ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

第4部:住民税・事業税 第23回:住民税の性質

2019年11月30日 18時34分00秒 | 租税法講義ノート〔第3版〕

 住民税は、国税ではなく、地方税であり、普通地方公共団体である都道府県および市町村、ならびに特別地方公共団体である都の特別区※が課するものの総称である※※。課税主体の別によって都道府県民税と市町村民税とに分けられ、納税義務者の別によって個人住民税と法人住民税とに分けられる。従って、基本的な類型として、都道府県個人住民税、都道府県法人住民税、市町村個人住民税、市町村法人住民税の4種類が存在することとなる※※※。

 ※特別地方公共団体で地方税の課税団体とされるのは、都の特別区のみである。

 ※※地方税法第1条第1項第4号は、地方税を「道府県税又は市町村税をいう」と定義する。同第2項は、道府県に関する規定を都について、市町村に関する規定を特別区に準用する旨を規定する(但し、第736条第2項により、第5条第5項は準用しない)。また、第734条は都における普通税の特例、第735条は都における目的税の特例を定める。これらの規定により、都は、道府県税の他に市町村税とされるものの一部についても課税主体となる。

 ※※※碓井光明『要説地方税のしくみと法』(2001年、学陽書房)79頁は、道府県住民税の利子割も合わせて5種類の税があると述べる。現在は、やはり道府県住民税のみ、配当割および株式譲渡所得割があるので、7種類の税が存在することになる。

 なお、同書は地方税制度について最も標準的な文献の一つであるが、既に内容の一部が古くなっており、注意を要する。地方税の最新の状況を知るには、ぎょうせいから毎年発行されている地方税制度研究会編『地方税ハンドブック』(月刊「税」の付録)を参照するとよい。また、この分野における体系的概説書として、山形富夫『税務の基礎からエッセンスまで 主要地方税ハンドブック』(2017年、清文社)、川村栄一『地方税法概説―国税との比較で学ぶ地方税入門―』(2009年、北樹出版)がある。

 住民税は、後に述べるようにいくつかの要素を組み合わせたものである。この中には、均等割という、およそ所得課税とは性質の異なるものなどが含まれている。そのため、住民税は所得課税の一種ではないということにもなるが、所得割および法人税割という、基本的に所得課税と性質を同じくするものもある。国税たる所得税などと異なり、地方税についてはビルトイン・スタビライザーのような経済安定化機能や所得再分配機能などを担う必要がないとされていること、地方自治法第10条第2項に示される負担分任原則を受けつつ、住民税は地方公共団体が提供する公益的サービス(による受益)の対価であるという思考が背景にあり、一種の会費的な性格があるとされていること〈川村・前掲書46頁も参照〉などから、性質の異なるものを組み合わせ、地方公共団体の収入の安定化を図ったのであろう。しかし、ここにいう会費的な性格については、妥当性に疑問が残る。

 ここで、負担分任原則について説明を加えておく。この原則は、簡単に記せば地方公共団体の住民は当該地方公共団体の経費を分担すべきであるという考え方である。もう少し詳しく記すならば、「その地方公共団体が各種の行政活動を行うに当たって要する経費について、その地方公共団体の住民が負担を分かち合う」とともに、地方税をはじめとして「普通地方公共団体が住民に課するすべての負担」について「法令の定めるところにしたがって」住民が負担をなすという原則である※。一般的に応益課税や平均課税の導入を正当化する役割を担うものとされているが、碓井光明教授も指摘するように、負担分任原則から一定の税制が自動的に導かれる訳ではないことには注意を要する※※。

 ※松本英昭『要説地方自治法―新地方自治制度の全容―』〔第十次改訂版〕(2018年、ぎょうせい)182頁。村上順=白藤博行=人見剛編『新基本法コンメンタール地方自治法』(2011年、日本評論社)58頁[原島良成担当]なども参照。

 ※※碓井・前掲書80頁。拙稿「個人住民税の寄付金控除制度―『ふるさと寄付金控除』制度と『ふるさと納税』制度についての若干の検討」税務弘報56巻3号(2008年)107頁も参照。

 

 ▲第3版における履歴:2019年11月30日掲載。

 ▲第2版における履歴:「20 住民税の性質」として、2011年3月16日掲載。

             2011年8月19日修正。

             2012年8月12日修正。

             2014年1月22日修正。

             2014年6月24日修正。

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まだ利用したことのない路線(九州各県)

2019年11月25日 01時38分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 このブログなどでも記しているように、私は、1997年4月から2004年3月まで大分大学教育学部・教育福祉科学部に勤めており(当初は講師、2002年4月から助教授)、2004年度から2012年度まで西南学院大学法学部の非常勤講師として集中講義を担当していました(その間、2007年、2009年および2011年に福岡大学法学部の非常勤講師として集中講義を担当しました)。そのため、という訳でもないのですが、九州各県の鉄道路線をなるべく利用するようにしました。

 しかし、まだ利用したことのない路線があります。鉄道事業法および軌道法に基づくものについて記しておきます(原則として、2019年度において営業している路線・区間に限定します。また、佐賀県および長崎県には、未利用の路線はありません)。御参考になるかどうかはわかりません。

 (1)福岡県

 皿倉山ケーブルカー(帆柱ケーブルカー)の全線←これのみが残っています。

 (2)熊本県

 JR肥薩線:全線

 くま川鉄道湯前線:全線

 阿蘇山ロープウェイ:全線

 (3)大分県

 別府ラクテンチケーブル線:全線←ラクテンチを訪れたことがないためです。

 別府ロープウェイ:全線

 (4)宮崎県←ちなみに、2008年に廃止された高千穂鉄道の全線を利用したことがあります。

 JR日南線:田吉〜志布志

 JR吉都線:全線

 JR肥薩線:全線←真幸駅のみが宮崎県にあります。

 (5)鹿児島県

 JR肥薩線:全線

 JR日南線:田吉〜志布志

 JR吉都線:全線

 JR指宿枕崎線:山川〜枕崎

 (6)沖縄県

 沖縄都市モノレール:全線

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映画館でスマートフォンを操作する?

2019年11月24日 23時08分00秒 | 社会・経済

 私は映画に興味がないので、映画館に行ったことは51年4か月余のうちで10回もありません(記憶している限りです)。何せ、最後に映画館に行ったのが高校2年生か3年生の時、六本木WAVEの地下にあったシネヴィヴァンで、たしか「ある女の存在証明」でした。

 そのような私ですが、たまたま、Yahoo! Japan Newsを見ていたら「映画上映中にスマホいじりする若者、『2時間は耐えられない』」という記事を見かけました。マネーポストWEBに今日(2019年11月24日)の16時付で掲載されたものです(https://www.moneypost.jp/604952)。

 読んでいると「何を考えているんだろうねえ」、あるいは「だったら映画館なんかに行くなよ!」と言いたくなるのですが(もう一つ、付け加えたい言葉がありますが、ここでは記さないでおきます)、それを脇に置いて、記事の内容を見ていきます。

 そもそも、映画館で上映中にスマートフォンを見るというのが信じられないのですが、操作をする人がいるそうです。理由は様々でしょう。それこそSNSなどをやっているからかもしれませんが、中には、映画館で2時間の映画を見ているのが耐えられないという人もいるそうです。

 その人の意見か何かが、次のようにまとめられています。「映画って2時間じっとしているのが結構耐えられない。そんなに長い動画を観ることって普段ないので。YouTubeは長くても20分くらいじゃないですか? 本当に2時間ずっと面白ければスマホは見ないと思いますけど、映画って見なくても話がわかるシーンがあるから。そういう時間はLINEやTwitterをチェックした方が合理的な気がします」。

 まさに「何を考えているんだろうねえ」、「だったら映画館なんかに行くなよ!」という感じです。コストパフォーマンスの点から考えてもお金の無駄でしょう。私自身もそうでした、と言い切れるかどうかは自信が全くないのですが、若い人にはコスパを強く意識する人が少なくないというのは嘘なのでしょうか。

 これもわからないと思ったのは、映画を見てスマートフォンを見て「映画の内容を理解することもできます」というものです。また、「2時間以上スマホをチェックしないと、自分が見ていない間になにか起きているんじゃないかと不安になっちゃうんですよね。その間に大事な連絡が来ていたら、すぐに返事ができなかったりする可能性もあるので、損したくない。映画って時間が長いので、その間に別のことをしたいと思うのは自然ではないでしょうか」という発言(おそらくはそのまとめ)も書かれています。再び「何を考えているんだろうねえ」という言葉が口に出ます。「だったら最初から見に行かなければ、時間の無駄も省けるし、LINEでもTwitterでもじっくりできるじゃないのか?」と思います。

 「あらゆる電子機器に囲まれ、さまざまなサイズのスクリーンに同時接触するライフスタイルが日常化している昨今」と記事の筆者は書いていますが、聖徳太子の伝説ではないのですから、同時に二つ以上のことに集中するなんて無理です。そこまで言えないとしても、難しいのです。よく、歩きながらスマートフォンとかPS4などのゲーム機を操作している人がいますが、こちらが注意していないとぶつかりそうで、危なっかしいのです。「歩く時は歩くことに集中せよ」、あるいは「周囲をよく見て歩け」と言いたくなります。私もiPhone8を持ち歩いていますし、仕事の時にはMacBookもカバンの中に入れます。場合によってはiPadも入れます。電車に乗って、座席に着いている時にはiPhone8でニュースを見たりしていますが、その程度です。

 そう言えば、今年、私はよくコンサートに行きました(時々このブログにも書いています)。

 2月23日:サントリーホール(吉野直子さんのハープ・リサイタル)

 4月13日:フィリアホール〔河村尚子さん(ピアノ)〕

 7月27日:フィリアホール〔米本響子さん(ヴァイオリン)、菊池洋子さん(ピアノ)、上村文乃さん(チェロ)のトリオ〕

 9月6日:サントリーホール(日本フィルハーモニーオーケストラ、指揮は山田和樹さん)

 10月20日:iTSCOM STUDIO & HALL〔iTSCOM JAZZ STYLE 2019 AUTUMN SPECIAL LIVE、渡辺香津美さん(ギター)、川村竜さん(アコースティック・ベース)、則竹裕之さん(ドラムス)のトリオ〕

 10月26日:フィリアホール〔河村尚子さん(ピアノ)〕

 11月23日:フィリアホール〔吉野直子さん(ハープ)、エマニュエル・パユさん(フルート)〕

 どれも「行ってよかった!」という内容でしたが、コンサートでは、客がスマートフォンを操作したりしてはいません。映画館とは集中度が違うのでしょうし、たいていのコンサートやライヴには休憩時間もあります。

