2012年、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始されます。そのため、東横線は、現在の高架駅から地下駅へ移転することとなります。
そこで、東横線渋谷駅正面口の様子を撮影しておきました。
2012年、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始されます。そのため、東横線は、現在の高架駅から地下駅へ移転することとなります。
そこで、東横線渋谷駅正面口の様子を撮影しておきました。
高津交差点の溝口4丁目側、川崎信用金庫高津支店のところに立っている案内板です。
大山街道と府中街道(国道409号線)が交差するのが高津交差点です。北側は溝口4丁目、南側は溝口3丁目です。そして、ここが神奈川県道14号線鶴見溝ノ口線の終点ということになります。
増田正・友岡邦之・片岡美喜・金光寛之編著、高崎経済大学地域政策研究センター編集協力『地域政策学事典』(2011年、勁草書房)、3000円(税別)
この本は今年の8月に刊行されており、私はブックファースト青葉台店で見つけました。仕事柄、地方自治などの分野の書籍が並んでいる棚には必ず目を通し、何冊か買っています。
事典と銘打っているだけあって、都市政策、住宅政策などの項目について簡明な解説が示されています。「法制度と地域」では、「法言語」、「法律と条例」、「行政作用」など、行政法や民法などの項目が並んでいます。行政法については、まずはこれだけ知っておいてほしいと思うようなところが上手くまとめられていました。民法などについては薄めですが、これはやむをえないところでしょう。法律学をしっかり勉強したいという人には不向きであることも否めないのですが、政治学(とくに行政学や地方自治論)を本格的に勉強したいという人には、最初に目を通すべき書籍として最適でしょう。
〔注意書き:これは、早稲田大学大学院法学研究科の博士後期課程に入学する前、1995年2月25日に記したもので、早稲田大学大学院法学研究科自治会発行の法研フォーラム第18号に掲載されました。今から16年前に書いた文章をここに掲載するのは、私が大東文化大学大学院法学研究科法律学専攻で修士論文の指導を行ってきたからです。もとより、内容も古く、現在の世情などとは合致しない点も多いのですが、敢えて無修正のまま掲載いたします。〕
大学院修士課程に入学した以上、最終的に作成しなければならないもの、それが修士論文である。これを書き上げ、提出して審査を経なければ、修士課程修了とはならない。新入生の皆様は、もしかしたら、「もうそんな先の話をするのか?」と思われるかもしれない。しかし、二年間という時間は、長いようで短い。多くの先輩方も、そのように言われることであろう。とくに、博士後期課程に進学し、研究者としての道を歩みたいと考えられるならば、修士論文の充実度が非常に重要な問題となる。
入学してから、先輩方の助言や忠告を受けられることとは思うが、私が、此処で新入生の皆様に―勿論、修士課程二年生となられる方にも―修士論文のことについて何かをお伝えすることも、不要なことではなかろう。私自身も、何もわからぬままにこの方角を選択し、先生方や先輩方より、様々な御指導、助言、忠告をいただいた。何も知らぬままに道を徘徊するよりは、少しばかりでも情報を仕入れたほうが、余計な手間を省ける。これから私が記すことが、皆様にとって参考になれば、それ以上の喜びはない。
尤も、一般的に、論文の書き方などの問題は非常に個人的な問題でもあり、様々な点で人それぞれということになる。以下は、一度は博士後期課程入試に失敗し、再び受験して合格したばかりの私の体験を中心に、自己反省の意味をも含めて述べたものである。
①主題の選択について
私が修士論文の主題を決定した時期は、一年生の夏休みである。主題は、行政行為論のうちの附款についてである。これを選択した理由は、第一に、日本の行政法学において何故か軽視された部分であること(ドイツでは逆に重要視されている)、第二に、附款は、法律の規定にない事柄を行政庁が一方的に相手方に「押しつける」手段であること(この点では、法律による行政の原理の例外と言うべきものであり、行政指導と類似する点もある)、第三に、附款に根強く残る民法学的色彩を検討することにより、行政行為の性質を考える一材料となること、である。一年生の前期に、日本の代表的な教科書や論文集を読み、たまたま所有していたドイツの行政法学の教科書を読んで、主題を決定した。そして、後期には、指導教授たる先生に御相談申し上げ、主題を本決定した。博士後期課程進学を希望される方は、早いうちから修士論文の主題などについて先輩方から質問などを受けられると思うが、夏休みに仮決定し、後期に本決定するというのが良いと思われる。
②資料の収集について
一年生の後期から日本語文献の資料を集め始めたが、本格的に収集したのは春休みである。この時期は、資料収集に時間をかけるには最も良い。私が集めた外国語文献のうち、半分ほどは、一年生の春休みに集めた。以後は、補充的に、雑誌論文のコピーをし、時には教科書などを購入した。どのような文献が基礎的であるかは、日本語文献と外国語文献とを問わず、教科書を通じて或る程度知ることができる。そうした基礎的文献ほど、早い時期に集め、読んでいくと良い。
ここで、外国語文献について述べておく。博士後期課程進学を希望される方は、おそらく、何らかの形で、修士論文中で比較法的考察をなされることとなろう(これには、博士後期課程入学試験との関連という重大な意味もある)。そのため、外国語文献の探し方などについて、若干のことでも知っておく必要がある。
私の場合は、ドイツ法が検討の対象となった。従って、ドイツの法律雑誌、教科書、逐条解説書などが資料となる。早稲田大学は、ドイツの法律雑誌に関しては比較的良く揃えているほうである。法学部教員図書室に行けば、ドイツの法律雑誌を探すことができる。中央図書館にも若干ある。単行本については、法研学生読書室、中央図書館、高田早苗記念研究図書館(判例集、官報も収められている)にあたると良い。このうち、中央図書館には比較的古い年代の資料が、高田早苗記念研究図書館には比較的最近の資料が揃えられている(しかし、新しい資料が入るのは遅いので、注意を要する)。しかし、いずれの図書館であれ、非常に重要な書物が、早稲田に何故か入っていないことがある。
早稲田大学にない資料を探すには、中央図書館のレファレンスを利用するとか、図書館(室)に置かれている目録を使って探すと良い(十分に探すこと!)。とくに、慶應義塾大学の図書館目録には目を通しておくと良い。早稲田大学の図書館と慶應義塾大学の図書館は提携を行っており、慶應(三田)にある資料を早稲田で閲覧することが可能だからである。また、外国の法律雑誌に関しては東京大学外国法文献センターを利用するという手もある。あとは国立国会図書館を訪れるという手もある(コピー代が高く、しかもコピー可能な頁数は限定される)。他大学出身の方は、その大学の図書館の卒業者利用証をお持ちになると良い(中央図書館発行の紹介状は不要となる)。
③執筆
或る程度の資料を収集し、筋が見えてきたら、いよいよ執筆となる。あまり厳密に構成をする必要はないと思われるが、何を、何処で、如何に書いていくかについては、大まかに決めておかなければならない。私の場合は、序章で修士論文の目的(問題提起)を述べ、本文は第一章から第五章まで、それぞれ、学説史、概念、機能、訴訟の前段階での統制、訴訟の段階での問題というように構成し、終章でまとめ、という形を採った。勿論、論文の主題などによって、構成は変わってくる。いずれにせよ、骨組みだけは構築しておくべきである。その際、ノートを作っておくのが良い(私は、これといったノートを作らなかったので、実際に執筆する際に苦労した)。
