条という表現があり、理解を助けてくれますが、札幌市の中心部ほど徹底していません。

 東京都の23区域は、地形的な条件もあるとはいえ、区画整理も充分に行き届いておりませんし、●●通りと言われてもわかりにくいという難点があります。私は道路の名称よりも町名や駅名を頼りにして東京の地形を覚えています。

 峰原通りをさらに歩いてみたいという衝動に駆られたのですが、時間の関係であきらめざるをえません。しかし、いつかは歩いてみたいという気がします。なだらかな坂で、京都市にも大阪市にも札幌市にもない、東京らしい良さがこの坂道にあるような気がするのです。

 山手通りから脇に入ると、このように狭い道があります。川崎市にも横浜市にもこのような場所が多くあります(多過ぎるのかもしれません)。私が小学生の頃は、友人からの影響を受けたのかどうかわからないのですが、広い道より狭い道のほうが面白いと感じていました。路地裏歩きを売りにするような番組もあるくらいで、街の面白さはこういうところにあるのかもしれません。ニュータウンのような人工的、あるいは工学的に造られた場所のつまらなさは、このような狭い道がないことによるのでしょう。

 JR大崎駅が見えてきました。山手通りは、JR山手線を乗り越えます。そのための橋を渡るのです。

 山手線と言えば環状運転ですが、実は品川から大崎、渋谷、新宿、池袋を経由して田端までの区間が山手線でして、東京~品川は東海道本線、東京~田端は東北本線の一部です。それはともあれ、山手線の駅で大崎 くらい大変貌を遂げた駅 はないでしょう。そして、この大崎駅の周辺よりも人工的な臭いが強すぎる所も、山手線沿線にはないでしょう。世間の評価がどうなのか知りませんが、大崎駅周辺には今でも馴染めません(実は、山手線もそれほど好きではないのです)。

 大崎駅が見えます。いつの間にか生まれ変わった駅と街です。おそらく湘南新宿ライン(実はこれも私が好きでない路線です)が出発していきます。五反田と目黒には停まらず、大崎と恵比寿に停まるという、意味がよくわからないような路線です。

 前にも記しましたが、東急池上線を使う機会はそれほど多くありません。しかし、この独特の味わいのある路線は、やはり途中下車の旅あるいは散歩に向いています。次はどこの駅に行こうか、と考えています。

 なお、或る意味でどうでもよいことですが、今回からMicrsoft Expression Web 4を使用しています(それまではFrontPage 2003を使用しておりました)。

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東急池上線途中下車(2) 池上駅

2020年05月25日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、「待合室」に第209回「東急池上線途中下車(2) 池上駅」として2007年3月30日から4月9日まで掲載した記事の再掲載です。写真撮影日は2006年7月26日です。内容を修正しておりませんので御注意ください。

 

 今回は、東京都大田区の名所、池上です。但し、本門寺ではありません。

 隠れた名曲の題材にもなった東急池上線の池上駅です。この駅は、東急では唯一、駅構内に踏切があります。かつては首都圏でもよく見かけたものなのですが、現在では少なくなりました。池上線、多摩川線、大井町線の多くの駅は、上りホームと下りホームのそれぞれに改札口があり、跨線橋などはありません。しかし、池上駅の場合は、下りホーム側にしか改札口がありません。3両編成で走っているために、跨線橋を建設するほどのことでもない、ということなのでしょう。

 日本最初のオール・ステンレス車である7000系を改造した7700系の蒲田行が発車していきました。

 東急池上線の起点は五反田ですが、元々、池上電気鉄道時代の一時期は蒲田が起点で、最初に開業したのが蒲田・池上間でした。目蒲線(現在は目黒線と多摩川線に分割)とほぼ並行するように走っているのも、全く別の会社が建設した路線であったためです。目黒蒲田電鉄(これが東急の前身)と池上電気鉄道は対立関係にあったそうですが、後手にまわった池上電気鉄道は、結局、目黒蒲田電鉄に買収されてしまいます。