 但し、最近ではコンサートでもやや怪しいと思うようになりました。しかも、年齢層は無関係です。

 まず、2月23日です。コンサート会場では、たいてい、スマートフォンなどの電源を切るようにというアナウンスが流れるのですが、その日、コンサート中に何回かスマートフォンの音が聞こえました。さすがに着メロが流れたりはしなかったのですが、マナーモードにしていただけなのが誰にでもわかります。

 また、11月23日のフィリアホールでは、開始前や休憩時間中に、ステージにハープが置かれているところを撮影して係員に注意されている客が何人かいました。

 ちなみに、2017年9月10日にフィリアホールで行われた近藤嘉宏さんのコンサートで使われた1925年製のベヒシュタインのピアノの写真をこのブログに載せていますが、それはコンサート終了後、撮影してよいという係員のアナウンスがあったからです。

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たしかにその通り

2019年11月21日 00時29分05秒 | 国際・政治

 大学の中にある書店で、山家悠紀夫『日本経済30年史』(2019年、岩波新書)を買い、読んでいました。

 その234頁に、次のような件があります。

 「『アベノミクス』と呼ばれることになった安倍内閣の経済政策には、三つの特徴がある。(1)科学性、論理性に欠ける政策、(2)企業のための政策、(3)暮らしの視点が抜け落ちた政策、の三つがそれである。」

 すぐ後に実例が続きますが、ここでは詳細な引用を避けます。ただ、2013年6月4日閣議決定の「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針2013)について山家氏が評価している部分は紹介しておきましょう。

 氏が骨太の方針2013を取り上げたのは「第二次安倍内閣の経済政策についての初期の文書のうち、最も長く記したもの」であるからですが、「どうして20年間、総じて低い経済成長に甘んじてきたのか、どうして政府の政策が効かないのか、どうすればよかったのか、その分析は一切ない」ところに「いきなり『三本の矢』政策が登場する」と記しています(235〜236頁)。

 私自身も薄々、あるいはぼんやりと考えていたところでしたが、やはりそうか、と納得しました。2013年のものに限らず、骨太の方針を読んでみても、或る政策についてどのような分析がなされているのかが明確になっていない部分が多いのです。このことは、これまで私が地方自治総合研究所発行の「自治総研」に何度か発表した論文のテーマとなっている法律についても同様です。

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再び東急8500系8606F 東急唯一の方向幕車編成

2019年11月20日 00時14分40秒 | 写真

 新玉川線(現在の田園都市線渋谷〜二子玉川)用として、および半蔵門線直通運転用として1975年にデビューした8500系は、長らく田園都市線を走り続けています。また、デビューから東横線でも運用されていました。

 通常、或る程度の期間が経過すれば、本線級から支線級の路線に移り、運用区間も短くなるものです。ところがこの8500系は逆で、東武伊勢崎線および日光線にも乗り入れます。

 2019年11月18日の夕方、二子玉川駅で撮影しました。

 東急唯一の方向幕車編成であるとともに、唯一の界磁チョッパ制御車編成(つまり、VVVF制御車でない編成)でもあります。また、田園都市線・半蔵門線を走る車両では唯一、東武線に乗り入れない編成です。

 いつまでこの編成を見ることができるでしょうか。

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「消えゆく鉄道 廃止リスクがある全国199路線一挙公開」

2019年11月18日 00時17分30秒 | 社会・経済

 普段は週刊誌を買わないのですが、気になる記事があったので、高津駅前のコンビニで週刊朝日11月22日号を買いました。

 その気になる記事というのが、今回のタイトルに示したものです。

 台風19号による広範囲の浸水被害により、私が以前このブログに書いた「鉄道は災害に弱い」という事実が浮き彫りになったように思われます。もっとも、「車社会に生きること 私はもう戻れない(?)」において記したように、車社会には独特の脆弱性があります。しかも、鉄道の災害の弱さは鉄道に固有の事情というより、国や地方の財政に左右される事情もある訳です。今回読んだ記事には、そのことも記されています。国土交通省が調べたところ、中小私鉄や第三セクターの鉄道路線にある橋梁のうち、耐用年数(40年)を超えているものは実に76%にのぼる、といいます。

 浸水被害ということでは、或る意味でどの鉄道会社にも可能性があります。週刊朝日の記事に書かれていたのはJR東日本の尾久車両センターおよび隅田川駅、東武鉄道の南栗橋車両管区で、尾久車両センターは3メートル未満、隅田川駅および南栗橋車両管区は5メートル未満の浸水リスクがあるようです。50センチメートルくらいの浸水で車両が使えなくなるということですから、北陸新幹線の車両が使えなくなって廃車となるのもやむをえない話です。

 また、自然災害とは別に人口減少の問題もあります。記事には、2014年に、当時千葉大学の学生であった植草太郎氏らが調査してまとめた「30年後までに廃止リスクがある全国の路線」が紹介されています(元ネタは千葉大学のサイトにあります)。北海道地方、東北地方であがっている路線は、いずれも「まあ、そうだろうな」と納得できるところばかりですが、関東地方では「そうなの?」と思えるような路線もあがっています。私がそう思ったのは、JR東日本の常磐線、総武本線、中央本線および横須賀線、首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスです。全線なのか部分なのかも書かれていないのですが、すぐに横須賀線については納得できました。横須賀線というと東京から久里浜までというイメージが強いのですが、実は大船から久里浜までの路線です(東京から大船までは東海道本線です)。また、中央本線は山梨県および長野県を通りますし(さらに岐阜県を通って愛知県は名古屋駅までの路線です)、総武本線は千葉県の東部を通ります。

 中部地方を見ると、JR東日本、JR東海およびJR西日本についてはどれも「まあ、そうだろう」と思えました。また、私鉄であがっていないのは名古屋鉄道、静岡鉄道、豊橋鉄道、北陸鉄道、養老鉄道、四日市あすなろう鉄道(三重県なので本来は近畿地方です)、三岐鉄道(やはり、本来は近畿地方です)といったところですが、名鉄については広見線の新可児から御嵩まで、蒲郡線の全線について存廃問題が続いています。逆に遠州鉄道の鉄道線があげられていることについては「何故?」と感じました。

 近畿地方では、近江鉄道の本線だけがあげられていましたが、2019年現在では全路線に拡大されています。JR西日本であげられている路線のうち、関西本線と福知山線は全線ではないだろうと思われるのですが、湖西線があげられているのは将来の北陸新幹線延伸に伴う影響を考慮に入れたということでしょうか。また、近畿日本鉄道から吉野線、志摩線、鳥羽線および大阪線があげられています。大阪線は幹線なので、奈良県と三重県の区間ということでしょうか。南海電気鉄道の高野線もあげられているのは、俗に言う汐見橋線(汐見橋から岸里玉出まで)と橋本から極楽橋までの区間ということでしょうか。逆に神戸電鉄粟生線などはあげられていませんが、どうなのでしょう。

 中国地方では、山陽本線と宇野線(本来は岡山から宇野までの路線なので、茶屋町から宇野までが危ないということでしょうか)があげられている一方、宇部線と小野田線があげられていません。また、山陰本線はどうなのでしょう。

 四国は、あげられていない路線のほうが少ないくらいです。記事に書かれていないのはJR四国およびJR西日本の本四備讃線、高松琴平電気鉄道の長尾線および志度線、伊予鉄道の全線、とさでん交通の全線です。

 九州も四国と同様で、JR九州では日豊本線、篠栗線および香椎線だけが登場しません。また、私鉄では西日本鉄道の天神大牟田線がリストにあげられていました。むしろ甘木線のほうだろうという気もしますが、天神大牟田線に含まれているのでしょうか。たしかに、何度も天神大牟田線を利用して思ったことは、大手私鉄の本線級らしさがあるのは西鉄福岡(天神)から花畑まで、厳しい見方をすれば西鉄二日市まで、ということでした。さらに、熊本電気鉄道の菊池線と藤崎線があげられていないのも「どうなのか」と思いました。

 記事中のリストにあげられているかいないかは、実のところ、あまり大きな問題ではないのかもしれません(とくに、リストにあげられていない路線)。もとより、2014年から5年も経過すれば、事情の変化もあります。

 ただ、もう少し厳密な分析を見てみたい、とは思っています。 

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地方創生 目標と現実との乖離

2019年11月17日 00時35分40秒 | 国際・政治

 今年(2019年)の2月1日に「地方創生 やめたらどうか」という記事を載せました。そこで、私はこう書きました。

 「地方創生は『効果が見えない』どころか、最初から上手くいっていない訳です。厳しく言えば、やるだけ無駄が重なる政策であると評価しうるでしょう。

 ここは発想を転換して、転入超過状態になっている東京圏にもっと金などをかけ、待機児童の減少などを実現していくのが先でしょう。東京圏で育ち、就職は他の地方で、というほうが現実的であるかもしれません。」

 長らく地方自治総合研究所の地方自治関連立法動向研究のメンバーとして、主に地方税財政に関する立法動向を研究している私は、「地方創生」という政策の具体的な意味なり目標なりがよくわからないままです。そもそも、「地方」を「創生」するというのは、一体、誰が考えた言葉でしょうか。「創生」は新たに創り出すことを意味しますから、出発点からして中央集権的であることが明らかです。考え方にもよりますが、国があろうがなかろうが地方は存在しうるのです。

 最近流行の「見える化」といい「地方創生」といい、センスの悪い人が作った言葉(表現)としか言えません。「見える化」といいながら情報隠しや廃棄、さらには偽装や改竄が当たり前のように行われている訳ですから、皮肉なのか反語なのか何なのか、と尋ねられても仕方がないでしょう。自らが情報公開に消極的なのに、他人に「見える化」を求めたところで、実現する訳がありません。また、「可視化」という立派な言葉があるのに、何故使わないのでしょうか。まさか、知らなかったということはないと思うのですが、どうなのでしょう。

 少々脇道に逸れましたが、「地方創生」に関して、11月14日、朝日新聞社のサイトに良い記事が二つありました。一つは同日付朝刊12面13版に掲載されている「地方創生、遠のいた目標」で、「経済気象台」のコーナーの記事です(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14255614.html)。書かれた方については「穹」とのみ記されています。もう一つは「論座」に掲載されている、前新潟県知事の米山隆一氏による「アベノミクスの目玉・国家戦略特区の大いなる欠陥 『評価・対応』なき制度につきまとう『利権』のわな。特区制度自体を評価すべき時期に」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019111400001.html)です。

 国家戦略特区も非常に重要な政策の一つであり、しかも、政策施行者側による十分な評価が行われていないものです。私は、特区という言葉に、資本主義国家とは程遠いものを感じます。文化大革命終了後に中国が改革開放政策の一環として経済特区という制度を設けました。そのことを思い出すのです。