そして、書き進めていく段階に応じて、大学院での演習の場などで、先生方や先輩方に検討していただく。他者の意見を聴くことによって、論述の方法を学び、論文の客観性を高め、さらに研究自体を深化させるためである。文章というものは、書いた本人がその善し悪しを判断するのが難しい。自らはこれで十分であると考えたとしても、他者に全く意味の通じないこともある。他者に読解されなければ、文章というものは無意味である(日記などは別であろうが)。また、文章には、本人の理解度が如実に現れる。報告の準備が大変であることは当然であるが、機会は多いほうが良い。もし、一度も修士論文のための報告をしなかったという人が、いざ面接試験を受けるとなると、大変なことになる、という話を聞いたことがある。それだけでなく、報告の機会が少なければ少ないほど、自分のためにならない(このことは、よく頭に入れておいていただきたい!)。
④その他
以上は、現在、私がようやく修士課程を修了できるという段階において考えられうることを記したものである。修士課程学生としての生活のことを含め、不明瞭な点が残るならば、是非とも先生方や先輩方に相談されたい。
ただ、書き残したことがあるので、補充しておく。
まず、博士後期課程進学を希望される方は、一方で修士論文の執筆をしながら他方で試験勉強をするという、二重の課題を果たさなければならない立場に置かれることとなる。この際、第二外国語の勉強が疎かになりがちなので、十分に注意されたい。また、修士論文に取り組む際に、比較対象の国の言語を理解できないのでは、全く話にならない。修士課程一年生の段階で、しっかりと勉強されたい。ゲーテの言葉に、「外国語を知らないものは、自分の国語について何も知らない」というものがあるが、修士論文に取り組んでみて、この言葉の意味をよく理解できた。
次に、運悪く(?)博士後期課程入学試験に合格されなかった場合、既に提出した修士論文を撤回し、もう一年修士課程学生を続けることができる、という制度がある。(できることなら、そういう制度を皆さんが利用されなくても済むように願いたいが)その制度を利用されることになったなら、さらに文献を補充したり、文章を訂正するというように、修士論文を改善される努力をなされたい(ちなみに、私の場合は、論文の構成を大幅に変更し、重要な資料の検討を追加した)。
今年は、田園都市線の溝の口駅・長津田駅間開通45周年です。不定期列車も走っていたくらいで、雑多な形式が2両とか4両で走っていたのが、いつのまにか8両に、そして10両になりました。ほとんどが地下鉄に乗り入れるので、永田町、神保町、大手町などへ行くのは非常に楽です。
さて、その田園都市線ですが、旧大山街道に沿うようなルートとなっています。江田駅や長津田駅の周辺も、かつて宿場町でしたが、何と言っても宿場町の雰囲気を最も強く残しているのが、二子新地駅から溝の口駅にかけての旧大山街道です。最近ではマンションが増えましたが、それでも昔ながらの建物が所々に残っています。この辺りを散歩するのは楽しいものです。
溝口三丁目は高津交差点の近くに、蔵作りの建物があります。川崎市による案内板も立てられているこの建物は、地元の薬屋、灰吹屋の旧本店です。戦後までここで営業していたそうです。その後、高津交差点から高津駅に少し向かった所に移転しています。
現在、旧本店は、写真でおわかりのように店舗としては使用しておりません。しかし、シャッターに江戸時代からの由来などをたどることができるような絵が描かれています。周囲の建物が次々に新しいものに替えられているだけに、長く保存してほしいものです。
そういえば、二子新地駅から溝の口駅にかけては、美味しいコーヒーを楽しむことができる喫茶店がいくつかあります。それについては、またいつか。
〔はじめに:以下は2011年4月17日11時23分07秒付で掲示板「ひろば」に投稿したものです。とりあえず、無修正で掲載します。〕
昨日の朝日新聞朝刊1面トップに「復興財源、消費増税が軸 首相意向 数年に限定」という記事が掲載されていました。
震災復興税という新税を設けるという案も既に出されていますが、この新税と消費増税との関係はよくわかりません。震災復興税は、復興構想会議議長を務める五百旗部(いおきべ)氏が提起したものですが、具体的にどういう税が構想されているのか、よくわからないのです。
それにしても、復興財源として消費税を増税することは適切なのでしょうか。私には疑問しか思い浮かびません。民主党でも慎重論があるとのことですし、どう考えても不適切な提案であるとしか思えません。復興財源が必要なのであれば、所得税や法人税で対処すべきでしょう。
消費税が不適切であると思われる理由を、ここであげておきます。なお、以下はさしあたりあげておくものです。
(1)所得税や法人税であれば、地域を区切って税率を変更することが可能です。これに対し、消費税の場合、仕入れ税額控除などの仕組みがあるため、たとえば東北地方の税率をゼロとする一方で近畿地方など西日本の税率を8パーセント(地方消費税を含む)とすることは難しいのです。仮にこれをやるとすると、納税義務者である事業者には余計かつ重大な負担をかけることとなります。
もし、どうしても地域による負担の差を設けたいのであれば、一般消費税としての現在の消費税ではなく、酒税などの個別消費税を活用するのがよいでしょう。現在の消費税のような多段階のもの(製造業者、卸売業者、小売業者というように多くの段階に課税される)では、執行が難しくなります。
(2)消費税の場合は、やはりその仕組みにより、課税対象(専門用語でいう課税物件)の取引が行われるならば、課税されざるをえません。しかも、取引があったという事実に基づいて課税されるのであって、納税義務者の事情は考慮されません。
仮に震災の被害がなかったとしても、消費税は取引そのものに着目して課税されるものですから、売上金額にかかる税額から仕入れ金額に含まれる税額を控除して算出されます。この時、事業者が黒字経営であるか赤字経営であるかは問いません。所得税や法人税であれば、赤字の場合には課税されないのですが、消費税の場合は赤字であっても課税されます。消費税の脱税件数が所得税などよりも多いのは、赤字課税が理由となっています。とくに中小事業者には酷なものなのです。そのことがわかっていれば、被災した地区の人々にも等しく消費税の負担を求めるということを考えるのはおかしな話なのです。「手持ちの資金がなければ、借金をしてでも消費税の負担をせよ」とでも言いたいのでしょうか。
(3)消費税の納税義務者は事業者ですが、最終的に負担させられるのは消費者です。消費者の負担が増えることになるのですが、とくに被災した地域の住民に、それだけの負担を強いることの正当性があるのでしょうか。避難されている方々の生活状況を考えるならば、消費税の増税が望ましくないことは明らかでしょう。
(4)消費税の税率を1パーセント上げれば、およそ2兆5000億円の増収になるという計算が出されています。但し、これはあくまでも計算です。実際にはこれほどの増収にならないと思われます。税率を上げれば消費が低迷するのは当然のことです。1997年、消費税率が3パーセントから4パーセントに上がり、同時に地方消費税が導入されたことで合わせて5パーセントに上がってから、景気が急速に落ち込み、企業倒産(代表的なのがあの山一證券でした)なども増えたことは、もう忘れられているのでしょうか。「復興のために消費税の増税を」と言いますが、復興に水を差す可能性のほうが高いと思われます。
あるいは、或る時点での増税を決めておいて、駆け込み需要を期待しているのでしょうか。1997年の3月に駆け込み需要による消費の上昇がありましたが、同じことが起こるというのでしょうか。仮にそうであるとすれば、これは無責任な思考としか思えません。
以上からして、なぜ、所得税や法人税の一時増税が即座に思いつかれないのか、と思わざるをえません。我々日本国民が、真に東北地方(など)の復興を願い、協力するのであれば、所得税や法人税の一時的増税はやむをえないでしょう。
勿論、所得税や法人税の増税も、景気、復興に水を差す可能性はあります。しかし、これらのほうが、地方による負担の差異なども設けやすいですし、赤字の個人や事業者に負担をかけずに済みます。納税義務者の意識にも訴えることができます。それらの点で、消費税より優れていると考えられるのです。
ついでに記しておきますと、朝日新聞の上記記事には次のような一節があります。
「消費税のほか、所得税や法人税の増税も検討対象だ。ただ、5~40%の6段階ある所得税率を各1%引き上げても税収増は約1兆円。法人税は08年のリーマン・ショック後に税収が半減するなど安定しておらず、10年度の見込みは約7・4兆円程度に留まっている。」
