ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

学生が残るのに閉校?

2016年02月28日 12時01分54秒 | 受験・学校

 本日(2016年2月28日)付の朝日新聞朝刊38面14版に「東京女学館大 存続も 留年に対応、教員は雇用継続訴え」という記事が掲載されていました。Webでは「東京女学館大、閉校に『待った』 数人が留年の可能性」として掲載されています(http://digital.asahi.com/articles/ASJ2S6KGRJ2SUTIL04Y.html)。私も大学に勤務する者ですので、疑問を持ちながら読んでいました。

 東京女学館大学は、2012年4月に募集停止を決定しました。この時の1年生は、今、4年生になっています。従って、全員が卒業することとなればこの3月で閉校となるはずでした。

 しかし、学校が募集停止を決めた場合、その決定から何年後に閉校すると機械的に決めることはできません。より狭く、学部などでも同じことです。どういうことかと言えば、学生が皆揃って同じ年に卒業するとは限らず、留年、休学などがありうる、ということです。極端に見えるかもしれませんが、最後の一人が卒業するまで、学校なり学部なりは存続することが求められているのです(勿論、別の大学や学部に移籍することが明確に定められている場合は別です)。ところが、東京女学館大学の場合、記事の見出しにあるように留年する学生が存在するにもかかわらず、この3月で閉めるというのです。

 同大学が、在籍中の学生や教職員に対して具体的にどのような説明を行ったのか、よくわかりません。しかし、不十分であったことに変わりはないでしょう。募集停止から閉校なり学部の閉鎖なりまでは、留年、休学、就学上限なども勘案した上でスケジュールを組むのが、いわば業界の常識です。それを踏まえていなかったのか、という疑問が湧き上がるのです。従って、募集停止を決定してから4年が経過したらとにかく閉校、などということにはならない訳です。

 しかも、東京女学館大学は教職員を今年の3月末で退職させる、としています。その上で、留年生については新たに教員を募集することによって対応する、といいます。採用過程としても考えられない話です。どういう準備をしてきたのでしょうか。募集停止→閉校が決まっているのであれば、非常勤講師を別として、新たな人事を行うことはできないはずです。

 どうしてもこの3月で閉校するのであれば、少なくとも次のいずれかの方法によらざるをえないと思われます。但し、現実的であるか否かは問わないこととします。

 (1)最も安易な方法として、学生が、たとえ点数不足、出席日数不足などの理由によって留年しているとしても、卒業単位を満たしたこととする。

 (2)留年予定者を対象とする特別なカリキュラムを組み、3月中に集中的に講義や期末試験などを行う。こうして、とにかく3月中に全員が卒業できるようにする。

 (3)やや安易な方法であり、上記(2)とも共通する部分があるが、留年予定者の全員について再試験などを行う。それでも単位を修得できないという学生が存在する可能性もあるが、繰り返して行う。

 (4)学生については、他の大学に編入できるように手配し、留年予定者の全員を他の大学に移籍させる。

 いずれにせよ、しっかりとした対応が求められます。

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おしらせです(2016年2月27日)

2016年02月27日 12時20分00秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 成文堂から、黒川哲志・下山憲治・日野辰哉編『確認行政法用語230』〔第2版〕が刊行されました。この中の10ほどの項目を、私が担当しております。

 是非とも御一読を。

 なお、この本は、2016年度に担当予定の「行政法1A」、「行政法1B」(いずれも大東文化大学法学部)および「行政法1」(國學院大学法学部)の参考書とします。

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JR九州、新たに9駅を無人化へ

2016年02月27日 00時08分04秒 | 社会・経済

 このブログで、JR九州の株式上場に伴う鉄道事業の合理化の話を取り上げました。具体的には、ただでさえ多い無人駅をさらに増やすというもので、2015年1月18日20時7分35秒付の「JR九州が株式上場に向けて駅の無人化を進める」、同年3月8日1時52分2秒付の「JR九州、来週土曜日(3月14日)のダイヤ改正で32駅を無人化へ」において扱いました。とくに、後者の記事において、私は「たとえば特急列車が停まる駅でも業務委託駅は存在しており(具体例を記すのは差し控えます)、乗降客が少ない所もあるでしょう。否、特急が停車するかしないかは関係のないことで、乗降客が少ないとなれば無人化される危険性も高くなります」と記しました。この時点において、少なくとも1つ、大分県内にある業務委託駅の無人化を予想していました(敢えて具体的な駅名は記しませんでしたが)。