 池上電気鉄道は、単に目黒蒲田電鉄より遅れたのみならず、迷走を続けた会社でした。本来は目黒から大森までの路線を計画していたのですが、大森駅周辺の地形の関係で終点を蒲田に変更します(池上駅から大森駅までバスが走っているのは、その名残なのかもしれません)。しかし、目黒から蒲田までというのでは、かなりの部分で目黒蒲田電鉄の路線と並行するか重なってしまいます。結局、起点を五反田に移すこととなりました。それでも、目黒蒲田電鉄の路線と並行しています。それに、本来の終点から起点に向かって建設を進めたり、宅地開発などの副業をほとんど行わないなど、色々な問題があったようです。

 ともあれ、池上線は、乗ってみて、さらに駅周辺を歩いてみるとよくわかるのですが、あまり目立たないながらも味のある路線です。戸越銀座、洗足池、そして池上など、独特の存在感がある駅もありますので、散策などにはピッタリです。

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一斉に「配布中」にはなったけど

2020年05月24日 10時33分40秒 | 国際・政治

 昨日(2020年5月23日)であったか、「準備中」であった県でも布マスク2枚の配布が始まったようで、本日、厚生労働省のサイトでは全都道府県で「配布中」となっています。

 しかし、既に一都一道三県を除く全府県で緊急事態宣言が解除され、明日にも全面解除される見通しとなっています。私が記したいことはおわかりでしょうから、敢えて記しません。うちの近所のドラッグストアを見ると、不織布マスクが売られていない所でも布マスクやマスク製作キットが売られていたりします。

 そう言えば、昨日、たしか女性誌の記事ですが、ネットに出ていたものを読んで、改めて考えてしまいました。

 国際結婚の夫婦の話で、夫はアメリカ人、妻は日本人、日本に在住しています。夫の元に届いたのは、大統領の署名まで入った小切手で、日本円に換算すると18万円ほどだといいます。

 同じ頃に、妻にも何かが届きました。

 布マスク2枚でした。

 まさしく、この落差、です。

 届いたものの落差もすごいのですが、アメリカの場合は国外にも小切手を送っているようです。これに対し、日本では……。

 まさか、布マスク2枚を国外在住の日本国民に送ったりはしないでしょう。

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東急池上線途中下車(1) 洗足池駅

2020年05月24日 00時37分50秒 | まち歩き

 私のサイト「川崎高津公法研究室」には、2015年1月24日まで「待合室」というコーナーがありました(実質的には2014年10月13日に終了しています)。その「待合室」では「途中下車」シリーズを掲載していました。都営三田線、東急目黒線、東急多摩川線、東急田園都市線、東急大井町線、そして東急池上線です。目黒線、田園都市線および大井町線は完結させ、このブログにも再掲載していますが、三田線、東急多摩川線および池上線は未完のままです。いつ終了させられるかもわかりません。

 ただ、このブログには「再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その1)」、「再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その2)」、「東急池上線途中下車(5) 荏原中延駅」、そして「東急池上線途中下車(6) 戸越銀座駅」を掲載しています。第4弾から第6弾まで(再)掲載しているのに、第1弾から第3弾までがないというのもおかしいので、今回は第1弾の再掲載といたします。写真は全て2006年7月26日に撮影しており、元の記事は「東急池上線途中下車(1) 洗足池駅(その1)」(第180回、2006年8月18日〜25日掲載)および「東急池上線途中下車(2) 洗足池駅(その2)」(第181回、2006年8月25日〜9月1日掲載)です。第1弾から第6弾まで10年もかかっており、それから4年近くも空白があるのですが、御容赦を。

 なお、再掲載にあたって一部修正を加えております。

 

 (その1)