所得税や法人税の税率についても1パーセント上昇だけを念頭に置いている点が、私にはよくわかりません。それに、所得税の税率階層を現行の6段階に留めるという発想も、理解できなくはないのですが、単に法律の改正には時間がかかるという観点からの説明にすぎないようにも思われます。所得税は累進課税ですから、税率階層の下のほうは現状を維持し、上がるに従って税率が高くなるようにすればよいのではないでしょうか。
また、源泉分離課税となっている利子所得や配当所得の税率を上げることを検討課題としてあげておく必要もあります。利子所得は一律源泉分離課税、配当所得の大部分は源泉分離課税となっていますから、総合課税課税とするよりも税負担が低くなります。このため、実質的には日本でも導入が検討されている二元的所得税と同じような結果になっているのです(私が二元的所得税の導入を不要と考えているのも、この事実によります。すなわち、日本では実質的に、たとえ部分的であっても二元的所得税は導入済みなのです)。
今こそ、税による富の再配分を強化する必要があります。そうでなければ、震災からの立ち直りは難しくなるでしょう。日本の税制が「下から上への富の再配分」となっているのであれば、これを改めなければなりません。
〔私のホームページ「川崎高津公法研究室」(http://kraft.cside3.jp/)に、2011年4月20日に掲載した雑文(同年4月28日修正/同年5月22日再修正)を、ここに転載します。〕
2011年3月11日(金)の東日本大震災では、東北地方、関東地方など、多くの地域に甚大な被害が生じました。マグニチュード9.0は、日本の観測史上で最大でしょう。被災地域の範囲についても、これだけ広大であったのは歴史に例がないかもしれません。
しかも、東京電力福島第一原子力発電所で重大な事故が発生しました。こちらは完全な回復までに長い時間がかかることが予想されます。仮に事故が発生しなかったとしても、廃炉とするには何年もの期間を必要とするのです。
この場を借りて、改めて、被災された方にお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方にお悔やみを申し上げます。
さて、3月11日、私は勤務先の研究室にいました。毎日、日記をつけておりまして、この日についても長く書いております。そこで、日記を基にして、当日の私の行動を再現しておきます。首都圏の場合は「帰宅難民」という厄介な問題がありますが、私もその一人となってもおかしくないところでした。
私の勤務先は大東文化大学法学部で、研究室は板橋区高島平1丁目9番1号にある板橋キャンパスの2号館10階にあります。板橋キャンパスで最も高い建物が2号館で、その最上階に研究室があるのです。
当日は講義も会議もなかったのですが、雑務などのために研究室にいました。14時46分までは、とくにこれということもない、普段と変わらない日です。机の上にあるデスクトップ型パソコンに向かい、仕事をしていました。
最初、建物が少し揺れているな、と感じました。一昨日(3月9日)にも地震があったのですが、その時は大きな揺れではなかったのです。しかし、それから間もなくのことです。突然、という表現がピッタリでしょう。大きく揺れました。すぐにパソコンの電源を切り、机の下に体を隠しました。研究室の中にある本や書類が散乱しました。建物は大きな音を立てて揺れています。研究室には、私が体を隠している机の他に2つの机があり、それも音を立てて動きました。
机の下で、私は腕時計を見ました。14時50分になっています。小学生の頃、川崎市立の小学校でよく行われていた防災訓練で、地震の揺れは1分程度と習った記憶があります。もう1分、それどころか3分か4分揺れていますが、まだ続いています。ずいぶん長い揺れです。終息したのは14時52分頃でしょうか。
これまで、何度となく地震を体験してはいます。しかし、少なくとも私にとって、これだけ大きな揺れは初めてでした。少し経ってから、私は研究室を出ました。扉も無事に開きました。廊下の防火扉は閉まっていましたが、開けることはできます。後で知ったのですが、この時、2号館10階にいたのは私だけでした。よく無事でいられたものです。
しかも、私の研究室の書棚は倒れませんでした。地震対策用の金具が外れましたが、その程度で済みました。他の研究室では書棚が倒れたりしていますから、私の研究室にほとんど被害らしい被害がなかったのは奇跡的でした。書棚は事務用の棚のような構造で、1列について本を手前と奥の2列にして入れており、普段は扉を閉めています。揺れで開くこともなければ本が飛び出すこともありません。入れるところがなくて書棚の上に積んでおいた本のうちの何冊かが落下しました。多くの研究室にある書棚(図書館にある開放式の書架と同じような構造)が私の研究室にはないのですが、これがかえってよかったのかもしれません。
停電していなかったので、パソコンのスイッチを再度入れてみました。インターネットもつながります。板橋区の震度は5強でしたが、2号館10階はもっと揺れていたかもしれません。或る人の話によると、2号館の上のほうが左右に揺れるのが下からよく見えたそうです。当初、気象庁はマグニチュード7.9と発表しましたが、その日のうちに8.8か8.9と修正し、最終的には9.0となりました。道理で、東京でも大きく揺れた訳です。震源は三陸沖と発表されました(実は3箇所あり、連続して発生したことが後日に判明しました)。私が住んでいる川崎市高津区の震度は4です。宮城県栗原市では震度7を記録したようです。また、地震直後の報道で、東北地方では4メートルを超える津波が観測された、ということでした。勿論、警報が出ていました。10メートルを超える津波に襲われた地域があったと報じられたのは、地震から数日経った時のことです。
とりあえず、9階にある法律学科事務室に行ってみたら、机や棚などが動き、文房具などが散乱していました。同じ階に資料室があるのですが、ここでは本棚が倒れ、雑誌の合本などが散乱し、扉も開けられない状態になっています。9階と10階に法律学科教員の研究室がありますが、当日来ていた教員(全員無事でした)から、早速、書棚が傾いた、扉が開けられない、というような声が飛んできました。扉が開けられないというのは、扉が外ではなく、内側に開くようになっている上に、研究室の入口付近に書棚などが置かれていたからです。私の研究室は入口を広く開けていますので、扉が変形したりしなければ開けられます。会議を終えて研究室に戻ってきた教員の部屋の扉を開けられないということで、管理課の人に来てもらい、ガラスを割ってもらいましたが、これが大変でした。防犯性能の面では優れたガラスだったからです。しかし、大地震の場面では課題を残しました。なかなか割れないのです。これでは脱出できないかもしれません。ついでに、資料室の扉のガラスも割ってもらいました。書棚は傾いたり倒れたりしています。壁に固定するための金具が外れていました。書棚も使い物になりません。
余震が続いているのか、建物は断続的に揺れています。地震発生直後、板橋キャンパスのすぐそばを通る首都高速5号池袋線には車の列ができていました。動こうともしません。しかし、いつの間にか一台もいなくなりました。すぐに通行止めとしたからです。この後、首都高速道路の全線の通行止めは続き、そのために一般道路で大渋滞の箇所が多く発生しました。首都圏の鉄道も、全て運転を見合わせています。10階から南のほうに板橋区西台、徳丸の街並みが見えますが、火災が発生していました。
15時24分、今度は茨城県沖を震源とする地震がありました。マグニチュードは7.6で、これもかなり揺れました。この時は法律学科事務室におり、私はすぐに身を机の下に隠しました。ただ、14時46分の地震よりは大きくなく、おそらく震度4ではなかったでしょうか。
揺れが収まってから、まずは仕事の関係で中野区に行っている妻に電話などを入れてみました。しかし、つながりません。次に、私の実家に電話してみました。こちらはうまくつながりました。今考えても、何故つながったのかが不思議です。その後、22時過ぎまでつながらなかったのです。携帯電話はつながりにくいという状況が長く続きました。