 さて、2016年も3月に恒例のダイヤ改正が行われます。おそらくはいっそう、駅の無人化が進むであろうと予想していたところ、当たりました。しかも、大分県内にある業務委託駅の無人化についても、予想が当たりました。西日本新聞経済電子版qBizに、2月26日3時付で「JR九州 過半数が無人駅に」(http://qbiz.jp/article/81500/1/)という記事が掲載されています。

 このブログをお読みの方はおわかりであると思いますが、私は、1997年4月から2004年3月まで大分大学教育福祉科学部に勤務していました。そのために大分市内に住み、自家用車通勤を主としながらも、時折、JR九州の豊肥本線、日豊本線および久大本線を利用していました(ちなみに、当時の自宅からやや離れてはいましたが、最寄り駅は敷戸でした)。2015年に、豊肥本線の駅で次に無人化される駅は緒方駅(豊後大野市)であろうと予想していました。この駅は、九州横断特急が停車する業務委託駅ですが、2012年度の一日平均乗車人員が183人しかいません。比較するのが乱暴であるような気もしますが、2014年7月に無人化された犬飼駅(豊後大野市)の一日平均乗車人員(2012年度)が333人です。犬飼駅には九州横断特急が停まりませんから、特急停車駅より特急通過駅のほうが乗客が多いということにもなります。これでは、業務委託をする意味が問われかねません。もっとも、直営駅である豊後竹田駅の一日平均乗車人員(やはり2012年度)も399人と少ないのですが、同駅は運転系統の分岐点に当たりますし、車両の夜間滞泊も行われますから、無人化されることはないでしょう。

 〔ちなみに、大分市内にある無人駅(勿論、特急通過駅)の滝尾駅では304人(やはり2012年度の一日平均乗車人員)であり、その隣にある、勿論特急通過駅の敷戸駅(業務委託駅)では1106人(同じく2012年度の一日平均乗車人員)です。〕

 先のqBizの記事には、今年の3月のダイヤ改正で無人化される予定の9駅が示されていますが、この中に緒方駅はありました。簡易委託という選択肢も残されていますが、これも無人駅と同様に考えますから、無人化に変わりはありません。

 そればかりではありません。大分県内では他に2駅が無人化されることとなりました。こちらについては予想を外しました。久大本線の駅がなかったためです。2駅とも日豊本線にあり、しかも1駅は特急停車駅です。さて、どこでしょうか。

 答えは、大分市にある幸崎駅(特急停車駅)と、宇佐市にある豊前善光寺駅(特急通過駅)です。2012年度の一日平均乗車人員は、幸崎駅が351人、豊前善光寺駅が244人でした。

 業務委託を取りやめて無人化する訳ですから、一定の基準があるはずです。ただ、正直なところはよくわかりません。他県・他線の駅もあげてみましょう(数字は一日平均乗車人員です)。

 西牟田駅(鹿児島本線、筑後市):461人(2010年度)

 加布里駅(筑肥線、糸島市):759人(2010年度)

 石田駅(日田彦山線、北九州市):393人(2014年度)

 肥前白石駅(長崎本線、白石町):617人(2011年度)

 三間坂(みまさか)駅(佐世保線、武雄市):323人(2011年度)

 山川駅(指宿枕崎線、指宿市):226人(2013年度)

 以上により、ダイヤ改正後は291駅が無人駅であるということになります。JR九州の全駅数は567ですので、過半数が無人駅ということになります。今後、各駅に自動券売機、遠隔放送装置、防犯カメラなどが整備されるということですが、地域への影響などがどの程度であるのか、気になるところではあります。