 池上線は、東急の各線の中でも、そして東京都23区内の鉄道路線でも地味な路線ですが、洗足池、池上本門寺を初めとして、実は名所などに恵まれたところであり、散歩や小旅行などにはおすすめの路線です。随分前には「池上線」という歌も流行りました。今でも3両編成で走り(しかも、いつのことからか、ワンマン運転になっています)、私が学部生の頃には64年ぶりに新車が入ったなどとも騒がれました (池上線と多摩川線、そして東横線・東京メトロ日比谷線で見られる1000系です)。

 今日は、池上線沿線の第1弾として、2回に分けて洗足池を取り上げます。もっとも、第2弾をやるのかどうかなどは未定です。私にとって、東急線で最も利用しにくいのが池上線ですので(単に住んでいる場所によることです)。

 洗足池です。撮影当日は晴天だったのですが、雲が多くなった時間だったためか、少し暗くなっていました。

 ここは池なのですが、意外に大きいことがおわかりであると思います。湖を名乗っていながら洗足池より小さなものが、大分県にはありますね。それならば、洗足池でなく、洗足湖と言ってもよいのではないかと思うのですが、ここはあくまでも池なのです。私は何度もこの近くを通っているのですが、洗足池駅を利用したのは撮影当日が初めてのことでして、洗足池の周りを歩いたのも初めてのことでした。

 なお、目黒線には洗足という駅がありますが、洗足駅からでは洗足池まで行くのが大変ですので御注意を。

 これは、戦前、池上線と目蒲線(現在は目黒線と多摩川線)が別会社だったことによるものです。東急の前身が今の目蒲線で、池上線はライバル会社でした。両方の線がほぼ並行していることからもわかります)。

 柳の木が植えられている公園は多いのですが、この木、そして枝を見ると、心が和んでくるのは私だけでしょうか。多分、幼い頃に実家の庭には柳の木があったからでしょう。日蓮上人がここで足を洗った時にも(洗足池の名称の由来です)、池の周りには柳の木などが植えられていたのでしょうか。

 池、湖と言えば、定番なのが白鳥をかたどったボートです。平日の午前中だったせいか、ボートに乗っている人はいなかったのですが、時期、時間帯などによっては池に多くのボートが浮かぶのでしょう。

 水面を見ていると、錦鯉が悠々と泳いでいました。肉眼でよりも、写真に撮ってからのほうが、よく見えるということもあるのでしょうか。

 再び、北のほうを見ています。この日は晴れていたはずなのに、写真では曇天の日のように見えます。池の奥のほうに弁財天もあります。

 木々に隠れていますが、左のほうには千束八幡神社があります。千束も洗足も、読み方は同じ「せんぞく」ですが、千束のほうが古くからある地名です。

 池のすぐそばに通るのが、有名な中原街道です。現在は、丸子橋までが都道、多摩川を渡ると神奈川県道になります。実は東海道よりも歴史の古い道路で、徳川家康らが江戸に入る時には、東海道ではなく、中原街道を利用しています。川崎市中原区には小杉御殿町や小杉陣屋町という地名がありますが、これらも徳川家康と深い関係があるそうです。

 

 (その2)

 洗足池駅から洗足池に出るためには、この歩道橋で中原街道を横断します。右奥のほうにラーメン屋が見えますが、そのさらに奥のほうに洗足池駅があります。右手前はバス停で、現在はここを始発点として道々橋(「どどばし」と読みます)、池上駅前を経由して大森駅前まで走るバス路線のみが通っています。

 色々な所で鳩を見ますが、鳩には人間に対する警戒心がないのでしょうか。こうして撮影していても、逃げようともしません。もっとも、餌をねだって近づくようなこともしませんが(高校時代、学校で弁当を食べていて、猫にねだられたことがありました)。

 洗足池には亀がいます。そこで、水面から首を出した亀を撮影しました。よくわからないのですが、この亀は日本土着の亀ではなく、アメリカ産の輸入種ではないかと思われます。違っていたら御教示下さい。もし輸入種だとすると、生態系の破壊につながっていることになるのですが、このことを理解できる人は意外に少ないので驚きます。