法律学科事務室の片付けを手伝い、管理課の人が回ってきたのに立ち会い、それからしばらく、研究室にいました。散乱した書籍や書類を片付け、インターネットで情報を入れたりしていました。だんだん、今回の地震の状況がわかってきました。しかし、鉄道各線が全く動いていません。研究室に備蓄をしてあればよいのかもしれませんが、それでも10階の研究室では余震があった時に危険ですから何にもならないかもしれません。
17時になる前に、学内放送がありました。2号館には3基のエレベーターがありますが、この日は全く使えなかったので、階段を下り、3号館1階の部屋に行きました。英米文学科の特別授業があったということで、意外に多くの学生がいました。学長のあいさつなどがあり、今日は3号館を開ける、ここで夜を過ごしてもよい、ということでした。しかし、私には仕事などがありました。ここに泊まるとしても、電気などに不安がありました。それに、10階の研究室に戻っても余震の危険に巻き込まれる可能性があります。研究室の窓から外を見ていると、路線バスは走っています。そのため、東武東上線も都営三田線も動いていないとはいえ、何とかなるだろうと思っていました。一か八かで、帰ることとしました。
私は、平常時でも複数の通勤ルートを想定しています。結婚してからは、基本の通勤ルートが東急田園都市線⇔JR山手線⇔東武東上線⇔大学のスクールバスとなっていますが、それまではJR南武線⇔東急目黒線⇔都営三田線でした。また、3月は春休み期間中で、私は東急田園都市線⇔東京メトロ半蔵門線⇔都営三田線のルートも使っていました。都営三田線の西台駅が、大東文化大学板橋キャンパスから最も近い駅で、この駅のそばを池袋駅西口行の国際興業バスが通ることを知っていました。また、この路線バスが、板橋キャンパスに近い西台中学校バス停を通ることも知っていました(別の系統ではありますが、上板橋駅付近からバスを使って西台中学校バス停で降りたことがあるのです)。そこで、17時半頃に板橋キャンパスを出て西台中学校前バス停まで歩きました。乗れるかどうかわからなかったのですが、賭けてみました。
幸いにして、バスに乗ることはできました。しかし、大混雑です。次のバス停からでは乗れなかったのでした。このバスは、志村三丁目駅、志村坂上駅、本蓮沼駅、板橋本町駅を通りますが、何しろ定員を超過して乗せていますから、降りる客がいなければ新たな客を乗せられません。立ったまま、時々移動しながら、1時間以上もかかって池袋駅西口に到着しました。東上線が動いていれば20分か30分程度です。しかし、東上線は動いていません。運行中止を決めていたはずです。
さて池袋に着きました。空腹感を覚えました。意外に思われたのですが、人通りが多いうえに、飲食店の多くが営業していました。ここから先、夕食をとることができるかどうかわかりません。そこで、吉野家に入り、夕食を済ませました。これは大正解でした。もし、池袋駅西口の吉野家に入らなかったら、この後、夕食をとることができなかったかもしれないからです。
夕食を済ませ、池袋駅に入ろうとしました。しかし、西口の多くの出入口のシャッターは閉まっています。池袋駅は改札口が地下にあり、ホームは地上にありますから、出入口が閉まっていたら東口に移動することもできません。開いている所もありましたから、そこから入ります。山手線が動いていることなど、最初から期待していなかったのですが、JRは早々と白旗をあげ、運転を取りやめました。改札口にはロープも貼られています。後で聞いた話では、上野か日暮里かの駅員の態度がぞんざいであったとか。国鉄からJRに変わっても、駅員の態度があまり変わっていないと憤慨していた人がいました。池袋駅では、通路、階段に多くの人が座り込んでいます。西武池袋線、東京メトロ丸ノ内線・副都心線は運転再開見込が未定となっていたので、運転再開を待っていたか、駅に泊まるかのどちらかであったのでしょう。東口を久しぶりに歩いたら、歩道という歩道に人があふれ、カラオケ屋などは若い人でいっぱいでした。確かに、一晩を過ごすには適切な店です。私はバスとタクシーの状況を見るために東口を歩き回りました。都営バスで、池袋駅東口から渋谷駅に行くバスがあります。これに乗りたかったのです。しかし、バス停に長蛇の列ができており、これでは到底帰れないとわかりました。路線によっては空いているバスもあったのですが、練馬区に行ったのでは帰れません。タクシーに乗るにも長蛇の列で無理です。
そこで、これまた一か八か、という感じで、有楽町線の東池袋駅まで歩きました。先ほどの都営バスは東池袋を通っていたように記憶していたからです。また、この駅の近くに都電荒川線の東池袋四丁目電停があります。東池袋駅の地下通路は開いていました。トイレに行きたくなり、駅員に断ってトイレに行きました。この先のことを考えれば、トイレを済ませておくことが必要でした。バスを乗り継ぐ覚悟であったからです。
ふと、東池袋四丁目の交差点の様子を見ました。都営荒川線は動いていたのです。もしかしたら、首都圏の鉄道で一番早く、運転を再開したのかもしれません。とにかく、これに乗りました。勿論、終点の早稲田まで乗ったのです。荒川線も大混雑でしたが、仕方がありません。早稲田電停で降りると、大行列ができていました。タクシーに乗れるかどうか、電停の近くで様子を見たのですが、無理だとわかりました。この時、初めて緊急地震速報が鳴りました。私の携帯電話は緊急地震速報を受信するのですが、14時46分にも15時24分にも鳴らなかったのです。
早稲田電停から早大正門バス停に向かいました。私は1992年4月から1997年3月まで、早稲田大学大学院法学研究科に在籍していました。そのため、早大正門バス停から渋谷へ行くバス路線があるのを知っていました。早81系統です。何度か利用したこともあります。このバス停も行列ができていましたが、乗ることはできました。20時1分に発車しました。板橋キャンパスを出てから、既に2時間半が経過しています。東西線早稲田駅に近い馬場下町バス停から大混雑が始まりました。それでも道路が空いていました。このバスは若松河田駅付近から市谷仲之町へ出て、四谷三丁目駅に出ます。その四谷三丁目で渋滞に巻き込まれました。これは何とか抜けました。四谷四丁目交差点から外苑西通りに入り、内藤町大京町バス停を通過します。この辺りは空いていたので、これなら21時過ぎに渋谷駅か原宿駅に着くと予想しました。しかし、大きく外しました。内藤町大京町から外苑西通りをまっすぐ進めば外苑前駅付近に出られるのですが、早81系統はそうなっていません。国立競技場付近で千駄ヶ谷駅前に出るのです。ここで大渋滞に巻き込まれました。何しろ進みません。信号などに関係なく、10分以上も止まり、走ったと思うとすぐに止まってしまいます。20分か30分で数十メートルも走らなかったのではないでしょうか。
21時を過ぎました。このままでは、千駄ヶ谷駅前バス停に着いたら22時を過ぎてしまいます。もう、この時点で11日中に帰ることを半ばあきらめていました。「寒いけど神宮外苑か渋谷駅周辺で野宿するか」と本気で考えました。その時、バスの運転手が、都営大江戸線運転再開の情報を放送しました。そして、バス停に着く前に扉が開きました。このバスに乗り続けても意味はありません。そこで、バスを降りて都営大江戸線の国立競技場前駅に向かいます。バス停まで大した距離ではありませんが、バスに乗り続けていたのでは話が進みません。大江戸線のホームにある案内表示機は15時台の電車案内をしています。つまり、6時間ほど遅れているということなのです。都営地下鉄と東京メトロの一部路線の運転再開は早かったのでした。大江戸線は、それほど待たずに乗れました。しかも、あまり混んでいません。車内の様子は通常時と変わりません。次の青山一丁目で降り、やはり運転を再開している東京メトロ銀座線に乗り換えることとしました。この時、半蔵門線も運転を再開していましたが、九段下から押上までだけでした。乗り換える時、半蔵門線のホームを通ります。そこに試運転の東武50050系が止まっていたので「もしかしたら」と思いましたが、銀座線に乗りました。こちらは異常な混み方で、私もやっとの思いで乗りました。しかも、なかなか発車しません。外苑前、表参道に着いた時も同様です。表参道駅の半蔵門線のホームには東急5000系の試運転が止まっていました。田園都市線の運転再開も近いと思い、とりあえず渋谷に出ました。銀座線渋谷駅のホームには人があふれており、電車がなかなか発車できません。これでは青山一丁目でも外苑前でも表参道でも発車できない訳です。
