管理人の権限を利用して、お知らせです。
今日、日本評論社のサイトを見たら、新・判例解説編集委員会編『速報判例解説vol. 17 新・判例解説Watch【2015年10月】』が発売されるとのことで(9月下旬としか記されていません)、紹介が載せられていました。
この中の「租税法」のうち、「No.4 同族会社に対する上場株式の高額譲渡による利得が一時所得と判断された事例」(東京高等裁判所平成26年5月19日判決に関するもの)は、私が執筆を担当したものです。
御一読をいただければ幸いです。
管理人の権限を利用して、お知らせです。
今日、日本評論社のサイトを見たら、新・判例解説編集委員会編『速報判例解説vol. 17 新・判例解説Watch【2015年10月】』が発売されるとのことで(9月下旬としか記されていません)、紹介が載せられていました。
この中の「租税法」のうち、「No.4 同族会社に対する上場株式の高額譲渡による利得が一時所得と判断された事例」(東京高等裁判所平成26年5月19日判決に関するもの)は、私が執筆を担当したものです。
御一読をいただければ幸いです。
私が大東文化大学法学部で木曜日1限に担当する「行政法1」の新しいスライドを、さしあたりこのブログにあげておきます。下のアドレスをクリックして下さい。
http://kraft.cside3.jp/slide13V2015.pdf
http://kraft.cside3.jp/slide13V2015.pptm
1.財政赤字の現状など
既に御存知の通り、日本は、国・地方とも巨額の財政赤字を抱えている。
ほとんどの先進国は、1990年代に財政赤字を縮小させているのであるが、日本だけは逆に拡大させた。2004年から縮小傾向に転じたものの、債務残高の対GDP比の数字が上昇している。
たとえば、Organization for Economic Cooperation and Development, Economic Outlook, No. 89, May 25, 2011, Annex Table 30およびTable 32を参照されたい。
そればかりでなく、ここには統計などを示すことはできないが、地方財政における赤字の幅が極端に大きいことも、他の先進国に例をみない状況となっている。地方財政の現況については第三部にて検討を加えることとするが、いずれにせよ、国債の発行残高も、そして予算のうちの歳入に占める国債への依存度も、年々上昇している。このままでは、財政赤字が深刻化するのみならず、日本政府の償還能力が低下することにより、長期金利の上昇、国際価格の急落などを招くことになりかねない。そればかりでなく、第一次世界大戦後のドイツ、そして第二次世界大戦後の日本が経験したようなハイパー・インフレイションが生じ、国民生活が壊滅する危険性もある。2003年8月に私が熊本県立大学総合管理学部で集中講義「財政法」を担当した頃(小泉内閣時代である)にはデフレ・スパイラルが懸念されていたが、デフレ・スパイラルの問題が深刻である理由は、止め処のないインフレイションに逆転する可能性が存在するという部分にある。
2.財政赤字、赤字国債に関する歴史的現実
財政赤字―とくに、国債の発行残高が上昇することによる―の結末がいかなるものであるのか。これについては、歴史的事実から知ることができる。
第一次世界大戦後のドイツでは、敗戦などの結果、実に1兆倍というハイパー・インフレイションに見舞われ、連邦財政は勿論、国民生活も破綻した。その原因として、当時の帝国政府が抱いていた「短期決戦思考」があげられる。元々、ドイツ帝国時代の末期に、帝国(連邦。Reich)の国家財政は悪化の傾向を示していた。しかも、ドイツの戦費調達における公債の依存度はアメリカやイギリスよりも高く、ドイツは戦勝による他国からの賠償金を頼りに戦争を進めた。戦費を調達するための増税が全くなされなかった訳ではなく、1915年に帝国銀行戦時税が創設され、1917年および1918年にも増税がなされているが、戦況の改善にはつながらず、むしろ、1916年以降に公債の未償還率が上昇していった。このことは、財政赤字、債務の拡大が、国に、そして国民全体に、いかに破壊的な、あるいは破滅的な影響を及ぼすのか、ということを教えてくれる。
この点については、さしあたり、拙稿「アルベルト・ヘンゼルの財政調整法理論―ドイツ財政法理論史研究序説―(一)」早稲田大学大学院法研論集81号(1997年)256頁から引用した。詳細は、この拙稿の注に示した文献を参照されたい。また、Albert Hensel, Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutung, 1922, S. 171も参照。
日本の場合も、第二次世界大戦中に借入金が増大し、赤字国債や戦時国債が濫発された。増税政策も強行されたのであるが、それでも財源が不足する場合に赤字国債や戦時国債を発行し、これへの応募を「半ば強制した」※。しかも、これらの国債を公募せずに日本銀行に引き受けさせた。また、日本銀行からの資金借入を行った。このために、日本銀行の手持公債が増加し、日本銀行券の発行高を激増させることとなり、ひいては、敗戦後まもなくの日本経済を崩壊状況に追い込んだ原因となった。
※杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)47頁。
現在の財政法第4条は、こうした歴史的事実に鑑み、健全財政の原則、赤字公債発行禁止の原則を規定している。それは、何よりも「戦前のわが国において安易に公債の発行による財政運営を許したことが戦争の遂行・拡大を支える一因となったことを反省する」という趣旨に由来するのである※。
※杉村・前掲書47頁。
3.国債とは
財政法第4条は、公債の語を用いており、国債という語を用いない。しかし、旧会計法において用いられていたばかりでなく、現在も通常の用語としては国債という表現のほうがなじみ深いであろう。
それでは、財政法学において、国債とはいかに定義されるものであろうか。
端的に言うならば、国債とは国の公債をいう。これに対し、地方公共団体の公債を地方債という。そこで、公債とは何かが問題となる。
公債には広狭の意味が存在する。広義の公債とは、国や地方公共団体などの公権力の主体が歳出財源の調達のために負う金銭債務をいう。しかし、財政法第4条にいう公債は狭義のもので、広義の公債のうち、証券発行を伴うものを指す。
従って、国債は、国が歳出財源の調達のために負う金銭債務で、証券発行を伴うものである、ということになる。しかし、杉村章三郎博士によれば、これは最狭義の国債である。そこで、杉村博士による定義を参照すると、次のようになる※。
※杉村・前掲書46頁。
広義の国債:「財政上の必要による国の債務で償還期限一年以上の公債および借入金の他、資金繰りの必要による大蔵省証券等の短期証券および一時借入金をも包含する」※。この意味の国債は、国債整理基金特別会計法において用いられる。
※引用文中にある「大蔵省」は、現在の財務省のことである。
狭義の国債:広義の国債のうち「歳入目的で調達する原則として償還期限一年以上の公債および借入金」をいう。
最狭義の国債:上述。
財政法第4条には「公債又は借入金」と示されているので、同条にいう国債は最狭義の国債であると理解してよい。しかし、第4条および第5条において公債と借入金が併記されていること、いずれも金銭債務であって償還の必要性があることからすれば、実質的に両者を一体と考えてもよい。そのため、この講義においては、杉村博士による狭義の国債を中心に概説することとする。
なお、財政法第4条にいう公債に含まれないものとしては、財務省証券(同第7条)などの政府短期証券、交付国債、出資国債がある。
交付公債は記名証券であり、農地改革および漁業改革に伴う農地証券および漁業証券、軍人軍属の遺族援護のための遺族国債などがある。また、出資国債は交付国債の一種で、復興金融金庫に対する出資国債が例とされる。なお、実際には、国債および借入金については入札制度が存在し、財務大臣によって入札に参加しうる者が定められる。
4.財税法第4条
(1)何故、赤字国債発行禁止の原則なのか
既に記したように、大日本帝国憲法末期の日本においては、赤字国債や借入金の濫発が行われ、破滅的な結果に陥ることとなった。その反省として、財政法第4条において健全財政の原則、赤字国債発行禁止の原則が規定された。
その由来からして、この規定は憲法の平和主義と浅からぬ関係がある、ということが理解されるであろう。実際、槇重博博士は、この規定を「財政法中最も重要な規定」と評価し、同条に示される赤字国債禁止主義が憲法第9条に規定される平和主義を保障するための手段であると述べている※。
※槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)72頁。
また、財政赤字、そしてその原因の一つである赤字国債は、世代間の不平等を将来すると指摘される。すなわち、現在の世代にとっては利益となるものであっても将来の世代にとっては不利益となるというのである。これについては議論もあり、財政赤字なり赤字国債なりの全てが将来の世代にとっての負担になる訳ではないという論調も存在し、建設国債などを正当化する理由として主張される。
しかし、例えば近年の公共事業について批判が寄せられるように、道路や橋梁などの「資産」を建設したとしても、それらの資産の全てが将来の世代に有益であるとは限らない。このことは、赤字国鉄ローカル線の廃止、第三セクターの破綻などで明らかである。不要な「資産」を押しつけられた上に莫大な借金を返さなければならないというのでは、将来の世代にとって過大な負担となる。そればかりか、現在の世代が赤字国債などで利益を得たとしても、償還するのは将来の世代である。簡単に言えば、親が自分の生活のために借金をして、ツケを子供が払うことになる。しかも、その借金なりツケなりが多少なりとも子のためになるのであれば救われる部分もあるが、そうでなく、親の享楽、贅沢のためであるならば、子にとってはただの無駄な支出、否、それに留まらずに有害な重荷にすぎない。
国家財政についても、基本的な状況は変わらない。そのために、赤字国債の発行を禁止し、世代間の平等を確保する必要がある。
槇博士は、この点に着目し、財政法第4条が憲法第14条による平等原則を財政の面から保障する規定であるという趣旨を述べている。博士によると、「歳出の財源が、その年度の租税収入によって賄われる場合には、税金はその年度の政府の支出となって、民間経済に還流する」が、「公債を発行するとその元利支払いのために、国債費という支出が必要にな」り、「民間経済には戻ってこないで、特定の階級のもとにとどまる」ことになる。しかも、国債費が増加すると財政赤字も増加するし、国債費は必ず計上されて支出されることになる。こうして、仮に国が豊かになっても国民は耐乏生活を余儀なくされるし、国債の購入層を考慮すると、貧富の格差を増大させる結果に終わることとなる※。
※槇・前掲書72頁。
(2)原則に対する例外
上述のように、財政法第4条は健全財政の原則、赤字国債発行禁止の原則を定める。これは、同条の由来からして、日本国憲法の三大原則の一つである平和主義を財政の面から担保し、もう一つである基本的人権の尊重、とくに平等権を財政の面から担保する規定であると表現しうる。また、この規定によると、国の歳出財源は基本的に租税により賄うべし、という原則が示されることになる。
但し、「例外のない原則はない」という格言があるように、これらの原則にも例外がある。財政法第4条第1項ただし書きは、公共事業費、出資金、そして貸付金の財源について、公債や借入金を認容する※。その理由としては、これらの支出が消費的支出ではなく、国の資産を形成するための支出であり、しかも、こうした資産から国民が得られる利益も長期にわたるから、将来の世代に相応の負担を求めてもよい、ということがあげられている※※。
※これにより、建設国債を発行することが可能となっている。なお、建設国債という名目での発行を認める例は、先進国においては他にドイツしか見当たらない。
※※杉村・前掲書46頁、兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)24頁。
もっとも、この例外が無制約に許容される訳ではない。財政法第4条第1項ただし書きには「国会の議決を経た金額の範囲内で」という条件が示されている。これを受け、第22条第1号は、予算総則に掲げる事項として「公債又は借入金の限度額」をあげている。
第4条第1項ただし書きに規定されるもののうち、出資金および貸付金については、比較的に明瞭な概念である。元本や出資金による権利を確保できるし、利子などの収入も予定できる。これに対し、公共事業費の概念は不明瞭である。そのために、第4条第3項は、とくに公共事業費の「範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない」と規定し、金額および目的について国会を関与させている(第22条第2号も参照)。ただ、この場合、「建設公債発行額と建設公債発行対象経費支出額との関係については、公債発行収入金を区分経理して対象経費以外の使用は認めないというような個別的対応関係を設ける必要はなく、年度全体として公債発行額が対象経費支出額の範囲内であればよい」と解釈されている。現実にはそのように運用されているのであろうが、財政民主主義の貫徹という観点からすれば、若干の疑問が残る。
※兵藤・前掲書25頁。
また、建設国債については、第4条第2項により、償還計画が国会に提出されなければならない。この償還計画は国会の議決事項ではなく、建設公債発行額の範囲が国会にて議決される際の参考資料として扱われている。なお、議案と計画は同時に提出される。
以上は、主に一般会計に関する説明である。第4条の規定は特別会計についても妥当すべきものであるが、特別会計については、個別法に公債や借入金に関する規定が置かれている(ここでは詳細を略す)。
(3)公債市中消化の原則
既に記したように、大日本帝国憲法体制末期には、政府が赤字国債や戦時国債を濫発し、これらを日本銀行に引き受けさせた。その結果、激しいインフレイションが発生して敗戦後まもなくの日本経済を崩壊状況に追い込んだ。このため、財政法第5条は、公債を日本銀行に引き受けさせることを禁止した。また、借入金についても、日本銀行からの借り入れを禁止している。市中消化の原則を定めているのである。
最近も、時折ではあるが、政治家などから日本銀行の公債引き受けなどを強力に主張されることがある。しかし、これは同条に違反するばかりでなく、将来の国民経済、そして国民生活を破綻させることになるであろう。
但し、この原則にも例外が設けられている。同条ただし書きは「特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内において」日本銀行による公債引き受けなどを許容する(第22条第3号も参照)。この「特別の事由」の意味は判然としないが、金融市場の情勢などが考えられる。これまで、このただし書きが適用された例として、昭和23年度特別会計予算総則、および、昭和23年度以降、日本銀行が保有する公債の借換債を日本銀行が引き受ける形で発行する実例がある。この場合は、日本銀行による通貨供給量の増大が生じない。
(4)財務省証券の発行および一時借入金
財政法第7条に規定される。財務省証券も一時借入金も、年度を超える債務ではなく、歳出財源でもない。国庫の資金繰りを円滑に進めるための一時的な融通資金である。このために、第4条ほどの厳格な要件が適用されない。もとより、財政の安定性という点からすれば、この類のものも無制約に認容する訳にはいかない。そこで、財務省証券の発行限度額および一時借入金の最高限度額は、国会の審議事項であり、議決を経る必要がある(第7条第3項、第22条第3号)。
(5)国債の償還など
当然のことであるが、国債は、期限の到来とともに償還されなければならない。その方法として、日本では減債基金制度が基本となっている。これは、国債の償還のために、その財源を制度的に確保した上で、これを一般会計と区分した上で経理をし、国債の償還を行うというものである。法律として、国債整理基金特別会計法が存在する。
5.財政法第4条の特例法
ここまでの説明を読まれた方は、おそらく、財政法第4条が健全財政の原則、赤字国債発行禁止の原則をとっているにもかかわらず、何故に現在の莫大な財政赤字を抱えるまでに至ったのか、と思われるであろう。
実は、これらの原則は、昭和40年度に破られた。1964(昭和39)年から1965(昭和40)年にかけて、深刻な不況が日本を襲った。山一証券が破綻寸前に陥り、いくつかの大型企業が倒産するという状況の中、税収も落ち込み、景気対策も求められた。そこで「昭和四〇年度における財政処理の特別措置に関する法律」が制定され、赤字国債の発行が認められることとなった。なお、赤字国債は、こうした特例法によって発行されることから特例国債(公債)とも呼ばれる。
その後、景気が回復したことなどから、赤字国債は発行されなかったが、1973(昭和48)年の第一次オイルショックによって日本の高度経済成長期が終わり、税収不足に見舞われたため、1975(昭和50)年度以来、ほぼ毎年、財政法第4条の特例法が制定され、赤字国債の発行が続けられてきた。