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芳林堂書店が自己破産、というニュース

2016年02月26日 20時45分50秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私自身は一度も入ったことがなく、かつて池袋に本店があったということくらいしか知らないのですが、芳林堂書店が自己破産を東京地方裁判所に申請した旨のニュースを見つけました。

 負債総額は20億7500億円ほどであるとのことで、現在営業中の店舗はそのまま続けられるとのことです。また、書店の事業は書泉に譲渡されます。

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武満徹 没後20年

2016年02月22日 09時31分02秒 | 音楽

 このところ、我々(夫婦)は、日曜日となると21時からNHK教育テレビの「クラシック音楽館」を見ています。1990年代には「芸術劇場」であった枠で、その番組も私はよく見ていたものです。はっきり言って、今の「クラシック音楽館」より「芸術劇場」のほうが質は高かったのですが(「クラシック音楽館」はNHK交響楽団に偏りすぎています)、終わり頃に室内楽などの放送があり、これが私の楽しみともなっています。

 先週からであったか、それより前であったかどうかを覚えていませんが、「没後20年・武満徹の室内楽」という枠がありました。14日には武満の遺作である"Air"(フルート独奏、無伴奏)、21日には「海へ」(アルト・フルートとギター)、「そして、それが風であることを知った」(フルート、ヴィオラおよびハープ)の演奏が流されました。最後の曲では吉野直子さんがメンバーの中に入っていますが、2011年12月17日、青葉台のフィリアホールにおける吉野さんのコンサートでは、フルートのジャック・ズーンさんによる"Air"と、ズーンさん、吉野さん、そして今井信子さんによる「そして、それが風であることを知った」を聴いています。また、今井さんのヴィオラ独奏による"A String around Autumn"を、大学院生時代にCDで入手し、何度となく聴いてきました。

 いずれの曲も傑作であり、日本の作曲家がこのような作品を手掛けたということこそ、誇りとしてよいでしょう。現代音楽に分類されるものであり、ポップスには不可欠である調性などの意味がない曲ばかりですが、実に自然に響き渡ります。通常は、クラシックであれポップスであれ、音楽家が一定のルールに従って音を配列するものですが、武満の音楽の場合は、様々な音が漂い、生き生きと飛び回っている空間の一部をそのまま抜き取ったものであるかのように聞こえるのです。そう言えば、詩人の大岡信さんは、1996年2月21日付の毎日新聞夕刊によせた追悼記事において、武満の音楽の特色を「音を自由に呼吸させてやる」点に求めていました。ここに多くの現代音楽との違いを見出すことが可能でしょう。

 また、彼の音楽の多くに共通する特徴として、テンポと空間をあげることができるでしょう。全ての作品を耳にした訳ではありませんが、少なくとも、代表的とされる作品のほとんどにあてはまります。先日放送された3曲がまさにそうでして、かなりゆっくりとしたテンポ、音を運動させるために広くとられた空間です。この空間が音で埋まることはありません。そもそも、目の前の広大な空間を音で埋め尽くそうという無駄な努力が見られません(これは、とくに"Air"に顕著ですが、他の曲にもあてはまります)。そのためか、一種の開放感を覚えることすらあるのです。前衛音楽の中には(見せかけだけあれ、実際上であれ)破壊やヒステリックさに満ちているものが少なくないのですが、これらは武満の音楽に無縁のものと言うべきでしょう。

 以上の点は、例えば"November Steps"に強く見られます。オーケストラ、尺八および琵琶のための作品ですが、武満が意識していたか否かは別として、ここで日本人の伝統的精神と現代社会との葛藤を余すところなく表現されているように思えます。現代人が抱える構造的不安が、これほど自然に、的確に描写された、あるいは反映された作品が、(彼の他の作品を除いて)他にあるのでしょうか。

 そして、不思議に思われることを以下に記しておきます。常々、創造という行為に終末はあっても完成というものは存在しないのではないか、と考えています。例えば武満徹の作品の一つ一つを見るならば、完結している、と言えるかもしれません。しかし、全体としてみるならば、まだまだ発展の余地がある、とも考えられます。これは、むしろ優れた芸術はそのものの内に新たな発展への可能性を秘めている、ということを示すものです。本当に優れた音楽家の死は、彼の有する大きな創造の泉が涸れないうちに訪れ、全てを途上のままに断ち切るものです(勿論、彼の年齢とは全く無関係の事柄です)。それだからこそ、武満の死が我々に問う意味は計り知れない、と言わざるをえません。