銀座線の車窓から、東急東横線渋谷駅も無事であることがわかりましたが、田園都市線も東横線もまだ運転を再開していません。そこで、二子玉川行のバスの乗り場に向かいました。しかし、やはり長蛇の列です。通常では考えられない長さで、どう考えても違う乗り場に列の最後尾がありました。しかも、バスに乗ったとしても国道246号線が渋滞しており、三軒茶屋まで1時間以上もかかる、歩いたほうが速いかもしれない、などと東急バスの従業員が言っていました。たしかに大渋滞の様相でした。そこで、渋谷に泊まろうかと思い、東急インに行ってみました。しかし、満室でした。渋谷にある他のホテルも満室だったそうです。野宿するかと本気で考えたとはいえ、寒い中では大変です。幸いに渋谷まで出られました。あと10キロメートルほどです。渋谷駅の歩道には人があふれており、歩いて帰ろうとする人の列ができていました。田園都市線の駅のシャッターは閉まっています。
そこで、仕方がないということで、田園都市線の運転再開を期待しつつ、とりあえず歩くこととしました。うちまで歩いたら日付が変わります。既に国際興業バス、都電、都バスの中で立ちっぱなしでしたから、疲れていました。22時10分に渋谷から歩き出しました。道玄坂を登り、国道246号線を歩きます。首都高速の通行止めは続いていますが、崩壊しなかったのは幸いでした。たくさんの人が同じ方向に歩いていきます。
20分以上歩いて池尻大橋駅に着きましたが、まだ運転は再開していません。駅のシャッターが閉まっているからすぐにわかります。ここからまた登り坂です。池尻交差点を過ぎ、三宿交差点を通ります。学部4年生の時から、時折、江口書店へ行きました。懐かしさを覚えるところですが、今はそれどころではありません。
昭和女子大学の前を通り、三軒茶屋駅に着いた時でした。駅のシャッターが開いていました。運転を再開している可能性があります。もう23時近くになっていましたが、これなら今日中に帰ることができます。果たして、東急全線は運転を再開していました。後になって知りましたが、大手私鉄では西武池袋線と新宿線が最も早く運転を再開し、続いて京王電鉄の京王線、相模原線、井の頭線が再開しました。それに続いたのが東急東横線、田園都市線、目黒線、大井町線、池上線、多摩川線でした。東京メトロと都営地下鉄は路線によって動いているところと動いていないところがありました。そして、相互乗り入れの運転再開で最も早かったのが田園都市線と半蔵門線でした。
早速、国道246号線の真下にある三軒茶屋駅の改札口から1番線ホームに入ります。2番線には次々に上り電車押上行が来ますが、客はほとんど乗っていません。それはそうで、この時間は下りのほうが混むのです。しかも、いつものラッシュ時と比べられないほど多くの人が1番線ホームにいます。今度は乗れるかどうかが心配になってきました。
23時過ぎに各駅停車中央林間行の東急5000系が来ました。既に大混雑でした。乗れるかどうかもわからないほどでしたが、乗ることができました。しかし、なかなか発車できません。何度か扉を閉めなおしていました。普通、途中駅であれば停車時間は1分もないでしょう。朝のラッシュ時でも2分もないはずです。大手私鉄では最も混雑が激しいと言われる田園都市線ですが、この時の混雑はそのラッシュ時をはるかに超えていました。「よく動くな」と感心したほどです。
ようやく動き出しました。余震を警戒してか、速度を落としています。車掌のアナウンスでもこの点は明確に述べられていました。しかし、動いてくれればよいのです。駒沢大学、桜新町、用賀、二子玉川、……と、人がたくさん降りるかと思ったら同じくらいまた人がたくさん乗って来て、何度か扉を閉めなおしていました。
23時半頃に最寄駅である高津駅に到着し、うちに帰ることができました。普段より10分くらい長くかかりました。最寄駅に着いた時点で、大学を出発してから6時間が経過していました。駅から自宅までは歩いて5分くらいです。3月12日になる前に帰宅できました。川崎市高津区の震度は4くらいであったはずですが、うちは別に何もなかったのでした。実家は22時半頃まで停電していたとのことでしたが、うちには停電の形跡もありません。ただ、停電とはわからないもので、たとえば高津区溝口1丁目(私が住んでいる所ではありません。あしからず)の全域で生ずるという訳ではなく、こちらは停電しているのに真向かいは停電していない、というようなことがあります。
帰宅して、板橋校舎の研究室に所属する全教員(但し、当日板橋校舎にいた教員を除く)に、研究室の状況についてメールを送りました。その時には日付が変わっていたかもしれません。疲れてしまい、すぐに寝ましたが、翌日、やはり学校に泊まったほうがよかったのであろうか、などと考えていました。しかし、あの日の夜は少し寒かったくらいですし、寝泊まりするとは言っても教室で、布団なり寝袋なりがあったかどうかもわかりません。やはり、帰ることができたのですから帰宅してよかっただろうと思います。勿論、バスも動いていなかったらあきらめて、板橋校舎で一夜を過ごしていたでしょう。帰宅ルートがわからなかったら大学への宿泊を決めていたところです。結局、震度と交通状況に左右されるということでしょうか。
翌日の昼、大分大学時代のゼミ生(つまり、卒業生です)から電話がかかってきました。被災していないか、心配してくれたのです。私も妻も無事であると伝えました。大分大学を離れてからもう7年も経ったのでした。
大げさな題名をつけたかもしれない。しかし、私が大分でこのCDを購入してからというもの、何かにつけて聴いている(しかも、最初に日本盤を入手してから3年後に、今度はイギリス盤を購入した。好きなCDなどであれば、重複を承知で買うこともある)。それは、この一種のコンピレーション盤を聴いて感動しただけでなく、デイヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)が器楽曲(要するに歌が入っていない曲)の作る世界に共感しているからである。そして、「カンファ」(Camphor)は、私が大分で買ったCDの中で、ジャンルを問わずにベストと考えているものでもある〔もう一枚あげるとマヌエル・ゲッチング(Manuel Göttsching)の「E2-E4」がある〕。
同世代の多くの人と異なり、私は、ポップスやロックなどにあまり親しんでいない。時期によって違いはあるものの、クラシックやジャズを中心に聴いており、CDもそうしたものが大半を占める。小学生から中学生にかけてイエロー・マジック・オーケストラやロジック・システムを聴いていたし、その後にクラフトヴァーク(Kraftwerk)、ノイ(Neu!)、クラスター(初期はKluster、後にCluster)、クラウス・シュルツェ(Klaus Schulze)などを聴いてはいたが、それ以上に進んでいなかった。ふとしたことでJAPANを聴いたが、後期の作品に何曲か収録されている器楽曲に魅力を感じた。そのJAPANのヴォーカリストだったシルヴィアンのソロを購入したのも、おそらくは単なる興味本位であったはずである。ただ、少し前に、ウインドウズ95の起動音でも有名なブライアン・イーノ(Brian Eno)がペーター・シュヴァルム(J. Peter Schwalm)との共同プロデュースで作成した「ドローン・フロム・ライフ」(Drawn from Life)、そしてアンビエント・シリーズを聴き、アンビエント系に関心をもったことが土台にあることは確かである。
先に「大分で買ったCDの中で」と記した。実は、1997年に大分大学に着任してからも、しばらくの間、大分でCDを買ったことはほとんどなかった。六本木WAVEなどで購入していたのである。しかし、六本木WAVEが1999年12月25日をもって閉店したため(私は大晦日になって知った。その時のショックを今でもよく覚えている)、2000年から大分で買うようになったのである。大分では当初クラシックばかり買っていたが、どういう訳かロック系の棚も見るようになり、時折ロック系も買うようになった。その時に、シルヴィアンの作品が気になった。小学生の頃、「孤独な影」(Gentlemen take Poraroids)の収録曲をAMラジオで聴いたことがあり、断片的ながら節を覚えていたので買いやすかったのかもしれない。そして、ヴァージン・レーベルからの最終作である「カンファ」を購入した。