 東京は、意外に広大な緑地などが多い所です。下手に郊外に出るより、都内のほうが自然に触れられるかもしれない、と思えるほどです。代表は皇居、東宮御所、新宿御苑ですが、大田区や世田谷区も、公園の多い所です。私が幼い頃には、多摩川を渡って世田谷区内の公園などによく遊びに行ったものでしたが、大田区にあるこの洗足池は行動範囲から外れていました。電車に乗る時には東横線か田園都市線(現在は目黒線を中心にしていますが)、車に乗る時には目黒通りをメインとしていたからです。

 

 そろそろ、洗足池を離れようかと思い、バス停から撮影しました。いつ、またここに来るかはわかりませんが、池上線に乗って来ようと思っています。

 洗足池交差点です。中原街道は、東京と横浜を結ぶ主要な道路の一つでもあるため、交通量は多いのです。奥のほうに進めば、長原駅への入口、環状7号線と交差する南千束交差点、五反田、清正公前(白金高輪駅)、さらに麻布十番や六本木に出られます。反対に進めば、雪が谷大塚駅前、丸子橋に出て、丸子橋を渡りますと綱島街道を分岐します。中原街道のほうを進むと、小杉陣屋町から小杉十字路を通って(等々力スタジアムが近くにあります)南武線の武蔵中原駅に出て、横浜市都筑区に入って道中坂下から港北ニュータウンを通って中山のほうに出られます。綱島街道は、ほぼ東横線に並行する形で、元住吉、日吉、綱島、菊名方面に伸びています。

 池上線は、五反田から雪が谷大塚まで、この中原街道とほぼ並行します。雪が谷大塚で中原街道と別れ、久が原、池上を通って蒲田に出ます。

 洗足池は、大田区南千束2丁目にあります。写真は、再び中原街道です。撮影日には用事があったので、この洗足池から大森駅まで行くバスに乗りました。

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2006年9月2日(土曜日)午前中の天神界隈

2020年05月23日 00時44分15秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は「待合室」の第183回「土曜日午前中の天神界隈(その1)」(2006年9月8日〜14日掲載)および第184回「土曜日午前中の天神界隈(その2)」(2006年9月14日〜21日掲載)の再掲載です。一部を修正しましたが、内容の基本的部分を変更しておりません。 

 

 (その1)

 福岡に来てまで更新作業をしているというのに、また東京の風景を取り上げるというのも妙な話なので、今回は福岡の風景を取り上げます。

  決して長くはない滞在期間なのに、デジタルカメラDSC-L1を持参したということもあって、我ながら呆れるほどに何枚もの写真を撮りました。多分、全部で200枚を軽く超えます。その中には、撮影中、そしてこれまた自宅から持参した、昨年と同じVGN-S52Bに取り込んでいる間、気分が落ちこんでしまうようなものもありましたが、そうしたものは折を見て紹介するとして、今回は、福岡市中央区天神、まさに福岡市の中心です。

 本当であれば天神交差点から始めるべきでしょうが、都合により、南端から始めます。交差点が「渡辺通4丁目」となっています。この交差点の手前が渡辺通4丁目ですが、交差点から、左側が天神2丁目、右側が天神1丁目です。

 写真に登場する、手前から奥に伸びている道路が渡辺通です。天神を南北に貫くメインストリートとなっています。

 渡辺通という名称の由来ですが、上の写真の左側に写っている建物と関係があります。但し、三越と関係があるのではありません。福岡に三越ができたのは1997年、私が大分大学に就職した年のことで、再開発事業の一環でした。この建物は西鉄が所有しており、2階が西鉄福岡駅、3階が天神バスセンターです。渡辺通の名称は、西鉄と深い関係があるのです。

 通りの名前は、勿論、人名に由来します。その人物とは渡辺與八郎、西鉄のルーツの一つとなった博多電気軌道の設立者です。彼は、1910年に会社を設立し、翌年に博多駅前(この博多駅は旧駅。現在の地下鉄祗園駅付近)~天神~須崎を開業させますが、その年に急病で逝去しました。この交差点の右側にある天神南駅から福岡市営地下鉄七隈線に乗ると、次の駅が渡辺通で、路面電車のロゴマークが付けられているのは、この渡辺通の由来に忠実なものとして評価できます。