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二子四丁目・五丁目を歩く

2016年02月18日 11時04分35秒 | まち歩き

東京急行電鉄田園都市線の高津駅は、高津区二子四丁目にあります。駅の西側は溝口四丁目ですが、今回は東側に行き、何となく歩いてみました。なお、写真をクリックすると拡大します。

 国道409号(府中街道)をはさんで、向こう側が五丁目、手前が四丁目です。五丁目には、以前から帝京大学医学部附属溝口病院の二子研究棟がありましたが、昨年から大規模な改築工事が行われています。完成すると、溝口三丁目にある病院も移転するということです。

 国道409号です。西側を撮影してみました。田園都市線(+大井町線)の高架橋が見えます。二子玉川~溝の口の高架区間は、正式には田園都市線の複々線区間ですが、営業上は田園都市線と大井町線の二重区間となっています。但し、内側を走る大井町線については、高津駅および二子新地駅にホームが設置されておらず、原則として大井町線の電車は両駅に停車しません。一部の各駅停車(幕の色から青各停またはB各停と言われます)のみが両駅に停車しますが、車内放送では「田園都市線経由」と案内されます。

 高津駅が高架化されたのは1977年のことです。この年に新玉川線(現在は田園都市線の渋谷~二子玉川)が開業しました。2009年には複々線化が完了しました。

 私は、幼少の頃に地上時代の高津駅を見たことがあります。ただ、一回だけですのでおぼろげな記憶のみでしかありません。

 今度は東側です。川崎市民などの間では府中街道という通称のほうが通じやすい国道409号は、南武沿線道路(通称。川崎市道の川崎駅丸子線、小杉菅線などから構成される)や尻手黒川線とともに、川崎市の南部と北部を縦貫する市の動脈です。南武沿線道路のほうは、文字通りJR南武線に併走するような形となっていますが、国道409号のほうは、JR南武線から一定の距離を保ちつつ、ほぼ並行する形で川崎市の川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区を通ります。国道となったのは1982年のことで、それまでは神奈川県道・東京都道9号川崎府中線(以下では神奈川県道9号と記します)でした。

 このように書いて、すぐに訂正するようなことになりかねませんが、実は、前の段落の表記は正確なものではありません。次の写真の後に記します。

 国道、都道府県道の区間設定などは、かなり難解なものと言えます。重複区間が多く、ルートも複雑であったりすることが多いためです。実は、国道409号についてもこのことが妥当します。すなわち、この国道の全てが川崎市内で府中街道と言われている訳ではありません。国道409号と神奈川県道9号は、幸区の幸町交番前交差点から高津区の溝口交差点(国道246号との交差点)まで重複しています。そして、溝口交差点から先の高津区内と多摩区内の区間は国道として指定されておらず、神奈川県道9号のみとなります(ついでに記すと、溝口交差点の近くにある梅林交差点で川崎市道鹿島田菅線と分岐します(従って、溝口交差点からの府中街道の部分は、国道、県道および市道が重複していることとなります)。

 上の写真で言えば奥のほうに進むと、神奈川県道14号鶴見溝ノ口線の終点でもある高津交差点を通り、さらに進めば国道409号の起点である溝口交差点(溝口三丁目とされていますが、同五丁目・六丁目、久地一丁目との境界部分です)に進みます。そして、国道409号は溝口を起点とし、幸区で神奈川県道9号を分岐して多摩川沿いに進み、川崎競馬場、川崎大師駅前を通り、浮島町から東京湾アクアラインとなり、千葉県に入って木更津市、市原市、茂原市、八街市を経由して成田市までの路線として指定されています。

 高津駅は国道409号のそばにありますが、そこにある改札口は西口と名付けられています。複々線工事完了の頃まで、改札口はこの一箇所にしかなかったのですが、現在は東口も設置されています。上の写真にある細い道を、田園都市線の高架橋(駅のホームがあることはすぐにわかります)に向かうと東口です。ラーメン屋など、小さな飲食店がいくつか並んでいます。