このCDを買ったのは2002年8月17日のことだった(余談であるが、この年と翌年、私は夏休みをとっていない)。日本で発売されたのが同年6月のことであるから、それほど時期が離れている訳でもない。黒を基調とした不気味なジャケットであったが、何故か心をひかれた。ジャケットだけを見て全ての音楽を想像しうる訳でもないが、その時はおそらくこういう音楽であろうということを想像することができた。しかし、実際に聴いてみたら想像以上の素晴らしい出来だった。
「カンファ」は、イギリスの有名なレコード会社、ヴァージンから出たシルヴィアンの傑作集というべきものである。このアルバムは、彼がJAPANの後期より長らく所属していたヴァージンでの最後のアルバムとなるだけでなく、3曲(そのうちの1曲は、シルヴィアン自身により、サンスクリット語か何語かわからないが、とにかくインドの言葉で歌われている)を除き、ヴォーカル曲は収録されていない。元はヴォーカルが入っているものも、編集などがなされていて、ヴォーカルが入っていない。そのことが、いやがうえにもアンビエント色と現代音楽色を高め、冒険的あるいは急進的ながらも気品のある作品となっていることを指摘しておきたい。
タイトルのCamphorは樟脳を意味する言葉である。何故にこのような名前がつけられたのかわからないが、たしかに、樟脳が持つ独特の輝きと匂いが、この音楽にもあるような気がしてならない。
ここで、収録曲と原収録アルバムを記しておこう。なお、以下は日本盤の構成である。
1. All of My Mother's Name ["Dead Bees on a Cake"]
2. Red Earth (as summertime ends) [Originally released as "Rain Tree Crow"]
3. Answered Prayers ["Gone to Earth"]
4. The Song Which Gives the Key to Perfection [unissued]
5. New Moon at Red Deer Wallow [Originally released as "Rain Tree Crow"]
6. Praise (Pratah Smarami) ["Dead Bees on a Cake"]
7. Wave (Version) [Original on "Gone to Earth"]
8. Mother and Child (remixed) [Original on "Secrets of the Beehive"]
9. Plight (the spiralling of winter ghosts) detail [David Sylvian and Holger Czykay, "Plight & Premonition"]
10. Upon this Earth ["Gone to Earth"]
11. Big Wheels in Shanty Town [Originally released as "Rain Tree Crow"]
12. The Healing Place ["Gone to Earth"]
13. Camphor [unissued]
14. A Brief Conversation Ending in Divorce ["Alchemy An Index of Possibilities"]
15. Mutability (A new beginning is in the offing) [David Sylvian and Holger Czykay, "Flux & Mutability"]
〔なお、イギリス盤は2枚組になっており、1枚目は14曲目までを収録し、2枚目はボーナスCDとして次の3曲を収録している。
1.Plight (The spiralling of winter ghosts) [David Sylvian and Holger Czykay, "Plight & Premonition"]
2.Mutability (A new beginning is in the offing) [David Sylvian and Holger Czykay, "Flux & Mutability"]
3.Premonition (Giant empty iron vessel) [David Sylvian and Holger Czykay, "Plight & Premonition"]〕
シルヴィアンのソロ第一作である「ブリリアント・ツリーズ」(Brilliant Trees)からは1曲も選ばれていないが、第二作である「ゴーン・トゥ・アース」(Gone to Earth)が最も古い音源であり、3曲が選ばれている。また、実質的にジャパンの再結成アルバムである「レイン・ツリー・クロウ」(Rain Tree Crow)から3曲も選ばれている。
そして、コンピレーションにあたって、幾つかの曲で手が加えられている。最もよくわかるのは8曲目で、これは元々「シークレット・オヴ・ザ・ビーハイヴ」(Secret of the Beehive)に収録されていたヴォーカル曲であるが、ここではヴォーカルの代わりに、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)を彷彿とさせるトランペットが起用されている。それが実に素晴らしい。元々ジャズのような曲であるだけに〔シルヴィアンは1980年代にウェザー・リポート(Weather Report)などを愛聴していたらしい〕、トランペットは曲の雰囲気をさらに高める効果を発揮している。そして、坂本龍一によるピアノが前衛的で、曲とのバランスを考えると非常に興味深い。全体として哀愁がたっぷり漂う曲で、「カンファ」のハイライトと言ってもよいかもしれない。
ジャズのような曲と言えば三拍子の1曲目がそうで、私は、このCDを最初に聴いた時、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)の「オン・ザ・コーナー」(On the Corner)とコルトレーン(John Coltrane)のフリー・ジャズを一緒にしたような、アヴァンガルド・ジャズと評価してもよいこの曲に打ちのめされた。躍動的なタブラのリズムが強烈であり、中間部のエレクトリック・ギターによるソロは完全にフリー・ジャズである(この曲にも坂本龍一が参加している。彼は、YMOでメジャーになる前、川崎市出身のフリー・ジャズの鬼才、阿部薫などと共演していた)。
また、3曲目と12曲目は、「ゴーン・トゥ・アース」収録時より半音だけピッチが上げられている(3曲目はFメジャー・マイナーからGマイナーに、12曲目はEマイナーからFマイナーに)。そのためか、オリジナルよりも幽玄の境地という度合いが増している。とくに、12曲目については成功したと言うべきであろう。ビル・ネルソン(Bill Nelson)のギター・ソロが一層美しく聴こえてくる。なお、同じ「ゴーン・トゥ・アース」に収録されている7曲目(これには相当に多くの編集が加えられており、原曲よりも幽玄さが増している)と10曲目のギター・ソロは、あのキング・クリムゾン(King Crimson)のギター奏者、ロバート・フリップ(Robert Fripp)によるものである(かなり強いサスティンが利いた特徴のある音なのですぐにわかる。なお、最近出たイーノとの共作も素晴らしい出来である)。
シルヴィアンは、ドイツ・ロックの伝説的なバンド、カン(Can)のベース奏者であったホルガー・シューカイ(Holger Czykay)と2枚の作品を残している。いずれも、これぞアンビエントという感じであり、現代音楽との混合と評価してもよいものであるが、非常に長い曲であるため、「カンファ」では短縮版が収められている。しかし、元の雰囲気はそのままになっている。