財政法第4条そのものは生かされており、「財政節度の維持という見地」により国会の承認を得るという形をとるが※、本来は緊急措置としての要素を有する特例法が毎年のように議決され、施行されているということは、もはや「財政節度の維持という見地」からしても望ましくない※※。しかし、2011(平成23)年度の一般会計予算(当初予算)および一般会計補正予算についても「平成二十三年度における公債の発行の特例等に関する法律」※※※の第2条第1項により、特例公債の発行が認められることとなった。
※兵藤・前掲書27頁。
※※これに限らず、日本の法制度においては、特例法、特別措置法が多用される傾向にある。財政法第3条の特例に関する法律がそうであるし、租税特別措置法、市町村合併特例法なども代表例としてあげられる。また、地方税法については、附則に実質的な特例法というべき規定が多い。特例法、特別措置法を参照しなければ、実際の制度を理解することができないのである。これは、いたずらに法制度を複雑化し、場合によっては、租税特別措置法のように国民の間に不公平感を生むなど、悪弊を生み、さらには増大させる。必要性を全く認めない訳ではないが、少なくとも長期間にわたって特例法、特別措置法の類に頼ることは、原則を掘り崩し、自らの信頼を失うことになりかねない。
※※※2011(平成23)年1月24日、第177回国会に法律案が提出された際の名称は「平成二十三年度における財政運営のための公債の発行の特例に関する法律」であった。同年4月28日、衆議院で「平成二十三年度における財政運営のための公債の発行の特例等に関する法律案中修正」により、本文に示した名称となっている。この法律が参議院本会議における可決により成立したのは同年8月26日であり、同月30日に法律第106号として公布された。
さらに、財政法第4条の趣旨が根底から崩されかねない動きが顕在化した。それまでは年度毎に特例法により公債を発行することにしていたのであるが、2012(平成24)年の第181回国会において成立し、同年11月26日に法律第101号として公布された「財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律」※は、複数年度にわたって公債の発行を認める内容となっている。
※2012年10月29日、内閣から衆議院に提出された。衆議院において修正の上で可決されたのは同年11月15日であり、参議院において可決されたのは同年11月16日である。
まず、内閣提出法律案第1号である当初案の前文を掲載しておく。
財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律案
(趣旨)
第一条 この法律は、最近における国の財政収支が著しく不均衡な状況にあることに鑑み、平成二十四年度の一般会計の歳出の財源に充てるため、同年度における公債の発行の特例に関する措置を定めるとともに、平成二十四年度及び平成二十五年度において、基礎年金の国庫負担の追加に伴いこれらの年度において見込まれる費用の財源を確保するため、社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律(平成二十四年法律第六十八号)の施行により増加する消費税の収入により償還される公債の発行に関する措置を定めるものとする。
(平成二十四年度における特例公債の発行等)
第二条 政府は、財政法(昭和二十二年法律第三十四号)第四条第一項ただし書の規定及び次条第一項の規定により発行する公債のほか、平成二十四年度の一般会計の歳出の財源に充てるため、予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行することができる。
2 前項の規定による公債の発行は、平成二十五年六月三十日までの間、行うことができる。この場合において、同年四月一日以後発行される同項の公債に係る収入は、平成二十四年度所属の歳入とする。
3 政府は、第一項の議決を経ようとするときは、同項の公債の償還の計画を国会に提出しなければならない。
4 政府は、第一項の規定により発行した公債については、その速やかな減債に努めるものとする。
(平成二十四年度及び平成二十五年度における年金特例公債の発行等)
第三条 政府は、財政法第四条第一項の規定にかかわらず、平成二十四年度及び平成二十五年度における基礎年金の国庫負担の追加に伴い見込まれる費用(この項の規定により発行する公債に係る平成二十四年度及び平成二十五年度における利子の支払に要する費用を含む。)の財源については、当該各年度の予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行することができる。
2 前項の規定により発行する公債及び当該公債に係る借換国債(特別会計に関する法律(平成十九年法律第二十三号)第四十六条第一項又は第四十七条の規定により起債される借換国債をいい、当該借換国債につきこれらの規定により順次起債される借換国債を含む。次項において同じ。)についての償還及び平成二十六年度以降の利子の支払に要する費用の財源は、社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律の施行により増加する消費税の収入をもって充てるものとする。
3 第一項の規定により発行する公債及び当該公債に係る借換国債(次項において「年金特例公債」という。)については、平成四十五年度までの間に償還するものとする。
4 年金特例公債は、特別会計に関する法律第四十二条第二項の規定の適用については、国債とみなさない。
附則
この法律は、公布の日から施行する。
理由
最近における国の財政収支が著しく不均衡な状況にあることに鑑み、平成二十四年度の一般会計の歳出の財源に充てるため、同年度における公債の発行の特例に関する措置を定めるとともに、平成二十四年度及び平成二十五年度において、基礎年金の国庫負担の追加に伴いこれらの年度において見込まれる費用の財源を確保するため、社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律の施行により増加する消費税の収入により償還される公債の発行に関する措置を定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。
注意しておくべき点は、当初案の段階において2012年度中の特例公債の発行、同年度中および2013(平成25)年度中の「年金特例公債」の発行を認める内容となっていたことである。すなわち、この段階において複数年度にわたり公債の発行を認めるものとされていた訳であり、国会の機能という面からすれば、極めて問題の多いものとなったのである。
以上の内容に対し、衆議院財務金融委員会の審査において修正案が提出された。参考までに掲載しておく。
財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律案に対する修正案
財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律案の一部を次のように修正する。
第一条中「鑑み、平成二十四年度」の下に「から平成二十七年度までの間の各年度」を加え、「同年度」を「これらの年度」に改める。
第二条の見出し中「平成二十四年度」の下に「から平成二十七年度までの間の各年度」を加え、同条第一項中「次条第一項」を「第四条第一項」に改め、「平成二十四年度」の下に「から平成二十七年度までの間の各年度」を、「充てるため、」の下に「当該各年度の」を加え、同条第二項中「平成二十五年六月三十日」を「当該各年度の翌年度の六月三十日」に、「同年四月一日」を「当該各年度の翌年度の四月一日」に、「平成二十四年度」を「当該各年度」に改める。
第三条を第四条とし、第二条の次に次の一条を加える。
(特例公債の発行額の抑制)
第三条 政府は、前条第一項の規定により公債を発行する場合においては、中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として、各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。
附則を附則第一項とし、附則に次の一項を加える。
2 政府は、平成二十四年度の補正予算において、政策的経費を含む歳出の見直しを行い、同年度において第二条第一項の規定により発行する公債の発行額を抑制するものとする。