 国道409号に沿うような形で工場などが多いためか、この辺りは意外なほどに飲食店が多く、昼時などには多くの人が歩いています。余談ですが、弁当屋のオリジンの1号店はすぐ近くです。

 五丁目に入りました。僅かな距離ですが、飲み屋などが並んでいます。毎年行われる川崎市民花火大会の際には、会場からはやや離れていますが、この辺りもごった返します。少し先を右折して高津駅に戻るように進むと古本屋があり、私も時々訪れています。

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ようやく、西武安比奈線が廃止される

2016年02月10日 23時27分24秒 | 社会・経済

 地元の川越市民の方々はともあれ、西武安比奈線を御存知の方は少ないと思われます。このように記す私は、西武鉄道の、現在営業中の全路線を利用したことがありますが、安比奈線だけは利用したことがありません。それもそのはず、この路線は貨物専用路線である上に、1963年以来、休止されているのです。

 〔休止の年について、ウィキペディアでは1967年と書かれているのですが、朝日新聞社が今日の21時33分付で「休止扱い半世紀…安比奈線、ついに廃止へ」(http://www.asahi.com/articles/ASJ2B6223J2BUTNB014.html?iref=com_rnavi_arank_nr04)として報じたところでは1963年となっています。日本経済新聞社が今日の18時半付で「西武HD、安比奈線の廃止決定 半世紀の謎に決着 関連で減損126億円」(http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL10HJ9_Q6A210C1000000/)として報じているところでも「西武HD広報によると『1963年に休止になった』という」と書かれています。そこで、このブログでは1963年としておきます。〕

 安比奈線は、西武新宿線の終点である本川越駅の一つ手前、南大塚駅から、川越市内の安比奈駅まで、3キロメートルほどの単線の路線ですが、何冊かの書籍に掲載されている写真を見たところ、所々で線路は寸断されており、実質的に廃線と同様の状態です。元々、入間川河川敷から採取された砂利を運搬するための路線だったのですが、河川敷からの砂利採取が禁止されたことなどから、安比奈線は休止されてしまいます。それから半世紀以上が経過し、ようやく廃止されることとなった訳です。これは、休止の期限が今年の11月末となっているためで、これを機会として、ということです。

 用途がなくなったのであれば即座に廃止すればよいようなものですが、休止としたことには何かの理由があったのでしょう。休止となってから20年以上が経過した1987年になって、安比奈駅周辺に車両基地を建設するという計画が明らかになりました。300両〔10両編成なら30本、8両編成なら37本(+4両編成1本)、6両編成なら50本)を停めておくことができる規模の車庫を作ろうという訳です。これは西武新宿線の系列(拝島線や国分寺線なども含む)の輸送増強計画にもつながるものでしょう。

 しかし、バブル経済が崩壊し、車両基地建設計画は実現されないままに終わりました。実際に、西武新宿線の系列の輸送量も減少に転じます。一説には、単に車両基地を建設するだけでなく、安比奈線を通勤路線として復活させるという案もあったそうですが、水泡に帰してしまいました。こうなると、休止を続ける意味がなくなります。先程も記しましたが、実際のところ、休止が長すぎたためなのか、線路が寸断されている箇所がありますし、架線柱に蔦などが複雑に絡み合ったりしていることを示す写真も存在しているくらいですから、相当に荒廃していたことでしょう。復活するにも多額の費用を要することとなります。

 西武HDは、今日発表された決算に、特別損失としておよそ126億円を計上しています。これは、安比奈線の休止期間中に投資された用地などの費用の分であるようです。線路や架線柱なども撤去されるでしょう。

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西台駅に、手前共の……

2016年02月09日 19時42分20秒 | 写真

先月下旬より、都営地下鉄三田線の西台駅(I24)に、下の写真にあるものが出されています。

よろしくお願い申し上げます。

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2004年12月26日、大分市大字竹中

2016年02月08日 06時00分00秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第132回(2005年2月21日から3月1日まで)として掲載した記事の再掲載です。なお、若干の修正を加えています。〕  