 博多電気軌道は、福博電気軌道の後進である東邦電力の鉄道部門と合併し、福博電車となりました。1942年に、九州電気軌道、九州鉄道、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道が合併し、西日本鉄道が誕生しました。福博電車は後の福岡市内線となっていますが、1979年に全廃されています。この渡辺通にも福岡市内線の路面電車が走っていました。なお、天神大牟田線は元々が九州鉄道の路線です。

 意外な話かもしれませんが、福岡県内の国鉄・JRの路線には、南福岡という駅はあるのですが、福岡という駅がありません。代表駅は博多駅です。福岡と博多は、元々が全く別の町で、一緒になった時に問題が起き、市名は福岡、鉄道の代表駅の名前は博多とすることで決着がつきました。それ以来、現在に至るまで博多駅が代表駅となっています。また、市営地下鉄にも福岡という駅はありません。JR山陽新幹線および鹿児島本線との乗換駅は博多で、西鉄との乗換駅は天神です。市名の名前をつけた駅がないという点は、大阪市営地下鉄、阪急、阪神などとよく似ています(大阪市営地下鉄御堂筋線に新大阪駅がありますが)。

 西鉄福岡駅は、1924年、 後に天神大牟田線となる九州鉄道の路線(当時は久留米までの)起点として開業しました。1942年、5社が合併して西鉄が誕生し(その時の本社は、今の集中講義の場所に近い西新に置かれたそうです)、同時に西鉄福岡という名称になりましたが、場所が中央区天神にあったことと、福岡市内線という路面電車の停留所が天神と名乗っていたこともあって、地元では天神駅と言われていたそうです。2001年1月1日に、それまでの大牟田線が天神大牟田線と改称されたのと同時に、西鉄福岡(天神)に改称されました。もっとも、天神は愛称であり、正式名称は西鉄福岡のままだそうです。駅でも「西鉄福岡駅」という表示があります。

  天神という地名は、九州以外ではなじみが薄いのではないでしょうか。私自身、福岡の天神という地名を知ったのは大分に住み始めてからのことでした。東京の人に「博多に行った」とか「中州に行った」と言えば話が通じるのですが、「天神に行った」と言っても「どこ? それ」などと首を傾げられることが多いのです。西鉄福岡と言っても、鉄道ファン以外ではわかりません。そこで、福岡市役所のある所、などと説明したものです。余計なことを記せば、初めて福岡市営地下鉄空港線に乗った時には、天神の次の赤坂という駅名に驚いて、「おれ、東京に帰ってきちゃったのかな?」と思ったものでした。もっとも、赤坂という地名は色々な所にあるのですが。

  しかし、福岡に遊びに行くにつれ、天神ばかり歩くようになりました。車で行く時など、まずは天神に目標を置いていたほどです。本当にはまってしまったという感じでして、本を買ったり、楽器を買ったりもしました。大分を離れてからも、これまで毎年、この街を歩いています。

 上の写真は、渡辺通交差点から東方を見ているところです。歩いて行けば中州に行けるのですが、私は滅多に中州に行きません。天神のほうに魅力を感じているからです。私が大分に住んでいる時に大丸ができましたが、当初は博多大丸と称していました。今は大丸・福岡天神というようです。そして、地下鉄七隈線の天神南駅が見えます。天神駅とは、渡辺通の地下にある天神地下街でつながっていますが、500メートルほど離れています。

 渡辺通4丁目交差点を西のほうに進み、天神大牟田線を超えます。南側は今泉、北側が天神で、すぐに警固神社が見えます。警固は「けご」と読みます。知らないと読めないのですが、最近では警固断層が有名になりました。