修正案には第3条として公債の発行額を抑制する旨の規定が追加されているものの、努力義務規定である。しかも、当初案においては2012年度における特例公債の発行を認めるに留まっていたのに対し、修正案においては2012年度から2015(平成27)年度までの4年度にわたって公債発行を認める趣旨となっている。他方、「年金特例公債」の発行については修正が加えられていない。
従来の特例法と同様に「予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内」という歯止めはかけられているものの、「04 国家予算」において述べたように、国会による予算案の審議に関し、修正の権限は理論的にもそれほど広いとは言えず、実際にもその権限が行使されることが少ないため、十分な歯止めと言いうるか否かについては疑問の余地がある。
しかし、財務省は、以上のような施策を継続する方針を打ち出している。報道※によれば、同省は「政治の混乱などで必要な法案が通らずに赤字国債を発行できなくなり、国民生活や地方行政に支障が出る事態を避ける狙い」のために、2015年度までとなっていた措置を2016(平成28)年度以降にも継続する旨の法律案を、2015年度中に開かれる国会に提出するという。
※日本経済新聞2015年7月3日付朝刊5面14版に掲載された「赤字国債 立法不要継続へ 財務省、3~5年軸に検討」による。
6.公債依存度の変遷
赤字国債の発行残高が増え、バブル崩壊とともに税収の落ち込みが激しくなった1990年代には、何度となく財政構造改革の必要性が叫ばれた。地方分権改革も、財政構造改革との関連において主張されたという部分が大きい。1997(平成9)年度には「財政構造改革の推進に関する特別措置法」が制定された。この法律は歳出面の見直しを中心とするが、第4条において赤字国債の発行残高を減少させるという趣旨を宣言した。これを受ける形で、第6条において国の財政運営に関する当面の方針を定めた。しかし、消費税率の上昇、緊縮財政などにより、回復基調にあったとされる景気が冷え込んだことで、早くも1998(平成10)年には「財政構造改革の推進に関する特別措置法の停止に関する法律」が制定され、「財政構造改革の推進に関する特別措置法」は効力停止状態となっている。
そして、その後も、予算の歳入全体に占める公債の割合は上昇を続け、平成15年度当初予算においては、公債依存度が44.6%に達した(建設国債と特例公債とを合わせた数字。以下も同じ)。公債依存度については改善の傾向が見られた時期もあったが、現在は再び悪化する傾向にある。
平成18年度当初予算における公債依存度:およそ38%(歳入合計はおよそ79兆6860億円、公債金は29兆9730億円)。
平成19年度当初予算における公債依存度:およそ31%(歳入合計はおよそ82兆9088億781万円、公債金は25兆4320億円)。
平成21年度当初予算における公債依存度:およそ38%(歳入合計はおよそ88兆5480億132万円、公債金は33兆2940億円)。
平成21年度第一次補正予算における公債依存度:およそ43%(歳入合計はおよそ102兆4735億5955万円、公債金は44兆1130億円)。
平成23年度当初予算における公債依存度:およそ49%(歳入合計は92兆4116億1271万5千円、公債金は45兆1080億円)。
平成23年度第一次補正予算における公債依存度:およそ48%(歳入合計は92兆7166億9416万5千円、公債金は45兆1080億円)。
平成25年度当初予算における公債依存度:およそ46%(歳入合計は92兆6115億3932万8千円、公債金は42兆8510億円)。
平成25年度第一次補正予算における公債依存度:およそ44%(歳入合計は98兆0769億6746万6千円、公債金は42兆8510億円)。
平成26年度当初予算における公債依存度:およそ43%(歳入合計は95兆8823億282万9千円、公債金は41兆2500億円)。
平成27年度当初予算における公債依存度:およそ38%(歳入合計は96兆3419億5097万円、公債金は36兆8630億円)。
(以上の%については小数点以下四捨五入。)
大井町線の起点、大井町駅の周辺を歩いています。今回は、都道420号を東へ進んでみました。
駅からそれほど離れていない脇道で、すずらん通りと名付けられた商店街です。ありふれた名前で、私などは神田神保町一丁目をすぐに思い出しますが、グーグルで検索をかけると、三軒茶屋、溝口、経堂、金沢文庫、荻窪などの街が出てきます。
この道幅ですし、裏通りとも言える場所ですが、昼食時のためか、人通りはそれなりに多いようです。典型的な飲み屋街と考えてよいでしょう。
左側に見える看板はマクドナルド大井町東口店のものですが、8月31日の19時をもって閉店しました。営業期間は4年間と短いものでした(撮影日に見た貼り紙にも書かれていました)。日本マクドナルドの苦境が伝えられて久しいのですが、それとこの店の閉店がどの程度まで関係があるのかは不明です。
ちなみに、私自身のことを記すならば、マクドナルドなどのハンバーガー屋とラーメン屋を利用することはほとんどありません(1年に1回を下回る割合です)。街で食事をとる際に、この両方は私の選択肢から外れています。まして、夜の9時過ぎに、飲んだ後での「締め」としてラーメン屋に入るというのが、私には全く理解できません(10代から、その時刻を過ぎたら食事をしないと決めているからで、よほどのことがなければ守ります)。受験生に、たった一つだけ、自信を持ってアドバイスできることは「夜食をとるな」です。
この商店街の東端までは歩いていませんが、この道を真っ直ぐ進むと仙台坂で、池上通り(都道421号線)と交差し、さらに進めば南品川三丁目で国道15号線と交差します。京浜急行の青物横丁駅に向かうには、仙台坂から池上通りを進み、坂を下って国道15号に向かうことになります。方角で言えば北東ということです。
換気口などが見当たらなかったのでわかりにくいのですが、この道路の下をりんかい線が通っています。大井町の次は品川シーサイドで、かつて楽天の本社があった所です(2015年6月から二子玉川、つまり世田谷区玉川に移転中です)。
大井町駅の東側はJR線よりも小高い場所となっており、海側に向かっていくつかの坂が伸びています。その中でもこのゼームス坂は有名でしょう。片側一車線の道路が分岐し、国道15号線の南品川四丁目交差点(京浜急行の新馬場駅の南側)まで行くことができます。東急バスの渋41系統がこの通りを走ります。但し、大井町駅から渋谷駅(西口)へ走るバスだけです。渋谷駅からの大井町駅行きは、青物横丁と仙台坂を経由します。
それにしても、ゼームスとは誰でしょうか。現在ならジェイムズあるいはジェームスと書く所でしょうか。品川区による案内標識ではZemusuzakaとなっており、単にローマ字に再変換しただけです。イギリス、アメリカで、このような綴りの人物は存在するのでしょうか。あれこれと考えてしまいます。
品川区のサイトによると、このゼームス坂は、元の名を浅間坂といい、現在(最大で3.5%、つまり35‰)よりもはるかに勾配が急であったそうです。時は19世紀、江戸幕府も終焉を迎えようとする頃、(同区による表記に従えば)J. M. ゼームスというイギリス人が日本にやってきました。その時はジャーデン・マディソン商会の長崎支社の社員としてでしたが、1872年、彼は日本の海軍省に入り、日本の軍人に測量調査や航海術を指導したとのことです。もうその頃には東京に住んでいたのかもしれません。詳しいことは記されていなかったのですが、どうやらゼームス氏は浅間坂の下の方に住んでいたようです。そして、急な坂であったことに何かを思ったのか、私財を投じてこの坂の勾配を緩やかにしました。いつしか、浅間坂がゼームス坂と言われるようになったのです。
当時の英国人にしては珍しいと思われますが、ゼームス氏は仏教に帰依していたそうで、身延の久遠寺に墓所があるとのことです。
東京は坂の多い所です。渋谷であれば道玄坂、宮益坂、金王坂、目黒であれば権之助坂、六本木であれば芋洗坂、鳥居坂、など。その名前の由来を探るのは面白いのですが、外国人の名前が由来となっている坂は他にあるのでしょうか(町であれば、中央区の八重洲が有名です)。
「東急大井町線途中下車」としていながら、駅の構造を紹介していなかったので、写真を載せておきます。こちらは大井町線の駅と同じ建物にある、JRの改札口です。改札機の手前にある案内板は東急の仕様になっています。かつてはここに連絡改札口がありました。りんかい線の改札口へ向かうには、上の写真で言えば右側に進み、地下へ進みます。
