ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

新車

2020年01月31日 00時23分40秒 | 写真

新車に乗りました。

このように記しましたが、自動車ではなく、鉄道車両です。

東急目黒線・東京メトロ南北線・都営三田線の8両編成化用としてデビューした3020系の3121F(編成)です。

 昨年営業運転を開始した2020系(田園都市線用)、6020系(大井町線急行用)に続くもので、デザインも共通しています。8両編成化のための工事が各駅で進んでいますが、完了までの間、当面は6両編成で運行されます。

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2008年9月1日、九州新幹線

2020年01月30日 00時00分00秒 | 写真

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第339回:「九州新幹線」(2008年9月1日撮影、2009年11月28日〜12月7日掲載)

 一部を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません(私が西南学院大学の非常勤講師を務めていたのは、2004年度から2012年度までです)。御注意ください。

 

再び、九州へ飛びます。今回は熊本県八代市の新八代駅からです。このように書けば、すぐに察しがつくという方もおられるでしょう。そうです、九州新幹線をとりあげます。

 このコーナーでは何度も書いていることですが、2004年より、私は西南学院大学法学部の非常勤講師として、税法の集中講義を担当しています。その期間の前後と中休みに、福岡県を初めとして九州各地を周りたいと思っているので、時刻表を見ながら計画を立てています。2008年(私が集中講義を担当してから履修者が最多となった年です)には、九州新幹線に乗って鹿児島へ行ってみようと考えました。しかも、集中講義期間の開始前に1回、終了後に1回行くという、考えようによってはかなり馬鹿らしい計画を立てたのですが、実際にやってみました。

 2008年9月1日、博多駅8時15分発の「リレーつばめ」3号に乗りました。九州新幹線はまだ全通しておらず、新八代から鹿児島中央(旧西鹿児島)までです。そのため、博多から鹿児島本線を特急「リレーつばめ」が走っています。使用されているのは、博多~西鹿児島のL特急「つばめ」のためにデビューした787系で、現在は小倉・博多~熊本・武蔵塚・光の森・肥後大津の特急「有明」、直方~博多の特急「かいおう」にも使用されています。「つばめ」時代にはビュッフェもありました。大分に住んでいた時に、このビュッフェがある編成の特急「にちりんシーガイア」に乗ったことがあります。

 新八代駅に到着しました。この駅は在来線(鹿児島本線)と新幹線(九州新幹線)とが同じホームで乗り換えられるという、日本ではおそらく唯一の構造となっています。もっとも、これは暫定的なもので、九州新幹線が全通すれば、こんなことはできなくなるでしょう。

 「リレーつばめ」3号が到着したのと同じホーム(番線は違います)に、九州新幹線の「つばめ」が停車しています。これから乗る「つばめ」3号です。10時33分に新八代を発車し、11時25分に鹿児島中央に到着します。

 九州新幹線が開通して、たしかに博多から鹿児島中央までの所要時間は短くなりました。全通すればもっと短くなります。しかし、地域の交通という点からは大きな問題を作ってしまいました。九州新幹線の新八代~鹿児島中央が開通したのと同時に、九州の大動脈である鹿児島本線が分断されたのです。門司港~八代および川内~鹿児島はJR九州の鹿児島本線のままですが、八代~川内は第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に分離されたのです。私は、門司港~八代を熊本本線あるいは博多本線という名称に改め、川内~鹿児島は日豊本線に編入すべきではないかと思っています。

 こんなことになったのは、新幹線の建設促進を図り、さらに新幹線と並行する在来線にかかるJR各社の負担を減らすためにとられた政策によるものです。まず、長野新幹線が開業するとともに信越本線の横川~軽井沢が廃止され、軽井沢~篠ノ井が第三セクターのしなの鉄道に分離されました。また、東北新幹線の盛岡~八戸の開業により、盛岡~目時がIGRいわて銀河鉄道、目時~八戸が青い森鉄道に分離されました。九州新幹線長崎ルートの建設が遅れているのも、この在来線分断問題によるものです。

九州新幹線の800系は、JR九州の特急車らしく、様々な独特の趣向を取り入れています。写真は窓のカーテンです。九州の名産・特産を使用しているとのことです。

 

 鹿児島中央駅に到着しました。ホームドアが採用されています。先頭部がかなり大きくなっていることがわかります。

 「つばめ」と言えば、戦前に「富士」に次いで登場した由緒ある特急の愛称です。車体にあるマークのデザインは、戦前から何度か変更されているようですが、基本的には同じデザインといえます。国鉄(日本国有鉄道)のバスなどに付けられていたマークもつばめでしたし、現在のヤクルトスワローズも特急「つばめ」に由来します(かつては国鉄スワローズでした)。1990年代に九州の鹿児島本線、博多~西鹿児島を走る特急の愛称として復活し、そして九州新幹線の愛称になったのです。

 実は、幼少のころからあまり新幹線に関心がなく、車両のことなどをあまりよく知りません。多摩川の丸子橋や武蔵小杉駅付近などに見に行ったことがあるのですが、東急東横線を見ているほうが楽しかったという記憶があります。また、新幹線を利用する機会があまりなく、東海道新幹線の全線(東京~新大阪)を踏破したのは学部生時代の頃でした。大分大学に勤務するようになってから山陽新幹線に乗ったのですが、小倉~博多を利用したのは西南学院大学で集中講義を担当するようになってからのことです。東北新幹線、上越新幹線、長野新幹線、山形新幹線および秋田新幹線を利用したことは一度もありません。

 〔追記:この記事を最初に書いてしばらくの年月が経過してから、東北新幹線、上越新幹線および北陸新幹線を利用しました。〕

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おしらせです(2020年1月29日)

2020年01月29日 10時40分56秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、おしらせです。

 地方自治総合研究所から刊行されている雑誌「自治総研」の最新号(2020年1月号。通巻495号)が刊行されました。

 この中に、私の「税源の偏在は何処まで是正されうるか〜特別法人事業税及び特別法人事業譲与税に関する法律 (平成31年3月29日法律第4号)〜(地方自治関連立法動向研究29)」が掲載されています(21〜49頁)」。お読みいただければ幸いです。

 また、この雑誌は、地方自治総合研究所のサイトでもPDFファイルで見ることができますので、御覧いただけば幸いです。

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これならたしかに大喜利になる

2020年01月29日 00時36分55秒 | 国際・政治

 読んだ瞬間に「本当か」と思うような記事がYahoo! Japan Newsにありました。元はBuzzFeed Newsの昨日(1月28日)付の記事で、「安倍首相、桜を見る会で『募ってはいるが募集はしていない』と答弁。Twitterでは大喜利に」(https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/abe-qa)というものです。

 単なる言い間違えなのかそうでないのかは全くわかりませんが、たしかに「募ってはいるが募集はしていない」という文は意味不明なものです。衆議院予算委員会における宮本徹議員(日本共産党)の質疑に対する答弁において発せられた言葉なのですが、流石に宮本議員も「同じ字だ」というような突っ込みを入れていました。

 私自身はツイッターもフェイスブックもしませんが、ツイッターでは大喜利が始まったそうです(すぐに見たかったなあ)。その中に「答弁してはいるが答えていない」というものがあったそうですが、残念ながらというべきか、これは国会における質疑に対する答弁については成立することなので、大喜利としては座布団をもらえないだろうと思われます。「答えになっていない答え」には、時々お目にかかるでしょう。

 この他にも、大喜利では色々な答えが出されているようです。Yahoo検索で見ることができました。

 それにしても、笑点(日本テレビ)とか末廣演芸会(テレビ朝日)ではないのですから。

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2008年9月7日、佐賀駅

2020年01月29日 00時00分00秒 | 写真

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第309回:「佐賀駅にて」(2008年9月7日撮影、2009年4月13日〜20日掲載)

 一部を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 これまで、大分県、福岡県を初めとして、何度も九州を取り上げてきましたが、佐賀県と宮崎県については一度も取り上げていません。今回は佐賀県を取り上げます。

 最近になって、島田洋七さんの「がばいばあちゃん」で佐賀県の知名度は高くなりましたが、九州島内7県で最も地味な存在なのが佐賀県でしょう。47の都道府県を全て書かせたり言わせたりすると、佐賀県が忘れられていたりすることも少なくありません。それに、鹿児島本線や九州自動車道で福岡から久留米まで行く際、基山町や鳥栖市を通りますが、基山町も鳥栖市も佐賀県にあるということは意外に知られていません。そのため、佐賀県を通ったことすらないと答える人が多いのです。私自身について記すならば、長崎県には一度しか行ったことがなく、しかも車で走ったことがないのに対し、佐賀県には少なく見積もっても10回以上行っていますが、九州島内の県では唯一、宿泊したことがありません。