 一旦、西鉄福岡(天神)駅の方向に目を向けます。道路のすぐ上が電車、その上は高速バスの通る場所です。西鉄福岡駅もかなり立派な駅ですが、同じビルの、西鉄福岡駅の真上にある天神バスセンターは、日本でも有数のバスターミナルでしょう。ここから、九州各地、大阪、さらには東京までのバス路線が伸びています。現在、日本最長のバス路線は、この天神バスセンターから東京の西新宿までの路線です。西鉄が運行しています。西鉄は日本最大のバス会社でもあります。

 警固神社は工事中でした。そこで、警固公園に入ります。日比谷公園と同様に、地下は公共駐車場となっているのですが、公園を歩いている限り、地下に駐車場があるとは思えません。

 やはり警固公園の中です。

 やはり警固公園の中です。

 警固公園から西鉄福岡駅・天神バスセンターを眺めます。南半分には福岡三越が入っています。東京は日本橋の三越にはほとんど入ったことがないのに、福岡に行くと入ったりするのも不思議なものです。

 

 (その2)

 2004年度より3年連続で、福岡市の西南学院大学における集中講義「税法」を担当させていただきました。9月5日に開始、9日と10日の中休みをはさんで12日に無事終了し、川崎に帰って参りました。 一昨年と昨年には台風の影響を受けましたが、今年はそれもなく、少し長めに9月1日から滞在したこともあって、総体的には楽しめたと思っています。 ただ、集中講義の二日目の未明から、少しばかりですが体調が悪くなったのは残念でしたが。

 これまで、2回の更新を福岡で行いました。東京での更新となる今回は、不動前→目黒不動尊の続きにするか、天神の続きにするか迷いましたが、天神の続きにしました。なお、今回の福岡滞在ではたくさんの写真を撮っていますので、この「待合室」で何度か紹介することができるでしょう。

 遠くからで少々見えにくいのですが、天使がヴァイオリンを弾いているという銅像作品です。何となく、天神に合うような気がしました。裏はソラリアプラザで、多くの専門店が入居しています。女性向けというべきでしょう。昨年の滞在中と今年、大分大学時代の卒業生たちと中を歩いていた時に、ここで九州朝日放送(KBC)の有名深夜テレビ番組「ドォーモ」のロケを見ています。卒業生たちよりも先に、私が気づきました。

 少し視線を左にずらします。この写真ではわかりにくいのですが、岩田屋が奥のほうにあります。もう少し歩くと新天町、天神西通りのほうに行くことができます。午前中ですので、まだ人通りはそれほど多くありません。

 警固公園は、大都市の中心部にある公園としては理想的な位置にある、と言えるかもしれません。すぐそばに西鉄福岡(天神)駅、地下鉄天神駅があり、場所としてもわかりやすいし、ちょっとした休憩の場所にもなります。待ち合わせ場所としてよいかもしれません。また、福岡発のテレビ番組(福岡県内ないし九州地区以外では見ることが難しいのですが)を見ていると、ここがよくロケの場所にもなっていることがわかります。

 公園ですから、子供たちが遊べるようになっています。子供は、母親の買い物に長くつき合わされると、非常に疲れるものです。そのため、買い物帰りなどにこの公園で遊ばせるといいでしょう。但し、子供ですから、何かを買ってもらった場合は話が違ってきますが。

 警固公園のすぐそばにある西鉄福岡(天神)駅の入口で、「公園通り」と名づけられています。

 なお、私のホームページに設定していた掲示板「公園通り」は、ここから取った名前でも、渋谷の公園通りから取った名前でもはありません。種明かしをしますと、日本を代表するジャズ・ギタリスト、渡辺香津美氏の若き頃のアルバム「ヴィレッジ・イン・バブルズ」に1曲目として収録されている「パーク・アヴェニュー」という曲が好きで、掲示板に名前をつけようとしている時にこの曲のメロディーを思い出し、公園通りという名前にしたのでした。中学2年生の時に、武蔵小杉駅北口のレコード店(今はありません)で購入してから、何度となく聴いているアルバムでした。