案内板には京浜東北線と書かれています。JRお得意の愛称ですが、この京浜東北線は古くから使われているだけに、わかりやすく言いやすい名称の一つでしょう。どこを走っているかを端的に上手く示していますし、「宇都宮線」とか「京都線」、「神戸線」のように私鉄を真似たようなものにもなっていませんし、「学研都市線」とか「学園都市線」のように、最初聞いただけではどこを走っているのか全くわからないようなものにもなっていません。最近では、東武の愛称に強い違和感(もっと強い言葉を記してもよいのですが)を覚えます。伊勢崎線の浅草・押上~東武動物公園をスカイツリーラインとするのはまだよいとして、大宮~柏~船橋の野田線にアーバンパークラインという別名を付けたことについては、理解ができません。この愛称を初めて聞いた時、私は、一体どこを走っている路線なのか、全くイメージが湧かなかったのです。urbanには「都市の」、「都会の」、「都会に住む」、「都市特有の」という意味がありますから、直訳すれば「都市公園線」ということになりますが、自社で開発した地域を通る(例:田園都市線)などというのであればさておき、「都市公園」とは何かが不明なのです。関東地方にお住まいでも、アーバンパークラインはどこの路線なのかがおわかりにならないという方々は少なくなかったことでしょう。ましてや他の地方の方々をや、です。野田線なのですから、醤油か味醂を名乗ってくれたほうがはるかにわかりやすい、と記しておきます。
余計なことを記しました。大井町駅は一般に京浜東北線の駅とされていますが、既に記したように京浜東北線は愛称でして、ここは立派な東海道本線の駅なのです。京浜東北線は、正式には、東京から横浜までが東海道本線、東京から大宮までが東北本線であり、両本線の緩行線に該当します。
JRの西口改札のほぼ真向かいにあるのが、大井町線の改札口です。左側には、大井町線では数少ないテコプラザ(東急トラベルサロンに名称を変更しつつあります)、定期券売り場があります。
これまで、シリーズで定期券売り場などのことを記していなかったのですが、大井町線で定期券売り場がある駅はここの他、自由が丘と二子玉川だけです(かつて旗の台駅と大岡山駅にもありました)。もっとも、現在は東急線のほとんどの駅の自動券売機で定期券を購入できます。
また、大井町線でテコプラザ(東急トラベルサロン)があるのは、大井町(テコプラザ)の他、自由が丘(東急トラベルサロン。テコプラザの第1号店であるはずです)、二子玉川(東急トラベルサロン)です。
大井町線の改札口はこの一箇所だけです。下神明駅のほうにも改札口があれば便利であるようにも感じられるのですが、構造の問題などがあるのでしょう。
自動改札機を通り抜ければ、そのままホームに行けます。左側が1番線、右側が2番線です。この改札口からではわかりにくいのですが、2番線のほうからJRの東京総合車両センターがよく見えます。それもそのはず、隣接しているのです。また、劇団四季の劇場もよく見えます。
大井町駅にはホームドアがあります。2012年3月から稼働しており、大井町線では最初に設置され、現在のところは唯一の例です。なお、今年度中に溝の口駅に設置されることとなっています。
停車しているのは、いまや大井町線の主力と言ってよい9000系です。東横線にデビューしたのが1986年のことですから、もうじき30周年を迎えることとなります。東横線時代は特急や急行としても運用されましたが、大井町線では各駅停車専用です。但し、何度か急行として2代目6000系の代走を務めています。
停まっていたのは、B各停または青各停と言われる各駅停車です。左側の幕(LED式ですが)が青地に白抜きの字となっており、これで田園都市線の二子新地および高津の両駅に停車することがわかります(車内の自動アナウンスでは「田園都市線経由」と言われています)。主に日中のみで、あとは早朝に鷺沼始発の大井町行きが数本、夜に大井町始発の鷺沼行きが数本あります。
もう一種類、G各停または緑各停と言われる各駅停車が存在します。こちらは二子新地および高津の両駅に停まりません。左側の幕が白地の緑字となっています。
さて、今回で、2011年8月6日から4年1か月以上をかけ、「待合室」およびこのブログで断続的に掲載してきた「東急大井町線途中下車」シリーズを終わります。気が向くままに歩き、撮影をしましたし、深く掘り下げていないところばかりでしたが、大井町線が有する独特の味わいを少しばかりは紹介することができたかと考えています。今後も沿線のどこかを歩いたりする機会はありますので、また、気になる風景などがあれば取り上げていきます。
日本で最初の鉄道は、1869(明治2)年に開通した北海道の茅沼炭鉱軌道と言われています。しかし、これは今で言うトロッコのようなもので、名称の通り石炭を運搬するための手段でした。しかも、人力や牛馬を用いていたということです。
また、茅沼炭鉱軌道は、他の鉄道線と連絡しておらず、1931(昭和6)年に廃止されています。そもそも、路線が敷かれた地域と歴史を考えれば、孤立路線であったことは当然でしょう。蒸気機関車が導入されたのは1927(昭和2)年に入ってからのことであるそうです。
こうなると、現在のJR路線網などにつながるという意味で本格的な最初の鉄道は、やはり1872(明治5)年に新橋(汐留)から横浜(初代。現在の桜木町駅)まで開業した、現在の東海道本線ということになります。こちらは最初から蒸気機関車が運行されましたし、旅客運送もなされました。一般的にこちらが日本最初の鉄道と言われるのも当然のことでしょう。ちなみに、品川駅も1872年に開業していますが、同年の仮開業区間は品川駅~桜木町駅であったそうです。また、川崎駅および鶴見駅の開業も同年です。
その後、1876(明治9)年には大森駅が開業します。日本で最初に発掘調査が行われた大森貝塚は、大森駅の近くにあります。また、同駅は、日本で最初に乗客が死亡する鉄道事故が発生した場所でもあります。
さて、日本で最初の鉄道駅の一つでもある品川駅と、その4年後に開業した大森駅との間にある大井町駅ですが、明治時代には設置されておらず、1914(大正3)年にようやく開業しました。品川駅は現在の品川区ではなく、港区高輪にありますので、何故「品川」と名付けられたのかと気になります(高輪が東京市の芝区に入ったのは、鉄道開業よりも後のことです)。
上の写真からでもわかりにくいかもしれませんが、大井町線の大井町駅は開業時から高架駅です。私が立っているのは階段で、ここからJRの駅に向かって下り坂になっています。
東急大井町線の大井町駅が開業したのは、1927(昭和2)年7月6日です。この日、当時の目黒蒲田電鉄の支線として大井町~大岡山が開業しました。それから遅れて1929(昭和4)年11月1日に自由が丘~二子玉川が開業し、同年12月25日に大岡山~自由が丘が開業し、現在の大井町線が完成します。
現在、大井町線の電車は溝の口まで走りますが、二子玉川~溝の口は、元々が玉川電気鉄道の玉川線であり、1927年7月15日に開業しました。しかし、戦時輸送の一環として、同区間は軌間(レールの幅)を1372ミリメートルから1067ミリメートルに変更され、玉電に変わって大井町線の電車が走ることとなります。溝の口駅周辺に軍需工場が多かったためです(現在もミツトヨの本社、富士通ゼネラルの本社などがあります)。
1963(昭和38)年10月11日、大井町線は田園都市線と改称されます。ここから、大井町駅が田園都市線の起点になるとともに、同線の歴史が本格的に始まり、しかも区間の変遷を重ねることとなります。1966(昭和41)年4月1日には溝の口~長津田が開業し、さらにつくし野、すずかけ台、つきみ野と延長していきます。
しかし、1977(昭和52)年6月7日に渋谷~二子玉川(当時は二子玉川圓)の新玉川線が開業したことにより、乗客の流れが変わりました。そこで、1979(昭和54)年8月12日、大井町~二子玉川が田園都市線から切り離され、再び大井町線を名乗ることとなりました。これは、田園都市線~新玉川線~半蔵門線(当時は渋谷~青山一丁目)の完全直通運転が始められた日と同じです。
それから30年ほど、大井町線は大井町~二子玉川の路線でしたが、田園都市線二子玉川~溝の口の複々線化が完了し、大井町線が溝の口に戻ってきました。2009年7月11日のことです。但し、大井町線の正式の区間は大井町~二子玉川のままであり、大井町~溝の口は営業上の区間ということになります。
大井町には阪急があります。阪急大井町ガーデン、アワーズイン阪急(ホテル)です。阪急大井町ガーデンは真ん中にあり、アワーズイン阪急が左右の高層ビルにあります。