 また、これも意外に知られていないことですが、各都道府県のうち、民間放送局が最も少ないのは佐賀県です。第一に、テレビ局はサガテレビ1局のみです(そのため、山梨県、福井県、徳島県、宮崎県とともに、ビデオリサーチ社による視聴率調査が行われていませんが、これらの県には民間のテレビ局が2つ以上あります。また、佐賀県の大部分は福岡県の放送局などの可視聴地域となっています)。第二に、AMラジオの放送局がありません。NBCラジオ佐賀はありますが、これは長崎放送が佐賀県について放送の一部を変更しているということです(ちなみに、NHKについても第二放送については熊本放送局と福岡放送局の管轄です)。第三に、FMラジオ局は(コミュニティFM局を除けば)エフエム佐賀だけです(もっとも、FMラジオの場合は県に1局しかないということが多いのですが)。佐賀県のラジオ局はエフエム佐賀だけということです。これも珍しい例でしょう(唯一の例かもしれません)。

 佐賀市は、九州島内の県庁所在都市の中で最も人口が少なく、30万人に達しておりませんので、政令指定都市は勿論、中核市にも特例市にも指定されていません(政令指定都市=福岡市、中核市=長崎市、大分市、熊本市、鹿児島市、特例市=宮崎市)。大分時代にも、仕事や観光などで佐賀市に行ったという人の話をあまり聞きません。

 しかし、唐津、伊万里、有田、嬉野、武雄、吉野ヶ里遺跡など、佐賀県には名所がいくつもあります。ここに記した中で歩いたことがあるのは唐津だけですが、今年は吉野ヶ里、有田、伊万里を歩いてみようかと思っています(結局、吉野ヶ里には行ったことがありません)。

 さて、2008年9月7日、佐賀県の県庁所在地である佐賀市に足を踏み入れました。2001年5月26日から2003年4月30日まで日記をつけていないのでよく覚えていなかったのですが、福岡の天神でヤマハのデジタルシンセサイザー、MOTIF 7を買った日、帰る途中に佐賀市へ行っておりまして、それ以来のことでした。基山から鹿児島本線の電車に乗り、鳥栖で降りて駅の売店でシューマイを食べ(これが実に美味しいシューマイでした)、長崎本線の普通ワンマン電車に乗り換え、佐賀駅で降りました。これから唐津線西唐津行に乗り、唐津へ行きます。上の写真は、唐津線を走る気動車、キハ47です。

 九州島内を移動するのであれば、自家用車、レンタカー、高速バスのいずれかが便利ではあります。しかし、これらでは楽しみが半減します。とくにつまらないのが、高速バスが自動車専用道を通っている間です。自分で運転していればあれこれの発見もあるのでそれなりの面白さはありますが、高速バスではその機会もありません。自動車専用道は、自分で車を運転するから楽しいのであって、他人が運転する車に乗っているのでは 、少なくとも楽しみは半減すると思うのですが、いかがでしょうか。

 やはり、移動中の時間を楽しむのであれば、鉄道路線を利用するのがよいでしょう。新幹線は微妙なところですが、在来線(とくにローカル線)と私鉄と路面電車の面白さは、経験してみないとわからない独特の滋味があります。事前に時刻表を読んで色々なパターンを考えるのも楽しいし、実際に乗って車窓を眺めたりするのも楽しいのです。7年間の大分時代にもっと経験しておけばよかったと思っていますが、大分市から公共交通機関を利用して九州島内の各所へ行くというのは大変なことでして、時刻表を手にしてあれやこれやのパターンを考えた挙げ句に断念したということも少なくありません。

 博多発長崎行の特急「かもめ」が佐賀駅2番線から発車しました。「白いかもめ」とも言われる885系です。

 この885系は振り子式の交流電車で、特急「かもめ」(博多~長崎)と特急「ソニック」(博多~大分)で運用されています。2001年12月下旬に長崎市へ旅行した時、往復で利用しました。回転クロスシートで、椅子にはレザーが張られています。車内は結構凝っていて、JR九州の在来線特急電車では乗り心地などで一番でしょう。ただ、レザー張りの座席は、高級自動車であればよいのかもしれませんが(私は一度も乗ったことがありません)、特急電車としてはどうなのかとは思っています(滑りやすいのです。飛行機よりも座り心地が良いのは当然なのでしょうが)。

 JR九州の特急電車は、博多~西鹿児島の特急「つばめ」用として登場した787系以来、趣向を凝らしたものばかりです。現在、787系は「リレーつばめ」(博多~新八代)、「有明」(博多~熊本)、「かいおう」(直方~博多)で運用されていますが、「つばめ」時代にはビュッフェもありました。その編成(鹿カコ)が、博多~南宮崎・宮崎空港の「にちりんシーガイア」でも運用されていました。その前に登場し、「かもめ」、「みどり」(博多~佐世保)、「ハウステンボス」(博多~ハウステンボス)、「にちりんシーガイア」(787系であったのが、いつのダイヤ改正からか783系になりました)、「ドリームにちりん」として運用される783系、通称ハイパーサルーンになると、内装から乗り心地から一段も二段も格が落ちます。現在「にちりん」(基本的には別府~宮崎空港)および「きりしま」(基本的には宮崎~鹿児島中央)で運用されている485系(Red Express)は、国鉄時代に登場して既に何十年も経っていることと編成が短いことなどで、特急料金を取るのがおかしいとすら思えてきます。やはり、運用される特急電車の区間によって、自然に格付けがなされるのでしょう。

 唐津線は、佐賀駅から長崎本線の下り普通列車に乗って二つ目の久保田から西唐津までの路線ですが、運用上は佐賀~西唐津となっています。唐津~西唐津は、福岡市営地下鉄空港線と相互乗り入れを行う筑肥線の電車も走るために電化されていますが、それ以外は非電化区間となっています。 ワンマン運転が行われていますが、私が乗車した時には車掌が乗務していました。途中駅のほとんどは無人です。

 車窓からの沿線の風景を撮影していなかったのですが、地味であるという印象は受けます。しかし、面白さもあります。とくに、伊万里からの筑肥線が合流する地点に近い本牟田部駅は、何とも風変わりな駅です。唐津線と筑肥線が完全に並行しており、複線のようになっているにもかかわらず、唐津線のほうにしかホームがありません。筑肥線のほうにはホームがないので、本牟田部駅を通過します(そもそも、路線図にも書かれていません)。JR線と私鉄線が並行している区間で、JR線には駅がなく、私鉄線には駅があるという例ならたくさんあるのですが、JR線同士というのは珍しいでしょう(東海道本線と京浜東北線というような例を出されるかもしれませんが、正式には京浜東北線という路線はありません。東京~横浜は東海道本線であって、京浜東北線というのは通称なのです)。

 さらに両線は、複線のようにして走り続け、山本駅に到着します。ようやく山本駅で乗り換えることができるのです。そして、筑肥線はいったんここで途切れます。山本から東唐津までの旧線が廃止され、筑肥線が東唐津から唐津駅に乗り入れるようになったからです。唐津線は、唐津駅の南側で、今度は姪浜から筑前前原、筑前深江、東唐津を経由してきた筑肥線と合流します。この合流地点の近くにも、筑肥線のほうにのみ和多田駅があります。東京近辺でなら東急大井町線緑が丘駅のすぐそばを東急目黒線が通るにもかかわらず、目黒線のほうに駅がないこととに似ています (しかし、緑が丘駅付近で大井町線と目黒線が完全に並行している訳でもありません)。そして、唐津線と筑肥線は、大岡山駅、ではなくて唐津駅で接続するということになります。

 上の段落の表現では、筑肥線の構造がわかりにくいかもしれません。時刻表を見ればすぐにわかるのですが、筑肥線は電化区間の姪浜~唐津と非電化区間の山本~伊万里に分断されています。そのため、唐津または西唐津から伊万里へ向かう筑肥線の気動車は、唐津から山本まで唐津線を走ることになります。電化区間と非電化区間は、使用車両や本数からして同じ路線とは思えないほどで違っており、非電化区間は利用しにくいのですが、機会があれば非電化区間も利用したいと考えています。まだ、伊万里を訪れたことがないからです。

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2006年9月9日、筥崎宮

2020年01月28日 06時00分00秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第250回:「筥崎宮(その1)」(2008年2月2日〜2月13日掲載)