そして、13曲目と14曲目について触れておきたい。いずれも、このアルバムの中では最も現代音楽的色彩が濃い。そして、シルヴィアンがこれまでに発表した作品の中では、この2曲と「アプローチング・サイレンス」(Approaching Silence)に収録されている3曲が、最も現代音楽的なのである。
私は、これらを聴いてから長らくの間、誰かの作品が持つ雰囲気によく似ていると思っていたが、よくわからなかった。ゆっくりとしたテンポ、多くのミニマル・ミュージックには感じられない独特の間からは、日本が生んだ20世紀最高の音楽家の一人、武満徹の作品を想起させる瞬間を生み出していたが、確信を持てなかった。
解答の、少なくとも一部は、シルヴィアン自身が示してくれた。それを、私は、今年(2006年)の夏、偶然にして自由が丘で見つけた。「武満徹|Visions in Time」という本に、シルヴィアンの寄稿文が掲載されていたのである。その文によると、シルヴィアンが武満の作品を知ったのは、JAPANが活動していた1970年代の終わり頃で、武満の「鳥は星型の庭に降りる」が最初の体験だったようである。そして、シルヴィアンの最初のソロ・アルバムである「ブリリアント・ツリーズ」の中に、武満徹の作品をサンプリングしたものがあった(私にはよくわからなかったが、聴き直してみたい)。実は武満に無断でサンプリングをしたとのことだが、武満は許し、むしろ関心を示したらしい。そして、「アプローチング・サイレンス」の元にもなった、1990年、東京の寺田倉庫でのインスタレーション「エンバー・グラス」に、武満は来場したのである。
その後のことは同書を参照していただきたいが、日本のロック関係の評論家が全く触れえなかった現代音楽からの影響を、シルヴィアンは告白している。「カンファ」の13曲目と14曲目は、いずれも、武満の特徴でもある、音自身の浮遊感(詩人の大岡信が非常に的確な表現を使って述べていたが)、無調の世界における調和感を、シルヴィアンなりに再構成しようと試みているものであろう。2曲とも、明確な調性はない。長調でもなければ短調でもない。聴き方によってはフリー・ジャズ、あるいは、ドイツのFree Music Productionなどヨーロッパの前衛音楽の影響も感じられるが、暴力性のないこと、速さを感じられないこと、などの点は、フリー・ジャズなどと決定的に異なる。また、同じ現代音楽でもスティーヴ・ライヒ(Steve Reich)やテリー・ライリー(Tery Lilly)、ジョン・ケージ(John Cage)とは違う。やはり、武満の世界に近いのである。このことは、ヴァージンを離れてからの最初のソロ・アルバムである「ブレミッシュ」(Blemish)にも感じられる。
シルヴィアンには、もう一枚、私が傑作と考えているものがある。残念ながらあまり話題にならない「アプローチング・サイレンス」である。私は、2003年6月、たまたま寄った小倉駅構内の中古レコード屋で入手したが、ここまでアンビエント色が強い作品も珍しい。或る意味でイーノを超えている。いや、アンビエントと評価してはならないのかもしれない。シルヴィアンとイーノとでは、目的やスタンスが違うような気がしてならないからである。
いずれにしても、「カンファ」は傑作中の傑作であると思う。もっとも、一般的にこのようなアルバムは受けが悪いということも承知している。しかし、結局のところ、音楽を気に入るか入らないかは、聴く個人の感覚に委ねられる(そういう部分が大きい)。好みを論理的に説明しようとすることは無理であろう。ただ、私は、巷に流れる音楽、テレビ番組や民放FM局の番組の笑い声、山手線の発車サイン音などで精神的に疲れることが多いため、「カンファ」や「アプローチング・サイレンス」などを聴くのだ、と記しておこう。
〔2006年4月19日掲載/2006年11月14日修正〕
〔以下は、2004年8月14日付で、私のホームページに雑文として掲載していたものです。一部修正を加えております。〕
ぼくがヨーロッパ、とくにドイツのフリー・ミュージックを聴くようになったのはいつのことだったか。あまりよく覚えていないが、高校時代だったはずである。1983年から1999年まで営業していた六本木WAVEの4階南側にあったジャズコーナーには、ヨーロッパのマイナーなレーベルから発売されているLPの棚があり、ペーター・ブロッツマンの傑作「マシンガン」(FMP 0090)、「ブロッツマン/ヴァン・ホーフ/ベニンク」(FMP 0130)などがあった。FMPが出していたシングル盤(EP盤)も全て購入した。一番最初に買ったのは、ペーター・ブロッツマンの「アラーム」で、近藤等則などが共演している。そもそも、FMPを知ったきっかけは、冬樹社から発売されたカセット・ブック(当時はこういうものがあった)の「東京ミーティング'84」で、これにペーター・ブロッツマンが参加していたのである。
それから、ブロッツマンのアルバムを意識して買うようにしていた。FMPというレーベルだけに、度々入荷される訳でもなく、タイミングが必要だった。運が良ければ手に入るという感じである。それでも、一度は、買ったLP が全部FMPのものだったということがある。ぼくは、何故かフリー系のものが好きで、一度はドイツのメールス・ジャズ・フェスティバルに行きたいと思っていたくらいである。
そのブロッツマンのアルバムの多くに、エリック・ドルフィーの「ラスト・デイト」でドラムを演奏しているオランダのハン・ベニンクが参加している。ブロッツマンとベニンクのデュオで"Ein halber Hund kann nicht pinkeln"(英訳するとHalf a dog can't piss)という訳のわからない名前のLP(FMP 0400)があって、これは(フリー・ジャズではなく)フリー・ミュージックとしては極みを得たものではないかと思うのだが、滅茶苦茶とも言える演奏をしている。
しかし、それ以上に恐ろしい、滅茶苦茶の極致としか言いようがない演奏を収録したLPを見つけた。KEES HAZEVOET / HAN BENNINK, "Calling down the Flevo Spirit" (Snipe 7678)である。
もしかしたら、オランダにはこのLPよりすごいものがあるかもしれないが、ICPを筆頭として、何せ日本で購入しようとすると難しいから、ぼくが持っているものの中では、ということにしておこう。しかし、これと、FMPが出している「ハン・ベニンク・ソロ」(SAJ-21)よりもフリーを極めているようなレコードがそんなにあるのだろうか。本当に、ここまで音楽を壊したようなものなど、そう簡単にお目にかかることはできない。 いずれにしても珍品である。CDとして再発されることなど、まずありえないというところだろう。
この"Calling down the Flevo Spirit"は1978年9月に録音されている。この時期は重要かもしれない。ハン・ベニンクの多楽器主義と自由奔放さの頂点が、1970年代後半に現われたからである。
その後、1980年代にヨーロッパのフリー・ミュージック・シーンは衰退していったようである。CDが普及してから、一部のアーティスト(スティーヴ・レイシー、サン・ラ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴなど)やレーベルなどを除くとフリー・ミュージックのアルバムは急速に姿を消した。最近ではFMPのアルバムがCD化されていて、渋谷などで時々見かけるが、まだまだ数は少ない。ヨーロッパのフリージャズの最高傑作でベニンクも参加している「マシンガン」などはCD化されているが、他のアルバムはどうなのかわからない。
FMPをはじめ、ENJA、ECMなど、ドイツをはじめとしたヨーロッパのLPにはモノクローム写真のジャケットが多い。ぼくもモノクロームの写真が好きで、"Calling down the Flevo Spirit" (Snipe 7678)は、写真に何とも言えない雰囲気を感じたのと、ハン・ベニンクの名前があったので買った。詳しい時期を覚えていないが、最初は消費税導入前の2480円という値札(下半分が青いDISKPORTのもの)が貼られ、次に消費税導入後の2400円という値札(下半分が灰色でWAVEのもの)が貼られている。ぼくが大学2年生になったと同時に消費税が導入されたので、大学2年生か3年生の時に購入したはずだ。しかも、購入した当時で「廃盤」と書かれていたのだ。