この街に阪急の店舗があるのも不思議に思われるかもしれませんが、ここが阪急百貨店の首都圏第1号で、長らく大井阪急と言われていました。私も一度だけですが大井阪急時代に、LPを探しに入り、購入したことがあります(大井町には中古レコード屋のハンターもありました)。百貨店という業務形態は衰退する傾向にあったためでしょうか、2000年に百貨店からショッピングセンターに転換しました。その後、再開発が行われ、現在の形態となった訳です。運営している会社は大井開発です。
1階には阪急百貨店大井食品館、コンビニエンスストアの他に種々の飲食店が入居しており、2階にも飲食店などが入居しています。そして、3階には「おふろの王様」などが入居しています。青葉台東急スクエアや玉川高島屋南館のような構造で、百貨店とショッピングモールが一体となっているのです。
なお、大井町には阪急の系列の店がもう一つあります。首都圏でもおなじみのブックファーストですが、大井町ガーデンにではなく、東急大井町駅構内に入居しています。
首都圏の阪急と言えば、有楽町にある阪急メンズ東京、都筑阪急も有名です。どちらも阪急百貨店ですが、阪急メンズ東京のほうは有楽町阪急であったものを紳士服など男性向けに特化させており、都筑阪急のほうはモザイクモール港北の中核として位置づけられるとともに、実質的には大井町と同様に食品に特化させたようなものとなっています。
また、阪急ということでは、東京宝塚劇場を忘れてはいけません。阪急宝塚線の乗客を増やすために歌劇団が設立されたという歴史は有名で、私も講義で時折話すことがあります。
それにしても、阪急が大井町に最初の店舗を構えた理由を知りたいものです。
こちらはJR大井町駅の中央口にあるアトレです。首都圏にある大規模のJR駅にある施設なので、御存知の方も多いでしょう。この駅の他に、恵比寿、目黒、四谷、吉祥寺、川崎、大森、品川、秋葉原、上野、松戸、亀戸および新浦安にあります。また、アトレヴィが信濃町や五反田などにあります。
アトレは恵比寿に本社を構えるJR東日本の系列企業で、駅ビルの共同開発や管理・運営を行っています。同社の公式サイトによれば、1990年に東京圏駅ビル開発株式会社として創立され、その年に第1号の四谷店を開業させます。1993年には新浦安店、JR信濃町ビル(大東文化大学大学院法務研究科が入居)、そして大井町店がオープンしました。
JR東日本では、このアトレがある改札口を中央口と言い、大井町線と直接乗り換えられる改札口を西口、そこから少し東側へ向かうとある改札口を東口と称しています。
中央口にこれだけの大きな駅ビルがありながら、京浜東北線しか止まらないのが不思議な感じもしなくはないのですが、東海道本線のまさしく本線筋では品川区で唯一の駅というだけあります。駅前のバスターミナルにもバスがひっきりなしに来ます。
JR東日本は乗降客数ではなく乗車人員数を発表していますが、大井町駅は2014年度で38位、10万1246人となっています。10万人を超えるのはこの駅までで、39位の松戸は9万8076人です。隣の大森駅は43位で9万3103人、品川駅は6位で34万2475人でした。
大井町駅西口から光学通りが伸びています。ニコンの大井製作所まで続くためにこの名が付けられています。1キロメートルほどあり、大井製作所を過ぎると道幅が狭くなります。さらに進めば西大井駅です(この駅から歩くほうが近いのですが、開業したのは1980年です)。
ニコンは、現在でこそ正式な社名となっていますが、元々は日本光学工業という会社の商品名でした。同社の公式サイトによると(表現を拝借しています)、日本光学工業が設立されたのは1917(大正6)年で、東京計器製作所の光学計器部門と岩城硝子製作所の反射鏡部門を統合し、三菱合資会社の社長であった岩崎小彌太が出資して誕生しました。すぐ後に藤井レンズ製造所を合併しています。1918(大正7)年に大井第一工場として出発したのが、大井製作所です。それ以来、様々な名機が誕生しましたし、カメラ以外の光学製品、例えば顕微鏡や望遠鏡も産み出されています。現在、同社は半導体露光装置、顕微鏡、測定器、測量機など、数多くの精密機械を製品として送り出しています。
大井町駅の中央口東側を、西口から見てみました。ヤマダ電機の店舗が目立ちます。大井競馬場へ向かうバスは東側のバスターミナルから出ます。また、都営バスは東側のみです。今回は、いや今回も歩いていないので、詳しいことはよくわかりません。JR大井町駅は大井町線との乗り換えのためにしか利用したことがないのです。
また、この駅から無料バスが運行されるので大井競馬場の最寄り駅という印象が強いかもしれませんが、地図を見る限り、大森駅のほうが近いと思われます。実際に、大森駅からの無料バスも運行されています。勿論、一番近いのは東京モノレールの大井競馬場前駅で、モノレールからすぐ目の前にコースが見えます。次に近いのは京浜急行の立会川駅でしょう(距離的には大森海岸駅からでも近いようです)。
なお、私は、生まれてから今まで、一度も競馬をやったことがありません。川崎市に生まれ育ち、学部生時代には南武線を利用して通学し、東京競馬場がある府中本町を通っていたにもかかわらず。そもそも、南武線は武蔵野線などとともにギャンブル路線という通称を与えられておりまして、起点の川崎駅の近くに川崎競馬場と川崎競輪場が、南多摩駅と府中本町駅との間に多摩川競艇場が、府中本町駅の目の前に東京競馬場が、終点の立川駅の近くに立川競輪場が、そして稲田堤で京王相模原線に乗り換えて次の京王多摩川駅で降りると京王閣競輪場があります。よくぞ染まらなかったものです。大分大学時代にサテライト日田問題に取り組みましたが、競輪をやったこともありません。
さて、大井町線の駅がある西口から東海道本線の上を通り、東側へ少しばかり歩いてみようと思います。歩道の部分のみにアーケードがある、「いかにも」という感じの商店街です。ちょうど昼食時間にさしかかろうとする頃であったためか、人通りはかなり多く、歩道の幅が広くないので少々難儀をしました。或る意味ではこの辺りこそが大井町の中の大井町という感じもするくらいで、同じ大井町線でも大岡山、自由が丘や二子玉川などとは空気が全く違います。似ている所を一つあげるとすれば、大井町線の営業上の終点である溝の口でしょうか。
2011年8月6日、「東急大井町線途中下車」シリーズを二子玉川駅から始めました。それから4年1か月以上が経過し、ようやく完結となります。最後の駅は同線の起点ですので、「途中下車」という言葉を用いるのはおかしいのですが、シリーズ名を変える訳にもいきません。
大井町線は、営業上で大井町(OM01)~溝の口(OM16)、全16駅ですが、溝の口は(正式には)田園都市線の駅であり、既に「東急田園都市線途中下車」で取り上げました。また、大岡山駅(OM08)については「東急目黒線途中下車」で取り上げています。そのため、この両駅を除いた14駅の周辺を歩き回った訳です。
前回の下神明駅から電車に乗ることも考えましたが、大井町駅を取り上げるためには高架下を欠かすことはできませんので、歩きました。都道420号を東に進めば、すぐに品川区役所前交差点に着きます。
よくクイズのネタにもなりますが、目黒駅が目黒区になく、品川区にあるのは有名です。同じような話はいくつかあるもので、品川駅も品川区になく、港区にあります。こちらのほうはヒントがあります。京浜急行で品川の次の駅、北品川が、名称とは逆に品川よりも南にあるのです。
従って、JR東海道本線で、品川区にある駅は大井町と西大井だけということになります。但し、大井町に停車するのは京浜東北線のみであり、中距離電車(湘南電車)は通過します(そもそもホームがありません)。
品川区の中心というだけあって、高層建築物も多くなってきました。道路の左側が大井一丁目、右側の手前が二葉一丁目、その奥が大井二丁目です。
大井町線の高架線のすぐそばに,品川区役所があります。品川区広町が所在地で、この裏にJR東日本の東京総合車両センターが拡がっています。また、劇団四季の劇場もあります(大井町線のホームからよく見えます)。
特別区の区役所には超高層建築物とまでは言えなくとも、かなり高い建物であるところが多いのですが(例、練馬区役所、文京区役所)、品川区役所は違うようです。いつ建てられたのかはわかりませんが、築年数はそれなりのものでしょう。
品川区役所前交差点から、大井町線の高架下の商店街が始まるのですが、シャッターが閉まっています。1927年の開業時から高架線であったためか、それとも別の理由によるものか、建物としてもかなり古いものであることがわかります。歩道部分のみにアーケードがかけられています(こちらのほうが、東京でよく見かけるタイプです)。
解体工事でした。全てではないようですが、かなりの部分に及んでいます。詳しい理由などは書かれていないのですが、老朽化でしょうか。