 第252回:「筥崎宮(その2)」(2008年2月19日〜25日掲載)

 第253回:「筥崎宮(その3)」(2008年2月25日〜3月3日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2006年9月9日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 (その1)

 最近になって知ったのですが、日本の(と、わざわざ限定をつける必要もないのですが)三大八幡宮といえば、京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮、そして福岡市東区の筥崎宮( はこざきぐう。筥崎八幡宮ともいう)なのだそうです。このうち、石清水八幡宮に訪れたことはまだないのですが、宇佐神宮は大分大学に講師として就職して半年後に初めて訪れ、その後も大分に住んでいる時には毎年夏、誕生日の前後に行きました。そして、2006年9月9日の夕方、筥崎宮を訪れました。

 この日は、午前中が曇り、午後は雨模様でした。2006年9月の集中講義では、二日目早朝から少しばかり体調を崩し、食欲も失せて昼食をとれない日もありました。夕食も、天神地下街にあるコンビニエンスストアでサンドイッチやおにぎりなどといったものを1つだけ買って済ませたくらいでした。しかし、気力で一日4コマを四日間担当しました。中休み明けの五日目からは回復したのでよかったのですが、一時は「本当に大丈夫なのか」と思うほどでした。講義などで話をしている時は、仕事モードに入っているためなのか、別の理由によるためなのか、それほど苦痛を感じません。しかし、講義を行っていない時間には、何とも言えない不気味な感覚に襲われるのでした。

 少しずつ快方に向かいましたので、9月9日の土曜日、某会合に出席してから、地下鉄空港線と箱崎線を乗り継ぎ、まだ行ったことがなかった筥崎宮を訪れることにしました。全国的にはそれほど知られていないはずですが、福岡県内では非常に有名な場所です。地下鉄箱崎線の箱崎宮前(はこざきみやまえ)駅を降りると、筥崎宮への参道はすぐそばです。否、箱崎宮前駅は参道の途中にあります。

 お気づきかもしれませんが、筥崎宮と箱崎宮前では「はこ」の漢字が異なります。神社のほうは「筥崎」で、町名および駅名は「箱崎」です(その理由はよくわかりません)。中洲川端から地下鉄箱崎線に乗ると、箱崎宮前の次の駅は箱崎九大前です(九州大学が完全に移転したら、名称が変わるのでしょうか)。

 参道の両側に露天商の屋台などが並んでいます。放生会に備えたものでしょう。その中を歩いていきます。土曜日の夕方、しかも雨模様とあってか、人通りは少ないのですが、交差する道路を通る自動車の量は比較的多いでしょうか。

 よく見ると、右側に停車中のトラックのナンバープレートが「春日部」となっています。こんな所で埼玉県のナンバープレートを見るとは思いもよらなかったのですが、考えてみれば、首都圏のナンバープレートをつけている車は日本全国で見られます。東京都内で福岡県のナンバープレート(福岡、北九州、筑豊、久留米)をつけている車を見ることより、福岡県内で東京都のナンバープレート(品川、足立、練馬、多摩、八王子)をつけている車を見ることのほうが、確率的には高いかもしれません。大分県内でも首都圏のナンバープレートをつけている車は意外に多く、よく見かけました。かく言う私も、大分市に住み始めてからしばらくの間、川崎のナンバープレートをつけた車を運転していました。

 いよいよ、この横断歩道を渡り、筥崎宮の本殿、社務所などがある敷地に入ります。信号がないので、車の通行状況をよく見てから横断します。それにしても、風格のある立派な神社です。三大八幡宮の一つなのですから当然のことかもしれません。

 筥崎宮と言えば放生会です。毎年9月12日から18日までのお祭りです。残念ながら、私はこの放生会を見に行ったことがありません。2005年度の集中講義は放生会の期間中まで、2006年および2007年の集中講義の最終日は9月12日でした。放生会を見ようと思えば見られた訳です。それでも見に行かなかったのは、最終日の最終時限が終わると、集中講義のレポートの採点、本務校の仕事などのために、すぐに川崎に帰らなければならなかったからです。

 放生会という言葉を辞書で調べてみると、「供養のために、捕らえた生き物を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われ、陰暦8月15日の八幡宮の祭りに催され、石清水八幡宮のものが有名」と書かれています(小学館の「デジタル大辞泉」によります)。しかし、福岡市を初めとして九州で放生会と言えば、筥崎宮でしょう。

 ちなみに、放生会は、一般的には「ほうじょうえ」と読むのですが、筥崎宮では「ほうじょうや」と読み慣わしています。

 博多三大祭と言えば、5月の博多どんたく(ゴールデンウィークで最も人出の多い行事です)、7月の博多祇園山笠(櫛田神社のお祭りで、2週間くらい)、そしてこの放生会ですが、博多どんたく以外は見たことがありません。しかも、博多どんたくの場合、たまたま天神に遊びに行ったらそのお祭りの日であることがわかったというくらいでした。博多祇園山笠は、ラジオやホームページでその様子を見たことがある程度です。放生会に至っては、名前くらいしか知りません。

 本殿の右側にある清明殿の手前に、上の写真にある案内板がありました。箱崎宮前駅のそばにある花庭園です。牡丹、芍薬などを鑑賞できるようです。それにしても、どうして、神社の中のレストランでフランス料理なのでしょうか。

 筥崎宮の本殿です。ここは旧官幣大社で、筑前国の一の宮でもあります。応神天皇(第15代天皇)、神功皇后(仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母)、玉依姫尊(神武天皇らを産んだ女性とされる)を祭神としています。この神社の歴史などについては、案内板などを撮影していますので、後日紹介することといたしましょう。

 

 (その2)

 前回に引き続き、三大八幡宮の一つ、福岡市東区にある筥崎宮です。いよいよ本殿です。

 

 本殿から参道のほうを見ています。土曜日の夕方、それほど人は多くありません。しかし、私は、神社であれ仏閣であれ、このような状態の時に訪れたいと思うほうです。この時間に訪れてよかったと思います。何故なら、ほんの一時とはいえ、心が落ち着くからです。

 前回も記しましたが、2006年、西南学院大学の集中講義の期間中、2日目の早朝から体調が悪くなり、期間中の前半は昼食も夕食もとる気がしないほどでした。大きな部屋だったのでワイアレスマイクを使用したとはいえ、よくぞ講義を行ってい る時間に 4コマも大声を出し続けられたものです。ただ、金曜日には快方に向かっていましたので、夕方には福岡滞在中に必ずと言ってよいほど訪ねる藤崎の中華料理屋で食事をとることができました。

 実は、撮影日もまだ完全に回復してはいなかったのですが、筥崎宮を訪れている間は体調のことを完全に忘れていました。

 御神木としての筥松です。上の写真にある説明板にも書かれているのですが、応神天皇は現在の福岡県糟屋郡宇美町で生まれたと伝えられています。その場所が宇美八幡宮なのです(私は2004年8月29日に訪れました。「待合室」でも取り上げています)。応神天皇の御胞衣(おえな。胎児を包んでいた膜や胎盤をいう)を筥に納めて、現在の福岡県東区箱崎に埋め、松を植えたとのことです。ちなみに、福岡市に西鉄の路面電車が走っていた頃、箱崎には松原があったようで、その写真も残っていますが、現在は埋立などの事業のために松原は消滅しています。

 後の絵馬が少し気になります。撮影したのは2006年9月、福岡ソフトバンクホークスはリーグ優勝をかけて福岡ドームで戦っていたはずです。優勝を逃しています。右隣にはアビスパ福岡の絵馬がありますが、この年、結局はJ1からJ2に降格しています。

 続古今集に収録されている短歌を読んで思い出しましたが、筥崎宮からJR鹿児島本線の箱崎駅まで歩き、そこで鹿児島本線の上り電車に乗ると、次の駅が千早です。最近できた駅ですが、西鉄貝塚線には名香野という駅がありました(移転し、現在は西鉄千早となっています)。

 本殿の楼門には「敵國降伏」という宸翰(しんかん。天子自筆の文書という意味)があります。まさに、筥崎宮は敵国降伏の神を祀る神社なのです。

 先ほどの筥松です。かなり大きな松です。樹齢がどのくらいなのかはわかりません。

 宇佐神宮の、本殿に至る階段の手前で「皇族下乗」を見かけます。筥崎宮にもあります。ここが八幡宮の一つであることを示しています。ただ、鎌倉市にある鶴岡八幡宮に「皇室下乗」があったでしょうか。全く記憶がないのです。それに、まだ、京都の石清水八幡宮に行ったことがありません。