 天神二丁目から天神一丁目に出ようとしています。西南学院大学での集中講義期間中は、渡辺通、またはこの道路の地下にある天神地下街(今年9月で満30周年を迎えたということで、私が福岡に滞在していた時には展示などを行っていました)が一種の通勤経路になります。それ以前から、福岡に来ると必ず歩き、車で通る道路です。

 交差点を横断し、次の目標であるIMS(Inter Media Stationの略。イムズといいます)が見えてきました。大分大学に勤務していた時、福岡に来ると必ずここに寄っていました。今もうちにある2台のシンセサイザーとサイレント・ヴァイオリンは、ここで購入しています。パルサーJ1Jを手放して新しい車を買おうとした時も、まずはIMSにある各社のショールームに入り、何台かの実物を見ました。当時はスバルのレガシーを買いたくて、ここで見て「やっぱりかっこいいよなあ」と思いながらも、予算が足りなくて買えなかったのでした。今年も、既にゴルフを持っているというのにショールームをまわって、当時のことを思い出したのでした。

 ちなみに、この写真の真ん中に登場するニュービートルが、一時期の購入候補だった車です。デザインなどとしては、やはり、永久の名車であるビートルのほうがよいと思いますし、ビートルも購入候補でした。ビートルはフォルクスヴァーゲンによる正式な商品名でも何でもなく、ただの愛称ですが、ニュービートルは商品名です。

 ようやく登場しました。天神交差点です。奥のほうに見える塔は九州朝日放送の放送塔です。天神三丁目、長浜、那の津方面ということになります。右折すると中州、博多方面、左折すると福岡城址、西新、唐津方面へ向かいます。すぐに天神橋口交差点となりますが、天神地下街はそこまで伸びています。規模から言えば横浜駅西口のダイヤモンド地下街にはかなわないでしょうが、わかりやすさと長さではひけを取らないでしょう。

 IMSに入る前に、西鉄福岡(天神)駅の北口を撮影してみました。この駅は、他の私鉄のターミナル駅と比較してもかなり規模の大きな駅であると言えます。バスセンターが同居するからなのですが、京都本線・神戸本線・宝塚本線の3本が集まる阪急梅田駅であれば、これだけの規模を持っていても不思議ではないのですが、西鉄福岡(天神)駅には天神大牟田線のホームしかなく、しかも3番線までしかないのです。

 IMSを出て、真東にある福岡市役所に入りました。その前には公開空地が広がっていて、その地下に駐車場があります。ジュンク堂書店福岡店は、私が大分大学に勤務していた時にオープンしました。右側にはベスト電器福岡本店が見えます。どちらにも、何度も入っています。

 市役所北側の公園で見かけたものです。最初は何なのかと思ったのですが、なかなかよくできています。それにしても、何のためにこんな銅像があるのでしょうか。

 この銅像を別の角度から見てみました。アルト・サックスを手にしているこのおじさん、ジャズ・プレイヤーでしょうか。いつからこの銅像があるのかわからないのですが、最近のものではないでしょうか。私が大分大学に勤務していた時に見た記憶がないのです。

 この後、ジュンク堂書店福岡店で、仕事のための本2冊とブランショの「私についてこなかった男」(訳書)を買いました。「わざわざ福岡で買わなくともいいだろう」と言われるかもしれないのですが、2冊は集中講義に役立てようと思って買ったのです。ブランショの訳書は、ここで買っておかないと東京でも入手が困難になるかもしれないと思ったからです。

 買い物を終えました。この日、大分大学時代のゼミ生たち、つまり卒業生たちと会う約束をしていたのですが、集合時間までかなりの余裕があったので、西鉄天神大牟田線の急行と普通電車を乗り継いで太宰府天満宮に行きました(当初から予定に入れていました)。上の写真が、私が大橋まで乗った急行電車で、今年デビューしたばかりの3000系です。3扉車ですが、中は特急用の8000系、元特急用の2000系と同じく転換クロスシートです。

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