工事中ですが、歩道のアーケード部分には、かつて営業していた店の案内板がそのまま掲げられています。店の名前しか書かれていないものもあれば、何屋であったかがわかるものもあります。数が多いので、一つ一つの区画は小さかったはずです。
この通りを歩くのは何年ぶり、いや何十年ぶりというところでした。そのため、以前に通った時のことをよく思い出せません。ただ、以前はもっと柄の悪い通りであったような記憶が残っています。中学生時代に何度か来たことがあるのです。
駅に近づいてきました。この辺りでは解体工事が行われておらず、様々な店舗が並んでいます。飲食店が多いようです。歩道の幅もそれなりにあるので、歩きやすく、夕方以降の飲み歩きにはよいかもしれません。勿論、飲み過ぎに注意、ということで。
都道420号線の両側に多くの店が並んでいます。午前中、正午前であるため、人通りはまだそれほど多くないのですが、時間帯によっては通勤や通学のために多くなるのではないかと思われます。ただ、私はこの辺りに来ることがあまりないため、事情はよくわかりません。
イトーヨーカドー大井町店です。駅はすぐそばである、ということになります。品川区ではここと戸越店(最寄り駅は戸越公園)のみですが、京浜東北線では隣駅となる大森にもあります。
関東地方ではおなじみのスーパーマーケットですが、東京の城南地区では少なく、港区、渋谷区、目黒区、世田谷区には店舗がなく、大田区でも大森だけです。また、首都圏の方々には意外に思われることも多いのですが、四国と九州には店舗がありません。私が大分大学に勤務していた頃には、大分市ではセブンイレブンも少なかったと記憶しています。イオン系を別とすれば、スーパーマーケットにはそれぞれの地方の色合いが出てくるものなのでしょう。そのイオン系も、最近でこそ京浜地区などでまいばすけっとが増えていますが、ジャスコとなると非常に少なかったのでした。
街の性格なのか、大井町駅の周辺ではパチンコ屋と飲み屋が目に付きます。大井町線の各駅周辺を比べてみても、とくにパチンコ屋についてはダントツに多いのです(次に多いのが溝の口、自由が丘でしょう)。同線で駅前にパチンコ屋がないという所は、下神明、北千束、大岡山(何年か前まではあったそうです)、緑が丘、九品仏、尾山台です。また、大井町線のB各停(青各停)が乗り入れる二子新地と高津にもありません(どちらも、1980年代まではあったのですが)。
地形のためか、イトーヨーカドー大井町店の近くから坂道になり、少し登りました。アトレも見え、駅前に着いたことになります。横断歩道の向こう側、木々が生えている場所の辺りでまた少しばかり坂を下ります。JR東海道本線の駅は地上にありますが、この付近だけを見れば堀割構造にも見えます。
撮影日(2015年8月28日)は、北千束駅、荏原町駅、中延駅、戸越公園駅、下神明駅、ついでに池上線の荏原中延駅の周辺を歩いており、荏原町駅→中延駅→荏原中延駅、および戸越公園駅→下神明駅→大井町駅の移動も徒歩でした。1万歩は超えたでしょう。そろそろ昼食をとりたくなってきました。
東急大井町線の起点、大井町駅です。JR東海道本線(京浜東北線のみ停車)、東京臨海高速鉄道りんかい線との乗換駅となっています。上の写真は東急が管理する駅舎、と言ってよいでしょう。かつては大井町線と東海道本線との連絡改札口もありましたが、現在は別々になっています。また、りんかい線は地下の結構深い場所を通っており、大井町線および東海道本線との乗り換えには多少の時間がかかります。
東海道本線は、言うまでもなく、19世紀の後半、明治時代に開通していますが、その時には大井町駅がなく、同駅の開業は20世紀に入ってしばらく経ってからのことでした。
今日(2015年9月12日)の5時49分頃、東京湾を震源とする地震がありました。私が住んでいる川崎市高津区でも震度4を観測しましたが、マグニチュードは5.3でした。調布市では震度5弱を観測したとのことなので、もう少しマグニチュードが大きかったら、と思うと……。
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さて、今日は京都の或る大学の話を記しておきます。おそらく朝日新聞の今日付朝刊京都版に掲載された記事ですが、インターネットでは今日の3時付で「京都)公立化検討効果?成美大の入試難易度上昇 福知山」(http://digital.asahi.com/articles/ASH985FJ0H98PLZB00Z.html)となっています。
記事の見出しに登場する成美大学は、京都府の福知山市にあります。元々は短期大学であったそうですが、2000年に4年制大学へ改組しました。但し、短期大学部は存続していますから、実質的には4年制大学の新設を伴う改組ということでしょう。4年制のほうには経営情報学部(何故か上記朝日新聞記事では「地域経営学部」となっています)しかなく、その下にビジネスデザイン学科と医療福祉マネジメント学科があります。また、短期大学部は食物栄養専攻のみとなっており、平成28年度の募集を停止することが発表されています。なお、2000年には京都創成大学という名称であり、2010年に現在の名称に変わっています。
いつからかがはっきりとわかりませんが、長らく定員割れが続いており、2010年度の大学基準協会による認証評価では不適合と判定されています(http://www.juaa.or.jp/images/accreditation/pdf/result/university/2010/seibi.pdf)。募集定員を減少させても定員割れが続いたようで、河合塾によるランキング評価では「ボーダー・フリー」となっていました。つまり、偏差値を設定しようにもできないということです。
今年、福知山市議会が成美大学を公立化するための準備予算を議決しており、2016年度から福知山市立という形で公立大学になります。
このような話は少なくありません。今年1月25日14時58分付で朝日新聞社が「地方私立大、『公立化』に活路 地方創生が追い風に」(http://digital.asahi.com/articles/ASH1M3DZNH1MTIPE00F.html)として報じているところによると、山口県の山陽小野田市にある山口東京理科大学、新潟県柏崎市にある新潟産業大学が、公立化への動きを見せています。いずれもいわゆる公私協力型で、私立大学ではあるが資金面で地方自治体が協力を行った大学です。また、やはり公立化への動きがあると言われる長野大学のように公設民営型と言える所もあります。
実際に公立化した大学もあります。高知県香美市にある高知工科大学は2009年に、沖縄県名護市にある名桜大学は2010年に、新潟県長岡市にある長岡造形大学は2014年に公立化しました。高知工科大学は公立化してから志願者数または受験者数が増え、定員割れを起こすことはなくなったようです。
成美大学についても、公立化による人気度上昇を目指すようです。福知山市が資金面で協力していたという事情があるものと思われますが、北近畿と言われる京都府北部・兵庫県北部には成美大学の他に4年制の私立大学がなく、他には兵庫県豊岡市に近畿大学豊岡短期大学がある程度ですので(あとは京都大学舞鶴水産試験所)、「地方創生」が追い風となっているのかもしれません。
公立化のアナウンス効果が実際にどの程度まであるのかは不明ですが、河合塾が分析したところによれば、入試難易予想ランクは上がっているようです。「地域経営学部地域経営学科」(経営情報学部ビジネスデザイン学科のことでしょう)では「ボーダー・フリー」から45へ、医療福祉マネジメント学科では42.5になったというのです。なお、「地域経営学科」と同じランクに京都産業大学、大阪経済大学など(学部などの詳細は不明)があります。
劇的な変化とまでは言えなくとも、多少の効果はあったということでしょう。首都圏、京阪神など、名門私立大学が多い地域を除けば、やはり国公立のほうが私立よりも世間的な評価が高く(しかも一般的には学費が安い)、公立化は一つの手とも言えるでしょう。
但し、どこの地域でも通用する話とは思えません。一地域または一都道府県における大学の分布状況、学部・学科の設置状況が鍵となりますし、人口も重要な考慮要素です。今日付の朝日新聞記事によると、福知山市は、成美大学→福知山公立大学(仮称)を現在の1学部2学科体制で、入学定員を50名として始めるそうですが、5年目に入学定員を4倍の200人まで増やす方向で検討しているようです。しかし、これについては慎重に構える必要があるでしょう。5年で4倍というのは、今日付の朝日新聞記事の表現を借りるならば「目指す」程度であるとしても、設定すべき目標としては高すぎます。このような数字を出すこと自体が悪いとは言いませんが、あくまでも最終目標であり、より現実的に、たとえば5年で1.5倍というように設定しておき、そこに向かって努力するというのが妥当なところでしょう。大学を含め、教育機関にはそれなりの費用が必要となるからです。