 ただ、国家戦略特区は別に論じる必要があります。今回は14日付朝刊の「経済気象台」を読みつつ、記していきます。

 「地方創生」は、2019年度末、つまり2020年3月に第1期を終えて2020年度から第2期となるというのですが、「穹」氏は「『2020年までに地方・東京圏の人口転出入を均衡させる』という基本目標の一つは、達成が絶望視されている。それどころか、東京圏に入ってくる人口は転出を上回り続け、超過幅は当初よりも拡大した」と指摘し、「目標と実績がこれほど違えば、目標と施策の妥当性を徹底的に検証することなしに先に進むのは危うい」と書かれています。

 まさにその通りです。「穹」氏もあげられている「東京23区の大学の定員抑制」というおかしな政策に関して「地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の就学及び就業の促進に関する法律(平成30年6月1日法律第37号)」という論文を書いた私も、そもそもこの法律に立法事実がどの程度まで存在するのかが怪しいと思いましたし、施策の立て方によっては下放と変わらなくなりかねない訳です(もう一つ、「穹」氏があげられている「子供の農山漁村体験の充実」についても同じことが言えます)。他の方も指摘されていますが、毎年のように、あれこれと「目玉」(になるのかどうかわからないもの)なり看板なりが立てかけられて、それに対する検証がなされたのかどうかもわからないのです。

 そのことは、2018年12月14日にまとめられた「平成31年度税制改正大綱」(自由民主党、公明党)によく現れています。「安倍内閣は、これまで、デフレ脱却と経済再生を最重要課題として取り組んできた」という文言で始められているのですが、これは、多少の表現の違いはあるものの2013年度以降の税制改正大綱が繰り返しているものです。このこと自体が「デフレ脱却と経済再生」があまり進んでいないことを物語っています。「語るに落ちる」という表現しても間違ってはいないでしょう。何故なら、「アベノミクスの推進により、生産年齢人口が450万人減少する中においても、経済は10%以上成長し、雇用は250万人増加した。賃金も2%程度の賃上げが5年連続で実現しており、雇用・所得環境は大きく改善している」と自己評価する文章が続いていますし、国会などの場で政策の是非などが問われると必ずといって良い程に成果が誇らしげに答えられるのです。しかし、何年も続けて「デフレ脱却と経済再生」が税制改正大綱に記され続けており、そこはおそらくほとんどの人から問われることなく、自ら語り続けています。上手く行っているようであれば、5年も6年も語り続けられる訳がありません。

 (そもそも、デフレーションの具体的な意味について議論があるようですし、日本経済がデフレーションの状態にあるかどうかについても争いがあります。)

 「穹」氏は「子供の農山漁村体験の充実」に言及しつつ「若者たちが東京圏での就職を選んだのは、農地や山村に接する機会が少なかったからではないだろう。真の理由は、やはり地域間の所得格差ではなかったのか」と問いかけます。たしかにその通りですが、過疎問題などを念頭に置けば、実は東京一極集中は高度経済成長期以来、実に半世紀以上も続く問題なのです。

 1960年代以来、全国総合開発計画が何度か策定されましたが、東京一極集中は是正されるどころか激しくなるという結果を招きました。新幹線路線網や高速道路網が発達し、IT化も進められるならば、各地に支店を置く必要もなくなってくるので、地方都市が衰退した訳です。よく言われるストロー現象は、私が大分大学教育学部・教育福祉科学部に勤めていた時に、何人かの学生(その中には社会人もいました)からも実感していると聞いたことがあります。

 「経済気象台」に戻りますと、「穹」氏は「地方創生を担当する内閣官房は、行政改革の一環として『証拠に基づく政策立案』を推進している。第2期に入る前に、この方針に立ち戻り、施策の一つ一つについて、合理的で定量的な根拠を示す。そこからまず始めなければ、地方創生のカギを握る目標は遠のくばかりだ」と締めます。

 問題は「施策の一つ一つについて、合理的で定量的な根拠を示す」ことがしっかりと行われるかどうかです。実はこれが最も難しいのではないかと思われます。例えば、経済財政諮問会議、すなわち、「骨太の方針」という牛乳みたいな通称で呼ばれる文書を出している機関です。

 経済財政諮問会議は、内閣府設置法第18条に基づいて内閣府に設置される機関です。同第19条第1項によれば、経済財政諮問会議は「内閣総理大臣の諮問に応じて経済全般の運営の基本方針、財政運営の基本、予算編成の基本方針その他の経済財政政策(第4条第1項第1号から第3号までに掲げる事項について講じられる政策をいう。以下同じ。)に関する重要事項について調査審議すること」(同第1号)、「内閣総理大臣又は関係各大臣の諮問に応じて国土形成計画法(昭和25年法律第205号)第6条第2項に規定する全国計画その他の経済財政政策に関連する重要事項について、経済全般の見地から政府の一貫性及び整合性 を確保するため調査審議すること」(同第2号)、「前2号に規定する重要事項に関し、それぞれ当該各号に規定する大臣に意見を述べること」(同第3号)という「事務をつかさどる」こととなっています。また、経済財政諮問会議は経済財政政策担当大臣または内閣総理大臣に対して答申を行うこととされています(同第3項)。

 これだけ読めば、経済財政諮問会議は諮問機関であることになるのですが、異質さが際立っています。内閣府設置法第18条は、内閣府に「内閣の重要政策に関して行政各部の施策の統一を図るために必要となる企画及び立案並びに総合調整に資するため、内閣総理大臣又は内閣官房長官をその長とし、関係大臣及び学識経験を有する者等の合議により処理することが適当な事務をつかさどらせるための機関」として、経済財政諮問会議および総合科学技術・イノベーション会議を設置すると規定しています(以下、総合科学技術・イノベーション会議については省略しますが、経済財政諮問会議とほぼ同じことを記せるでしょう)。

 よく見ていただくとおわかりと思いますが、諮問する側と諮問される側のメンバーが共通しているのです。少なくとも、諮問する側が内閣総理大臣(または関係する各国務大臣)であるのに対し、諮問される側のトップ、つまり議長も内閣総理大臣です(内閣府設置法第21条第1項)。内閣総理大臣が内閣総理大臣に諮問し、内閣総理大臣が内閣総理大臣に答申をしている訳ですから、どのような方針が答申として出されるかは自ずと明らかです。よほど器用な人か職業的な鍛錬を積んだ人でなければ、内閣総理大臣としての立場と経済財政諮問会議の議長としての立場を截然とさせることはできません。

 また、諮問する側が関係国務大臣であるとすれば、内閣総理大臣に諮問しているようなものですから、内閣総理大臣が関係国務大臣にいかなる答えを出すかは明確でしょう。閣議と異なる答えが出される訳がないのです。

 もとより、経済財政諮問会議は内閣そのものではありません。議長および10人以内の議員によって組織されます(内閣府設置法第20条)。しかし、既に記したように議長は内閣総理大臣であり、議員は次に該当するものとされています。

 ・内閣官房長官(同第22条第1項第1号)

 ・経済財政政策担当大臣(同第2号)

 ・「各省大臣のうちから、内閣総理大臣が指定する者」(同第3号)

 ・「法律で国務大臣をもってその長に充てることとされている委員会の長のうちから、内閣総理大臣が指定する者」(同第4号)

 ・同第3号および同第4号に掲げられるものの他に「関係する国の行政機関の長のうちから、内閣総理大臣が指定する者」(同第5号)

 ・国の行政機関を除く関係機関の「長のうちから、内閣総理大臣が任命する者」(同第6号)

 ・「経済又は財政に関する政策について優れた識見を有する者のうちから、内閣総理大臣が任命する者」(同第7号。なお、同第3項により、議員総数の10分の4以上でなければならないとされています)

 お読みいただければ、一般の諮問機関とはかなり異なることがおわかりでしょう。実質的には内閣の別働隊であり、かつ、事実上の政策決定機関となっています。これは、いわゆる骨太の方針が閣議決定されていることからも明らかです。諮問機関の答申が閣議決定されることなど、通常では考えにくいのです。

 また、経済諮問会議の議員の人選にも注目していただきたいのです。

 通常の諮問機関であれば、意地悪な表現をするならば表向きだけでも反対意見などを持つ者を入れておき、多少なりとも中立性を装います。しかし、経済財政諮問会議の場合、議員は内閣総理大臣が指定または任命しますから、内閣総理大臣の意に沿わない者が指定または任命されることは(実際のところ)ありえません。

 以上のような機関が、これまで内閣が行ってきた「施策の一つ一つについて、合理的で定量的な根拠を示す」により、冷徹な検証を行うことができるでしょうか。端的に「期待するほうが無理だ」と言えないでしょうか。ましてや、「地方創生」が目指しているらしい東京一極集中は、歴史的にも根の深い問題です。ここでsurpriiseを期待するという既視感(déjà-vu)たっぷりの話はうんざりでしょう。政治は博打ではありませんから、漸進的に進めるしかありません。

 もう一つだけ記しておきましょう。「地方創生」と口にするならば、まずは政策立案者なり何なりが実践しなければなりません。東京都内に生まれ育ち、または東京都内にある名門学校に通い、普段は東京都内に住んでいるのに選挙区は別の道府県というのでは筋が通らない、とは言わないまでも、説得力が薄くなる、とは言えるでしょう。参勤交代の大名の生活とあまり変わらないからです(江戸で生まれ、育ち、或る程度の年数が経ってから自らの藩の領地に住んだりしていたとか)。

 最近も共通テストの英語や国語で受験生が振り回されましたが(大学関係者も同様です)、大学であれ高校であれ何であれ、一般入試を経験していないと、受験生の気持ちを理解することはできないのだろう、と思います。このように記す私は、高校入試、大学入試、大学院入試と全て一般入試を経ておりまして、推薦入試を経験しておりません。小学校および中学校は川崎市立、高校は神奈川県立でした。

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第2部:国の財政法制度  第3回:財政法の構造と原理 財政法に示された財政の原則

2019年11月16日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 第一部において日本国憲法における財政の基本原則を概観したが、今回は、財政法における諸原則を概観することとする。以下に掲げるのは、いずれも財政会計上の原則であり、財政法や会計法に拠ることとなる。なお、第三部において扱う地方税財政法の領域にも共通する部分が存在するので、そのような部分については、ここで取り上げることとする。

 

 1.会計年度独立の原則

 国や地方公共団体には会計年度がある。これは、財政活動を規制し、その実績を明確にするために設けられる。すなわち、財政活動における収入と支出との対応関係を明確にするために設けられる。

 会計年度は、基本的に1年である。戦時中、軍事費特別会計が戦争終結までの期間を一会計年度としたこともあるが、基本的には1年が妥当であろう。あまり長期にわたると、収入と支出との対応関係が不明確になるおそれが高くなるからである。