 あと一回、筥崎宮を取り上げたいと考えています。

 

 (その3)

 前回に引き続き、福岡市東区にある筥崎宮です。今回が最後となります。

 本殿の近くに、上の湧出石があります。 「運が湧き出る」という信仰があるそうです。また、「国に一大事がある時地上に姿をあらわす」と言います。もし、私が訪れたのが2006年9月ではなく、2007年9月であれば、この石は地上に姿を現していたのでしょうか。

 足下を見ると、その湧出石らしきものがありました。かなり小さなものですが、何か一大事があればこれがさらに地上に出てくる、という信仰なのでしょうか。神社一つを選んでみても、様々な信仰があるものです。もっとも、このような気持ちが全くないというのでは殺伐としてしまいますから、科学的に割り切れない部分も必要ではあるのでしょう。

 それにしても、この石はどのような種類のものなのでしょうか。高校生時代に地学で石の種類などを学びましたが、どうもよくわからないのです。御影石であれば花崗岩であるとわかりますし(神戸市の御影から産出されるので御影石と言います)、玄武岩くらいまでならわかりますが、片麻岩だの凝灰岩だのになるとわからなくなります。それなのに、東急ハンズ渋谷店などに行くとラピスラズリ(瑠璃)の原石などを見てまわっていたりします。

 私が生まれ育った場所には松の木が植えられていましたし、今でも松を見ると気分が落ち着きます。その松の枝に御神籤が結び付けられています。「こんなことをしていいのかな?」などと思いながら見ています(禁止されている所もあるからです)。

 ところで、皆様は御神籤をお買いになるでしょうか。実は、私は一度も、神社で御神籤を買ったことがありません。絵馬、お守りの類なら買うのですが、何故か御神籤だけは買ったことがないのです。

 持参していたデジタルカメラのフラッシュが反射してしまいましたが、筥崎宮の案内板です。創建されたのは平安時代で 、第60代天皇である醍醐天皇の在位中、923年に創建された、とあります。

 醍醐天皇の在位期間は西暦で言えば897年から930年までです。日本史では延喜の治として有名な時代にあたります。藤原時平を重用しつつ、親政を行ったからです。また、醍醐天皇の治世中に、有名な古今和歌集が編纂されています。最初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の命令により、紀貫之などが撰者としてまとめあげたものです。

 先ほど、藤原時平を出しましたが、実はこの醍醐天皇、御本人が直接、当時の筑紫の国、つまり現在の福岡県を訪れたかどうかは知りませんが、福岡県に縁があると言えるお方です。醍醐天皇の父は宇多天皇であり、宇多天皇は菅原道真を非常に信頼していたようです(藤原氏を抑えたということで、後に寛平の治と称されます)。道真は894年に遣唐使に任ぜられますが、彼は遣唐使の廃止を建議します。これが採用されました。宇多天皇は30歳にして自らの子に譲位します。醍醐天皇は道真と時平を重用します。ところが、901年、時平は道真について讒言を行います。このために道真は大宰権帥として大宰府に左遷されます。その2年後に道真が没したのです。もし、道真が讒言の故に大宰府に左遷されなければ、太宰府天満宮は創建されなかったはずです。道真の事件への評価はともあれ、この事件がなければ福岡県を代表する名所はなかったことでしょう。さらに言えば、かつて筑紫に大宰府があったという記録は残ったとしても、太宰府市が誕生したかどうかは疑問です。

 筥崎宮を出て、地下鉄箱崎宮前駅に戻る途中に、このような道路があります。何の変哲もないように見える道路ですが、実は、この道路は1979年(昭和54年)に全廃された西鉄福岡市内線の跡なのです。ここは路面電車だけが通る専用の軌道敷があった場所で、福岡市内線が廃止された後にバス専用道路に転用したのです。

 北九州市内には、路面電車が通っていた軌道敷をバス専用道路に転用した所がいくつかあります。道路の構造ですぐにわかりますし、バス停を見ればわかるということもあります。しかし、福岡市内では箱崎で初めて見ました。他にあるのでしょうか。

 上の写真に箱崎バス停が見えますが、ここは路面電車の箱崎電停であった場所です。九大前電停から箱崎を通り、馬出(まいだし)、呉服町、天神、唐人町、西新、藤崎を経由して姪浜に至る貫線の一部が、この道路なのです。なお、このルートとほぼ同じルートのバス路線があるようです。また、現在の地下鉄箱崎線の箱崎九大前~中洲川端、空港線の中洲川端~姪浜は、西鉄福岡市内線貫線の代替路線です。

 箱崎宮前駅です。神社の鳥居のマークが付けられていますが、これが箱崎宮前駅のシンボルマークです。

 九州はよほどシンボルマークが好きなのでしょうか。大分県の各市町村には、市町村章(紋章のようなものです)とは別に、特産品、有名人などをモチーフにしたシンボルマークがあります。大分市なら高崎山の猿(何故かサッカーをしている)、宇佐市なら宇佐神宮と横綱双葉山、といった具合です。また、JR九州の駅名標には、たいてい、駅独自のシンボルマークがあります。福岡市営地下鉄も同様で、どの駅にもシンボルマークがあります(対照的に、西鉄や筑豊電気鉄道の駅にはシンボルマークがありません)。

 駅ごとの識別ということで早かった例は東急新玉川線(現在は田園都市線の渋谷~二子玉川)で、駅によって、壁に塗られている横帯の色が違います。二子玉川(開通時は二子玉川園)を除いて地下駅であったためです。また、目黒線も同様で、駅によってホームドアなどの色が違います。東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅、九段下駅、神保町駅なども、駅ごとに壁のデザインが異なります。このような識別をシンボルマークにして行っているのがJR九州と福岡市営地下鉄です。どちらが先に行ったのかはわかりませんが、とくに福岡市営地下鉄のマークはわかりやすく、非常に役に立ちます。

 さて、今度は何処に行こうか。あれこれと考えています。

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2012年3月29日、こどもの国駅

2020年01月23日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第500回:「東急田園都市線途中下車(番外編2)  こどもの国駅(その1)」(2012年10月30日〜11月11日掲載)

 第504回:「東急田園都市線途中下車(番外編2)  こどもの国駅(その2)」(2012年12月11日〜18日掲載)

 第505回:「東急田園都市線途中下車(番外編2)  こどもの国駅(その3)」(2012年12月17日〜24日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2012年3月29日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 前回で「東急田園都市線途中下車」シリーズを終了いたしましたが、番外編が残っていました。横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者、東京急行電鉄が第二種鉄道事業者となっているこどもの国線です。東急線の一部として扱われることが多く、東急の路線でもそのように扱われているのですが、正しくは横浜高速鉄道の路線です(東京メトロ半蔵門線の車両ではそのように案内されています)。2012年5月29日に第480回として恩田駅を取り上げましたので、第500回となる今回は番外編2として、こどもの国線の終点であるこどもの国駅およびその周辺の様子を紹介いたしましょう。但し、今回は第1弾です。

 こどもの国駅に、こどもの国線専用の横浜高速鉄道Y000系の第1編成が停車しています。単線に一面だけのホームです。この駅に来たのは、おそらく小学生時代以来30余年ぶりですが、基本的な構造は変わっていません。

 Y000系は、長津田とこどもの国を、デハY010形とクハY000形の2両編成で往復していますが、多客時には4両編成で走ることもあるようです。ワンマン運転に対応していますが、いわゆる都市型ワンマン運転のため、運賃箱や整理券発行機などはありません。

 1999(平成11)年に登場したY000系は横浜高速鉄道が所有する車両ですが、東急の長津田検車区に所属し、運転や整備なども東急が行っています。目黒線用の2代目3000系とデザインの基本的な部分を同じくしていますが、3扉車であること、帯の色が異なること、側面の行先表示機がないこと、などの違いがあります。また、こどもの国線の長津田駅付近に急カーブがあるため、防音車輪を採用しています。車内には広告がないため、非常にシンプルです。

 こどもの国駅の駅舎です。この駅は1967(昭和42)年4月28日に開業しました。その2年ほど前にこどもの国が開業しています。駅舎の位置とホームの構成には変化がないのですが、駅舎は改築されています。所在地は横浜市青葉区奈良町995-1で、無人駅ですが、自動券売機と自動改札機が備えられています。

 こどもの国線は、元々がこどもの国協会所有の路線で、名前の通り、こどもの国への交通機関でした。そのため、通勤・通学は全く考慮されておらず、始発が8時台、終電が18時台で、しかも休園日の月曜日となるとさらに本数が少なくなっていました。