今でこそインディーズなどとしてマイナー・レーベルが注目を浴びているが、1980年代には、WAVEが一時期、ロックで力を入れたけれど、マイナー・レーベルは目立たない存在だったのだ。日本の場合に限らないのかもしれないが、どこかの大手レコード会社に所属しなければ、レコードなどまず売れないという時代である。日本のマイナーレーベルの作品がヨーロッパで売られているということはまずなかったはずだ。ところが、日本では、ヨーロッパのマイナーレーベルのLPやCDを買うことができる。とくに1980年代は、ヨーロッパのマイナーレーベルのLPなどを一番楽に買えた時期ではなかったか。勿論、今と違い、買える場所は東京などに限られる。しかし、輸入レコード屋に一度入れば、独特の、ちょっと怪しい雰囲気に包まれていて、実際に、これが本国で売れているのかと疑問に思えるようなものが並んでいたりするのである。神保町の古レコード屋にも似たような雰囲気があるけど、それともやはり違うところもある。上手く説明できないのがもどかしい。
六本木で購入して、電車を乗り継いで帰り、うちで聴いてみた。最初の印象は、いくらフリー・インプロヴィゼイションといっても、よくぞここまで音楽を壊せたものだと思った。同時に、こんなLPは二度と入手できないだろうという予感もした。
実際、このLPを聴くと、とてもではないが売れるはずがないと思える。すぐに廃盤になってもおかしくはない。少なくとも、日本ではこのようなLPを出そうとする会社などないだろう。二人の奏者が、ピアノ、ヴィオラ、サックス、バンジョー、トランペット、トロンボーン、パーカッションなどを次々に演奏するのであるが、まともなフレーズなどはなく、無調の世界が延々と続く。ハン・ベニンクが演奏するヴィオラなどが典型的だが、音を出しているという程度に聴こえるのだ。もっとも、よく聴くと、これはこれでテクニックが必要であるということもわかる。どちらかというと、右チャンネルのベニンクの演奏が目立つのであるが、ハーゼフォート(オランダ人の人名には自信がないが、おそらくこう読むのだろう)の演奏があってこそ、というところであろうか。二人がヴィオラを弾いているタイトル曲には、思わずニヤリとした(ぼくもヴァイオリンを習っていたから)。オーネット・コールマンもヴァイオリンを弾いているのだけど、ハーゼフォートとベニンクのヴィオラ演奏は、コールマンとも全く異質で、クラシックの伝統や奏法は勿論、ジャズなど、あらゆる音楽と無関係のところにある。
ここで、参考までに曲目を紹介しておく。もっとも、先ほど書いたように、どこまで意味があるのかわからないのであるが。なお、全曲がハーゼフォートとベニンクの「作曲」となっているが、全くのフリー・インプロヴィゼイションである。
Kant A
1. Stonechattin'
2. The Woodcock
3. King of Saxony
4. The Roller
5. Snipe Drumming
6. Mot-Mot
Kant B
1. Calling down the Flevo Spirit
2. Keep the Pot Boiling
以上はレーベルに記載されたものによる(ジャケットには書かれていない)のだけど、レコードの送り溝をみるとA面が5曲、B面が3曲となっていて、記載に合わない。LP時代にはよくあった話である(A面とB面の入れ違い、曲名の誤記なども見られた)。それでも少し気になる。演奏時間などから推測して、Stonechattin'はB面1曲目ではないかと思う。実際に聴いてみると、A面1曲目には中断らしい部分があるが、B面は、最初の1曲だけでドラムが演奏されていて、他の2曲と明らかに違う。
こんなLPを持っている人は、おそらく、日本でもそう多くないと思う。ぼくだけが持っている、ということはないと思うけど、果たして何人の方が購入したのだろうか。ジャズ雑誌などで紹介されたかどうかもわからないし、輸入された枚数も少ないはずだ。もし、お持ちの方がおられたら、大東文化大学法学部のぼくの研究室まで連絡をしていただければ幸いです。
今日、仕事の帰りに8500系の8634F(渋谷側がデハ8634、中央林間側がデハ8534の10両編成)に乗りました。これは、元TOQ BOX号の編成です。とりあえず、TOQ BOX号を御覧いただきましょう。
これは2010年6月19日、二子玉川駅1番線で撮影したものです。
今、全国各地でラッピング電車が走っていますが、TOQ BOX号はその初期のもので、最初期のものと言っても良いかもしれません。
但し、現在のラッピング電車とはかなり違います。多くは、外に広告のシールを貼り付けたりするのです(私の勤務先も、昨年の4月、山手線にラッピング電車を走らせました。結構な費用が必要となります)。東急では、時折田園都市線を走る「早春の伊豆」号や「伊豆のなつ」号(いずれも8500系8614F)がこれに該当します。また、横浜港開港150周年の記念行事で大失敗に終わった開国博Y150のラッピング電車が東横線を走りましたし、大井町線の急行が東急お台場パスのラッピング電車であったりしますが、たとえばJR東日本や東武鉄道などと比べると、ラッピング電車は少ないほうです。
これに対し、TOQ BOX号は、車内の広告が全て一社に統一されるというものです。東横線のTOQ BOX号(9000系9006F。現在は5両編成化されて大井町線で運用中)では、たとえば京セラの一眼レフカメラ「SAMURAI」の広告で統一されました。編成中のどの車両であってもこのカメラの広告(坂本龍一氏が出演していました)だけなのです。10代だった私は「随分と思い切ったことをするものだ」と思っていました。田園都市線では8500系8634FがTOQ BOX号となっていましたが、東横線と同じようなステッカーであったかどうかはわかりません。記憶に誤りがなければ、東横線のTOQ BOX号は前面にシャボン玉のイメージのデザインを大胆に取り入れていたはずです。
TOQ BOX号としての運用は2010年中に終わってしまいました。2枚目の写真は2011年10月21日の夕方に、やはり二子玉川駅1番線で撮影したものです。1枚目のTOQ BOX号時代との違いが歴然としています。ただ、8634Fは側面に赤帯があり、TOQ BOX号であったことを現在でも主張しているのです。
1975年に登場し、400両が製造された8500系は、現在までのところ、東急では唯一のローレル賞受賞車両です(8000系が受賞を逃したことは、後の大活躍や他の鉄道への影響力からみても、全く理解できません)。長らく新玉川線・田園都市線の主力として活躍するとともに、東横線でも長期間運用されました。当初は4両編成で、すぐに5両編成となり、1977年に新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)の開業するまでの間には6両編成となりました(8000系の改造車も組み込んでいます)。そして、1979年、営団半蔵門線の渋谷~青山一丁目の開業に合わせる形で8両編成化され、1983年には10両編成が登場します。また、営団半蔵門線の開業当初は、営団に半蔵門線用の車両がなかったため、この8500系のみが半蔵門線も走りました。
現在も10両編成が田園都市線で運用されるほか、5両編成4本が大井町線で運用され、また、一部は長野電鉄や秩父鉄道、さらにはインドネシアに譲渡されています(1両だけ伊豆急行に譲渡されています)。徐々に2代目5000系に置き換えられていますが、まだまだ十分に活躍できますので、がんばってほしいものです。私が小学校1年生の時にデビューし、また、大学院生時代に通学用としてよく乗っただけに、私にとっては最も愛着のある系列なのです。
そういえば、たしかデビュー記念であったと記憶していますが、前面のデザインのシールが発売され、東横線渋谷駅で買ってもらいました。「桜木町」と「長津田」の二種類があり、「長津田」を選びました。長らく実家に残っていたのです。
(原記事は2011年10月22日0時44分23秒に掲載。OCNブログからgooブログに移行する際に一部の写真データが消失。2020年7月5日に修正。)