 この意味において、複数年度予算の設定には疑問なしとしない。会計年度を1年と規定したとしても、実質的には複数年にわたる一会計年度を設けることになりかねないからである。もとより、毎年、会計検査院(監査委員)、国会(議会)、さらに国民(住民)によるチェックがなされるのであれば、長期的視野を備えた制度として評価しうる。

 会計年度の始期と終期をいかに定めるかは、各国によって異なるし、立法政策の問題であると言いうる。財政法第11条は、始期を4月1日とし、終期を翌年3月31日とする。

 会計年度独立の原則は、既に示したように、憲法第86条において示される原則である。そして、これは予算単年度主義を示すものでもある。このことは、憲法第52条(通常国会の召集)および第90条(決算)からも明らかである。

 財政法第12条も、この原則を明示する。また、第42条本文は「繰越明許費の金額を除く外、毎会計年度の歳出予算の経費の金額は、これを翌年度において使用することができない」と定め、当該年度の経費が翌年度の経費の支出に流用されないようにしている。また、翌年度に予算の剰余が発生することを見越して歳出を執行するようなことがあってはならないという意味を持つ。この他、会計法第1条第1項は「一会計年度に属する歳入歳出の出納に関する事務は、政令の定めるところにより、翌年度7月31日までに完結しなければならない」と定め、第9条本文も「出納の完結した年度に属する収入その他予算外の収入は、すべて現年度の歳入に組み入れなければならない」と定める。

 しかし、この原則を厳格に貫き通すことによって、かえって財政運営が困難になることもある。そこで、例外が定められている。

 第一が、既に第一部において取り上げた継続費である。財政法第14条の2は「国は、工事、製造その他の事業で、その完成に数年度を要するものについて、特に必要がある場合においては、経費の総額及び年割額を定め、予め国会の議決を経て、その議決するところに従い、数年度にわたつて支出することができる」と定める(第1項)。継続費は最高で5箇年度までとされる。また、継続費については、年割額の逓次繰越も認められている(第43条の2)。

 重森暁・鶴田廣巳・植田和弘編『Basic現在財政学』〔第3版〕(2009年、有斐閣)30頁[横田茂執筆]は、継続費および国家債務負担行為を「多年度予算の制度である」と評価した上で、「それらは国会の議決の対象となってはいるが、単年度の歳出規模を小さく表すことにより予算の全体を隠し、後年度における軍事費や公共事業費の膨張を図る政府の財政的操作の手段となることに注意しなければならない」と述べる。

 第二が、第42条本文にも規定される繰越明許費である。これは、第14条の3において定義されるもので、歳出予算に示された経費のうち、年度内に支出を終わらないと認められるものについては、国会の議決を経た上で翌年度に繰り越す経費のことである。この場合には、第43条に従い、各省庁の長が繰越計算書を作製し、財務大臣の承認を得ることによって繰越明許費を使用することができる。なお、使用した場合に、事項毎に財務大臣および会計検査院に通知することも義務づけられている。

 第三が、第42条ただし書きに規定される事故繰越である。これは、予算に示されている経費のうち、「避け難い事故」の故に年度内に支出を終わらせられないものについて認められる。この場合も、第43条に従った手続を必要とする。

 第四が、前年度剰余金の受け入れである。第41条は、歳入歳出の決算の上で剰余が生じたときに、その剰余を翌年度の歳入に繰り入れることを規定する。

 第五が、過年度収入および返納金戻入である。会計法第9条本文は「出納の完結した年度に属する収入その他予算外の収入は、すべて現年度の歳入に組み入れなければならない」と定めている。過年度に属する収入であっても、現実には異なる年度に収納されることがある。そのために、現実に収納された年度の歳入に含めるのである。但し、支出済みとなっている歳出について返戻金が出た場合には、政令(予算決算及び会計令第6条など)の規定に従い、その歳出の金額に戻入することができる(会計法第9条ただし書き)。

 第六が、過年度支出である。会計法第27条本文は「過年度に属する経費は、現年度の歳出の金額からこれを支出しなければならない」と規定する。これも、過年度に属する支出であっても現実には異なる年度に支出されることがあるために、現実に支出された年度の歳入をあてるというものである。なお、ただし書きにより、「その経費所属年度の毎項金額中不要となつた金額を超過してはならない」という制約が付けられる。

 第七が、財政法第44条に規定される特別資金の保有である。これは、個別の法律により認められるもので、一般会計に属する資金として、国税収納金整理資金、決算調整資金、経済基盤強化資金などがあり、特別会計に属する資金(基金)として、消費的資金、準備的資金、などがある。なお、地方自治法第241条は、基金の保有を認める。

 

 2.会計統一の原則

 国の歳入および歳出を管理・経理する際には、当然、全体的な財政状況を容易に把握できなければならない。このためには、歳出および歳入が単一の会計の下に置かれ、統一的に管理・経理されることが望ましい。会計統一の原則は、かような要請を行うものである。

 仮に、特定の事項に基づいて得られた歳入が、特定の事項に関する歳出にあてられるとなると、各行政分野の会計が独立することとなる。このようになると、国の財政が統一されなくなり、見通しもきかなくなる。そして、計画性のない財政となるおそれがある。

 そこで、後に取り上げる総計予算主義を明示する財政法第14条は、歳入歳出の全てを予算に編入することを求めている。しかし、第13条第1項が一般会計と特別会計の区別を設けていることは、会計統一の原則に対する例外が認められるということである。特定の収入支出を一般の収入支出と区別して経理をなすほうが能率的でかつ合理的である場合もある、と説明される。もっとも、この場合であっても、無制約に例外が認められるならば、国の財政がひどくわかりにくくなり、各分野の裁量あるいは恣意性を助長することになりかねない。そこで、第13条第2項は「国が特定の事業を行う場合、特定の資金を保有してその運用を行う場合その他特定の歳入を以て特定の歳出に充て一般の歳入歳出と区分して経理する必要がある場合に限り、法律を以て、特別会計を設置するものとする」ことを明示する。特別会計の設置に国会を関与させ、監視させる趣旨であると理解できる。

 それにしても、特別会計を規定する法律の数は多い。また、特別会計については、財政法の規定に対する特例を定めることができる(第45条)。

 

 3.統一的収支の原則

 これは、会計統一の原則と深い関係を有する原則であり、歳入、歳出のそれぞれを統一的に整理し、取り扱うことにより、歳入全体から歳出を行うべきであって、個別の歳入から個別の歳出に充てるべきではない、とする原則である。会計法第2条は、この原則を明示するものである。また、会計統一の原則と異なり、統一的収支の原則は、特別会計についても適用される。

 

 4.総計予算主義の原則

 完全性の原則とも言われる。これも、憲法第86条から導き出される原則で、財政法第14条に規定される。また、会計法第2条の規定も、この原則と関係する。

 歳入および歳出は、それぞれ別個に、総額を計上しなければならず、全ての収入、全ての支出は、予算に計上されなければならない。これによって、予算における一切の収支を明らかにし、予算の全体像を明瞭にすること、国会、さらに国民による監督を容易にすること、予算執行の責任の所在を明確にすることが期待されるのである。

 これは、企業会計において採られる純計予算主義(原額計上主義)と対峙する。純計予算主義の場合は、収入と支出との差額を予算に計上することになる。利益の取得などに重心を置くのであれば、純計予算主義のほうが望ましいのであろうが、財政については、総計予算主義のほうが望ましいのである。但し、特別会計などで純計予算主義を採用すべき場合もある。

 なお、この総計予算主義から派生する原則として、ノン・アフェクタシオンの原則がある。近代国家において、租税は国家財政の支出全体に向けられるものとされる。これは、総計予算主義の原則などから導かれる。そして、原則的に、特定の租税収入を予算中の特定の支出項目に充てることは許されない〈拙稿「地方目的税の法的課題」日税研論集46号『地方税の法的課題』(2001年、日本税務研究センター)280頁による〉。これがノン・アフェクタシオンの原則である。

 しかし、この原則は、とくに法律によって特定の租税について使途を限定することを妨げるものではない。こうした例外として、目的税、特定財源がある。

 特定財源とは、普通税でありながら使途が限定されているもの、税以外の収入で使途が限定されているものをいう。

 とくに、近年、地方分権改革との関連において、ノン・アフェクタシオンの原則に対する例外としての目的税に対する評価が高まっている。その理由として、行政サーヴィスと負担者との間における受益関係が明確であることなどがあげられている。受益者負担論の観点からの再評価なのであるが、これについては、別に拙稿において批判的に検討したので、詳細はそちらを参照していただきたい。

 拙稿・前掲282頁を参照。ここで簡単に記すと、受益者負担の概念を安易に拡大させていること、応益負担を単純に強調していると考えられること、使途目的の限定が財政の弾力性などを失わせるおそれがあること、などが私の批判の骨子である。なお、同「地方消費税法再考―地方税財政権の観点から―」税制研究55号(2009年)95頁も参照。

 

 5.課徴金等法律主義

 これは租税法律主義の延長線にある原則と言いうるもので、財政法第3条に規定されている。課徴金は、手数料、使用料、納付金、罰金、科料、裁判費用などからなるが、行政権に基づくものとしては手数料、使用料、納付金などが該当する。国民から徴収する金銭負担であるという点においては、租税と共通する。また、専売価格や事業料金についても、価格が市場において決定されるものではないので、課徴金と類似する部分もあるし、国民の負担などを考慮するならば、法律の規定により、または国会の議決により決定することが望ましい。このために、第3条は法律主義を採るのである。

 なお、憲法第84条に関連する租税の定義については、第一部において取り上げた。

 しかし、第一部において述べたように、財政法第3条は昭和23年の「財政法第三条の特例に関する法律」により適用が停止(あるいは修正)されており、実質的には適用例が存在しない。

 

 6.国費分担法律主義

 財政法第10条は「国の特定の事務のために要する費用について、国以外の者にその全部又は一部を負担させるには、法律に基かなければならない」と定める。これも、租税法律主義の延長線にある原則であり、負担金や寄付金などにも法律主義を及ぼすものである。

 杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)70頁は「国費分賦法律主義」と表現する。

 しかし、第10条は、現在まで一度も施行されていない※。これは財政法の規定において唯一の例である。未施行の理由としては、国費分担法律主義を徹底すると「国の財政が膨張する懸念があり、漸進的に立法措置を講ずるほうが適当と判断されたこと」があげられる※※。