 しかし、この辺りにも住宅が増えたことなどから、2000(平成12)年3月29日に通勤・通学路線に変身することとなります。これを受け、施設の所有はこどもの国協会から横浜高速鉄道に変わります(1997年のことです)。みなとみらい線の場合は横浜高速鉄道が第一種鉄道事業者ですが、こどもの国線の場合は横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者で東急が第二種鉄道事業者です。もっとも、みなとみらい線の運転業務も東急が行っています。

 実はこの駅の近くを自動車で何回か通っているのですが、駅の周辺が大きく変わっているので驚きました。駅の前にはコンビニエンスストアがあり、そのすぐそばには新興住宅地が展開しています。こどもの国の最寄り駅とは思えない風景です。それもそのはずで、こどもの国線がこどもの国協会から横浜高速鉄道へ移管されたのと同じ年に、奈良町の一部が奈良一丁目~五丁目に分離されています。そして、分離したほうに団地などが建設されているのです。

 そうかと思うと、駅のすぐそばには畑があります。青葉区と都筑区は、横浜市でも屈指の農業地域を抱えており、こどもの国線の沿線にはこのように農地が多く点在しています。実際に、青葉台東急スクエアS1本館地下1階のレ・シ・ピ青葉台では、青葉区産や都筑区産の野菜が売られています。奈良町や恩田町でとれた青菜などが商品として並べられているのかもしれません。この辺りには、都筑郡奈良村→田奈村であった頃の雰囲気が、僅かながらとはいえ残っていると言えるでしょう。

 駅前にはこどもの国の駐車場があります。何台駐車できるのかはわかりませんが、かなり広い面積です。すぐそばを奈良川が流れており、神奈川県道139号線真光寺長津田線が通っています。

 駅から並木が続いています。実はこれが廃線跡です。こどもの国線は軍事路線で、横浜線長津田駅から陸軍の弾薬施設(弾薬庫)までの引き込み線でした。いつ廃止になったのかは明らかでないのですが、この引き込み線が利用されて鉄道が復活しました。こどもの国の内部には、弾薬施設であったことを示す痕跡が目立つ形で残っていました。

 神奈川県道139号線を横断するとこどもの国です。今回は中に入りません。東急バス、横浜市バス、小田急バスが到着し、青葉台駅、市が尾駅、鶴川駅などに向かいます。有名なTBS緑山スタジオに行くには、ここからバスに乗っていくことになります。

 私の小学生時代には、ここが遠足の行先となっていました。田園都市線溝の口駅1番線で待っていると、初代5000系(渋谷駅前のハチ公前交差点のそばに置かれている緑の電車)が回送としてやってきて、停車した途端に団体専用になり、遠足へ行く小学生たちを乗せて、こどもの国まで直通したのです。その数年後、やはり私が通っていた小学校でこどもの国へ遠足で行ったのですが、その日が定休日であった、という出来事もありました。

 駐車場の奥が住宅地となったことがわかります。後の高層マンションが時代の流れを感じさせます。いつ頃から宅地化が始まったのでしょうか。この辺りは、横浜市とは言っても北西の外れ、すぐ近くに東京都町田市との境界があります。青葉台までならよく足を伸ばす私も、奈良を通ることはあまりありません。

 神奈川県道139号線を歩いてみることとしました。こどもの国から奈良北団地、鶴川の方向へ進みます。奈良一丁目~五丁目と奈良町とでは、時間の流れ、あるいは速さが違うような気がします。これが横浜市青葉区や緑区の面白さの一つでもあります。

 そんな中、おそらくはこの地に長く生活の根拠を置かれているのではないかと思われる民家がありました。入口が立派です。幼い頃から「このような家(うち)に住みたいな」と思っていましたし、今も変わりませんので、撮影させていただきました。

 川崎市高津区でも僅かに残ってはいますが、見る機会は少なくなっています。

 道路沿いの小高い丘に、春の息吹が鮮やかに映し出されていました。この美しい色彩を目にしながら、奈良町を歩き続けます。かつてここに軍事施設があった時でも、この辺りの風景はそれほど変わらなかったのでしょうか。

 

前回まで三重県四日市市に飛び、近鉄内部線・八王子線に乗りましたが、また横浜市青葉区に戻ります。こどもの国駅のある奈良町を歩いている途中です。

 今年(2012年)の3月も終わりになろうとしている頃ですから、春らしい、暖かく、穏やかに晴れ渡る日でした。神奈川県道139号線を歩いていると、こどもの国の周囲、奈良町側には緑が多く、和みます。桜が咲き、春の訪れを知らせてくれます。

 

 

今は、このような波板もあまり見られなくなりました。

 

 こどもの国西側の交差点を左折します。すると、先程とは全く違う光景が目に飛び込んできます。奈良町ではなく、奈良五丁目の住宅地です。1997年、奈良町から奈良一丁目~五丁目が分離しました。

 こどもの国線に沿って流れる川に架かる奈良中央大橋の上から、こどもの国駅方面を撮影してみました。かなり住宅地が多くなっていますが、農地も残っていることがわかります。何十年前かの田園都市線の沿線でよく見られたような風景が、ここに広がっています。

 下を流れるのは奈良川で、玉川学園の敷地内にあるという奈良池を源とし、恩田川に合流します。さらに、恩田川は緑区内で鶴見川に合流します。

 奈良五丁目交差点の右側に団地が見えてきました。奥のほうにある横浜モンテッソーリ幼稚園は手元の地図にも書かれているのですが、この団地の名称は記されていません。この先、右側にはルクサージュあおば山の手台、青葉山手台クローバーヒルズ、ヴェルディール奈良と続きます。

 長津田駅周辺、恩田駅周辺、そしてこどもの国駅周辺と歩いていますが、駅が違うとこれほどまでに街並みが違うものかと驚かされます。しかもこの辺りは町田市との境界、つまりは神奈川県と東京都との境界に近い訳で、随分と大きく景色が変わったものだ、と思いながら歩いていました。

 しかも、この辺りはこどもの国駅から近いのに、駅前とはまるで異なる場所のような感じさえ受けます。もう少し歩いて、駅に戻ろうと思っています。

 

 こどもの国駅から奈良町を歩き、奈良五丁目に入りました。駅の西側に広がる新興住宅地を、もう少し歩いてみることとします。

 こどもの国の近くにこのような住宅地が展開しています。最近までよく知りませんでした。隣の緑区にある長津田みなみ台に少しばかり似ているような気もしますが、やはりこの風景は横浜市青葉区の田園都市線沿線のほうに属するのでしょう。ただ、具体的にどこと似ていると言いうるまで詳しくもありません。

 こどもの国線の唯一の途中駅、恩田駅の前に広がるあかね台とは、かなり雰囲気が違います。

 2012年3月29日、桜が咲いていました。場所は、スーパー三和の裏のほうにある公園です。既に満開です。購入してから2か月弱しか経っていないCanon EOS Kiss X5を持ち歩いていますので、撮影してみました。

 これも、同じ公園にて咲いている桜の花を、Canon EOS Kiss X5で撮影してみたものです。初心者向け、あるいは家族向けであるとはいえ、一応はデジタル一眼レフカメラですので、コンパクトデジタルカメラとは違う風味の写真をとることができたのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

ちょうど春休みの時期です。子供たちが遊んでいます。

 奈良一丁目にあるこの公園の入口です。ここから見ただけではよくわからないのですが、かなり大きな公園であるようです。青葉区のサイトによると1997年3月31日に開園しており、面積は3万8178平方メートルとのことです。青葉区内では最も広い公園で、3万平方メートルを超える面積の公園は同区でここと鴨志田公園(鴨志田町。3万6500平方メートル)、桜台公園(桜台。3万5798平方メートル)しかありません。

 

 こどもの国駅の西側にロータリーがあります。すぐそばに駅があるのですが、電車を降りて改札口を出た瞬間には、このようなロータリーがあるとは気づきません。1990年代にこの辺りを訪れたことがなかったので、あまりの変貌ぶりに驚かされました。

 クシー乗り場が写っていますが、バス停もあります。但し、多くのバスはここではなく、こどもの国正門の前に発着するようです。東急バス、小田急バス、横浜市営バスはこのロータリーに発着しません。神奈川中央交通のバスのみがここに発着するようです。