まずは、この度の、台風18号から代わった低気圧の影響による記録的豪雨です。一昨日(9月9日)には川崎市の川崎区を除く全区の一部地域に避難勧告が出ました。昨日(9月10日)の夕方には解除されましたが、うちから近い多摩川の流域では水位がかなり上昇し、どうなるかと思ったほどです。私が記憶している限りですが、私が生まれた1968年から現在に至るまでの間で、(全域ではないとは言え)高津区に避難勧告が出されたのは初めてではないでしょうか。
昨日は栃木県と茨城県で堤防の決壊や土砂崩れなどが発生しました。テレビでも見ましたし、今日の朝日新聞朝刊1面14版トップ記事の写真も見ました。今日は宮城県大崎市でも堤防が決壊するなどの被害が生じています。
被災された方々に、心より御見舞を申し上げます。
記録的豪雨であり、激甚災害ではないかと思うのですが、今回は政府の動きがよく見えません。
※※※※※※※※※※※
さて、話は全く変わりまして、溝の口駅・高津駅周辺です。
今日の午前中、或る所での用事を済ませて帰る途中に、高津駅の東側、二子五丁目を通りました。溝の口駅・高津駅周辺のB級グルメの方々などにはおなじみの、どん亭高津店の前を通ると、入口の扉に見慣れない紙が貼られていました。
いつから貼られているのか、日付が書かれていないのでわかりませんが、9月25日にどん亭高津店が閉店するというのです。オープンしてから約25年が経過しているとのことです(それ以前からあったような気もしますが、よく覚えていません)。新城店(中原区上小田中三丁目。又玄寺交差点そば)のほうが古いはずですが、高津にもあることは学部生時代から知っていました。私も時折利用しています。
どん亭は、牛丼チェーンとしてはかなりマイナーで、現在、神奈川県に新城店(中原区上小田中三丁目。又玄寺交差点そば)と高津店、沖縄県は那覇市に3つの店舗だけが展開されています(以前は東京や横浜にも展開されていました)。
この店は牛丼屋ですが、曜日毎にセールが行われています。簡単に言えば、お得なメニューがあるのです。とくに週末は豪快で、どん亭スペシャルという、カツカレーと牛丼を混ぜ合わせたようなものがあるのです(カレーの上に牛丼の具とトンカツがのせられています)。最近、大手チェーンでも見かけるようになった牛丼カレーもあります。いや、どん亭では大手チェーンが始めるよりもはるかに前から存在しているメニューです(週の初めのほうのセール品目になっています)。
一応は公式サイトもあるのですが、ここは実際に行ってみて、メニューを確かめられることをおすすめします。
高津駅西口を出て左側のほうに進み、国道409号線を北見方、川崎方面に進んで二つ目の信号の手前にあります。あと二週間くらいしか営業していません。また、駐車場はありません。
前回は、蛸の滑り台がある公園で終わり、目的の駅に到達する寸前でした。ようやく、目的の駅が登場します。
大井町線の下神明駅です。駅ナンバーはOM02、所在地は品川区西品川一丁目です。荏原地区と接する位置のためにわかりにくいのですが、荏原地区ではなく、品川区の大崎第二地域センターの管内にあります。もっとも、地域センタ—の所轄と旧品川区・旧荏原区の範囲とは食い違いもありますので、注意を要します。
開業は1927(昭和2)年7月6日ですが、当初から下神明と名乗っていた訳ではありません。現在の名称になったのは1936(昭和11)年1月1日のことで、当時の蛇窪村にあった下神明天祖神社が由来となっています。この神社は現在も二葉一丁目にあります。ちなみに、上神明天祖神社も二葉四丁目に存在します。
東急の路線図を見ると、大井町線に戸越公園駅があり、池上線に戸越銀座駅があります。戸越駅は、東急線ではなく、都営浅草線の駅で、1968(昭和43)年に開業しています。後からできた駅が戸越を名乗り、先にできた戸越公園駅の当初の名称は蛇窪、戸越銀座駅は1927年8月開業時から変わらない名称です。こうなると、他の地方に戸越駅がなければ、東急線に戸越駅が存在しないことを説明できません。
この点については、簡単に種明かしをすることができます。実は、下神明駅が初代の戸越駅でした。開業時から1935(昭和10)年12月31日までは、大井町線に紛れもない戸越駅が存在した訳です。何故に「下神明」に改称したのか、手元にある資料ではわからずじまいでしたが、1936年1月1日に戸越→下神明、同日に蛇窪→戸越公園と改称されていることがヒントとなるでしょう。
下神明駅の改札口(一箇所しかありません)の前を通る道路です。商店街らしいものはありません。いくつか商店はあるのですが、コンビニエンスストアなども見当たりません。大井町駅まで1キロメートル程度しか離れていないからでしょう(大井町線の営業キロでは800メートル)。大井町駅まで十分に歩ける距離ですし、同駅から大井町線の高架下などに商店街が伸びています。
東急が発表しているデータによると、2014年度における下神明駅の一日平均乗降人員は7434人で、前年度より6.7%増とのことですが、1万人を下回ることに変わりはありません。大井町線では北千束に次いで2番目に少ないのです(3番目に少ないのが緑が丘で、1万人未満であるのはここまでです)。
高いフェンスに遮られているのは、湘南新宿ライン(大崎支線)と横須賀線(品鶴線)です。元々は東海道本線の支線か山手線の支線ということになり、いずれにしても元来は貨物線ですが、現在は大崎駅構内として扱われるため、山手線の一部ということになります。奥のほうへ進めば大崎駅に入ります。
この近所に蛇窪信号所があります。但し、現在、正式には大崎駅構内の扱いであり、信号所としては廃止されたことになっていますが、便宜上、信号所としておきます。ここで品川駅からの品鶴線(横須賀線が走ります)と大崎支線が合流します。
なお、大崎支線が開通したのは1934(昭和9)年、品鶴線が開業したのは1929(昭和4)年です。品鶴線に横須賀線の電車が走るようになったのは1980年のことでした。
蛇窪信号所はこの少し先、奥のほうに見える大井町線の高架の下です。品鶴線のほうが開業時期は遅いのですが、建設時期の関係か、大井町線のほうが高架となっています。下神明駅は開業当初から高架駅であった訳です。横須賀線の電車が走るようになっても、ここには駅ができず、少し離れた西大井一丁目に西大井駅ができました。
ちょうど、大井町線の上り各駅停車が到着するところです。上に通るのがJR東海の東海道新幹線、下に通るのがJR東日本の東海道本線(品鶴線と大崎支線)、三層構造になっています。
国鉄時代は、東海道新幹線が東海道本線の線増扱いで独立路線となっていなかったのですが、現在はどうなのでしょうか。
桁下2.4メートルのガードです。大型貨物自動車は通り抜けられません(大型でなくとも難しいでしょうか)。くぐり抜けると豊町二丁目で、日本音楽高校のほうへ向かうことができます(最寄り駅は下神明であると案内されています)。下神明駅の所在地となっている西品川は、東海道新幹線および品鶴線の沿線を範囲としており、両線の東側が一丁目、西側が二丁目および三丁目となっており、下神明駅は一丁目のほぼ南端に位置しています。
歩行者専用道路、否、路地と表現してよい道で、下神明駅への近道となっています。この辺りも2階建ての木造住宅が多く、高層建築物は見当たりません。
駅前を通り、大井町のほうへ向かうと、高架下に御覧のような壁画が描かれています。最近は意味のわからない、独りよがりな落書きばかりが目立ちますので、その対策なのでしょう。
落書きは器物損壊罪に該当します。財物を毀損するからです。落書きするほうは精神的自由を持ち出すかもしれませんが、されるほうは財産権という、はるかに具体的な権利を侵害されているのです。どちらが重いかは言うまでもないでしょう。
ただ、せっかくの壁画で高架橋脚の壁面を美化しようとしても、年月が経った橋脚に施したためなのか、汚れがかなり目立ちます。貼り紙の跡も確認できますし、左側の変色が気になってしまいます。
こちらも橋脚の壁面に描かれた壁画です。メルヘンチックな絵柄ですが、童話をモティーフにしたのでしょうか。
高架下の脇道となっている所です。抜ければすぐに都道420号ですが、どこかの横丁ではないかと思えてきます。飲み屋までありますから、夜になると酔客が現れたりするのでしょうか。ここから大井町駅までは、歩いても15分くらいです。