 ※財政法附則第1条は、同法第3条、第10条および第34条の施行日を政令で定める旨を規定する。このうち、第3条は昭和23年4月政令第86号により、1948(昭和23)年4月16日から施行された。また、第34条は、昭和22年10月政令第218号により、1947(昭和22)年10月21日から施行された。しかし、第10条の施行に関する政令は、現在に至るまで存在しない。従って、第10条は現在も未施行のままである。

 ※※兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)43頁による。また、杉村・前掲書71頁は、同条の文言が「極めてあいまいであるため、財政法の他の規定が施行されているにもかかわらず今日なお施行されないのも故なしとしない」と評価する。

 もっとも、寄付金については「官公庁における寄付金等の抑制について」という、昭和23年1月30日の閣議決定が存在する。これは、寄付金が半強制的な性質を帯びる場合が多く、「国民に過重の負担を課し、行政措置の公正に疑惑を生ぜしめる恐れがあるなどの弊害がある」が故に、諸経費を寄付金などで賄うことを極力慎むこと、寄付金の募集を厳禁すること、自主的寄付の場合においても割り当ての方法を採らず、しかも「主務大臣が弊害の恐れがないと認めたもの」のみ受け入れること、などが要請されている。

 槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)74頁を参照。なお、槇博士は、この閣議決定について「財政法10条に基づいて法律で定めるべきものであった」と述べる。

 施行されていないとは言え、この条文には解釈上の問題があるので、触れておく。

 第一に「国の特定の事務」である。これは不明確であるが、杉村博士は「国の一般行政事務を遂行するに当たって特別な施設をなす場合とか(例えば国立大学の建設に当たり図書館や運動施設を設ける場合)あるいは特殊の国家事業を営む場合(例えば国立美術館を設けたり、原子力の基本事業を営む場合)」と理解する〈杉村・前掲書73頁〉。ただ、このように理解すると、受益者負担との関係が問題となるが、受益者に求める負担についても法律主義を定めるものであるということなのであろう。

 第二に「国以外の者」である。これについて、私人を指すことは間違いないが、問題は地方公共団体が含まれるか否かである。当然に地方公共団体を含むという説もあるが、杉村博士は「地方公共団体に対して国の経費を負担させるについて法律主義を採ることは憲法92条の規定からも推定され、国と地方公共団体との財政関係については地方財政法に詳細、明確な方針が定められており敢て財政法の規定を要しない」として、私人に限定して解する〈杉村・前掲書71頁〉。どちらが正しいかはにわかに断定しがたいが、実務的な解釈は、地方公共団体を含めるものである。

 第三に「費用の負担」である。負担金を徴収する場合、強制的に寄付金を集める場合が含まれるとして、私人などに無償で事務を行わせる場合が含まれるか否かが問題となる。含まれると理解する説が多いようであるが、法律に基づいて私人などに行為義務が課される場合(所得税の源泉徴収事務などが該当する)には、「社会通念上合理的と認められる範囲」内の費用負担については、別に法律による措置は不要である、と理解されている〈杉村・前掲書72頁、兵藤・前掲書43頁〉。すなわち、国が、私人に無償で事務を行わせ、私人に生じた費用については、基本的に国が補償する必要はない、ということになる。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月16日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年4月1日掲載。

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第1部:日本国憲法における、財政に関する基本的原則  第2回:財政民主主義

2019年11月15日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 1.財政民主主義

 国民主権(民主主義)の原理からすれば、当然、財政が国民・住民の意思に基づき、国民・住民の利益となるように運営されなければならない。

 財政は、本来、行政作用としての内容を有する(憲法第73条第5号、第86条および第87条を参照)。しかし、行政権の恣意的な処理・運営は、国民主権(民主主義)の原理に反する。憲法第83条が「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と定めるのは、日本国憲法が代表制民主主義を採用することからの、当然の帰結である。

 但し、上記は通説によるものであり、その主張に対して、日本国憲法の解釈上、疑義が存在する。財政民主主義は、代表制民主主義を採用する日本において財政国会主義(財政議会主義)として現れる。たしかに、日本国憲法は、予算の作成権限を、国会ではなく、内閣に認めており、予算の執行など、財政の処理権限も内閣などに与えられている。しかし、憲法の諸規定を概観すれば明らかなように、最終的な権限は国会に与えられていることからすれば、財政を単純に行政作用と表現してよいことにはならない。このことは、予算の法的性格に関する議論において、具体的に問題となるであろう。

 第83条にいう「財政を処理する権限」は、文字通り、財政に関するあらゆる権限を指す。従って、租税の賦課・徴収など―財政の権力的作用―に限られず、金銭の借り入れ、支出、財産の管理などの権限も含む。また、貨幣制度、貨幣発行をも含むと解されている。

 また、ここでいう「国会の議決」には、単なる議決のみならず、法律を定めることなどの意思表示も含まれる。なお、国の支出や債務負担行為については、個別的かつ具体的な意思表示が求められる。

 財政民主主義は、憲法における財政関係の諸規定の、まさに根幹をなす。第84条に規定される租税法律主義も財政民主主義からの帰結である。そればかりでなく、次のような規定に生かされている。

 (1)第85条(第87条を含む)

 第85条は、国費支出行為、国の債務負担行為の全てについて、国会の議決を必要とする旨を定める。国費の支出であれ、債務負担であれ、最終的には国民の負担に帰する点に変わりはない。そこで、このような規定が置かれる。大日本帝国憲法時代にもこの趣旨の原則は存在したが、例外が多く、徹底していなかった。それに対し、日本国憲法では、第87条に規定される予備費以外に例外を認めていない。しかも、予備費の支出については、内閣が事後に国会の承諾を得なければならないとされている(同条第2項)。

 憲法第87条第1項は「予見し難い予算の不足に宛てるため、国会の議決に基いて予備費を設け」ることができると規定する。この場合、予備費を設けることについては国会の事前承諾を得なければならない。しかし、この承諾は支出に対するものではない。具体的な手続は財政法第36条に規定される。なお、第87条第2項の事後承諾は、予備費の支出行為に対して何らの法的効果もないと解されている。また、条文には「国会の承諾」と規定されているにもかかわらず、両議院一致の議決は不要と解されている。

 (2)第86条

 予算の作成権が内閣にあることを示すとともに、予算についての最終的決定権が国会にあることを示す規定である。これも財政民主主義の一環である。また、会計年度独立の原則(予算単年度主義)、会計統一の原則、総計予算主義、予算事前議決の原則も示される。

 ※小嶋和司「日本財政制度の比較法史的分析」『憲法と財政制度』(1988年、有斐閣)22頁は、第86条と第83条との矛盾を指摘し、その原因を分析している。また、同「財政―予算議決形式の問題を中心として―」同書184頁、とくに248頁以下を参照されたい。

 予算制度の詳細については後に取り上げることとして、ここでは、財政法第14条の2に定められる継続費について述べておく。継続費は、工事や製造など、完成に数年度を要するものへの支出に関する経費である〈但し、実際には、防衛省による大型警備艦の建造などに利用される程度でしかない〉。大日本帝国憲法第68条は、明文で継続費を認めていたが、濫用され、議会の審議権(統制権)が非常に弱められる結果となった。しかし、実際の便宜を考慮すると全く不要とも言い切れないため、財政法に追加されたのである。このことから、杉村章三郎博士は「予算不成立の場合の措置や継続費の存在は現行憲法の下においてもその必要が感ぜられるのであり、この点に何らの規定を設けなかったのは現行憲法の欠陥といえるであろう」と述べる杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)17頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)160頁を参照。私もこの見解に賛同する。継続費の濫用を戒めるのであれば、むしろ憲法の明文で限界などの基本線を示せばよいのである。

 しかし、継続費については違憲説も存在する。憲法第86条が「毎会計年度の予算」と明示しているからである。これに対して、合憲説は、憲法が明文で継続費を否定していないこと、会計年度は必ずしも1年に限られないこと、などを主張している。

 合憲説の主張にも難点がある。まず、会計年度は必ずしも1年に限られないというのは、憲法の構造を無視する議論である(第52条、第90条第1項を参照)。また、財政法第14条の2は、継続費について厳格な要件を付し、国会の再審議などを規定するのであるが、継続費の修正には限界があるとも指摘されている〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)66頁〉

 いずれにせよ、財政こそ、緊急事態を想定した規定を盛り込まなければならないのに、そのような規定が全く存在しないということは、立憲主義、財政民主主義の観点からしても、 日本国憲法が抱える欠陥の一つであるとも評価できよう。

 (3)第88条

 大日本帝国憲法時代には皇室自律主義がとられた。皇室は、御料地や御料林などの形で自ら莫大な財産を所持し、国から支出される皇室経費も、増額を除いて帝国議会の議決を必要とされていなかった。日本国憲法第88条は、これを根本的に改め、皇室財産を国有化するとともに、皇室経費についても完全に国会の統制下に置くという意味を有する。具体的な事柄については皇室経済法が規定する。なお、この規定は、皇室に私有財産を全く認めないという趣旨ではない。

 三種の神器は皇室の私有財産である。また、天皇および皇族も、相続税の納税義務者となる。

 (4)第89条

 この規定が財政民主主義の一環を示すものであると言いうるか否かについては、おそらく、議論の余地があるものと思われる。しかし、財政民主主義も、元はといえば国民主権原理の一環であり、さらに、基本的人権の尊重という憲法の基本原理と深い関係を有する。その意味において、憲法第20条に規定される政教分離原則を財政の面から担保する第89条は、国会および内閣に対し、財政権限の行使に制約を課する規定である。

 この規定で問題となるのが、後段の「公の支配」である。これに属しない慈善、教育、博愛の事業に対する財政支出などが禁止されるが、その趣旨も表現も明確ではないからである。

 これについては、私立学校振興助成法や社会福祉法などによる補助(助成)を合憲と解釈するために公費濫用防止説が主張される(この説が通説であろう)。この説によると、公の財産がこれらの私的事業に支出された場合、仮に私的事業の自由に委ねられるとすれば、公共の利益に反する運営が行われるおそれがあるため、補助(助成)をなす限度において、それが不当に利用されることのないように監督することが求められる。すなわち、こうした監督に服しない私的事業に対する公の財産などの支出や利用を禁止する、というのである。

 この説明は、橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)546頁を基にしている。

 一方、厳格に解する説として、自主性確保説がある。この説によると、憲法第89条後段に掲げられた私的な慈善、教育、博愛の事業は自主性を有するのであり、これらに対して公権力が干渉することを禁止するというのである。そのため、この説によると、私立学校、社会福祉法人などへの補助(助成)は違憲となる可能性が高くなる。自主性確保説に対しては、前段における宗教と、後段における慈善、教育、博愛とは、国家との分離の程度が異なるという批判がある。