 さて、そろそろこどもの国駅を離れようと思います。元々は軍用路線、その後はこどもの国協会が保有していた路線であるだけに、東急の他の路線とは全く性格が違います。横浜高速鉄道に移管されて通勤通学用の路線となってからでも、こどもの国線そのものの雰囲気はあまり変わっていません。しかし、1990年代、こどもの国駅の周辺は大きく変化しました。それより前から奈良北団地などがあり、住宅化は進んでいたのですが、1990年代に加速し、奈良町から奈良一丁目ないし五丁目が分離したことで、この地域の性格は大きく変わったと言えます。およそ5年半ぶりにこどもの国線に乗ったのですが、前回は1990年代に新設された恩田駅で降りてしまいました。そのため、こどもの国駅を利用するのは30余年ぶりとなりました。この、確実に経過した時間は、決して短くありません。

 こどもの国線の電車に乗ってもよいのですが、青葉台駅に行きたかったので、東急バスに乗ることとしました。正門前のバス停で待つこととします。

 今回で、東急田園都市線途中下車シリーズは、番外編の横浜高速鉄道こどもの国線も含めて、全て終了します。2年以上もかかりましたが、全駅を取り上げることができました。勿論、今後も、気になるものがあったら撮影し、ここに掲載しようと考えています。

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2012年3月6日、恩田駅

2020年01月22日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第480回:「東急田園都市線途中下車(番外編1) 恩田駅」(2012年3月6日撮影。2012年5月29日〜6月4日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 まだ、東急田園都市線途中下車シリーズは完結していません。それなのに番外編をお届けするというのはどうなのか、とは思っています。しかし、田園都市線の沿線を歩くのであれば、支線的な存在であるこどもの国線を外す訳にはいきません。また、同線の恩田駅とこどもの国駅は青葉区にありますし、恩田駅のそばには、東急全線と非常に深い関係にある、いや、より精確に表現すれば、東急全線の運行を支える施設が存在します。そこで、番外編の第1弾をお届けすることといたしました。

 上の写真を御覧になって、「立派な駅ではないか?」と思われるかもしれませんが、大規模な駅ではありません。単線のこどもの国線の途中駅で、列車交換ができるというに過ぎません。

 恩田駅が開業したのは、20世紀最後の年である2000(平成12)年の3月29日です。東急線では最新の駅ということになりそうですが、実は東急線の駅ではありません(理由は後に記します)。純粋な東急線の駅で最も新しいのは中央林間で、1984(昭和59)年4月に開業しています。こどもの国線が東急線の一路線として扱われることが多いため、恩田駅およびこどもの国駅も東急線の駅として扱われることも多いのですが、どちらの駅も正式には横浜高速鉄道の駅です。

 駅の正面です。こじんまりした改札口で、自動券売機と自動改札機が設置されていますが、無人駅です。改札を抜けるとすぐに階段があり、ホームに行くこととなります。エレベーターも設置されています。

 こちらには「東急電鉄」と「横浜高速鉄道」とが並んで書かれています。既に記したとおり、恩田駅とこどもの国駅は横浜高速鉄道に所属する駅です。多くの場合に東急線の駅として扱われており、実際に東急の一日乗車券や株主優待乗車券などを利用することも可能ですが、こどもの国線だけは運賃体系が全く別です。これらは、同線が少し変わった歴史をたどっているためです。

 元々、こどもの国線は長津田駅から田奈弾薬庫までの引き込み線でした。軍事路線であった訳ですが、いつ開通したのか、またいつ廃止したのかについては、手元に資料がないのでよくわかりません。戦後、アメリカ軍に接収されていたとのことです。

 その後、1959(昭和34)年、当時は皇太子であられた今上天皇が成婚され、1965(昭和40)年、その御成婚を記念する施設が田奈弾薬庫の跡に開設されました。これがこどもの国です。運営は財団法人こどもの国協会が行いました。しかし、当初はバスしか交通機関がなかったので、引き込み線を利用して新たな鉄道路線が建設され、1967(昭和42)年4月28日に開通しました。こどもの国線です。

 開通時から長らくの間、こどもの国線は、特殊法人化されていたこどもの国協会が所有しており、同協会が東急に運行などを委託していました。そのため、同線の専用とされた車両は東急のマークを外し、こどもの国のシンボルマークを付けていました。完全にこどもの国の利用客を前提とした路線で、8時台に始発、18時台に終電、休園日(通常は月曜日でした)には非常に本数が少なくなるというダイヤで、通勤通学路線として機能していなかったのです。東急各駅にはこどもの国の開園日・休園日を知らせる案内表示が改札口などに置かれていました。1981年、こどもの国協会は社会福祉法人となります。

 国鉄の民営化、JRグループの発足と同時に鉄道営業法が施行され、施設を保有するこどもの国協会は第三種鉄道事業者、運行などを委託されている東急は第二種鉄道事業者となります。1989(平成元)年からワンマン運転が行われています。これは東急線としては初の例です。

 田園都市線の利便性が向上するとともに、沿線にも住宅が増えてきました。通勤通学はバスが担当していたのですが、人口が増えればそれでは足りなくなります。利便性を求める声が増えたため、こどもの国線を通勤路線化することとなりました。しかし、通勤路線の保有となると社会福祉法人こどもの国協会の存在目的から逸脱します。そこで、同協会は、横浜高速鉄道に第三種鉄道事業免許を譲渡します。通勤路線とするには、列車交換ができなければ本数を増やせず、話になりません。既に長津田車両工場があった場所に、列車交換が可能な駅が設置されました。それが恩田駅です。

 改札口の横に、こんな案内表示があります。こどもの国線のみの利用であれば150円均一であるためか、東京23区内、川崎市内、横浜市内で実施されている前乗り前払い方式のワンマンバスと同じような利用方法になっています。また、長津田駅には東急の改札口がありますが、こどもの国線の改札口はありません。

 本来は横浜高速鉄道の駅ですが、東急線の各駅と同じような仕様の自動券売機が置かれています。他の私鉄ではPASMOを利用できない機械も置かれていることがありますが、東急の場合は駅の全ての機械でPASMOを利用できます。

 この駅から、同じ横浜高速鉄道のみなとみらい線各駅までの乗車券を購入することはできないようです。もっとも、そのような乗車券を使う人がいるとも思えません。恩田またはこどもの国から横浜駅までの運賃が510円で、こどもの国線を東急線として扱うならば、東急では最も高額です。最も長い距離となるのは中央林間駅から横浜駅までなのですが、運賃は390円です。長津田駅から横浜駅まで東急線のみを使う(田園都市線、大井町線、東横線を乗り継ぐ)のであれば360円ということになります(JR横浜線ですと290円です)。

 ホームの様子です。おそらく、横浜高速鉄道としても東急としても、最も利用客が少ない駅でしょう。平日の午後のひと時、ホームには人がほとんどいません。長津田行き、こどもの国行きのどちらも、原則として20分に1本の割合となっています。奥には長津田車両工場が見えます。

 恩田駅とこどもの国駅には駅員がいません。このうち、こどもの国駅は、こどもの国線が横浜高速鉄道の路線となった際に無人駅となりました(それまでは東急の駅員がいました)が、時期によっては駅員が配置されるようです。これに対し、恩田駅は開業当初から無人駅です。時間帯などによっては駅員がいるかもしれませんが、両駅とも長津田駅から駅員が派遣されてくるのでしょう。

 駅名は恩田で、地名に由来しますが、現在、この駅の南側はあかね台という地名です。駅の所在地もあかね台です。分譲地であることが一目瞭然で、この道路がメインの一つとなっており、幅が広くなっていますが、脇に入るとかなり狭い箇所もあります。田園都市線沿線の分譲地と、基本的には同じような造りとなっています。なお、駅前には路線バスが乗り入れておらず、バス停もありません。但し、少し離れた所に、あかね台というバス停があり、東急バスの青55系統が発着します。

 あかね台、恩田、奈良町、青葉区の南方ともなると、横浜市と聞いて浮かべる多くの人のイメージとはかけ離れているように思われます。ここから少しばかり車で走れば、町田市との境界、つまり都県境に着きます。市の果てにある町の一つがあかね台です。くまなく歩いたり走ったりした訳ではありませんが、高層住宅などは見当たりません。鴨志田周辺では団地が多いのですが、それとは対照的な所です。

 また、あかね台から外へ出ると、農地などが広がっています。こどもの国線に乗ると、横浜市内でもおそらく(貨物線などを除けば)唯一であろう単線区間であること、さらに沿線の風景に驚かされることでしょう。もっとも、私にとっては、その風景こそが横浜市らしいと思っています。