 以前住んでいた所の近くで、何度となく通ったりした場所は、時々、懐かしく思い出したりするものです。今回はその一つとして、2004年12月26日に歩いた大分市大字竹中の風景を取り上げます。大分大学在職中には、何度となく自動車で通っていた所です。

 大南大橋を渡って県道中判田犬飼線を中判田方向に歩いた所です。奥のほうに豊肥本線の鉄橋が見えます。奥のほうへ行くと、以前の小田急大分カントリークラブ(撮影日よりも何年か前に小田急が撤退しています)、そして黒仁田林道に向かいます。道が狭くなり、本当にここは中核市なのかと疑わせるような光景が広がります。

 先ほどとほぼ同じ地点です。このあたりは、私の記憶などに誤りがなければ大字竹中の冬田地区です。当時、県道中判田犬飼線にはバス路線もあったのですが、これが1日2往復しかなく、しかも、河原内発のバスは中判田駅から少し離れた白滝橋のすぐ近くにある辰口バス停止まりでした(その後、大分バスが整理回収機構の支援を受けて私的整理を行ったことに伴い、バス路線網の大再編が行われ、河原内までの路線は廃止されました)。

  大野川の対岸には国道10号線が通っていますが、県道中判田犬飼線は、白滝橋付近の交差点から竹中中学校付近の交差点まで、かなり長い距離の間、信号機がありません。空いているので、抜け道のようなものとして利用していました。

 大南大橋のそばです。橋を渡れば中戸次のほうに出ます。かつての私の自宅から5キロメートル以上も離れていますが、食事や立ち読みなどで何度も訪れています。自動車で利用しやすかったのと、私にとっては美味い中華料理屋があったためです(何度か、ゼミの学生を連れて行ったことがありました。この日も、その店に行って食事をしてきました)。

 大南大橋から中竹中バス停を通り、または竹中トンネルを越えて少し南側に行った所です。河原内の入口というべき交差点の近くです。この道をさらに進むと、竹中駅、そして犬飼駅に出ます。

 大字竹中といいますが、豊肥本線の竹中駅は大字竹中にありません。竹中駅は大字端登にありまして、駅の周囲には数軒の民家があるだけです。駅から大字竹中の各集落まで歩くと、意外に時間がかかります。

 橋の上から国道10号線の方向を撮影してみました。左側に見える道路は県道中判田犬飼線の旧道です。奥のほうには榎峠も見えます。 大分市を歩いているとは言え、大分駅から10キロメートル以上も離れると、県庁所在地とは思えないような風景に出会います。私も、2004年3月まではこの竹中などを何度となく通り、歩いたのでした。

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大分の霊山寺

2016年02月07日 20時03分19秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第47回(2003年5月1日から9日まで)および第48回(2003年5月10日から16日まで)として掲載した記事の再掲載ですが、多くの修正を加えています。〕 

 私が大分大学教育福祉科学部の助教授であった時に、西新宿のヨドバシカメラでNikon u silber(オートフォーカスのアナログ一眼レフカメラ)とSIGMA 28-80mm F3.5-5.6 MINIZOOM MACRO(レンズ)のセットを買いました。2003年1月12日、このカメラをもって、大分市の霊山(りょうぜん)に行ってきました(結局、この一度だけでした)。

 大分大学の旦野原キャンパスは、大分市内にあるとは言え、 九州山地の入口のような所にあります。キャンパスの西に霊山(りょうぜん)が見えます。この山には、霊山寺と大分市青年の家があるのですが、いざ行こうとすると意外に大変です。かなりきつい勾配、そして急カーブが続く道を通らなければならないからです。

 それでも、仕事が詰まっている時など、外に出てみたいと思うものです。そこで、霊山へ行ってみました。

霊山寺の入口です。右側のほうに、霊山青年の家への道があります。

 

 

 

霊山寺の前にある駐車場から撮影してみました。下の写真の左側に見える送電線が、ここまでたどってきた道のりを示しています。

 

 

 

 

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