 第89条の文言解釈からすれば、自主性確保説が妥当であろう。しかし、この説を採るならば、第25条や第26条の趣旨と矛盾しかねず、結局は生存権や教育を受ける権利などを無にするような結果に導かれかねない。また、憲法第20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定するが、これはあくまでも国(さらに地方公共団体)が主体的に一切の宗教活動をすることに対する禁止規定であり、宗教団体(法人)に対する禁止規定ではない。仮に宗教法人が直に運営する学校法人について自主性確保説の趣旨を実行すれば、第26条、さらには第14条に違反することになりかねない。

 公費乱用防止説、自主性確保説のどちらも成立しうるだけに、第89条は趣旨・目的も表現も不明確であり、第86条とともに日本国憲法の欠陥を示すものとみることが最も妥当な解釈であろう。いわゆる護憲派は、この規定についても改正を不要とするのであろうか。そうであるとすれば無責任な見解と評価せざるをえないであろう。

 (5)第90条

 この規定と第91条は、決算に関する基本原則を定めた規定であり、第90条は会計検査院の根拠規定である。また、会計検査院は、憲法上の機関であるとともに、内閣から完全に独立している行政機関であり、憲法第65条の例外をなす。

 決算は法規範性を有しないものとされているが、予算に示された歳入および歳出が適正に行われているか否かを検討することは、財政民主主義の現実化のためにも重要な意義を有する。このため、決算は、閣議決定の後に会計検査院によって検査を受け、その報告とともに国会に提出され、国会の審査を受けることとなる。

 (6)第91条

 これも財政民主主義を決算の面において具体化させる趣旨の規定である。財政状況公開の原則を示したものと理解されている。なお、この規定では、内閣が「国会及び国民に対し」て定期的に「報告しなければならない」とされているが、主たる対象者は国会より国民であると理解すべきであろう。その意味において、第91条は国民主権原理に由来するものであると考えることもできる。

 

 2.財政民主主義に関する現実の問題

 日本の財政制度において、憲法第83条との関係で問題となる制度が存在する。とくに、財政法第3条の規定などは、憲法第83条との関連において重大な問題をはらむ。このため、憲法第83条については後に再び取り上げることになるが、ここでは代表的なものを取り上げ、若干の検討を行う。

 (1)財政投融資

 国家の第二の予算ともいわれる財政投融資とは「毎年度策定される財政投融資計画に基づき、必要な財政資金を出資や貸付けの形で供給する政府の投融資活動をいう」〈園部逸夫=大森政輔編『新行政法辞典』(1999年、ぎょうせい)405頁[早坂禧子担当]による〉。実際上、運用は財務局財務事務所(省庁再編前は大蔵省理財局)が行っている。投融資先は公社・公団などの特殊法人それ自体、あるいはその特殊法人が行う事業である。財政投融資の原資としては、産業投資特別会計、政府保証債・政府保証借入金という、国家予算の一部を成すものと、資金運用部資金(郵便貯金や厚生年金・国民年金から集めたもの)、簡易生命保険資金という、予算の一部を成さないものがある。予算の一部を成さないものは、租税とは異なることから、国会の議決の対象とはならず、財政投融資計画が、予算審議のために提出される国会の参考資料となるにすぎない。但し、運用期間が5年以上の資金については、予算として国会の議決を経ることとされている。しかし、それも不十分であることが指摘される。

 しかし、財政投融資は、事実上、予算の一部として運用されており、これがなければ財政が十分に機能しない。また、運用の実態として、行政機関の意思に委ねられていること(とくに、族議員が裏で働いている場合)、国鉄清算事業団や国有林野事業など、返済困難が予想される分野に融資がなされている、あるいは、なされていたことが、問題としてあげられる。国民の負担増を招く結果となりかねないからである。少なくとも、財政投融資計画自体も国会の議決を必要とすべきであろう。

 (2)補助金と「隠れた補助金」

 国などが、特定の行政目的・政策目的のため、私人や地方公共団体などに無償の金銭的給付を行うことがある。これを補助金という。補助金の支出自体は予算の一部として国会の議決を経てなされるが、執行については法律の根拠を欠く場合がある。

 また、補助金ではないが同様の機能を持つものを「隠れた補助金」という。具体的には、租税特別措置法に定められた租税特別措置をいう。これも、特定の行政目的・政策目的のため、特定の経済部門や個人に対して、租税を軽減・免除する、あるいは特別控除をなすというものであり、特定の企業がこれによって大きな利益を得ている。そのため、そのしわ寄せが一般国民に来るのである。しかも、軽減や免除などの具体的な金額が国会の議決の対象になっていない場合がある。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月15日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。

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第1部:日本国憲法における、財政に関する基本的原則  第1回:財政および財政法

2019年11月14日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 財政は、国家、地方公共団体というような統治団体の根幹をなすという意味において、極めて重要な分野である。それにもかかわらず、何故か日本の憲法学において十分に取り扱われていない。これは、おそらく、憲法学者の多くが人権論の開拓ないし発展に尽力を注ぎ、国家機構についても人権論との関連の度合いに応じて研究を進めてきたこと、租税などを除けば財政の領域が人権論に直接的な影響を及ぼすことが少ないこと、財政が高度に技術的な要素を多く含むこと、などに原因を求められるであろう。また、日本の歴史的経緯によるところもあるものと思われる。

 新井隆一『新型消費税 改修所得税』(2011年、成文堂)ⅰ頁は、日本の憲法学が基本的人権、平和主義(戦争放棄)、民主主義を研究対象の中心に据え、財政を対象とする研究は少数の例外にすぎなかった、という趣旨を述べる。新井隆一博士は、あくまでも御自身が大学に入学した頃のことと記すが、現在もそれほど事情が大きく変わった訳でもない。憲法学の教科書には財政に関する章が存在しないものもある(ここで例示をしないが)。このように記す私も、石山文彦編『ウォーミングアップ法学』(2010年、ナカニシヤ出版)の「16.統治機構」の執筆を担当した際に、財政に関する独立の項目を置くことができなかった。今も、そのことが残念でならない。 

 しかし、歴史的にみても、近代立憲主義は財政問題を契機として誕生し、発展したのである。このことは、日本国憲法第30条および第84条からも明らかである。民主主義の観点からも、また自由主義の観点からも、財政が健全でない国家、近代的な財政の原則を守らない、あるいは守れない国家は、例えば人権保障についても非常に大きな問題を抱えることになる。「国敗れて山河あり」とは言うが、国家の財政が機能せず、それ故に破綻したのでは、人間が社会生活を営むことも困難とならざるをえない。その意味において、財政は非常に重要である。

 

 1.財政の定義

 憲法は、財政の定義を示す規定を置いていない。もとより、憲法第83条ないし第91条は、財政制度の基本原則を定めるものであり、これらの規定から、憲法が予定する財政制度を知ることは可能であり、全体像を浮かび上がらせることも可能である。それだけでなく、現実の制度から離れて一般的かつ抽象的に財政を定義することに、果たしてどれだけの実益が存在するのか、という疑問もある。

 しかし、いかなる形態であれ、財政機能を有しない国家は存在しえないし、それと全く無縁な国民も存在しえない。あらゆる国家機能が財政に結びつけられていることからすれば、財政に対する統制などが不可欠である。そのためには、財政とはいかなるものであるのかを、或る程度は明確にしておく必要がある。そこで、この講義でも財政に関する(法律学上の)定義を示しておくこととする(但し、私自身による確定的な定義ではない)。

 財政の定義には様々なものがある。ここで多くを示す必要はないので、いくつかの例をあげておく。

 「国又は地方公共団体がその存立に必要な財力を取得し、かつ、これを管理する作用」の「総称」〈田中二郎『新版行政法下巻』〔全訂第二版〕(1983年、弘文堂)205頁〉

 「国家がその任務を行なうために必要な財力を取得し、管理し、使用する作用」〈橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)539頁〉

 「国家の活動資金を調達し、管理し、使用する作用」〈小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール[第五版]憲法』(2006年、日本評論社)341頁[三木義一担当]〉

 「国家は国民に対する指導者として、国民経済の助長発展に力を注ぎ、時にはこれに統制を加える一面において、国民と共に経済生活を営み、自己自身の収入を獲得し支出の規制を行い両者の調整をなし自己の経済をたえず良好の状態に置かなければならない。この後の目的を達するがためにする各種の作用を国家財政といい、地方公共団体における同種の作用を地方財政という」〈杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)1頁〉

  「財政とは、国家がその任務を達成するために必要な財貨を取得し、管理し、及び使用する作用であると言うことができる。換言すれば、財政とは、国家の種々の需要に充てるために財源を調達し、管理し、使用する一連の作用、つまり、国家の行う経済活動である」〈小村武『予算と財政法』〔五訂版〕(2016年、新日本法規)3頁。この文の「国家」には地方公共団体も含まれる(同書3頁)〉

 いずれも、歳入(収入)、財産管理、歳出(支出)を捉えたものである。もっとも、財政学においては、端的に「公共部門の経済活動」と定義するもの〈星野泉・小野島真編著『現代財政論』(2007年、学陽書房)1頁[星野泉担当]〉なども見受けられる。

 しかし、こうした定義に対し、福家俊朗教授は、古典的であると評価し、現代の財政はこうしたものを超えていると述べる。「行政経費の単純な取得や、その管理・運用、また、充当・支出という専門技術的(徴税技術的・会計技術的)活動」は当然として、それに留まらず、「財政規模の点もさることながら、それがもつ多様な機能に着目してそれらの政策的組合わせが図られ、それ自体が特定の行政領域を形成したり、他の行政領域をその支配下に置くような変貌を遂げている」というのである〈福家俊朗『現代財政の公共性と法―財政と行政の相互規定性の法的位相―』(2001年、信山社)3頁〉

 たしかに、現在の財政作用は、単に財政資金の調達、その資金の管理・運用、支出に留まるものではない。福家教授も指摘されるように、こうした作用を通じて、例えば経済政策や社会政策に用いられる。財政がこれらの政策を遂行するための手段ともなっているのである。このことは、特定財源や目的税、そして国庫補助負担金に顕著である。地方交付税も、一定の政策に寄与する場合がある。

 しかし、福家教授の指摘がその通りであるとしても、「古典的」な財政に現代の財政の骨格があることに変わりはない。そればかりでなく、福家教授の主張には、財政と言われる作用とその他の作用とが混同されている憾みがある。財政法の基本を理解するためには、こうした「古典的」なものを第一に把握しなければならない。

 そのため、この講義においては、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておく。

 財政の内容としては、例えば、租税の徴収、公債(国債などの総称)の発行・管理・償還、公企業などがある。現在の国家および地方公共団体は、実に多様な活動を行っている。その元手として、租税、手数料、負担金、公債などがあるが、いかなる手段によって財力を得るにせよ、最終的には国民・住民の負担に帰する。そのため、国家および地方公共団体の財政は、常に国民・住民の利害に対し、直接的に重大な影響を及ぼすのである。