 恩田駅のすぐそばに、東急の長津田車両工場があります。川崎市中原区今井上町に登記上の本店を有し(本社は宮前区東有馬)、工場も置いている東急テクノシステム(旧:東横車輌電設)の長津田工場も併設されています。ちなみに、川崎市中原区今井上町の工場はJR南武線の武蔵小杉駅と武蔵中原駅との間にあり、同線の車内からも見ることができます。

 東急および横浜高速鉄道の車両は、全てここで定期検査などを受けます。1972年、元住吉工場がここへ移転し、1973年から長津田車両工場となりました。何年か前に恩田駅を訪れた時には、工場の入換用車両として電気機関車のデキ3021、ED30 1、かつては荷電であったデワ3043を見ることができましたが、現在はいずれも配置されていません。

 今回は、5050系、9000系、1000系(クーラーキセからわかります)が置かれています。いずれも定期検査に入っているようです。

 5050系は5000系の東横線ヴァージョンというべき系列で、上のほうに東横線のラインカラーの帯が巻かれています。現在、同線は基本的に5050系に統一されています(本来は田園都市線用である5000系も何編成かが運用されています。また、横浜高速鉄道のY500系も走行しています)。9000系や1000系も走ってはいますが、9000系は大井町線への転属が進められていますし、1000系は日比谷線直通用で、しかもその日比谷線直通の本数が減っています。

手前は5050系、そのすぐ後が9000系です。5050系のほうは5155Fで8両編成ですが、工場の中では分割されています。9000系のほうはよくわかりません。

こどもの国線用の車両、横浜高速鉄道Y000系の2両編成がやってきました。こどもの国行きで、先頭はデハY013です。東急3000系と基本的な部分で設計を同じくしています。

クハY003です。目黒線を走る3000系が4扉であるのに対し、Y000系は3扉です。また、車内には広告がありません。3編成が製造され、全て東急の長津田検車区に配置されています。

 車両工場の入換機がありました。機械扱いですので、工場の外に出ることはありません。

 私が最初に恩田駅を訪れた時には、先に記したデキ3021、ED30 1、デワ3043が置かれていました。これらも車両ではなく、機械扱いとされていました。デキ3021は上毛電気鉄道に譲渡されています。

 

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2012年3月27日、中央林間駅

2020年01月21日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第499回:「東急田園都市線途中下車(27) 中央林間駅」(2012年3月27日撮影。2012年10月20日〜30日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 私が田園都市線の沿線に住み始めてから開始した「東急田園都市線途中下車」シリーズも、いよいよ最終回となりました。今回は、途中下車という言葉には相応しくないのですが、まさしく田園都市線の終点である中央林間駅(DT27)を取り上げます。梶が谷駅から続いてきた多摩田園都市も、この駅が終着点です。

 中央林間駅は神奈川県大和市にあり、1984(昭和59)年4月9日に開業しました。純粋な東急線の駅としては最も新しい駅で(こどもの国線を含めれば恩田が最も新しい駅です)、当初から地下駅です。上の写真では5000系が停車していますが、ここから東武伊勢崎線の久喜駅、日光線の南栗橋駅まで直通する電車が走ります。その距離は100キロメートル弱というところですので、私鉄の相互直通運転の距離としては日本で最も長い距離となります。また、以前、何度か東武日光方面まで臨時電車が運転されたこともあります。

 地上に出ます。中央林間駅の改札口は1階にあります。それほど高い建物ではないものの駅ビルとなっており、飲食店や書店も入っています。以前は定期券売場やテコプラザもありました。ここが正面口ですが、北口、南口および西口もあり、西口は小田急江ノ島線の中央林間駅とつながっています。

 駅の正面口を少し離れた所から撮影しました。バスターミナルとタクシー乗り場が展開しており、その奥のほうに大和市役所の中央林間連絡所が入っています。

 私が立っている所は道路の反対側、東急ストアの前です。田園都市線の沿線には東急ストアが多いのですが、その中でも中央林間店は鷺沼店とともに規模の大きな店舗に入ります。街を歩いてから中央林間店に入り、昼食用の弁当を買って食べました。弁当、惣菜、そして八社会のバリュープラスの品々は、スーパーマーケットのオリジナルブランドの中でも美味しいので、時々買っています。

 見ただけでは何を撮影したのかわからないような写真になってしまいました。実は、私も何を撮影したのか、よく覚えていません。駅を出てつきみ野方面に少し歩いた所であることだけは確かです。駅ビルと東急ストアがつながっているので、中央林間駅ビルの裏側を撮影したのでしょう。左側にわずかながら見える橋は東急ストアへの連絡橋であるはずです。

 遠くに中央林間駅の北口が見える位置から撮影してみました。右側のほうに小田急江ノ島線の駅があります。いかにも駅の裏という感じの場所ではあります。

 田園都市線の駅、いや東急線の駅としては最も新しい駅ですが、小田急の中央林間駅は戦前に開業しています。そのためか、この駅は、溝の口駅とともに、田園都市線沿線らしくないというか、同線の他の駅とは異なる空気が流れているように思えてきます。敢えて言うならば、東横線のどこかの駅の近くを歩いているような気もしてくるのです。

 小田急江ノ島線の中央林間駅です。こちらを使えば、下り電車なら大和、湘南台、藤沢、片瀬江ノ島、上り電車なら相模大野、町田、そして新宿に出ることができます。但し、都心方面への直通はないので、田園都市線のほうが利便性が高いとも言えます。小田急江ノ島線の急行は、田園都市線の中央林間駅が開業した後も長らくの間、中央林間を通過していましたが、現在は停車します。

 中央林間という名称は、よく考えると妙なものです。しかも、上り方面の隣が東林間で(但し、地図で見ると中央林間より北西にあります)、下り方面の隣が南林間です。3つも「林間」が続く訳で、どう見ても古くからの地名とは思えないので、不思議に思われた方も少なくないでしょう。

 実は、戦前、この辺りには林間都市計画というものがありました。小田原急行電鉄、すなわち現在の小田急電鉄が、現在の阪急電鉄の母体や東京急行電鉄の母体が進めていた宅地開発(関東では洗足や田園調布が典型です)にならって、一種の計画都市を造ろうとしたのです。そのため、江ノ島線には、1929(昭和4)年4月1日に東林間都市、中央林間都市、南林間都市という駅が開業しました。しかし、時は戦前です。昭和初期の不況にも見舞われていました。また、この場所は、現在であればともかく、当時の電車の性能などを考えると新宿から離れすぎていました。この他にも理由があったのでしょう。林間都市計画は暗礁に乗り上げ、中止されてしまいました。以上の3駅も、1941(昭和16)年10月15日、揃って「都市」が外され、東林間、中央林間、南林間となったのです。住宅地として発展したのは戦後のことで、東急による多摩田園都市計画も進められるようになりました。中央林間都市という駅名は、むしろ田園都市線全通後の現在のほうが相応しいくらいでしょう。

 今度は小田急の中央林間駅の西側を歩いています。昔からある郊外の住宅地という印象を受けます。そのため、ここが田園都市線の沿線であるとは思えないでしょう。南武線の沿線でも、このような場所がいくつか思い当たります。小田急が構想していた林間都市とは、一体どのようなものであったのでしょうか。ちなみに、和歌山県橋本市には、南海電気鉄道が開発した橋本林間田園都市というニュータウンがあり、南海高野線の林間田園都市という駅もあります。関東人の目から見ると、東急と小田急とが合体したような名称です。

 今歩いているのは商店街です。古くからの建物が多く残っており、少しばかり懐かしさを感じました。右の建物に書かれている電話番号を見ると、ここが大和市であることを実感できますが、現在、大和市の市外局番は3桁の046ですので、4桁の0462の時代のままということになります。

 西口の商店街の一角です。きれいに咲いていましたし、私が持っていたカメラが、買ってからまだ2ヶ月弱しか経っていないCanon EOS Kiss X5でしたので、せっかくだからと撮影しました。あざみ野駅の近くにある西勝寺でのようにはいきませんし、まだ使いこなせていません。

 もう少しアップで、花そのものを撮影してみました。一眼レフを買ってよかったと思っています。コンパクトデジタルカメラではここまできれいに撮影できません。私が一眼レフを使いこなせるようになれば、もっと美しく撮影できることでしょう。EOS 60DにするかEOS Kiss X5にするかで迷ったのですが、デジタル一眼レフ初心者にはEOS 60DよりEOS Kiss X5のほうが操作に悩むことが少ないであろう、という判断の下に買いました。勿論、価格も判断の要素です。