 

 2.財政法とは

 財政法については、これまで、憲法学および行政法学が研究対象として扱ってきた。そして、六法には財政法という名称の法律が掲載されている。これは、形式的な意義における財政法である。この法律は、憲法を受けて、国の財政に関する基本的事項を定めるものである。しかし、財政法という法律が、財政に属する全ての作用を規律している訳ではない。例えば、租税は、国民から調達された財力であると考えることができるから、いかなる租税を設け、徴収するかというような事柄は、財政の重要な一側面である。しかし、形式的意義における財政法には、租税に関する規定が存在しない。また、財力の維持・管理のうち、国有財産などについては、財政法に基本原則を定める規定が存在するものの、詳細は国有財産法や物品管理法などに委ねられている。

 そのため、財政法を、形式的にではなく、実質的に捉えると、形式的意義における財政法のみならず、所得税法、法人税法など各種の租税法、国税徴収法、国有財産法、物品管理法などが含まれることになる。また、形式的意義における財政法は国の財政のみを規律するものであるから、地方財政については、地方財政法、地方税法などの規律に委ねなければならない。さらに、国と地方との財政上の関係については、地方交付税法などの法律が存在する。

 このように考えると、実質的意義における財政法は、形式的意義における財政法を含め、広く、財政に関する法の総体である、と理解することができる。

 既に、この講義において、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておいた。従って、実質的意義における財政法とは、国または地方公共団体が必要な財力を調達するための法、財力を維持・管理するための法、財力を使用するための法、これらの総体である、ということになる。

 このうち、必要な財力を調達するための法については、何らかの形で国民との直接的な法律関係(権利関係)を規律することになる。調達方法には、私法上の、あるいは別の法による契約関係もありうるし、租税のように、多少とも権力的な関係もありうる。

 租税そのものは国民が法的に負う債務と考えられるので、租税関係を債権債務関係と理解するのが妥当であり、租税法学などではこちらが通説となっている。しかし、租税関係に権力的な要素が皆無であるという訳ではない。むしろ、租税処罰法(租税制裁法)は刑事法とも重なる分野であり、権力的な要素が濃厚である。また、租税手続法にも、税務調査、更正・決定、推計課税など、権力的な色彩の強い手続が規定されている。

 また、専売は、特定の物品について私人の経済的自由権(営業、販売など)を排除するものであり、その点において権力的な法である。

 このような法は、財力を調達するために発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする。これを財政権力法という。

 これに対し、財力の維持・管理、および使用に関する法については、補助金など、国民との直接的な法律関係を規律する場面も存在するが、予算の決定、国有財産の管理、物品の管理など、基本的には国の機関内部に留まり、国民の権利や義務に直接的な影響を及ぼさない場合も多い。その作用の性格をどのように理解するかについて、これまでの通説には問題があると思われるのであるが、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法は、財政管理法といい、財政権力法と区別する。

 この他、形式的意義における財政法(以下、単に財政法と記す)に対して、多少とも特別な規律をもたらす法が存在する。特別会計に関する法律がそれである。特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。

 また、実質的意義における財政法は、基本的に国会や内閣以下の行政の作用規範という性格を有するが、憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査、とくに決算の検査を担当させている。このため、会計検査院法も、実質的意義の財政法を構成する重要な法律である。

 なお、日本国憲法も、財政に関する規律をなす限りにおいて、実質的意義の財政法である。しかも、憲法であるから、法律よりも上位である。

 以下、憲法および法律のみに注目した上で、実質的意義における財政法を整理する。なお、これは従来からの学説に従ったものである。

 (1)日本国憲法

 憲法は国内における最高法規であるから、財政に関する法規についても最高法規であることは当然である。しかし、そこに定められるものは、いわば大原則というべきものにすぎず、財政処理に関する原理や具体的な基準は示されていない〈杉村・前掲書33頁〉

 また、こと財政に関してだけは、日本国憲法より大日本帝国憲法のほうが優れているという趣旨の評価もある。杉村章三郎博士は、日本国憲法が永久税主義を前提としていること、一年制の会計年度を基礎とする予算制度を設けること、会計検査院および国会による決算審査などの原則を定めるだけであることから、「予算外支出に対する国会による事後承諾制度、継続費、予算不成立の場合の措置、その他を定めた」大日本帝国憲法が「行き届いた法であった」と評価する〈杉村・前掲書33頁〉第3版までは、この見解に対する批判を記したが、後の部分と矛盾していることが気になっていた。以下、杉村博士の評価に対する疑問や批判を再現するが、第4版以降、私は根本の部分において杉村博士の評価を是認したいと考えている。

 まず、当然のことであるが、日本国憲法においても、予算外の支出、継続費、予算不成立という事態は生じうる、否、現に生じているのであって、このような事態に対処するための規定が存在しないということは、憲法の不備を示すものであろう〈小村・前掲書35頁も参照〉

 たしかに、天皇主権原理を採り、帝国議会を天皇翼賛機関としてしか位置づけていなかった大日本帝国憲法とは異なり、国民主権原理を採用し、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとする日本国憲法の下において、これらのものを無制約に認める訳にはいかない。日本国憲法がこれらについての規定を置いていないということは、基本的に認めないということを意味するものであろう。あるいは、認めざるをえないという場合であっても必要かつ最小限であるという趣旨であろう。しかし、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとするからこそ、予算外の支出、継続費、および予算不成立に関し、何らかの規定を置く必要があるというべきであろう。例外的な事態に何らの対処もなしえないということであれば、かえって問題を拡大するだけである。

 予算外の支出は、補正予算を組んで対処するという方法もあるが、基本的には国会の予算審議権を侵害するものであり、これを何の制約もなしに認めることは許されないであろう。また、場合によっては租税法律主義を侵害するような事態を生み出すおそれもあろう。それならば、憲法において予算外の支出を認めるべき例外を明示すればよい。

 次に、継続費については、濫用されることによって国会の予算審議権を空洞化するおそれがある。このことは否定できない。しかし、後に述べるように、不要であるとは言い切れない。なお、地方公共団体の予算についても、地方自治法第212条によって継続費が認められており、こちらについては違憲論が提起されていないことを注意しておく。

 そして、日本国憲法の第7章において最大というべき問題(むしろ欠陥と表現するほうがよい)は、予算不成立の場合に関する規定が存在しないことである。当初予算が成立しないままに新会計年度を迎えることは、当然、生じうる。そればかりか、実際に生じたことがある。また、たとえば国会に予算案が提出された後に衆議院が解散した場合には、予算が成立しない。そのような場合のために、財政法第30条によって応急措置的としての性格を有する暫定予算の制度が置かれるのであるが、これにも限度がある。国会の審議状況によっては、当初予算のみならず暫定予算も成立しないままに新会計年度を迎えることがありうるからである。

 大日本帝国憲法第71条は、予算不成立の場合には前年度の予算を執行する旨を定めていた。このような規定には次のような問題点があることを認めざるをえない。

 第一に、理念的にみて財政民主主義の否定につながりかねない。

 第二に、国会が新たに何らかの法律案を可決して法律を成立させたとすると、その執行のための予算が必要になるのであるが、予算が年度内に成立しなかったからといって前年度の予算を執行するとなれば、新たな法律ができたとしても無意味であるという状態に至りかねない。逆に、故意に法律の執行を妨害しうることにもなる。

 しかし、そうであるとしても、この面に関しては、日本国憲法よりも大日本帝国憲法のほうが実際的であり、優れていると評価してよい。国家の財政運営に空白をもたらすことがないからである。日本国憲法によれば、内閣と国会の関係、または国会内の情勢によっては、予算不成立に関して何らの手も打てないということになり、当初予算も暫定予算も成立しないまま新会計年度を迎えるしかないことになる。これでは国家財政も国家行政も機能しない。従って、かえって法治主義、財政民主主義、租税法律主義などを空洞化させかねないのである。

 おそらく、このように記すならば、予算不成立は内閣や国会の政治的責任に帰すべき問題であって、憲法の不備のみを指摘する見解は、そもそも観点に根本的な誤りがある、と批判されることであろう。私も、第3版まではこの立場であった。しかし、この批判は、予算不成立は単純に政治的責任で済まされる問題ではない、という単純な事実を見落としていないであろうか。それに、大日本帝国憲法第71条が大きな問題を抱える故に支持されえないのであれば、別の方法を考えればよい。

 また、実際面において前年度予算を執行することは、相当の困難を伴うのではないか、という懸念もありうる。しかし、大日本帝国憲法の下においては、同第71条および勅令により、1892(明治25)年度、1894(明治27)年度、1898(明治31)年度、1903(明治36)年度および1904(明治37)年度、1914(大正3)年度、1915(大正4)年度、1917(大正6)年度、1920(大正9)年度および1924(大正13)年度、1928(昭和3)年度、1930(昭和5)年度、1932(昭和7)年度、1936(昭和11)年度および1946(昭和21)年度に、前年度の予算を当該年度の予算として執行した〈小村・前掲書36頁。なお、このような予算を施行予算と称していた〉。すなわち、前年度予算の執行は不可能でないということである。

 もとより、前年度予算の執行により、様々な問題が生じうる。そのため、これに代わる何らかの方法を考えなければならない。遺憾ながら、現在の私には良い改正案を提示することができない。しかし、時の政治状況に左右されないような安定した財政運営を保障することが、最終的には国民主権原理や自由主義に資するということは強調してよいであろう。大日本帝国憲法と同じく、日本国憲法も不磨の大典ではない。

 (2)財政権力法

 従来の学説や実務の理解によれば、財政権力法とは、国民から財力を調達するための手段などのうち、権力的なものについて必要な財力を調達するための法であり、発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である。国税通則法、国税徴収法、所得税法、法人税法、消費税法、関税法などの租税法と専売法が該当する。但し、現在の日本には専売制度が存在しない。

 かつて、塩、たばこ、工業用アルコールなどについて、専売制度が採られていた。

 しかし、財政において財力の調達のみならず、財力の維持・管理や財力の使用に関しても、権力的側面が現れることもある。典型的なものは補助金であろう。補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(以下、補助金等適正化法)は、まさに財力の使用に関する法律であるが、ここに示されているものは、補助金等の交付の申請、その申請に対する決定、補助事業の遂行等の命令(第13条)、金額の確定、補助金等交付決定の撤回(第17条)、その他、行政手続法の適用が除外されているとは言え、まさに行政行為論の利用が想定されていると考えるべき場面が多い〈塩野宏「補助金交付決定を巡る若干の問題点」『法治主義の諸相』(2001年、有斐閣)177頁、178頁。なお、補助金等適正化法第17条は「取消」の語を用いる〉。この法律自体、第25条において、補助金等の交付決定、その撤回などの処分について地方公共団体による不服の申出を認めていることからも、行政行為論を想定していることがうかがえるのである。

 もっとも、塩野宏教授は、資金交付行政(補助金の交付などが含まれる)と法律の根拠に関する議論(侵害留保説、全部留保説)について、「法律の中には、原則として、組織規範―具体的には各省設置法、規制規範―具体的には補助金適正化法、特別会計法等は含まれないと考えている。これらの規範類型は、理論的に行政活動に根拠を与える規範としての資格を有していないものであるが、実質的にみても、具体的な資金交付行政の根拠規範を見出すには、その授権はあまりに大幅すぎる」と述べている〈塩野宏「資金交付行政の法律問題―資金交付行政と法律の根拠―」『行政過程とその統制』(1989年、有斐閣)102頁〉。しかし、これは、補助金交付の具体的な根拠が他の法律に基づいていることによるのであり、補助金交付の決定が処分性を有しないからではない。また、補助金交付は基本的に授益的行政活動であるから、侵害留保説では法律の根拠が不要であるということになりかねないのである。

 このように考えると、財政権力法は、租税法、専売法、補助金法など、国の収入・支出にかかわらず、国民との権力関係を規律し、統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である、と理解すべきであろう。

 (3)財政管理法

 主に、財力の維持・管理、および使用に関する法、すなわち、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法をいう。収入および支出の管理については形式的意義における財政法、会計法など、財産の管理については国有財産法、物品管理法、国の債権の管理等に関する法律などが該当する。

 (4)特別会計法

 特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。これは、後に述べる会計統一の原則に対する例外をなすこととなり、一般会計に関する財政管理法と多少とも異なる規律をもたらす法である。

 なお、特別会計法は、財政権力法・財政管理法の区別と次元を異にする。

 (5)会計検査院法

 会計検査は、国の財政管理作用の一部分を占めるものである。上述のように、日本国憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査(決算の検査)を担当させている。これを受け、会計検査院の組織および権能に関する規律をなすのが、会計検査院法である。

 (6)皇室経済法

 日本国憲法が象徴天皇制を採用するため、皇室については、別に皇室経済法が存在する。これは、皇室関係の予算(内廷費、宮廷費、皇族費)に関する規律の他、「その度ごとに」国会の議決を必要としない皇室の財産の授受に関する規定(第2条)、皇室経済会議の設置根拠となる規定を置く。皇室経済会議は、内廷費の変更について内閣に意見を述べ(第4条第3項)、「皇族が初めて独立の生計を営むことの認定」をなし(第6条第2項・第3項第2号・第7項)、衆議院議長および副議長、参議院議長および副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長、そして会計検査院の長の8議員から構成される(第8条。なお、第9条および第10条を参照)。

 

 3.財政法の性格

 既に述べたように、実質的意義における財政法のうち、租税法や補助金法などの財政権力法は、国と私人との法律関係を規律するものである。従って、当然ながら、私人の法的地位(権利義務)に直接的な影響を与えることとなる。そのために、日本国憲法第84条において租税法律主義を規定しているのである。

 憲法第30条も、租税法律主義を明示した規定である。

 この点については、拙稿「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(上)―旭川市 国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に―」税務弘報54巻12号(2006年)129頁、同「租税特別措置法附則27条による同法31条の遡及適用が違憲無効と判断された事例」速報判例解説編集委員会編「速報判例解説(法学セミナー増刊)」3号(2008年)288頁も参照。

 しかし、第84条とは、規定の視点が異なる。第30条は、国民の納税義務に関する規定である。従って、国と私人との法律関係に着目し、かつ、法律に定めのない租税を支払うべき義務が私人に課されないという意味である。これに対し、第84条は、財政に対する国会の関与権限に着目した規定である。そのため、この講義においては、第84条を中心として租税法律主義についての解説を試みた。

 これに対して、財政管理法のほうは、多くの場合、「国の内部における財政作用を規律するものであり、租税法のように直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」と理解される〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)6頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)38頁も、同様の理解である〉

 このため、適用の範囲は国の機関(国会を含む)に限定されることになるし、規定の性質も外部的効力を伴わない、訓令に近いものである。このことは、仮に財政法に違反する行為がなされたとしても、その行為の外部的な効力は否定されない、ということを意味する。

 槇・前掲書41頁は、憲法に違反する場合、および、法律によって無効とされる場合を除外する。

 このような一面的理解が正しいのか、私には疑問がある。例えば、会計法は財政管理法の一とされるのであるが、その多くの規定は行政内部を規律するものであるとは言え、入札保証金に関する第29条の4などは、効力が行政内部に留まるという規定ではないであろう。それでも、予算および決算の法的性質などを考慮に入れるならば「直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」という性格を有する法が多いということを否定しえないであろう。財政法の諸規定は、まさに「国の内部における財政作用を規律するもの」である。

 ここで、参考までに判例をとりあげておく。いずれも、国の財政に関するものではないが、財政法の性格を示すものと評価することはできるであろう。

 ●最三小判昭和37年2月6日民集16巻2号195頁

 事案:原告(新潟県市町村職員恩給組合)は、新潟県今町の町長に対し、同町の水道工事費等に充てるためとして金員を貸与したが、同町は債務の弁済をしなかった。昭和30年9月30日、見附市が今町を編入合併し、今町の権利義務の一切を承継することとなったため、原告が見附市を被告として債務の弁済を求めた。新潟地方裁判所は原告の請求を棄却した(判決年月日等は不明)。原告は控訴したが、東京高判昭和34年2月9日判時186号13頁は、次のように述べて控訴を棄却した。

 判旨:今町の町長が原告に対して行った金員借り入れの申し込みは「町の代表者としての行為でありその効果はもとより今町に帰することは明である」が「今町には収入役が置かれ」ていたから「今町の出納その他の会計事務は収入役」に属していたというべきであり(地方自治法第170条)、「町長は町のため金員を受領する権限は有しないとしなければならぬ」。本件においては町長が収入役の署名捺印を偽造し、金員の交付を受けたのであるから、原告が今町に貸し付けたという金員の交付は「今町のために受領する権限のある者に交付されなかつたと断ずるの外ない。およそ消費貸借は金員の交付をその成立の要件とするものであるから控訴人主張の二口の貸付については今町との間に消費貸借は成立しなかつたと云わねばならない」。

 原告は上告したが、最高裁判所第三小法廷は「収入役の置かれた町においては町の出納その他の会計事務は収入役に専属し町長には属しない(地方自治法170条)ので、町長が町のためにする金銭受領行為は外形上その職務行為であるというをえないから、町長がかような行為をするについて他人に加えた損害は職務を行うにつき他人に加えた損害といえない」と述べ、上告を棄却した。

 これについて、槇重博博士は「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」と述べた上で、地方自治法第170条を参照しつつ「村長が部下の吏員に収入役を命じたからといって、現金の授受は収入役の専権に属し、村長の外部に対する村を代表する権限から、これが除かれるとする根拠はない」と述べて、判決を批判する〈槇・前掲書41頁〉

 しかし、この見解は地方自治法第170条(当時)についての誤解があると思われ、妥当でない。槇博士は、現金の収受が収入役の専権ではないと理解するのであるが、これでは第168条第2項(当時)が何のために、市町村に収入役を置くことと定めていたのか、理解不能となる。同法の規定からして、「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」という論調は、実際の効果の問題と権限配分の問題を混同したものであり、賛同しがたい。また、第149条は、第2号にて予算の調製および執行を、第5号において会計の監督を市町村長の事務と規定する。従って、地方公共団体においては、不完全な形であるとはいえ、予算執行機関と会計機関とを分離しているのである。このように考えていくならば、判例の立場が妥当であろう。

 第168条第2項(当時)から明らかであるが、収入役は、市における必置機関であった。町村については収入役を置かないことも認められたが、その場合には町村長自らが兼任し、または助役に兼任させることを必要としていた。しかも、これは条例規定事項であった。

 なお、現在の地方自治法第168条は、現在の地方自治法第1項において「普通地方公共団体に会計管理者一人を置く」と定め、第2項において「会計管理者は、普通地方公共団体の長の補助機関である職員のうちから、普通地方公共団体の長が命ずる」と定める。出納長(都道府県)および収入役(市町村)という名称は廃止されたが、都道府県、市町村のいずれも会計管理者を置かなければならないのであり、条例で置かないことを定めることは許されないものと解される。

 ●最二小判昭和37年9月7日民集16巻9号1888頁

 被告(控訴人・上告人)の佐賀県入野村(一審判決時には肥前町。以下、被告村)の村長は、中学校新築工事の請負契約を建設会社と締結した。ところが、この会社が資金難に陥ったため、村長は会社社長とともに原告(被控訴人・被上告人)銀行を訪れ、融資を申し入れた。その際に返済については被告村が全面的に責任を負う旨を言明したため、原告は村議会の議決書の提出を求めた上で貸付を承諾した。村長は村議会議員の協議会を開き、建設会社が原告銀行から受ける融資の返済について村が保証することの承認を求めた。協議会では異論が出なかった。村長は正式に村議会に付議することなく、係員に虚偽の議会の議決書謄本を作成させ、建設会社に交付した。建設会社はこの虚偽の議決書謄本を原告銀行に提出して金員を借り受け、その支払いのために建設会社代表者と村長が共同で約束手形を振り出した。その後も約束手形がやはり共同で振り出されたが、建設会社は多額の債務を負って資金難となり、中学校新築工事を完成させることなく事実上の破産状態に陥った。そこで、原告銀行は被告村に対して約束手形金等の支払いを求めて出訴した。

 佐賀地方裁判所は原告銀行の主張を一部認めた(判決年月日等は不明)。福岡高判昭和34年7月8日下民集10巻7号1483頁は、本件の約束手形は村長が無権限で振り出したものであり、本件について民法第110条に示される表見代理の法理の適用はないが、「民法第44条第1項の規定における『職務を行うにつき』とは、当該行為の外見上法定代理人又は代表者の職務行為とみられる行為であれば足り、もとよりその行為が法人の有効又は適法な行為であることを要しない」として、佐賀地方裁判所の判決を一部変更して原告銀行の主張を認めた。

 最高裁判所第三小法廷は、「所論手形振出行為が村議会の議決がないため、または所論法律に違反するため、無効または違法であるとしても、村長が村を代表して手形の振出をなすこと自体は、外見上村長の職務行為とみられるから、民法44条の適用なしということはできない」と述べて福岡高等裁判所の判決を支持し、上告を棄却した。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月14日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。

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