 さて、これで「東急田園都市線途中下車」シリーズは終わりました。番外編1としてこどもの国線の恩田駅を取り上げていますので、2としてこどもの国駅を取り上げることとします。そして、今後も、折に触れて田園都市線沿線の風景を紹介していくつもりです。

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2012年3月6日、つきみ野駅

2020年01月20日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第475回:「東急田園都市線途中下車(21) つきみ野駅」(2012年3月6日撮影、2012年4月24日〜5月1日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2012年3月27日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。

 

 現在、東急で最長の路線が田園都市線ですが、その区間は何度も変更されています。大井町線であった大井町~溝の口が田園都市線と改称されたのは1963(昭和38)年10月11日のことで、1966(昭和41)年4月1日に溝の口~長津田が開業し、田園都市線は大井町~長津田の路線となります。しかし、これで終わりません。その後は次のように変化します。

 1968(昭和43)年4月1日:長津田~つくし野が開業。田園都市線は大井町~つくし野となる。

 1972(昭和47)年4月1日:つくし野~すずかけ台が開業。田園都市線は大井町~すずかけ台となる。

 1976(昭和51)年10月15日:すずかけ台~つきみ野が開業。田園都市線は大井町~つきみ野となる。

 1977(昭和52)年4月7日:渋谷~二子玉川園が新玉川線として開業。

 1979(昭和54)年8月12日:大井町~二子玉川園(当時)が大井町線となる。これにより、田園都市線は二子玉川園~つきみ野となる。

 1984(昭和59)年4月9日:つきみ野~中央林間が開業。これにより、田園都市線が全通し、二子玉川園~中央林間となる。

 2000(平成12)年8月6日:新玉川線を田園都市線に統合する。これにより、田園都市線は渋谷~中央林間となる。

 このように見ると、長津田~中央林間の開業にかなりの時間が必要とされたことがわかります。そして、同区間内の各駅は、南町田を除いて全て終着駅であった経歴を持っていることも明らかです。

 第20弾はあざみ野駅で、その段階で横浜市青葉区にある藤が丘および青葉台が残っているのですが、第21弾となる今回はこの2駅を通過し、さらに町田市内にあるつくし野、すずかけ台および南町田も通過し、大和市に入って最初の駅、つきみ野駅を取り上げます。

 つきみ野駅です。つくし野と間違えそうな名前ですが、つくし野の駅ナンバリングはDT23、長津田の次で町田市にあるのに対し、つきみ野の駅ナンバリングはDT26、終点である中央林間の一つ手前で大和市にあります。

 この駅の所在地は神奈川県大和市つきみ野五丁目ですが、勿論、古くからある地名ではありません。建設当時、辺りには月見草がたくさん咲いていたそうで、そこから「つきみ野」と名付けられました。

 つきみ野駅は急行も準急も通過し、しかも田園都市線で最も乗降客の少ない駅ですが、それにしては立派な駅舎です。東急の各駅の中でも、とくに屋根に特徴があります。高さはそれほどでもないのですが、幅が広いのです。改札口、および自動券売機コーナーと比較すると、大きさがわかります。

 前に記したように、この駅は1976年10月15日に開業しました。それから1984年4月8日まで、およそ7年半の間は田園都市線の終着駅でした。私が最初にこの駅を利用した時期をよく覚えていないのですが、1980年以降であったと記憶しています。中学生時代であったはずです(1984年に高校に入学しています)。当時、この駅は一つしかホームがなく、電車の本数も両数も少なく、まだほとんど開けていないような所でした。現在の2番線が、開業時に使われていたホームです。

 駅舎の下にホームがありますので、掘割の構造になっています。上の写真は、2枚目とは逆の、中央林間駅の方向をとらえたものです。この先で地下に入ります。周辺には多くの住宅が建ち並ぶようになりました。

 駅舎の前は広場となっています。田園都市線では幾つかの駅で見られますが、バス停などが置かれていないのは珍しいと言えます。長津田~中央林間という区間の中間駅は、第二の田園調布を狙っていたような印象を受けるのですが、とくにこの駅はその傾向が強くうかがわれます。しかし、実際には田園調布とは似ても似つかないような街になっています。

 奥のほうにバスターミナルがあります。田園都市線の長津田~中央林間には東急バスの路線がなく(何年か前まで長津田駅前には通っていましたが)、神奈川中央交通の営業領域となっています。

 駅前には商店があまりありません。その代わり、少し離れた所にロードサイド型の商業施設が並びます。これは南町田駅周辺と共通しています。つきみ野駅の裏のほうに八王子街道が通っており、下鶴間交差点付近まで、そのような店舗が並んでいます。また、この交差点から中央林間駅方面に進むとイオンつきみ野店があります。

 つきみ野駅前を通るこの道路は、幅の広いほうですが、国道246号線には出ないようです。県立大和高校やイオンつきみ野店に向かうことができますが、どちらも駅からは離れています。しかし、この辺りは自動車社会なのでしょう。通行量も多いようです。もっとも、地形の関係で、車では走りにくい道路もあります。

駅の裏側、八王子街道のほうへ出てみようと思いました。右側が駅です。左側は東急ドエルつきみ野ビレジで、何棟かの建物からなっています。

 つきみ野駅の駅舎を裏側から撮影してみました。特徴のある屋根はこちら側からでもよくわかります。

 掘割式の駅で、ちょうど電車が止まっている2番線が、開業時からのホームです。現在は上りホームとなっています。右の電車は東武の50050系で、ここから埼玉県の久喜駅か南栗橋駅まで走ることがあります。2003年、当時の営団半蔵門線の水天宮前~押上が開通し、東武伊勢崎線・日光線との相互乗り入れが始まったのですが、10年ほど前まで、まさかここに東武の電車が走るようになるとは思ってもいなかったのです。

 田園都市線の場合、原則として全ての電車が東京メトロ半蔵門線に直通します。東京では相互乗り入れが当たり前のようになっていますが、田園都市線・半蔵門線ほど徹底した路線は他にありません。 これに近いのが東急目黒線と京王新線でしょうか。ただ、京王新線は複々線区間の一部に付けられた通称にすぎません。

 駅ナンバリングの導入に伴い、駅名標も変えられています。基本的なデザインは変わっていないのですが、東急各線に共通していた赤から、路線ごとに割り当てられた色に変えられています。田園都市線はライトグリーンです(5000系の側面の帯にも採用されています)。

 また、もう一つ、目立つ変更点があります。駅ナンバリング導入前の駅名標では、中央の上のほうは大きな文字は駅名の平仮名表記で、下のほうに正式の駅名が書かれていました。これに対し、駅ナンバリングの導入後は、中央の上のほうに大きな文字で正式の駅名を示し、下のほうに平仮名表記を示しています。

 つまり、以前の駅名標では中央の上のほうにある大きな文字が「つきみの」で、正式の駅名である「つきみ野」は下のほうに書かれていたのですが、現在は逆転しています。上の写真を御覧下さい。

 田園都市線の車窓からも見えるヤマダ電機大和店です。青葉台駅付近の国道246号線には2つも店舗がありますが、その2つよりもこの大和店のほうが先に営業を始めたのではないかと思われます。少なくとも、かつてドイト青葉台店であったNew青葉店よりも前から営業しています。

 その隣のコメダ珈琲店は愛知県を地盤とするチェーン店ですが、最近では関東地方にも積極的に進出しています。田園都市線の沿線では江田、長津田にもあり、また、こどもの国駅の近くにもあります。川崎市では武蔵中原駅付近と向ヶ丘遊園駅前にあります。私は武蔵中原の店にしか入ったことがないのですが、ヴォリュームに驚かされました。中原街道と南武沿線道路との交差点のそばにあり、以前はガソリンスタンドでした。

 そういえば、最近はガソリンスタンドが少なくなっておりまして、私が住んでいる溝口でも数年前に1店が営業をやめ、長らく空き地となっていました。また、私の実家の近所(但し、最も近い場所ではありません)にあったガソリンスタンドも、いつの間にか営業をやめ、2月にはコンビニエンスストアになっていました。

 脇道にそれましたが、この八王子街道の沿いに、大規模店などの商業施設が並んでいます。右のほうへ進むと下鶴間交差点、さらに国道246号線との目黒交差点で、横浜市瀬谷区に入ります。逆に左のほうへ進むと、国道16号線に合流して相模大野駅のそばを通り、相模原市に入ります。

 今回もCanon EOS Kiss X5を使ってみました。まだまだ使いこなせていません。

 そして残る駅は、あざみ野、藤が丘、青葉台、つくし野、すずかけ台、南町田、中央林間です。今年中に全て取り上げたいと考えています。

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